夢小説 | ナノ


砂糖がなければ


 昼食を終えた頃のことである。食堂に集合していた一同が解散し始めた為七篠も自室に戻ろうとしていた。だが、立ち上がり出入り口に差し掛かった辺りで不意に自分の肩に力強く誰かの手が置かれた為、驚いて足を止めた。一体誰だろうと振り返れば、獄原の大きな体が視界いっぱいに広がっていた。視線を上に向けると、困ったように目を泳がせている彼の顔が見えた。

「えっと……ごっ、ごめん……」

 何を言うのかと思えば突然謝罪されてしまい、七篠は余計に訳が分からなくなり困惑した。

「えっ、どうしたの!? ゴン太くんは何も悪いことしてないよ!?」

「……驚かせちゃったみたいだったから。ゴン太、七篠さんに言いたいことがあるんだけど、なんて言っていいかわからなくてつい肩を掴んじゃったんだ。本当にごめんね!」

 表情には出していないつもりだったのだが、獄原は微妙な表情の変化も見逃さなかったらしい。

「それくらい気にしないよ。こっちこそ驚いちゃってごめんなさい」

「ううん! ゴン太が悪いんだ。もっと紳士的に呼び止められれば良かったんだけど、まだまだ紳士について勉強が足りなかったみたいだ……。こんなゴン太を許してくれる七篠さんは優しいね。ありがとうっ!」

 獄原の屈託のない笑顔を向けられて、七篠もつられる様に微笑みを返した。
 しかし和やかな表情は束の間で、突然彼は怖い顔になり、体を屈めて七篠の顔に自分の顔を近づけてきた。先ほど肩を掴まれた時よりも驚いてしまい悲鳴をあげそうになった彼女であったが、彼が自分に何か危害を加えてくることは今まで無かった為、引き攣った笑みのままぐっと堪えた。震えそうになる体を、お腹に力を入れて抑えつける。
 何をしようとしているのかわからないが、かなり近い。彼の呼吸する音が聞こえるか聞こえないか、という絶妙な距離である。こんな至近距離で彼と顔を合せるのが初めてのせいか、それとも恐怖からか、彼女の心臓は鼓動を速めた。

「…………七篠さん」

「はっ、はいい?」

 内緒話をするように、口元に手を当ててこっそりと名前を囁く彼に七篠は上擦った声で必死に返事をした。

「ゴン太、お願いがあって」

「……うん」

「15時に、ここに一人で来て欲しいんだ」

「え?」

「絶対に一人で来て欲しいんだ!」

 更に鬼気迫ったような恐ろしい表情になる獄原に、七篠は首を激しく縦に振ることしかできなかった。彼女の中で激しく脈打つ鼓動も、限界を迎えようとしている。

「わ、わかった! 来ます! 必ず!」

 最後の方は内緒話でもなんでもなく普通の声量になってしまっていた為、誰かに聞かれた可能性もあったが、今の彼女にはそこに注意を向ける余裕など微塵も無かった。目の前にある獄原の顔がどんどん険しくなっていくのだから、まずは話を終えて彼を落ち着かせることが何よりも優先させるべきことだったのである。

「そっか、良かった。ゴン太……待ってるね!」

 七篠との約束を取り付け終えた彼は顔を上げて、満面の笑みで彼女の隣を通り過ぎて食堂から出て行ってしまった。
 猛スピードで爽やかに走り去っていく彼の後姿を見つめながら、七篠は今のは一体何だったのだろうかと、小首を傾げた。しかし思い当たる節は何もなく、ただしばし呆然として動けずにその場に留まることしかできないのだった。





 約束の時間になるまで誰かと過ごすことも躊躇われた為、七篠は自室に持ち込んだ雑誌を読みながらゆるりと時間を費やしていた。しかし頭の中では獄原のことがぐるぐると渦巻いており、誌面の内容など全く読み取れず、悶々とした気持ちでベッドの上に寝そべっていた。
 絶対に一人で来て欲しい。そんなことを獄原に言われたのは初めてだった。
 彼とは何度かチケットを使って遊びに行ったり、話をして過ごしたりしたことはある。それもたまたま見かけたらお互い気まぐれに声をかけるだけで、約束までしたことはなかった。
 一体どういうことなのだろう。疑問はぐるぐると彼女の中で渦巻いては、様々な想像をさせる。けれどもどれもこれも予想の域を出ない妄想にしかならず、雑誌に顔を埋めて遂に考えることをやめた。
 そうしているうちに時間になり、七篠は立ち上がって軽く身なりを整えると、自室を出たのである。
 絶対に、一人で。約束は守らなければならない。そもそも途中で誰と会ったとしても余程彼女に用がない限りついてくることはないであろう。さして気にしなくても問題は無さそうだったが、念の為少しだけ周囲に気を配りながら食堂の扉を目指して歩くのだった。
 彼女の微かな心配も不要であったらしく、誰と出くわすこともなく難なく食堂の前に着くことができ、一安心する。

(……あれ、いいにおいがする)

 大きな扉の前に立つと、そこから漏れ出しているらしい甘い香りが七篠の鼻腔をくすぐった。食堂の奥にはキッチンがある。誰かがそこで調理しているとしか思えないのだが、しかしその人物の心当たりは一人しか思い当たらない。来て欲しいと言った以上、その人しか居るはずがないのだ。
 まさかと思いつつ扉に手をかけてゆっくりと開けていくと、濃くなっていく香りと共に、そこには不可思議な光景が広がっていた。

「七篠さん、本当に来てくれたんだね! すごく嬉しいよ! さ、座って!」

 最初に視界に飛び込んできたのは、獄原のきらきらとした笑顔だった。七篠が約束を守って来てくれたことが心底嬉しいらしい。
 そんな彼の後ろ、テーブルの上に目をやると、香りの正体はこれだったのかと七篠は納得した。
 獄原に勧められるまま椅子に座った七篠は、目の前にある物体に釘付けになった。それは香ばしくきつね色に焼けたクッキーの山だった。山、と称しても過言ではないくらいに盛られたそれらは、少々歪ではあるが見た目から美味しそうなものであることが予想できる。

「なんでクッキーが……? あ、もしかしてこれってゴン太くんが作ったの?」

「そうだよ。料理ができるのも紳士らしいことだって聞いて、最原君にいろいろ教えてもらってゴン太頑張ったんだ! だから甘いものが好きな七篠さんに食べて欲しくて……。で、でも、まだ下手だし恥ずかしいから、みんなには内緒にしてね!」

 いつの会話だったか定かではないが、確かに獄原と甘いものが好きという話をした覚えが七篠にもあった。つい昨日も東条にホットケーキを焼いてもらっておいしく頂いていたが、誰よりも喜んで食べていた姿を見られて、彼の記憶に鮮明に残っていたのかもしれない。何れにせよ、こうして好みを把握してくれているとは何とも嬉しいことである。
 しかし、七篠には疑問に思うところがあった。
 確かに料理は紳士の嗜みとして有り得る話だ。間違ってはいないかもしれない。フランス料理やイタリア料理を作ることができるようになれば気品の良さが上がるだろう。無論、何も知識がない獄原が数日で作れるようになる訳が無い為いきなり難しい料理はできないだろうが。
 だが、獄原の作ったものはお菓子である。七篠が想像するに、これでは紳士に近づいたというよりも──

(──女子力を上げてるんじゃないかな……!?)

 七篠は彼が何か勘違いしていることを教えなければならない、そう思った。そもそも最原がついていながら何故こんな方向に考えが曲がってしまったのか疑問だったが、その答えはすぐに身を以て知ることとなる。

「あのね、紳士がする料理って……お菓子作りじゃないと思うんだけど」

「ええっ!? ゴン太、間違えてたの!?」

 余程衝撃的だったのか険しい表情になる獄原を見て、七篠は嫌な予感を察していた。この流れはよくない。最原がなぜ彼に少しずれていることを言わずに放置してしまったのか、彼女は今更ながら理解して、後悔した。

「ま、間違えてるわけじゃないんだけど、ちょっとわたしの想像してる紳士とは違うかなってだけで」

「そんな……!? だって最原君は簡単なものから始めていけばいいよって言ってくれたんだ。ゴン太には難しいものはまだ早いからって……!」

 わなわなと震えだす彼に七篠はこれ以上否定的な言葉を言うのは憚られた。

「えっとね、ちょっと落ち着いて……」

「わからないよ……! 最原君がゴン太に嘘吐いたってことなのかな!? でもそんな人じゃないし……かといって七篠さんだって嘘吐くことはないし……。ねえ、ゴン太はどうしたらいいの? どっちの話を信じたらいいの!?」

(うわああああこわいよぉぉぉぉー!!)

 鬼のような形相になってしまった彼の顔を見て、七篠は戦慄した。初対面の時も同様の事が起きており、彼は気持ちの方が先走ってしまうとどうしてもこういう顔になってしまうのだと知ってはいても、やはり怖いものは怖い。最原もきっと、会話の途中で同じ様なことが起こって何も言えなくなったのだろう。

「あ、あの! ごめん、わたしが勘違いしてたみたい! そう、お菓子を作れるのも紳士的な事なんだよね! ほら、紳士がよく飲む紅茶にはお菓子がよく合うから、女子じゃくても紳士だって作るよね。変なこと言ってごめんなさい」

「えっ……そうなの?」

 最後の方などほぼ自分でも何を言っているのかわかっていない七篠だったが、もうそんなことは然したる問題ではない。ようやく獄原が落ち着いた表情を取り戻してくれた。それだけで十分だった。

「英国紳士とか、午後には紅茶を飲んでゆったりと過ごしてるイメージもあるから、きっと自分で作る人もいるだろうね。混乱させちゃってごめんね」

「ううん、七篠さんは悪くないよ。二人の事を疑ったゴン太が悪いんだ……」

「落ち込まないで。それよりゴン太くんがせっかく頑張って作ってくれたクッキー、できたてのうちに頂いていいかな?」

「もちろん! ぜひ、食べてほしい!」

 七篠の向かい側に座ればいいものを、獄原は何を思ってか彼女のすぐ隣の椅子に腰かけて真剣な眼差しを向けている。自分の作ったものがどんな出来栄えか気になって仕方がないという様子である。
 そんな彼の視線に食べ辛さを感じつつも、七篠はクッキーの山から一つを掴むと何の躊躇も無く口の中に入れた。

「……あれ?」

「どうかな? 美味しいかな?」

「んー……あんまり味がしない」

「ええっ!? 失敗しちゃった!?」

 さくさくと口の中で小気味良く砕けていくバターの香りのクッキーは、お世辞にも成功とは言えない何とも乾いた味がした。微かに甘みはあるものの、ただバターを焼いただけの様に感じてしまうのだった。
 曲がりなりにも女子である七篠は、クッキーの材料くらいは覚えている。分量はともかく何を入れなければならないのか位は把握していた。特別な味覚を持つ舌でなくとも、これは一般の人間でもわかる。何が足りなかったのか。

「ゴン太くん、お砂糖はちゃんと入れたよね?」

 悲しそうに肩を落としている獄原に七篠は優しく問いかけた。明らかに砂糖が足りていない。確実に原因はそれだった。

「う、うん。入れたよ」

「どうやって量ったか教えてもらえる?」

「わかった! えっとね、重さを量る道具にお皿を乗せて、そこに砂糖を乗せたんだよ」

「お皿を乗せた時、機械の数字をゼロに戻した覚えはある?」

「あ……!」

 誰にでも有り得る単純なミスだった。バターの味は感じられる為、砂糖だけ入れ間違えたようである。
 一生懸命作った彼にとっては、衝撃的且つ致命的な過ちであった。漂う香りは良いものだった為、まさか味がしないなんて事も考えなかっただろう。せっかく上手くできたと思ったのにこの結果では、落ち込んでしまうのも無理はない。

「う、うう……ない……。ごめん、ごめんね、こんな失敗作食べさせちゃって……」

「ゴン太くんは初めて作ったんだよね? なら仕方ないよ」

「でも、こんなんじゃ紳士らしくないよ。紳士は何でもできなきゃダメなんだ」

 悔しそうに自らの膝の上で拳を強く握り締める獄原を見て、七篠はこの残ったクッキーをこのまま捨てさせるのも可哀想に思った。それは即ち、七篠を喜ばせようとした彼の好意そのものを無下にすることと同様の事に思えたからだ。
 しかしこの量をこの味のまま食べる事は、彼女には不可能である。

「お砂糖を後からつけられたらいいのに……」

 獄原の切ない呟きが七篠の思考を揺さぶった。

「……待って。甘さが足りないならつけちゃえばいいんだよ。そう、さすがゴン太くんだね! いいもの持ってくるからここに居て!」

「えっ、う、うん?」

 わけがわからないと混乱している獄原を置いて、七篠は椅子から立ち上がり厨房へと入って行った。まだクッキーの香ばしい香りが残るトースターの前を横切り、奥にある冷蔵庫へと真っ直ぐに。
 扉を開けるとそこには目的のものが置かれていた。七篠はそれを持ち上げて中に十分な量が入っていることを確認する。それを持ち、今度は戸棚から小皿を一枚取り出すと急ぎ足で獄原の元へと戻ったのだった。

「お待たせー! えへへ……ゴン太くん、これなーんだ?」

 すぐに戻ってきた七篠の方を獄原が見れば、冷蔵庫から取り出してきたものを掲げた彼女が得意げな顔をして立っていた。

「それって、メープルシロップだよね? ……あ、そういうことか!」

「うん! 昨日東条さんにホットケーキ作ってもらったでしょ。その時まだいっぱい残ってるのを覚えてたの。これにつけて食べればきっとおいしいよ」

「すごい! 七篠さんって頭が良くて、まるで紳士みたいだ……! ゴン太、尊敬するよっ」

「それは……性別から変わっちゃうから、紳士とはちょっと違うかな」

 では早速と七篠は皿にメープルシロップを開けて、それをつけてクッキーを食べた。申し分ない甘さである。小腹を空かせた彼女のお腹にはいくらでも入りそうだった。

「おいしー! ああ……幸せ……。作ってもらったクッキーってなんでこんなにおいしいんだろう。ゴン太くん、ありがとう!」

「そんな、七篠さんが機転を利かせてくれたおかげだよ。一人だと失敗しちゃった訳だし……」

 次々と口の中にクッキーを入れて私服のひとときを噛み締める七篠を見ながら、獄原は考える。失敗したままで終わってしまっては悔しさが残る。けれどももう一度挑戦するにはまた間違えるかもしれないという不安があった。

「そうだ。お願いだよ! 今度は失敗しないように、七篠さんにゴン太と一緒に料理を作ってほしい!」

「へ?」

「七篠さんがいればきっとうまくいくと思うんだ。だから、頼むよ!」

 悪くない提案だった。料理関係はすっかり東条に任せきりになっていた為、ここのところ台所に立つことが全くなくなっていた。おいしいご飯を食べて、のんびりと日々を過ごして。そんな毎日を繰り返していたら普通の生活に戻った時、とんでもないぐうたら人間が出来上がっていることだろう。そうなったらもう、女子力どころか人間としての力すら地に落ちていそうである。

「……うん、それはいいかもしれないね。楽しそう!」

「ありがとう! ゴン太と一緒に立派な紳士を目指そうね!」

「だからわたしは女子だって!」

「あ……ご、ごめん!」

 謝る獄原に七篠は無言でシロップがついたクッキーを差し出す。すると彼は大きな口を開け彼女の手から直接食べて「おいしい!」と嬉しそうに笑った。そんな獄原の顔と今差し出していた自分の手とをしばし交互に見る彼女に気づかないまま、彼は自分も食べようとクッキーの山に手を伸ばしたのだった。



 そんな二人の様子を覗き見る影が、扉の外から囁き声を漏らしていた。

「あんな大声で待ち合わせしてるから何かと思ったら、こんなかわいい約束だったんだね」

「そうみたいだね。気になって覗いておいて何だけど、二人に悪いし……赤松さん、もう戻ろうか」

「ふーん。オレを差し置いてゴン太の奴、こんなことしてたんだ。オレだって食べたかったのにひどいなぁ」

「王馬くん……!?」

「うん? そんな怖い顔しなくてもいいじゃん。今は何もしないよ。今はね。さーて、次は何作るのかなー。にししっ」

 そう言って王馬は廊下の角を曲がって行ってしまった。
 食事の後の、ほんのり甘い午後のお菓子の時間。次回はもっと、賑やかな時間になることだろう。



●終わり。


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