夢小説 | ナノ


鐘の音は鳴りやまない


※成人設定。絶望なんて無かった。捏造がすごい。



 明けましておめでとうという定例文句が12月31日の午後11時59分を過ぎたテレビ画面の向こう側で飛び交う。煩悩を取り除いてくれるという除夜の鐘が発する重い響きが、ひとり、四角い部屋の真中に置かれたテーブルの前で鎮座している七篠に、新年が始まったことを告げた。
 新しい年が始まったからといって彼女の何かが変わるわけではなかった。この6畳間の狭い部屋に誰かが増えることはないし、ここから出て行くつもりもない。ましてや周囲の何が変わるという訳でもないのだ。
 きっと今年も平穏無事にただただのんびりと月日を過ごしていくだけだろう。漠然とした未来には期待もなければ不安もない。しかし彼女はそれにこれといった不満を抱くことなくこれまで過ごしてきた。それがまた1年始まる。それだけのことだった。
 彼女はテーブルの上に両腕を組んで乗せながら、新年を祝う画面の向こうの有名人たちを眠たげな瞳で追っていく。そこに映る人々は波乱万丈の人生を送り、そして見事成功を収めた選ばれし人々なのだ。かつて自分もそちら側に行くことができる可能性があったことを彼女は思い出す。望めば今からであろうと遅くは無く、いつだってあちら側に飛び込んでいける才能を彼女は持っている。
 しかしどちらかというと静かな暮らしを好む彼女は、過去に様々な方面から来るあらゆる誘いを断っていた。そして高校を卒業すると同時に、他人の前で自らの才能を見せることをすっかりやめてしまっていた。密かな特技のようにこの才能は自分だけが知っていればいいと、平凡な会社に勤めて平凡な日常を過ごしていたのだった。他人から見れば馬鹿な選択かもしれないが、彼女の中では『成功』である。お陰さまで自由奔放に日々を送ることができているのだから。
 そんな彼女の傍らに置かれた携帯が音を鳴らした。青く点滅するランプを見て、メールが届いたのだろうとそれを手に取る。きっと新年を祝う言葉が並べられた文が送られてきたのだろうと暗転していた画面を起こしてみれば、案の定予想通りの文が即座に現れた。
 一通だけではなく複数人から届いたらしいメールは、彼女の旧友たちのものが大半であった。その旧友というのはかつて机を並べた仲である、希望ヶ峰学園卒業生からのものだ。去年も一昨年も、卒業したあとは決まってこの年始の挨拶メールが彼らから届いていたが、返信のみで彼らと顔を合わせることはまだ一度もしていなかった。
 皆どうしているのだろうと疑問に思いつつも、それぞれは忙しなく働いているのである。遊ぼうと言って果たして良い返事が来るかと考えれば、それは難しい話であるためなかなか誘いの文を送ろうという気が起きない。しかも平凡な生活を望んだのは七篠だけだ。そんな自分から今や雲の上の人にも等しい存在となった彼らを気軽に呼び出していいものかどうか。複雑に考えてしまう彼女は会いたいという思いを静かに溜息と共に追い出すことしかできなかった。
 一つ一つ文面を読んでいく中で、一つだけ定例句以外の言葉が並べられているのものを発見する。差出人の欄を見れば小泉真昼という、まるで母親のように皆をまとめてくれていた女の子からのものだった。

『卒業してしばらく経つし、今年あたり同窓会しようかと思うんだけどどうかな? みんなの返事待ってるね!』

 世界中を飛び回っているらしい彼女の提案に心が躍る。願ったり叶ったりの誘いであった。待ってましたと歓喜の衝動に任せるがまま彼女は細い指先で素早く文章を打ち込み、送信ボタンを押した。当然送った内容は新年の挨拶と賛成の意をこれでもかというほどしたためたものだ。返事が待ち遠しく、新たなメールが届くのを只管携帯を見つめて待ち続ける。今頃小泉の元にはみんなからの返事が集まっていることだろう。それを集計して彼女が一体どんな計画を立ててくれるのか楽しみでしょうがない。

(唯吹ちゃんは絶対来るでしょ。で、ソニアちゃんが来るって見越して左右田くんも来るだろうなあ。日寄子ちゃんが真昼ちゃんの提案に乗らないわけがないし、花村くんの手料理がまた味わえるって思って赤音ちゃんも来てくれそう)

 きっとまたあの頃みたいに馬鹿騒ぎできるのではないだろうかと、七篠は口元が綻んでいくのを止められない。どんな姿になっているのだろうか、どんなことをしているのだろうか、彼氏彼女はできたのだろうか。聞きたい疑問が幾つも浮かんでは彼女の愉快な想像を膨らませるのだった。
 しばらくテレビを見て気を紛らわせていると、また着信音が鳴った。即座に内容を確認しようと携帯を手に取りメールの開封画面を表示する。差出人は小泉からのものに違いはなかったのだが、しかしそこに書かれていたのは七篠が期待する様な内容ではなかった。

『みんな参加するって言ってくれてるから、詳しく日程立てるね。この時期はダメっていうのあったら教えて!』

 ここまではおそらく全員に宛てた共通の文章なのだろう。しかし一行空けた先に書かれていたのは七篠のみに向けたものであることが明らかであった。

『ところで、田中だけ連絡先わかんないんだけど……。菜々子ちゃん連絡取れない?』

 田中、という2文字に心臓が過剰反応する。一気に頭に血が巡って行き、不可思議なほどに頭が真っ白になった。先ほどまで考えていた想像などは塵すら残さないまま彼女の脳内から消え去ってしまったのである。代わりにじわりと滲む様に思い起こされるのは、大切で大好きなクラスメイトの1人の姿であった。
 自分のことを冷静に見つめられるようになった今だからこそ、彼女は当時彼にどんな想いを抱いていたのかはっきりと理解していた。彼と言葉を交わす度に、彼と目が合う度に、彼の隣を歩く度に感じていた密かなる想いを、彼女は大人になってからようやく認められるようになったのである。
 仲は良かった。しかしだからといって彼の全てを知っているわけではない。彼女が知り得る唯一連絡が取れそうなものは、彼が卒業間近になって購入したという通話しかできない携帯電話の番号だけだった。知ってはいても卒業後にそれが本当に彼へと繋がるかどうか試したことも無ければ、今も変わらず同じ番号を使用し続けているかどうかすらわからない、不確かなものである。これが通じなければおそらく他に彼と連絡を取ることができる者はいない。

『通じるかどうかわからないけど、登録してた番号にかけてみる。結果わかったらまた連絡しまーす!』

 小泉にこんな文を作成して送る。しかし軽い調子でかけてみるとは書いたものの、彼女の心臓は事態を重く受け止めていた。鼓動が速い。電話帳から彼の名を見つけるべく携帯を操作する指先が、微かに震えている。
 そして現れた田中眼蛇夢の文字。数年前と変わらずに電話帳に残されていたが、結局一度も選択されることがなく不特定多数の名前の中に埋もれていた、忘れることのできない5文字だ。それを選択すれば電話番号の文字列が表示される。更に文字列を選択すればもうそこにはあと一つ、発信のボタンを押すだけで彼に繋がることができるようになってしまっていた。
 本当に繋がるかどうかはわからない。小泉としては七篠が頼みの綱であるのだから繋がって欲しいに決まっている。しかし、彼女はそうではない。そのボタンを押す事に恐怖を覚えていた。
 もし、繋がらなかったら。所詮は連絡先を教えるほどの価値を見い出せない人物と判断されてしまったことに他ならないだろう。繋がったとしても彼が果たして自分のことを憶えていてくれているのかどうか。知るのが、怖いのだ。ただのいちクラスメイトをわざわざ記憶していてくれている可能性は低い。しかも連絡を取らないまま年月がかなり経っている。
 不安だらけだがこれはそう、用事があって、確たる目的があって為さなければならないことなのである。これが彼へ連絡するきっかけになり嬉々としてかけようとしていた自分を横に追いやり、使命感に変えて冷静に深呼吸をひとつした。
 やらねばならないことをするだけだ。頼まれたからこのボタンを押すだけなのだ。そこに自分の感情は何一つ含まれていないのだから、どういう結果になろうが何も気に病む必要はない。意を決して発信ボタンを押し、携帯を耳に当てた。
 単調な電子音が聞えたのち、相手が存在しなければ鳴ることは無いお決まりの呼び出し音が受話器の向こうから聞こえてきた。安堵する。確かにこの電話番号は現在も使われており、彼へと繋がっているのだ。
 しかしそれはなかなか途切れることは無かった。幾度も繰り返される音に何分とも思えてしまう様な時間の感覚を与えられ、七篠は不安げに携帯を耳から離し、呼び出し時間を確認する。なんてことはない、1分すら経っていなかった。
 もう一度携帯を耳に当てて呼び出し音を聞き続ける。何故出てくれないのだろうか、彼女の番号を登録しておらず誰かわからないため出ないのだろうか。深夜だから、もう床に就いてしまっていて気づいていないのだろうか。様々な憶測をしてはもう諦めようかと考えてしまう。
 そんな折、突如として呼び出し音が途切れた。

「っ……! も、もしもし……?」

 震えた声をマイクが拾う。弱弱しいそれは向こう側に通じている彼の耳にしっかりと届いていたらしい。短い沈黙の後、息を吸う雑音が痛いほど大きく耳を擽った。

『フッ……七篠ではないか。久方ぶりの懐かしき響きだな。ククク……変わりはないか?』

 怪しい笑い声も、低く響く音も何一つ思い出の中と変わらないままで、彼は受話器越しに存在していた。そして彼が口にした名前。即座に彼の口から零れるとは思っていなかった物だ。ノイズ混じりの彼の音は彼女の胸の中に熱く溶け込んでいく。上昇していく頬の温度に戸惑いながら口を真一文字に結び、叫び出したいほどの喜びを抑え込んだ。
 何か、何か話さなければ。小泉に頼まれた同窓会の件をすぐに切り出してしまっては、この通話を続ける理由が無くなってしまう。だからそれは後回しだ。

「ひっ、久しぶり……だね! わたしの方は特にこれと言って変わった事はなく、相変わらずのんびり自堕落にやってるよ。田中くんこそ……元気にしてた?」

『ああ、魔獣に囲まれ有意義な刻を送っている』

「確か動物園の社長やってるんだっけ?」

『その呼び名は適切ではない。貴様も既に耳にしているのであろう? 俺様が築き上げたのは″田中キングダム″という崇高なる絶対君主制の国だ! ククク……さては口にするのもおこがましいと自らの分を弁えたか。実に貴様らしい判断だな』

 彼が建てたのはそんな痛々しい名前の動物園ではなく、子供が喜んで行きそうな可愛らしい名前がついたものだった。七篠はその名前を知った時、田中らしいと小さく笑い声を漏らしたことを思い出していた。

「お褒めいただけて光栄ですよ、覇王様。……すごいよね、まさか本当に夢を叶えちゃうだなんて。ニュースで見た時びっくりしたんだよ? 絶滅危惧種を何種類も繁殖させてそれを保護する施設を造っちゃうとか、世界一大きな動物園を造っちゃうとかさ」

『フン、俺様にとっては造作もないことだ。それに王国にはまだまだ領土が足りん……。野望の始まりに一歩踏み込んだところで、なにも偉業と褒められるものではないのだがな』

「そういえば、全世界を支配するのが覇王様の目的だったもんね。進行状況は?」

『現在は小国と冷戦中だ。とはいえ問題はない。すぐに支配下に置く準備は整えてある……ククク』

 一般人が聞けば物騒な話ではあるがもちろん言葉通りという訳ではなく、七篠は彼の言葉がどういう意味を持つのか大方理解できていた。学園で長く傍にいたためなのだろう。今でも彼の難解な言語を訳す事ができる彼女は、その点でも超高校級と言われてもいいほどだ。昔の感覚を忘れていない自らの頭に嬉しさがこみ上げ、口元を緩ませてしまう。

「最近だと……ウーパールーパーの繁殖に成功したんだっけ? あれわたしも好きだな。可愛い顔してるよね」

 自分の事のように楽しげに彼の功績を語る彼女であったが、それは即ち彼に対し、興味関心を深く抱いているという意味を表していることに彼女は気づいていない。あの頃を思い出しながら嬉々として口を動かし続けるが、当然田中には疑問が生じてしまう。

『……随分と俺様の事情を知っているようだが』

 見透かされた様な彼の言葉に七篠の頭は真白になる。仲が良かったにしろ少し喋り過ぎてしまったようだ。
 壮大な夢を叶えたのは何も彼だけではない。しかし時折テレビから流れるニュースキャスターの声が彼の名を読み上げる度に、彼女は過剰に反応してしまっていたのだ。故に他の同級生に関する事よりも、彼の事についての情報の方が特に多く彼女の記憶に残されてしまっているのだった。

「あああち、違う! 別に田中くんのこと気になってたから調べたとかじゃなくて! ニュースとかで……ほら、よく取り上げられてるから!」

『ほう……ならば逐一、俺様に一報寄越すべきであったな。祝詞の一つや二つ言うのが礼儀というものだろう』

 彼が何をした、何を成功させたというニュースを見る度に何度も連絡は取ろうと思っていた。しかしそれを実行に移せなかったのは″忙しいかもしれない″という余計な気遣いのせいだ。また、メールアドレスを知っているならばまだしも、彼女は彼の電話番号しか知らなかったのである。いつでも確認ができるメールと違い気軽にかけられるものではない。
 それに、何よりも彼が自分の事など覚えていないとしたらどうだろうかという懸念が、常に彼女の彼への連絡行為を妨げていた。そんなことがあるはずがないとも思いつつ、小さく黒く澱む不安は消し去ることができなかったのだ。故に、彼女は彼への発信ボタンを押せないまま、選択すらできないまま、携帯を片手にニュース画面を淡々と見つめることしかできなかったのである。

「だって……さ」

 こうして電話に出てくれた以上、名前を呼んでくれた以上、口にして確かめる必要はないのにどうしてか彼女はその事実に甘えてしまいそうになる。一言で良いから彼の口から聞きたいのだ。
 ずっと覚えていた、と。

「田中くんすごい人になっちゃったし、同級生もみんなすごかったし、大して何かを成したわたしなんかが……!」

『七篠』

 なぜなのだろうか、彼の声はいつも厳しく、優しい。そしてそれには逆らうことができないのだ。不思議なことに、泣きそうな程に込み上げていた感情は彼の一声だけでぴたりと静まってしまったのである。

『何を取り乱している。俺様の下僕である以上、如何なる時も冷静沈着であれと教授してやったであろう。フッ……まさか忘れたとでも言うのではあるまいな?』

 ほんの僅か、しかし人一人を忘却するには十分である歳月を経ても、彼という人柄は変わらずにそこに在ってくれた。放たれる言葉の数々、七篠という人間にかけられた今の言葉ですら何一つ過去と差異がない。
 変わったのはむしろ彼女だったらしい。諭すように紡がれた彼の言葉によりそれを痛感した彼女は、張りつめていた緊張の糸が溶けたかの様に、静かに天を仰いだ。そこにあるのは部屋の白い天井だけである。

「……忘れるわけないよ。みんなのことも、田中くんのことも、全部ちゃんと覚えてる」

 隣に居られるだけで幸せだと、幸せだと感じさせてくれる彼と過ごした日々を忘れられるはずがない。

『殊勝な心掛けだな。そうでなくては俺様の下僕は務まらんが』

「まだ下僕なんですか」

『フッ、そう簡単に俺様の呪縛から逃れられると思うな。貴様は一生涯、魂が尽き果てるまで俺様に使えねばならんのだ。それが下僕の運命というものよ……フハハハハハッ!』

 一生涯下僕ということに悪い気はしなかった。それどころか悦びのあまり泣いてしまいそうになるほど思うものがあり、再び込み上げてきたものに対抗することに必死になっている七篠は、彼に返答ができないのだった。
 2人の間に沈黙が訪れる。どうしたことかと田中は難しい顔をしながら彼女の声が届くのを待つ。普段ならば自分に対しこんな態度をとる者など言語道断と直ぐに通話を切ってしまうのだが、相手が七篠であるというだけでどうしてもそんな行為に及ぶ気にはなれなかったのである。
 しかし一向に聞こえてこない彼女の声にしびれを切らして、遂に田中は咳払いを一つした。

『……何か用があって俺様に連絡をしたのではないのか』

 そこで彼女は漸く本来の目的を思い出す。懐かしさに浸るあまりすっかり忘れてしまっていたが、聞かなければならないことがあるが故に電話をしたのだ。

「そうだった! あのね、同窓会やるっていう連絡が真昼ちゃんから届いたの。まだ日付は決まってないけど、近いうちやる予定でいるみたい。みんなの意見聞いて計画するそうだけど、田中くんは来る?」

『……悪くない提案だ。″神に許しを請う儀式″(ミサ)にて原罪を清めてもらおうと群がる下々と対話をしてやるのも覇王の任務であるからな……ククク』

「ほんと!? だったら」

『だが俺様は国を離れるわけにはいかん』

 喜んだのも束の間、現実的な問題が立ち塞がる。彼は一企業を背負う身であり、もはや自由奔放にやりたいことを何時でもやれる、好きなところへ好きな様に行ける立場の者ではないのだ。

『まだ後継するに相応しい器も現れていない……。貴様の申し出を断るのは本意ではないが、仕方あるまい。これも宿命というものだ、許せ』

「あー……そっ、そうだよ……ね。残念だけどそういう事情ならどうしようもないし……」

 諦めたくない気持ちがどうにかしようと思考を巡らすが、彼の役に立てるような能力も才能も人脈も持っていない彼女には、出来ることは無いという答えしか導き出せない。浮かれていた気持ちが途端に沈んでいく。替わりに浮かんでくるのは冷静に事を整理してくれそうな判断力だった。
 そもそも何を勝手に期待していたのだろう。彼に会えるかもしれないという可能性に何を求めていたのだろう。例えそれが叶っていたとして、自分が何か行動するつもりなど無い。どうこうしたいとかどうなりたいとか、具体的な欲望も願いも無いのである。彼女の凡庸な頭ではそこまで深く考えることはできておらず、彼が今どういう心境にあるのかなども想像する事もできなかった。

「けど、会いたかったな……」

 だから、なのだろう。一切の小難しい感情も事情も考えず、子供の様に我儘を口にしてしまったのは。

『なッ……七篠……!?』

 田中の驚いた様な口ぶりに、彼女は自分の欲望が駄々漏れであったことを自覚する。襲ってくるのは羞恥により急上昇する体の熱と、空回りしかしない思考回路だった。

「だだだだってひ、久々に声聞いたらやっぱそう思うものでしょ! 少なくとも仲は悪くなかった……と、思ってますし? 高校時代の同級生に会いたいな―なんて思うのは当然じゃないですかー変な意味とかないですよー……たぶん」

 あらゆる想いを隠すかのように七篠は両膝を抱え込む。そうでもしなければ恥ずかしさで溶けて消えてしまいそうだったのだ。
 電話の向こうからは沈黙と微かなノイズが響くのみである。彼がどういう解釈で受け取ったのか、彼女には想像ができなかった。こういった分野は彼も彼女も苦手なのである。もしや呆れて何も言えないのだろうか。とにかく何か言葉を返してくれないだろうかと願う。さもなければ心臓が不安に押し潰されてしまいそうであった。
 ねえ、と返事を急かそうとして喉の奥から出そうとした音は掠れた吐息になってしまい、空気中に木霊する事はなかった。何も聞かせてくれない彼にも軽率な発言をした自分にも嫌気がさしてきて、目を伏せて唇を真一文字に固く結び沈黙に耐える体制をとる。もうこうなってしまえばただ待つしかないのだろう。
 しかしあっさりとその時間は終わりを告げた。

『……きっ、貴様がそこまで言うのであれば、俺様にも考えが無いわけではないのだが』

「……うん? 聞かせてください」

『フッ……宜しい。ならば心して聞くがよいッ! 断じて俺様が望んではいないのだが、その……貴様がだな、謁見を求めるというのであれば……特別に時間を割いてやらんこともない。た、但し、貴様が生涯をかけるほどの願いと言うのであればだがなッ!』

「こっちから会いに行くのはいいってこと?」

『流石物分かりが良い……これは下僕の貴様にのみ許される権利だ。良いか、二度とは言わんからなッ! 寛大なる主人に仕えられたことを今一度感謝するがいいッ! フハハハハハッ!』

 彼は持ち場を離れることはできないが、どうやらこちらから出向く分には構わないと妥協案を提示してくれた様である。当然願ったり叶ったりであるその案は七篠に希望を持たせるに十分であった。一先ずは不安の去った胸に手を当てながら、彼女は柔らかな表情を取り戻す。

「ありがとう」

『フン、礼には及ばん。……むしろ礼を言わねばならんのはこちらの方だが』

「どういうこと?」

『ッ! 貴様が気にかける事ではないッ! それよりこの件は貴様が言い出したことだ。俺様の手を煩わせるような真似はせんようにな?』

「その辺は任せて。わたしの予定、はっきりわかったら連絡するよ。またこれくらいの時間でもいいかな?」

 ふと部屋に置いてある時計を見れば、針はそろそろ寝なくてはならないという時間を刺していた。元日とはいえよくここまで話に付き合ってくれたものである。

『ああ』

「わかった。夜遅くに長々とありがとう。じゃあ、またね」

『全くだ……。だが、貴様の戯言に付き合ってやるのも悪くは……なかったぞ。……ではまた、な』

 あとは通話終了のためのボタンを押すだけで、彼との通話は終了する。ボタンを押すべく携帯から耳を離した七篠はふと、あることを思い出し慌てて再度携帯を耳につけた。

「あ! 待って!」

『ッな、なんだ!?』

「言い忘れたことがあるの!」

 田中は彼女の焦る様子から何を言わんとしているのか悟ろうとする。しかし今にも終わろうとしていたはずであった会話に突然引き戻されたため、考える隙など無かった。そんな中抱いてしまったのは、あろうことか甘く淡い期待だった。故に彼の頬は一瞬で熱を帯びる。音声のみしか伝わらない機器越しでは、当然彼女がそんな彼の期待を知るはずもなく、穏やかに微笑んでいた。

「田中くん」

『フ、フンッ! 何を述べようと、俺様が貴様に心乱されることなど有るはずが』

「明けましておめでとう。今年もよろしくね!」

『……な』

「あっぶない。新年のご挨拶をすっかり忘れるところだったよ」

『……言い忘れたこととは、それだけか?』

「うん。そうだよ?」

 全く、何を勘違いしてしまったのだろうか。田中はしてやられたとばかりに悔しそうに顔を歪めた。

『ふっ……ふはははははっ! そうであった。今宵は″新たなる時代の幕開け″(ユニバーサル・レヴォリューション)という記念すべき日であったなッ! ククク……なあに、決して忘れていたわけではない。田中眼蛇夢という偉大なる覇者にとってはあまりにも小さき事柄故に、気にもかけておらんかっただけだッ! 些細な祝い事に一喜一憂する人種め……いいだろう。俺様も敢えて祝詞を唱えてやろうではないか。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますッ!』

 長々とした彼の挨拶にたまらなくなった七篠は息を殺して笑った。久しぶりに彼の動揺を聞くことができたのだ。その表現の仕方も昔と全く変わっていなかった。

「田中くんの一年が良い年でありますように。おやすみなさい」

『フン、貴様は夢魔にでも襲われてもがき苦しむがいいッ! おやすみなさい』

 名残惜しそうにしばらく携帯に耳を押し当てていた七篠だったが、単調な通話終了の音が流れるとゆっくりと離した。画面に残っているのは、確かに田中と今の今まで会話をしていた証拠である通話終了の文字だけだ。
 もう聞こえるのは点けっ放しにしていたテレビのスピーカーから流れる、小さな音のみである。静かな部屋の中で彼女は大きく息を吐いた。あんなにも不安や恐れを抱いていたのに、存外事はあっさりと済んでしまうものだった。
 自らの胸にそっと手を当てる。新年早々、鐘の音で消えたはずの煩悩は確かに彼女の手のひらを伝い、生きていることを証明していた。こんな新年の幕開けは、普通ではないが決して悪くはない。
 そして再度携帯の画面と向き合い小泉への返信メールを作成し、田中が同窓会へ参加するか、是非をメールを打つ。打ち終わった後、返事を待つが寝てしまっているのかしばらく経っても受信音が鳴ることはなかった。待つのを諦めいい加減寝なくてはとテレビの電源と部屋の電気を消し、布団に体を滑り込ませた。
 すっかり忘れてしまっていたが、一つだけまだ田中に言っていないことがある。大したことではないのだが、先ほど小泉へのメールを作成しているときに気づいたことだった。

(メルアド聞くの忘れちゃったな……)

 今ならまだ起きていて、さり気無く聞けるかもしれない。七篠は携帯に手を伸ばし明るく眩しい画面を表示させたが、何かに気づき途中で手を止めた。アドレスを聞いてしまえば確実にこれからのやり取りはメールが主流になるだろう。つまりはどういうことになるのか、と考えてしまったらもうそこから携帯の操作をする気が無くなってしまった。
 彼との繋がりなど、今は電話番号一つあれば十分である。七篠は携帯の電源ボタンを軽く押し画面を暗転させると、静かに瞼を閉じて夢の中へと意識を投じた。
 彼女の新たなる年は、かくして順風に帆を上げて始まることとなったのである。



●終わり。

更新した日を気にしたらいけない。


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テーマ「人外ファンタジー」
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