その日はいつにもまして帰りが遅かった。
部所の移動から一ヶ月。
慣れによって効率も上がってきたからと上司が多めに仕事を出してきたからだ。
よくいえば自分を認めてくれているということだから、むしろ歓迎すべきなのだけれど。

「(それにしても疲れた)」

今日はお風呂に入ったらすぐに寝てしまおうか。
そんなことを考えながらアパートの階段を登っていくと、誰かが扉の前にいるのが見えた。
それも、うちの前に。

「(こんな時間に誰…っ!?)」

棗は、二度三度瞬きをして、目の前の人物を確かめた。
ついに俺は幻想でも見たのだろうか、ともう一度目をこすると、扉の前の人影がこちらを向いた。

「……棗?」

少し疑問調子に発せられた言葉を脳内に転がす。
棗。
ああ、俺の名前だ。
そんな意味もない単純なことを理解するのにはなぜだか随分と時間がかかった。

「なまえ…なのか?」

いや、わかっている。
わかっているけれど、どうしても確認せずはいられなかった。

「何?忘れたの?」

何が楽しいのか、クスクスと肩を震わせて笑うなまえを棗は再度凝視した。
俺の恋人。
昔々…、いや実際はそんなに昔ではないのかもしれない。
けれど俺にとっては長い時間、彼女は夢を追いかけに行っていた。
俺には、届きそうもないところへ。

「ちょっと棗?ほんとに分からないとか言わないよね?」

少しばかり不安が混じった声。

「ははっ、ああ、久しぶりすぎて忘れてた」

………違うな、きっと忘れようとしていた。
おまえに会えない間の悲しみや寂しさと共に、全て忘れてしまいたかったんだ。

「ええっ!?ひどい!」

そう言ってむくれるなまえを、俺はぎゅっと抱きしめる。
会えなかった分を取り戻すように、強く、強く。

「ちょ、棗!ここ外!ねぇ!」

聞いてんの!?
真っ赤になって騒ぎ立てるなまえもかわいいけれど、少しばかりおとなしくしてもらおうか。
わざわざ場所を気にする必要性も感じられない。
彼女を壁に追いやると、不安げに視線を彷徨わせた。
そのままそっと目をつぶったなまえに俺は静かに微笑みかける。

「遅えんだよ、バカ」
「……ん、待たせてごめんなさい」

そうだな、素直な彼女に免じてキスするだけで許してやろう。
それから部屋に連れ込んで、溜まった疲れと寂しさを全てチャラにしてやれるくらい愛し合って、楽しかったこと、悲しかったこと、あったこと全部、聞かせてもらおう。

何時の間にか腰に回されていた手に温もりを感じて、俺はひどく安心した。

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