もう何度彼と並んでコーヒーを飲んだことだろう。朝の日ざしに目を細めるゆったりとしたこの時間が俺は好きだった。
彼と俺以外、誰もいない古びたバス停。年季の入った茶色い椅子は所々木目が剥がれ落ちていて、うっかり肌が当たるとチクリと痛む。看板の錆れがその歳月を物語っていた。一応囲いはあるものの、申し訳程度の木の板に冬は寒いだろうなあと半年先の事を心配する。
隣の彼を盗み見ると今日も背にもたれて目を瞑ったままずっと動かない。長い睫毛に小さく高い鼻。形の良い唇も閉じたままピクリともしないのだ。少し長めの前髪が風でサラサラと揺れる。太陽が恐ろしいほどの真っ白な肌に反射して、このままぽかぽか陽気の微睡みに溶けてしまいそうだった。
そんな光景を見続けてもう1ヶ月が過ぎた。


「……」


風で木々が揺れる音とたまに通る車のエンジン音だけが当たりに響く。何だか少し寂しいと思ったこの場所も、今となっては居心地が良い朝の風景に変わっていた。

1ヶ月程前、俺は住み慣れた都会から山と川に囲まれた田舎の小さな町に越してきた。会社の移動願いが通ったのだ。なんとなく、毎日毎日人とビルに囲まれた息苦しい生活から抜け出したかった。いっそ、こうなったら思い切り田舎に行ってやろうと知らない土地を選んだ。最初は何かと不便だったが住めば都、やはり自然の空気は良い。

そして出会ったのが彼だ。
学生だっていない本当に小さなバス停に毎日ぽつりと座っている。嫌でも気になるところだがしかし彼は特別不思議だった。というのも、バス停にいるのにも関わらず決してバスには乗らないのだ。いや、正しくは乗る姿を一度も見ていない。運転手が気にも止めないのだから彼はずっとこうなのだろうか。
朝、俺が来る時間にはもう既に目を瞑った彼が椅子に座っていて、バスには俺だけが乗る。いつも後部座席から遠くなっていく彼を見つめていた。だから俺は彼が起きているところさえ見たことがなかった。仕事が終わってこのバス停に帰る頃には居ないから、一日じっと座っているわけでも、ましてや死人なんてことではないのだ。ちゃんと生きている。だからこそ興味がある。俺は何故だかこの奇妙で不可解な彼に、寧ろ好意的な感情を抱いていた。


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理由は何てことない、たまたま付けたテレビの占いが2位だったから。いや、だって1位はなかなか出るもんじゃないし、2位で十分だ。
本音を言ってしまえばこんなのは口実に過ぎなくて、早く彼と話がしたかっただけなんだけど。

今日こそは、そう思っていつもよりちょっと早く家を出た。空は雲一つない快晴だ。確か彼は雨の日と曇りの日は姿を見せなかった事を思い出した。
自販機でいつもの甘い缶コーヒーを買う。ジャリジャリと、小石に擦れる自分の足音に緊張が増した俺はできるだけコンクリートを歩いた。風が少し冷たい。


バス停に着くといつものように彼はいた。
目を瞑って、風景画みたいに当たり前にそこにいた。やっぱり彼は綺麗だ。
俺も隣に座る。寝癖まで直す余裕がなくて右側の襟足が気になる。彼には見えない方だ。最も、天然パーマなんだから少しくらい髪がハネていても一緒だろ、なんてよく言われるが天パにも天パなりのこだわりがあったりする。
そんなことをグルグルと考えていたら話すタイミングを見失いただただ時間だけが過ぎていった。もう此処にいつもの居心地の良さはない。ポケットに突っ込んだ指が無意味に爪をなぞる。

いけ。頑張れ、俺。

意を決した俺はすっかり冷めてしまった残りの缶コーヒーを一気に飲み干すと、前を向いたままおずおずと彼に声を掛けた。


「あ、あの…!」
「……」


返事がないのでやっぱり寝ているのかと思い、チラリと隣を見れば薄く開いた彼の右目と視線がかち合った。初めて見た彼の瞳は本当に綺麗で、その鋭い目に吸い込まれてしまいそうだ。ほんの数秒、彼の瞳に魅せられた俺は急に恥ずかしくなって慌てて視線を逸らす。ポケットの中でぎゅっと握った手が熱い。あれ、俺ってこんなに人見知りだっけ。


「なに、オッサン」
「え、おっ…?」


あまりにも彼に不似合いなその言葉と低い声に思わずギョッとした。いや、俺は彼のことを何も知らないし、不似合いとか、そんな知ったようなことを言える立場ではない。しかしその繊細な外見からは想像もつかないような物言いだったのだ。少なくともこの1ヶ月、ほぼ毎日見てきた彼の姿にはとても神秘的な、絵画のような美しさがあったから。俺は勝手に幻想を描いていたのかもしれない。


「で、何」
「いや、えっとー…君、いくつ?」
「は?」
「いや、俺のことおっさんて…」


ああ、バカだ。
とっさに思い付いた質問がコレだ。しかも本当におっさんが若い女の子にするようなその言い回しに自分でも気持ち悪いと思う。


「19」
「若っ!」


ギロリ、そんな音が聞こえてきそうな目つきに背筋がぞわっとした。目的の読めない質問に彼は敵意剥き出しだ。俺はというと思ってもみないことばかりで頭が良く回らない。早くしないとバスが来てしまう。
聞きたいことは山ほどあったのだ。何故いつもここに?何故バスに乗らない?目を瞑って、何を考えている?どんな風に暮らして、どんな風に生きている?キミの、キミの名前が知りたい。


ああ、バスが来た。


「あー…えっと、また会えるよね?」
「何で」
「君ともっと話がしたいんだ」
「……晴れの日」
「分かった。また明日」


駆け足でバスに乗り込んだ。別に急がなくてもいいのだけれど、何だか照れくさかったのだ。可笑しな話だと思う。同じバス停に座っていてまたね、なんて。でも俺は彼がバスに乗らないことを知っている。彼はそのことを知っているのだろうか。毎日隣に座る俺の存在に、気付いてくれていたのだろうか。

バスは今日もガラガラだ。そしていつものように後部座席から遠くなっていく彼を見つめる。
けれど今日は、彼も俺を見ていた。
去っていくバスに乗る俺を、目を開いて見送ってくれた。

"また明日"

まずは名前を聞こう。
いや、明日が晴れるという保証なんてないけれど、窓から見える空はこんなにも快晴だ。

彼はきっと明日もあの木目の剥がれた椅子に座って、目を瞑って俺を迎えてくれるのだろう。