誰もがそうなのかは知らない。けれど少なくともわたしはそうだった。みんながそういうことをやったら充実してるって言えるようなことがときどき面倒臭くなることがある。友達と買い物、カラオケ、彼氏と映画。なんだかなあってなる。全部どうでもいーやって。そのくせ一緒になればへらへらしてニコニコしたりしちゃうんだけどね。でもだからってそれらは愛想笑いじゃないし、ちゃんと楽しいとか嬉しいとかは思うわけで、そういう感覚が欠落しているわけでもない。そうやって一日がおわったら自分の部屋のベッドの上で今日は楽しかったなあなんてことも思う。
会うまではどうのこうの言って腰が重たいくせに、いざ会ってみればなんだかんだそこそこ楽しんで帰ってくる。そこで友達に彼氏を紹介されて、ああそういうのっていいなあとか憧れたりもする。でも実際そういう誰かさんを紹介されてみれば、いい人だなあとは思いつつ付き合った場合のあれこれを考えてやっぱり面倒臭いからいいやなんて結論に至るのはいつものこと。電話とかメールとかデートとか喧嘩とか。わざわざその要因を増やすなら新しい関係はいらないなんて思ってしまう。なにもしないでうだうだやっているのがすきなのかもしれない。でも社会はそれを許さなくて、わたしは結局時間ギリギリでだらだら起きる。そうやって、行くべき場所へ行ってやるべきことをやって帰ってくる。もちろん楽しくなんかない。だって遊びたいわけでもない、何になりたいわけでもない。頭を肥やして賢くなりたいわけではない。人の目を気にせずだらだらやっていたい。怠惰をくわえて死んだっていいや。

いつも目が覚めて、この辺まで考えたら家を出る時間になる。でもなんだかなあ、今日は特別そんな気分になれない。いつもなんだかんだで行ってるんだし、今日くらいはいいかなって思ったら眠たくなった。はは、わたしは今週これを何回繰り返したんだっけ、ぼんやりと考えていたらいつのまにか眠っていて、次に目を開けたら時計はもうお昼を過ぎていた。何で起きたかって言うと、誰からか電話が来たから。ディスプレイには友達の名前が出てその瞬間、あっちは今わたしが一番絡みたくないテンションなんだろうなあと思った。携帯を手に持った瞬間に切れた。今出ようとしてたのに。なんだかさみしくなって、さっさと行動をしなかった少し前の自分に後悔した。とは言ってもそんなことはわたしにとっては日常茶飯事だ。
きっとわたしの中にはスイッチみたいなものがあるんだと思う。人と話すのは面倒臭いのと苦手なのがあって、でも苦手って言うと内気な根暗に聞こえるから他人には面倒臭いだけのふりをする。けどスイッチをオンにさえすれば、わたしはその会話をやらなきゃいけない仕事というか作業というか、とりあえず自分の中で仕方ないことにして話し出す。割り切ってみればテンションも上がって喋りやすい。つまり対人用の自分をもう一人作っておいてそれとスイッチする。昔ちょっと落ち込んで人と話すような気分じゃなかったとき、たまたまそこに一番仲のいい友達から電話が来たことがあった。さすがわたしの相棒だなんてちょっとうれしくはなった。でも正直その子とすら話す気じゃなかった。けれど、長い付き合いだし(ないとは思うけど、もしかしたら、)この一件でこの先ずっとギスギスする方が面倒だなあって思って、だから適当に話を聞いて相槌を打って流していたら何事もなくおわってすごく楽だった。わたしはそれを覚えてしまっている。わたしがこうなったのはこれが原因かもしれない。何事もなあなあにやってれば何にも事件は起こらないから気楽。だけどそれじゃあ退屈になっちゃうから困るんだよなあ、面倒臭い。欠伸を噛んで伸びをする。なんだか寝起きわたしの割には珍しく頭が冴えてるんだなあ、自然と口元が緩んだ。もう一度電話がかかってきた。あきらめが悪いなあと呆れながら、なんとなく三回コール待ってから電話に出た。寝起きの頭にはキンキンと響くテンションの高い友達の声を聞きながら頭の片隅でわたしは明日はちゃんと学校に行こう と。


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