雌猫1匹、夏のとある日

暑い。非常に暑い。夏だから当然と言えば当然なのだけれど、暑いものは暑かった。テレビでは毎年のように「例年にない暑さです」と言っているような気がするけれど、それが本当ならば地球は近いうちに暑さで溶けてなくなってしまうんじゃないだろうか。
そんなどうでもいい仮定話を脳内で繰り広げながら、私は冷房のきいた涼しい部屋でアイスを食べるという贅沢な時間を過ごしていた。そしてアイスを全て食べ終わって冷えてきた脳は、どうでもいい仮定話から、まだまだ続く長い夏休みをどう過ごそうかという思考にシフトしていく。
高校三年生の夏休み。つまり、高校生活最後の夏休みだ。大学に進学しても夏休みはあるし、今よりもっと長期間休めるということも知っている。けれどもやっぱり高校生活最後の、というのは特別な響きがあって、どうしても何かしらの思い出作りをしたいなあと思ってしまう。そんな時に思い浮かんだのが彼氏である背高のっぽの男のことだ。
私の彼氏は男子バレー部の主将であり、全国制覇を夢見て毎日、大袈裟な言い回しではなく本当に毎日、バレーに明け暮れた生活を送っている。授業があっても、雨でも雪でも嵐でも台風でも、…というのは流石に言い過ぎかもしれないけれど、それぐらいバレーに全身全霊を注ぎ込んでいることは私が一番よく知っていた。
付き合い始めるよりずっと前から彼がそういう男だということは認識していたし、だからこそ好きになったという経緯があるから、まかり間違っても「いっつもバレーばっかり!」なんてことは言いやしない。そもそも思いもしない。それが黒尾鉄朗であり、私が好きになった男なのだ。
けれども正直なところ、時々、本当に時々、もう少し一緒に過ごせたらなあと思うことはある。だって私はこれでも華の女子高生なのだ。好きな人と色んなところに行ったり、他愛ない話をしたり、時にはいちゃついたりしたいという欲望が、どうしても生まれてきてしまう。それを鉄朗本人に伝えることは勿論ないけれど、恐らく彼は少なからず感じ取っていると思う。飄々としていて胡散臭さ満点ではあるけれど、彼は人のことをよく見ているし、なかなかに聡い人間だから。

「高校最後の夏休み、かあ…」

ぽつり、改めて口に出してみる。遠出は無理だとしても、せめて一日、いや、半日ぐらい時間取れたりしないかなあ。バイトの調整ならいくらでもするし。受験生のくせに勉強よりもバイトや彼氏とのあれやこれやのことばかり考えている煩悩だらけの私は、スマホの画面と睨めっこ。
今日も例外なく、この茹だるような暑さの中でバレーに汗を流しているのであろう黒い男とのトーク画面を開いて、考えること数秒。とりあえず、「今日も練習お疲れ様」という無難すぎる一文を送信して会話の糸口を探そうと試みる。彼の負担にはなりたくない、けれども、どうにかして恋人らしい時間を過ごしたい。私は非常に欲張りな女である。
返事はいつも練習が終わってからしかこないから、もう少し後になるだろう。そう思って、私はぐだぐだしながら夏休みの課題を広げた。受験生。嫌な響きである。受験勉強の一環としてなのか、今年の夏休みの課題は一、二年生の頃に比べて多いような気がして益々やる気になれない。
夏休みの予定なんて、今のところバイト以外にないしなあ。そんなに焦ってやる必要もないか。それにしても、何の予定もないのは寂しすぎるなあ。ほのかちゃんとどこか行こうかなあ。真っ白な課題を前に思い浮かべた人物は、私の彼氏と同じバレー部に所属する彼氏持ちのほのかちゃんのことだった。
私と鉄朗よりも断然長く付き合っているほのかちゃんと夜久くんカップルは、いつも仲睦まじい。恐らく二年ほどの付き合いになるはずだけれど、喧嘩なんてしたことがないんじゃないだろうか。それぐらい穏やかで安定したカップルなのだ。それだけ長く続いているということは、お互いに満たされているに違いない。いいなあ。二人きりの時って何やってるんだろう。今度きいてみようかな。
私は手に持っていたシャーペンをスマホに持ち替えて、今度はほのかちゃんにメッセージを送る。「夏休み暇だったら一緒にどこか行かない?」という、こちらも当たり障りない一文。ほのかちゃんは真面目だから受験勉強も夏休みの課題もしっかりやっていそうだけれど、きっと一日ぐらいなら私に付き合ってくれるだろう。
さて、今度こそ課題を、と思ってシャーペンを握り、課題に取り組み始めて十分後。スマホがメッセージの通知音を奏でたことで、私の集中力はあっと言う間に削がれてしまった。当たり前のことながら、課題はほとんど進んでいない。またシャーペンを置いてスマホの画面に指を滑らせる。そして、鉄朗からのメッセージを読んだ私は心を躍らせた。
内容は「お盆ってなんか予定ある?」というシンプルな質問のみ。けれども、いつもは「今日も頑張った〜」とか「暑かったわ〜」とか、本当にくだらない内容しか返ってこないのに、今日は違うのだ。しかも私のお盆の予定を確認してきたということは、少なからず何かのお誘いをしてくれる見込みがあるということだと推察できる。我ながら名推理。じゃなくて、返事しなくちゃ。
私はすぐさま返事を打ち込んだ。「何も予定ないよ」と。あなたと過ごす時間ならいくらでも確保できますよ、という意味を込めて。実際、今年は家族で田舎のおじいちゃんの家に泊まりに行く予定がなくなってしまって本当にフリーだったし、バイトも融通がきく。忙しい彼に予定を合わせるための準備は整っているのである。
すると、メッセージを送って数分後、なんと珍しいことに鉄朗から電話がかかってきた。これは一大事である。私は別に誰が見ているわけでもないのになぜか居住まいを正してから通話ボタンを押した。機械越しとは言え「もしもし?今大丈夫?」という彼の声を聞くだけで胸が弾んでしまうあたり、私はなかなか恋する乙女である。

「大丈夫。部活お疲れ様」
「どーも。でさ、早速本題なんだけど」
「うん」
「お盆、ランド行かね?」
「えっ!」

予想のはるか上を行く提案に、私は思わず身体を跳ねさせた。誰もいなくて良かった。今の私、絶対に動きがおかしかったもんな。

「なに、そんなに驚く?」
「だって部活あるから…」
「実はお盆の二日間、体育館整備で部活休みになって。お泊まりランドデートのお誘いで電話したんですけど」
「お泊まり!」
「そ、お泊まり」

驚きに驚きを重ねてくる鉄朗に、私のテンションは増すばかりだ。もしこの場にいたら飛びついていたかもしれない。それぐらいには嬉しかった。

「どうですかね」
「行きたいです。とっても」
「じゃあ行きましょうか」
「やったー!」

我ながら子どもみたいだなと思ったし、あまりにもテンションが高すぎてつっこまれるかとも思ったけれど、鉄朗はスマホの向こうでくつくつと笑っているだけだった。どうしよう。お泊まり。付き合い始めてから遠出してお泊まりなんて、初めてのことだ。高校生活最後の夏の思い出作りに相応しすぎる。神様ありがとう。

「それで、もういっこ提案があるんだけど」
「うん?何?」
「夜っ久んとこも一緒にどうかなって」
「ほのかちゃん合わせて四人で行くってこと?」
「そう」
「何それ絶対楽しいじゃん!」
「つまりオッケー?」
「勿論!楽しみが増えた!」

元々ほのかちゃんとはどこかに行きたいなと思って連絡したわけだし、四人で行けるなんてきっと楽しいに決まっている。夜久くんとほのかちゃんがそれで良いのかは知らないけれど、私は大歓迎だ。私の返事をきいた鉄朗は「じゃあ決まりな」という言葉を落としてから「また連絡するわ」という一言を添えて電話を切った。
スマホを耳から離す。そして、ひとりでに綻ぶ顔を隠すこともなく、やったー!ともう一叫び。久し振りのデート。折角だから可愛い服を買いに行こう。お泊まりなら下着も新しいのを買っちゃおうかな。いやいやそんな、そういうこと考えちゃだめだよ私。でも、お泊まり、だし。
一人で勝手にあれやこれやと考えて、冷房のきいた部屋なのに熱さを感じ始める。落ち着け。夜久くんやほのかちゃんもいるんだから、そんなことは考えるべきじゃない。そうだ、課題をしよう。二日間とはいえ旅行に行くのだ。嫌なことはできるだけ早めに片付けてしまわなければ。
それから私は邪念を振り払うように課題に向き合った。お陰様で苦手な数学は結構なページを終わらせることができて、デートさまさまである。