たゆたう水面
「たゆたう水面(みなも)」
南が泣いている。
俺のジャージが、濡れていた。
俺の胸で泣きなよなんて、そんな、かっこいいこと言ってしまったから。
俺を悲しさの捌け口にしてもいいよなんて、そんな、情けないこと言ってしまったから。
「ごめん」と何度も言って、南は俺の肩に凭れてゆっくり肩を震わせた。
じわじわと俺の肩に涙が染み込んで、ああ、南も泣くんだなあとか、辛いかなあとか考えてると、いたたまれない気持ちになった。
「みなみ…つらい?」
「…………ああ……」
返事出来るんだね、よかった。
南は辛いと頷いて、まためそめそ泣いている。
俺だって、辛いよ。
南はずっと俺に気付いてくれないから。
俺だけに世話を焼いてくれている訳じゃない。
亜久津とか、東方とか、いっぱいの後輩とか。俺以外に世話を焼かないといけない人だっている。部長として。
俺のこともきっと、部長として世話を焼いてくれているんだと思うと辛くて辛くてどうしようもなかった。
そんな南は、ふられてしまった。
きっと、あの人に、ふられて。
それで辛くて、どうにも、なにも、できなくて、俺の所に来てこうやって泣いている。
じりじり蒸し暑い部室の中。
俺と南の二人だけで。
どうしてこんな暑いところで大の男二人が異様な空気になっているのかなんて、もうどうでもよかった。
南が俺を頼ってくれるだけで、俺に近づいてくれるだけでよかった。
南が俺を恋愛感情で好きじゃないことなんて、分かっている。
「……俺のこと、好き?」
「…ああ……すきだよ…」
「そっか…」
恋愛感情で好き?とかそんな事は聞けなかった。
友人でいいから、南が俺を信頼すればそれでよかった。
つい、この間までは。
俺の思考回路は毛糸みたいに絡まって、ほどけなくなって、ぐじゃぐじゃになって、それから、一緒に南のことも絡まってしまった。それは俺が浅はかで、馬鹿で、間抜けだから。
俺がこんなに頭が悪い事を、きっと南も分かってくれている。
だから、これから起こる事だって、俺の思っていることだって、きっと、南は分かってくれる。
俺が南の事を好きで、ずっと俺のものにしたくて、それでも南は俺に気付かなくて、俺が辛い思いをしている事も、きっと。
「南、俺のこと信じてる?」
「うん……」
「俺の事、本当に、好き?」
「…?あぁ……」
ああ、俺って本当に馬鹿だな。
頭の中がぐわぐわとサイレンを鳴らす。危ないよ!やめろよ!と。
鳴り止まない警報を無視して、俺は肩に寄せた南の顔をゆっくり持ち上げてしまった。
涙で濡れて、真っ赤になって、くしゃくしゃの部長の顔を。
まるでドラマみたいな展開だなぁ、なんて思うと、俺は少し勝算があるような気がした。もしかすると、だなんて軽く浮わついてしまう。
俺は最近急上昇の若手俳優、南は演技派のカワイー女優。
そこで、最高のシチュエーションで、日本中が注目の二人によるキスシーン。
俺のシナリオは、完璧だった。
「みなみ…俺、すきだよ…」
「千石……?」
まだ何も分かっていない南に俺の顔を寄せる。
本当だったら角砂糖みたいに甘いはずの南とのキスは今まで味わったことない位にしょっぱくて、俺はなんだか悲しくなった。
何の面白味も、幸せも、温かみもない。この何の意味もないようなただの柔らかいキスは、俺が幸福に身を包まれながら生きてきた中で、何よりも一番冷たかった。
「……抵抗しないの…?」
「……」
「……ねえ、…ただの友達の俺が、失恋してる南に無理矢理キスしたのに、悲しくないの?」
俺が捲し立てる様に次々と話しかけると、涙の止まっていた南の瞳はまた真っ赤になっていく。
決壊した南の瞳のダムは止まることもなく、ただどばどば涙をこぼし始めた。
なんの言葉も発しない、動きもしない、俺を見ているだけの南の濡れた瞳。
ねえなんでそんなに泣いてるの?どうして悲しいの?
俺じゃあ、南の隣には居られないの?
「南、俺はね、南の事が大好きだよ」
「南が俺を見てないことも、分かってるよ」
「ただの友人だって事も、知ってる」
「だけど、おれは、どうしても」
「あきらめが、つかないんだよ……」
南が泣くばっかりするから、貰い泣きしちゃいそうじゃないか。
俺だって大泣きしたいよ。三年間ずっと、ずっと俺の胸の内で暖めてたんだもん。外では、ナンパばっかりしてさあ、女の子が大好きでさ、それで、南の気をちょっとでも引きたかった。怒って欲しかった。気にして欲しかった。
南が大好きだから、俺は南が誰を好きでも、諦めきれなかった。
「…お、れは、あきらめ、きれないんだ…」
「…もう、南の泣く所なんて、見たくないんだよ…」
なのに、南はずっと泣いていた。
少しでも俺で元気が出るんじゃないかとか、そういうのはただの妄想だったのかもしれない。
眼中に無い俺が、まるでヒーローを気取って良い身分だった。
「ごめんね…みなみ…なかないで…」
拭いても拭いても溢れる涙。
それは俺が南の望んでいる人ではないから。それなのに浮かれてキスをしてしまったから。
言うなれば俺は最低の脇役って所かも知れないんだよね。
俺としては、南が微笑んでくれると思っていたんだよね。
結末は、バッドエンドだった。
「おねがいだよ……もう泣かないでよ…これ以上さ…」
「うん…」
「俺、最悪だって、分かってるよ…」
「…う、ん…」
「でも、俺は…南が、泣いてるのがイヤだから…少しでも俺の事、好きになって、それで、それで……」
言葉が繋がらない。
それで、元気出して欲しかったんだ。
にっこり笑うはすが、俺の目は硬直しちゃったみたいに動かなくて、それから大粒の涙が流れていた。
「せん、ごくの気持ちには、こたえられない……」
うん、知ってるよ。
だって、南はあの人が好きだもんね。
俺って本当に最悪で、最低で、それから可哀想な脇役だなぁ。
真夏の蒸し暑い部室で、二人。
俺と南だけの空間で、俺と南だけが泣いている。
俺を悲しさの捌け口にしてもいいよなんて、そんなかっこいいことを言ったはずなのに。
ぼろぼろ落ちるのは悲しみじゃなくて俺達の冷たい涙。
もう二人の悲しさの捌け口なんて、どこにも、なかった。
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