すべての荷物を積み終えたトラックが、重たい音とともに走って行った。
遠ざかっていく車体を、ぽろぽろと表情もなく涙しながらトキヤは見詰めていた。
真斗はまだ来ていなかった。
母が、車の横でトキヤを呼んだ。
トキヤは形の崩れたモンブランを上から覗いて、「もういっそ、このまま来なければいいな」とそう思った。
だってモンブランはぐちゃぐちゃだ。
こんなものではきっと真斗は喜んでくれない。
それでは自分もあたたかくならない。
そういえば―――真斗には出発の時間を伝え忘れていた。
こんなに早朝にだなんて、きっと真斗は思わないだろうな。
母にもう一度名前を呼ばれて、トキヤは一歩踏み出した。

「―――トキヤくんッ!」

ビクリ、とトキヤの身体は大きく揺れた。
その振動で、モンブランはまたその形を少し変えた。
振り返っても立ち止まったままのトキヤのもとに、真斗は肩で息をしながら駆け寄ってきた。

「なんで……」
「いえから、トラック……はしってくのがみえたから……ッ」

膝に手を当て眉根を寄せて、ぜえはあと苦しそうに呼吸しながらそれでもそう言って笑った真斗に、トキヤの頭の中はぐちゃぐちゃになった。
会えた。
真斗にもう一度会えた。
来なければとは思ったけれど、やっぱり自分はもう一度真斗に会いたかった。
だけど真斗が来たことに、来てしまったということに、暗然とする気持ちもトキヤにはあった。
どうしよう。どうしよう。
思わず箱を後ろに隠した。
けれど真斗はそれを見ていて、トキヤの顔を隠れた腕にいったりきたりと視線を移した。

「それ……モンブランじゃないの?」

呼吸が落ち着いてきた真斗に指を差されてトキヤはぎゅっと箱を握った。
―――正直に言おう。
首を傾げる真斗を見てそう決意した。
身体の前に戻した箱を両手に持って突き出しながら、大きな声でごめんと叫んだ。

「したのダックワーズがこげちゃって、モンブラン……くずれちゃった……」

箱を受け取り覗いた真斗は、見るも無残なモンブランにうわあと感嘆の声を洩らした。
そんな真斗にトキヤは下を向いてふるふると震えた。

「すごいぐちゃぐちゃになっちゃってるね―――」

―――でも、おいしそう。

「え? あ―――ッ!」

箱に手を入れ一掬いのモンブランを取り出すと、真斗はぱくりと口に放った。
そうしてごくりと飲み込んだ後、

「おいしいっ!」

と瞳を細めてきらきらと笑った。
その表情にトキヤの心は少しだけ震えたけれど、それでもやっぱりと首を振った。

「でも、くずれちゃったから……。ダックワーズもこげちゃったし。まさとくんに、とびきりのモンブラン、たべさせてあげたかったのに……っ」

言っている途中でまた涙が込み上げぼろぼろ零れた。
アスファルトが濡れていく。
シャツを握り締めた指先は真っ白だ。
ぐにゃぐにゃと歪んだ視界が、真斗の袖に拭われクリアになった。
トキヤくん。
やさしい声に、顔を上げた。

「かたちなんてかんけいないよ。たしかにちょっと、こげちゃってるけど……それでもすっごく、すっごくおいしい!」

はじめてたべたのがトキヤくんのでよかった、
これがぼくの、モンブランだよ―――

「じんせいのなかのきっといちばんのモンブラン!」

そう言い切った真斗の顔は、いままで見た中で一番きれいだと思った。




車の後部座席に乗ったトキヤはすぐにウィンドウを開けた。
箱を抱えて立つ真斗に身を乗り出して大きく息を吸った。

「いつかぜったい、またつくるから! もっともっとじょうずになって、ちゃんとしっぱいしないで、まさとくんに……これがいちばんのモンブランだって! そういってもらえるよ、な……ッ!」

運転席の扉が閉まり、その揺れで幼い身体はずるりとシートから滑り落ちた。
エンジン音が聞こえ始めて、慌ててトキヤは這い上がった。
ゆっくりと車が動き出す。
トキヤが窓から顔を出すと真斗はトキヤに小指を突き出した。
咄嗟にトキヤも小指を差し伸べ、それは一瞬絡んで解けた。

「まってるから!」

離れていくトキヤに真斗は叫んだ。

「ずっと、いつまでも……いつまでだってッ! たのしみに、まってるからっ―――」





「―――トキヤ!!」





暗いキッチンのなかで記憶の海に沈んでいたトキヤは、自分を呼ぶ声にハッと目を開け瞳を震わせた。
ガタンガタンッと入り口のほうで、物がぶつかる音が響いた。

「どう、して……」

いつか自分の店を開く日がきたら、かならずここに戻ってこようと決めていた。
彼はもういないかもしれない。
でもそれでも構わないと思った。
彼との思い出のあるこの街に、ただ戻ってきたかった。
そうしたらまさか、オープン前に再会してしまうだなんて。
トキヤの心は喜びに満ち溢れた。
真斗はトキヤとの思い出をすっかり忘れてしまっていたけれど、それを悲しく寂しく思う気持ちも確かにありはしたけれど、それでも自分は真斗とまた出会えたことに、自分の作ったケーキをおいしそうに食べる彼の姿を再び見ていられることに、心の底から歓喜していた。
思えばあれはたった二週間の出来事だったのだ。
時間にすれば、もっと短い。
めまぐるしく進む幼少期にはたった一瞬でしかない出来事を―――切なくはあるが―――覚えていなくても不思議じゃない。
だからただ、彼の笑顔を見ていていられれば、それで充分幸せだった。
けれど真斗にモンブランが一番好きだと言われて、トキヤはほんの少し期待してしまったのだ。
もしかしたらあの二週間の思い出を、形の歪なあのモンブランのことを、たとえ断片的にであっても真斗は覚えているのではないか。
しかしそんな淡い希望はその後すぐに打ち払われた。
熱い瞳でモンブランを語る真斗に―――きっかけはトキヤのモンブランだったのかもしれない、けれどそれを彼はきっと覚えていないのだな、と。
ぼんやりと、確信してしまった。
そう思ったら、急速に心が暗くなって。

―――カツカツと性急な靴の音が徐々にこちらに近づいてくる―――。

先程トキヤが立ち去る直前、真斗の顔はひどく歪められていた。
トキヤのことを気遣うような。そして悲しみをこらえるような。
そんな顔が見たかったわけじゃない。
優しい真斗のことだから、明日にはトキヤの様子を窺いに来るかもしれない。
そうしたら自分はいつも通りに笑顔で迎え、何事もなかったように振舞おうと、そう思っていた。
それなのに、それなのに。
心の準備も何もない。
音也と飲むと言っていたのにどうして彼が、ここにいる?
それより彼は、いまなんと―――?

バチンッ! と大きな音がして、目の前が突然光に包まれた。
咄嗟に瞳を閉じ掌を広げて光を遮る。
ゆっくり片目だけを開くと、ぼやける指の隙間から肩で息する真斗が見えた。

「ま……ひじりかわ、さん……。何故―――」
「―――すまないッ!」

トキヤの言葉を遮って、真斗はガバッと頭を下げた。
しかしトキヤにはその意味が分からず周章する。

「な、なにを……」
「俺はケーキの中でモンブランが一番好きだ」
「そ……、それは、聞きました……」
「店に行けば、一度は必ずモンブランを買う」
「そ……っ、それも、聞きました」
「だがな、それがどんなにうまくとも、もう一度買うことはなかったんだ」
「……?」
「俺は理想が高いのだと思っていたがそれは違った」
「ちょっ、待ってください言ってる意味が」
「『かたちなんて、かんけいないよ』」
「……ッ!」


「俺の中のいちばんのモンブランはな、いまでもずっと、あのダックワーズが焦げた出来損ないの―――お前の作ったモンブランだったんだ」


そう言って小指を突き出す真斗の顔は、あの日のようにきれいだった―――。






end.











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