夏の残暑も抜けた日没は早く、明かりの消された店内は差し込んでくる街灯の心許ない光でもって辛うじてその輪郭を留めている。
入り口に取り付けたベルはカランと鳴って主の帰りを歓迎したが、電気も点けずに歩き出したトキヤを店は再び静けさで包んだ。
ショーケースの横を抜けて円い填め殺しのついた扉を開け、一層暗いキッチンに入る。
もはや街灯の明かりすら届かない暗闇をそれでも淀みなく、けれど重たい足取りで冷蔵庫まで進む。
そうして買ってきた食材たちをすべて庫内にしまいこむと、トキヤはずるりずるりとその場にしゃがみこんだ。

「何をしているんだ、私は……」

ぽつりと落ちた呟きは、響くことなく暗闇に消された。
見上げた天井は壁との境を失っていて、広がる空虚にそっとトキヤは瞼を下ろした。

『―――それ、すてちゃうの?』

甦る記憶はもう十九年も前のこととは思えないほど、色鮮やかに
トキヤの心に灯を齎す―――。





トキヤがお菓子作りを始めたのは五歳の頃。母親の影響だった。
その当時からすでに父母の間には殆ど会話がなく、もともと菓子作りが趣味だった母は篭城でもするようにいつもキッチンにいて、トキヤに菓子や料理の作り方を教えた。
幼いトキヤはそんな両親の不穏な空気を感じながらも教えられるまま――そもそも甘いものが好きだったこともあり――少しずつだが確実に腕を上げていき、小学校に入学する頃にはクッキーやカップケーキなどの簡単なものならばひとりでも作れるようになっていた。
トキヤが二年生になったある日、前日に作ったマドレーヌを持ってトキヤは学校へ向かった。
その日が誕生日だったクラスメイトを、喜ばそうと思ったのだ。
昼休みになり少し照れながらもマドレーヌをプレゼントしに行ったことを、しかしトキヤはその後すぐに後悔することになった。

―――えっトキヤくんじぶんつくったの?
―――トキヤくんおとこのこなのに
―――へんなのー
―――そういうのはおんなのこがするんだよ
―――おとこのこはおかしなんて、つくらないよ

へんだよへんだよと騒ぎ立てるクラスメイトたちに耐え切れず、トキヤは教室を飛び出した。
そうして丁寧に紐で括られた袋をぼたりぼたりと涙で濡らしながら当て所なくとぼとぼと歩いていたトキヤは、やがて職員室前のごみ箱に辿り着いた。
加減も忘れて抱えていたためいくつかが崩れてしまったマドレーヌ。
五歳の時からずっとお菓子を作っていて、そしてそれをひとにあげるのは初めてだったトキヤは羞恥よりも先に驚きと、受け取ってもらえなかった悲しみに包まれぼろっとまたひとつ、大きな雫が袋に当たって弾けた。

「―――ねえ。それ、すてちゃうの?」

意を決しトキヤが腕を振り上げた瞬間、その声は聞こえた。
振り返ると、職員室から出てきた少年がじっとこちらを見詰めていた。
トキヤと同じ二年生の名札を着けたその少年は、狼狽えるトキヤを他所にこちらに近付くと「もったいないよ」とトキヤを怒った。

「たべものをソマツにしたらいけないんだ」
「でも……」
「すてるならぼくがたべるよ」

そう言って少年は片手を突き出し、おずおずと差し出すトキヤからマドレーヌを受け取ると空いている手でトキヤの手を取り歩き出した。
予想していなかったその行動にトキヤは驚き目を白黒させ、ろくに抵抗もできず為すがままの状態で少年のあとを追った。
連れられるまま辿り着いたのは中庭で、少年はベンチに座るとトキヤも促し、素直に従い腰を下ろしたトキヤの横でさっそく袋の紐を解いたのだった。
そして袋から取り出したマドレーヌを食べるとむっとしていた表情もどこへやら、「おいしいっ」と声を上げトキヤに無邪気な笑顔を向けるものだから、トキヤは咄嗟に俯いてしまった。
カアアァと赤くなった頬が熱い。
うれしい。うれしい。
母はいつも褒めてくれるけど、母以外の人に言われたことに、こんなにも胸が熱くなるとは。

「つくってよかった」

だからつい、言葉が漏れた。

「え?」

振り返った少年にハッと口を押えてももう遅い。
―――おとこのこはおかしなんてつくらないよ。
紫紺色の瞳は大きく開かれトキヤと袋を交互に映す。
逃げるようにぎゅっと目を瞑ると止まっていた涙がまたじわりと滲んだが、

「すごいな!」

少年が紡いだ言葉はトキヤが想像していたものとはまったく違った。
驚き目を見開くと、少年は袋を抱えて笑っていた。
トキヤは慌てた。
滲んだ涙もどこかへいった。

「へっへんじゃないの?」
「? すごくおいしいよ」
「そ、そうじゃなくて……おとこのこなのに……おかしつくるの、とか……」

クラスメイトたちはそう言ってトキヤを否定した。
けれど少年は、むっと顔を顰めて否定を否定したのだ。

「おかしをつくるのもすきなのも、おとこのことかおんなのことかかんけいないよ」
「……そう、かな?」
「ぼくのおじさん、ケーキ屋さんだもん」
「そ、そうなんだ……!」
「それにぼくも、いっぱいじゃないけどおかしすきだし」

だからそういうのはかんけいないよ。
そう言って少年はにこりと笑った。
トキヤは自分の頬と心がどうしようもなく熱くなるのを感じて、俯きがちに小さな声でありがとうと返した。
直後頭上に予鈴が響いて、二人はベンチから立ち上がった。
少年との時間の終わりに名残惜しさを感じながらも歩き出したトキヤを少年はねえと呼び止め、

「ぼくはひじりかわまさと。よかったら、またおかしつくってくれる?」

片手を出してそう言った。


こうしてトキヤは、真斗と出会った。




その日帰宅するとトキヤは一目散にキッチンへと向かった。
自分の作ったマドレーヌをおいしいと喜んでもらったことを、そしてそんな友だちができたのだということを母に一番に伝えたかったのだ。
しかし母は珍しくキッチンではなく、寝室に置かれた机の前に座っていた。

「おかあさん……?」

母の前には緑色の用紙が置いてあった。








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