「ようこそ、我が『Mon Bleu charmant』へ」

そう言ってトキヤは、真斗の前にできたてのマフィンと温かそうに湯気をたたせた紅茶を並べた。

「……と言っても、いまだ配置も何も整っていない未完成な店ですが」

肩を竦め、おどけたそぶりで片目を閉じるトキヤに好意的に笑い返し、真斗はきれいな水色をした紅茶を手に取るとぐるりと店内を見回した。
個人経営なので当然だが、あまり広くはない。
テーブルはテラス席を除けば店内に全部で7組。
それらはテーブルと椅子が重ねられた状態で店の左右に寄せられているが、そのうちの1組だけはいま、真斗のためにと店の中央に置かれていた。
しかし入り口と先程真斗が覗いていた大窓の位置から考えると恐らく、扉から入って左手側に5組、右手側に2組と分かれて設置されるのだろう。
客席を抜けた先、入店者を迎えるように配置されたショーケースは、いまは当然ながら空っぽで明かりも消され、真っ暗だ。
その上には紅茶の茶葉や砂糖、小麦粉などの袋が種類ごとにきれいに分けて並べられている。
そしてショーケースの背後には言わずもがな、キッチンがある。
胸のあたりから上がガラス張りになった壁の向こうに、業務用の大きな冷蔵庫やオーブン、種々様々な調理器具が整然と置かれているのが見える。
キッチンはわからないがホールのほうは確かに、完成とは決して言えないだろう。

「だがテーブルや椅子など、揃えられた調度品はシンプルだが統一感があり、気品すら感じさせる。俺の好みのど真ん中だ。きっと、いい店になるな。――ああ、このカップもいいな」

率直に自分の思った通りに賞賛し、紅茶に口をつける。
真斗は普段コーヒーを好み嗜んでいるため紅茶の知識はないが、癖が強くなくすっきりとさわやかに鼻を抜ける香味は実に飲みやすい。
少し感じる渋みはむしろいいアクセントとなって、真斗の舌を喜ばせた。
なんという茶葉だろうか。そう思い顔を上げ、真斗は何気なくトキヤを見てポカンと口を開けた。

「お前……顔が真っ赤だぞ?」

正直に指摘してやるとトキヤはなんとも言い表しがたい表情を手で覆い隠し、「すみません」と弱々しく謝った。
顔を覆う白い手と合間から覗く真っ赤な頬のコントラストがなんとも可笑しい。
思わず噴き出してしまいながら、なにがだと訊く。

「いえ、まさか……聖川さんにそう言って誉めていただけるとは思っていなくてですね、その……嬉しくて……」

俯きがちに掌の下でもごもごと気まずそうに言うトキヤの姿に、ついには真斗も耐え切れず声を出して笑ってしまった。

「面白いやつだな、今日会ったばかりの人間の言葉でそこまで顔を赤くするのか」
「それは相手があなただからですッ! それに、……――いえ。なんでもありません」

真斗が肩を揺らしくすくすと笑うのにトキヤは顔を覆っていた手を大きく振り下ろして反論しようとしたが何かを言い掛けてすぐ言い淀み、降ろした手をだらんと下げ小さく首を振った。

「とりあえず、いい加減お前も座らないか? せっかくのマフィンが冷めてしまってはもったいない」

出会って数十分の間に何度も繰り返される真斗にはよくわからないトキヤのその挙動に、その都度心中では疑問符が飛び交うが、いくら首を捻ろうとも真斗に分かろうはずもない。
それよりも今は目の前でほくほくと仄かな湯気をたてるマフィンに気持ちが取られて仕方ない。
ずっと持ったままだったティーカップを一度ソーサーにそうっと戻し、はす向かいに置かれた椅子をグイと押してトキヤを促す。
促されたトキヤは真斗には気付かれないようにはあと息をつくと、そうですねとまた眉尻を下げ素直に従った。
トキヤが着席した拍子にテーブルが僅かに揺れてティーカップがカチャリと音を立てる。
作られた紅茶の波紋に目を取られながら、そういえばと真斗はふと思い至った疑問を率直に口にした。

「何故俺の名前を知っているんだ? 俺は……お前に名乗っただろうか」

自分で言うのもなんだが記憶力はそれほど悪くないほうだ。
十数年も前のことならばさすがに記憶が曖昧にもなるが、たかが小一時間のことであれば忘れようもない。
そして、思い起こす限り真斗はまだトキヤに名乗ってはいなかったはずなのだが。

「そっそれは……ッ、実は以前、私は……ッ!」

ガタリと椅子を揺らし、またもや顔を赤くしてあわあわと視線を彷徨わせるトキヤ。
まったく、見た目の雰囲気に反して面白い挙動をする男だ。
見ていて飽きない、とトキヤを観察していた真斗はそこで、ああと思わず膝を打った。

「そうか、一十木か」
「あなた、と、………………は? ……音也? 音也がなんです?」
「ああ。先程一十木から俺の事を聞いていたと言っていただろう。その時に俺の名も書いてあったのだな」

ウンウンとひとり合点する真斗。
それを見てトキヤはヒクリと口端を引き攣らせ、あからさまな溜息をつくとじっとりと真斗を睨んだ。
……どうやら何か怒らせてしまったらしい。

「どうかしたのか?」
「いえ別に。ただ、人生というものはそう都合良く、前途洋洋となどいってはくれないものなのだと痛感しているだけです」
「……?」

そう早口に捲くし立てるとトキヤはまるでしおれた花のようにぺたりとテーブルに額を落としてしまった。
よく分からないが、怒っているわけではなさそうだ。
突っ伏したままはあああと再度溜息をつくトキヤに、真斗は意外と感情の起伏の激しいやつだなと独り言ちる。

「初めの内は一十木の友人にしては珍しい類の人物だと思っていたが、よくよく接してみればやはり友人というだけあるな。あいつも、ひとり忙しないやつだからな」
「はあ!?」

紅茶をすすりしみじみと呟いた真斗に、トキヤは聞き捨てならないとばかりにガバリと頭を持ち上げた。
その顔には、ありありと否定の色が滲んでいる。

「似てる? 私が? あの男と? 冗談じゃあないッ! そもそもアレと友人などになった覚えはありませんよ! アレとは高校の寮で偶然同室になった、ただそれだけのことです!」
「そうなのか?」
「そうです!」
「だが今も連絡を取り合っているのだろう?」
「それは……私が修行のため渡航する際、うっかり帰国の年を言ってしまったせいで。一方的にあちらがメールを寄越してくるだけで、私から送ったことなどただの一度もありませんよ」

顔面中に拒絶を貼り付けげんなりと肩を落とすトキヤ。
二人の並んだ姿を見たことのない真斗には想像することしかできないが、人との繋がりとは様々な形があるもので、そういう友好関係もあるのだなあとぼんやりと思った。

「……何を考えているか知りませんが、違いますからね。それに、それを言うならばあなただってあのように年中騒がしい男と交友を持つタイプには見えませんよ」
「うん? 俺か?」

突然水を向けられぱちりと瞬く。

「そうでもないぞ。あいつは面白いやつだからな、見ていて飽きないのだ。といっても、俺の入社した年の同期があいつだけだったため行動を共にする機会が偶々多かったというだけで、最初はあの天真爛漫さに辟易することもままあったがな。いまでは良き親友だ」
「…………心が広い」
「寛容さは必要だぞ?」
「ある程度は持ち合わせているつもりですが……」

まるで信じられないと、不思議なものを見るような目でまじまじと見つめられて真斗は苦笑を零した。

「親友とまであなたに言われる音也が羨ましい……」
「ん? 何か言ったか?」
「マフィン、冷めないうちに召し上がったほうがよいのでは?」
「あ、ああ、そうだな!」

皿を押され、促されるままひとつを手に取る。
紙のカップに包まれたそれは、多少時間は経ったがまだ充分に温かい。
持ち上げた瞬間、ふんわりとバナナの芳醇な香りが真斗の鼻腔を擽った。
その刺激に誘惑されてすぐさまはむりとかじりつけば、途端に広がるバナナの甘さと柔らかくも濃厚なバターの風味。生地には蜂蜜も練り込まれているのか少量の塩の助けも借りて、くどくない自然な甘みを演出している。
しっとりと吸い付くような生地も好い。
すべてがパズルのピースのようにきれいに寸分たがわず嵌って行って、

「うまい……!」

まさにその一言に尽きた。
蜂蜜を使用している分砂糖の量が減らされているのかしつこさがなく、これならば何個でも食べられそうだ。
自然と綻ぶ頬もそのままにそう言って賞賛の意を伝えれば、トキヤはカアアァと顔を赤くしながら先程とは打って変わって満開の花弁のような笑顔で「ありがとうございます」と首筋を撫でた。
そうしてむっつあったマフィンはあっという間に半分になり、次に手を伸ばそうとしていた真斗ははたと気付いてその手を止めた。

「お前は食べないのか?」

ついつい差し出されるままに食べてしまっていたが、半分を食べたのはすべて真斗だ。
マフィンばかりに心を取られていたがよくよく思い起こしてみればトキヤは真斗がうまそうに食べる様を見ながらただにこにこと紅茶をすすっているだけだったような。
独占してしまっていたかと己を恥じ慌ててトキヤのほうへと皿を寄せたが、しかしトキヤは笑顔のまま首を横に振って「私は大丈夫です」とまた真斗の前に皿を戻したのだった。

「私ひとりでしたら食べていましたが、あなたがそうやっておいしそうに食べてくださるならすべて差し上げますよ」
「それは有り難いが……しかし味や焼き加減などの確認をしなくてもいいのか?」
「それはあなたが充分証明してくれましたから。それに……」
「それに?」

トキヤが濁した言葉尻を逃さず真斗は拾う。
真斗の視線から逃れるように、トキヤは気まずげに目線を落として頬を掻いた。

「実を言うと私は……あまり甘いものが得意ではないんです」

そう白状したトキヤの言葉に、真斗は目をまん丸くして驚いた。

「はあ……? お前、パティシエなのにか?」

甘いものが苦手で、それでよくパティシエになろうとしたものだ。
というか、それでよくこんなうまいマフィンを作れたものだといっそ感心してしまう。
そんな真斗の心中を察したのかトキヤは罰が悪そうに小さく笑った。

「試食しなくても、何と何を入れたら面白いか、おいしいか。そしてその分量はどのくらいか。というのがなんとなく頭で組み立てられるんです。あとは大抵師匠や周りの人間に試食してもらって味の調整をしたりしていたので……」
「それは……とんでもないな……」

パティシエとして、とんでもない才能だ。
真斗はスウィーツに関しては基本的に食べるばかりで自分で作ることはあまりないが、それでもトキヤを酷く羨ましく思った。
それが天性のものか努力の賜物かは分からないが、もし真斗にもそんなものが備わっていたら、今頃毎日好き放題にケーキを作っていたことだろう。
目の前のマフィンを両手で持ち上げ、しげしげと観察してみる。
ぱくりと食べれば温かさが失われていてもなお劣らない完璧な風味が口の中を満たす。
これが、試食することもなく頭の中だけで組み立てられてできたものなのか。
うううんと唸りながら再度もさもさとマフィンの消化に勤しんでいると、横から改まった声音で真斗を呼ぶ声がした。

「そこで相談なのですが……。突然こんなことをあなたに頼むのは図々しいことと充分承知していますが、もし、あなたさえよければ今後、この店で出すケーキの試食をお願いできませんか?」
「は……俺がお前のケーキの試食を……?」

このマフィンを作り上げる腕ならば他のスウィーツだって絶品であろうことは想像に難くない。
それをこれから好きに食べることができるとは真斗にとっても願ったり叶ったり、ではあるが。

「だが俺なんかでいいのか? 確かに俺は甘いものが好きだがそれでもただの一般人なんだぞ?」

店を出し、商品として出すものならば素人に毛が生えただけのただの甘味好きに頼むよりも同業の人間か、やはり自分の舌を頼ったほうが賢明のように思う。
しかしトキヤはきっぱりと言った。

「あなただからこそお願いしたいんです」

それに、このマフィンを食べている様子を見ていた限り、あなたの舌も充分信頼できるもののようですし。
まっすぐに真斗を向きはっきりとした口調でにこりとそう言われて手を差し出されれば、こんなおいしい誘惑を真斗が断る理由はない。
本日二度目となるトキヤからの甘い申し出に、真斗は二つ返事でその手を取った。













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