そこを通ったのは本当に偶然だった。

論文作成に必要な資料を取ってきてくれと教授に頼まれ訪れた文学部の敷地。

そこは普段根城としている法学部の棟からは随分と離れていて、このような機会でもなかったらおそらく一度として来ることもなく卒業していただろうとトキヤは思う。

講義棟を二つ抜け、大きな金木犀が聳えた中道を右に。

キャンパス内の地図は入学時にはすでに頭に入れていたためとくに道に迷うこともない。

法学部とはまたどこか違う雰囲気をまとった人間たちを視界の端におさめながらも淀みなく進ませていた足が、ふと止まる。

一陣の風が自身の黒髪をふわりと通り過ぎたときだった。

風に流されてきたかのように、幽かな旋律がトキヤの鼓膜を震わせた。

ピアノ、だろうか。

ようく聞き耳を立てればそれは間違いなく鍵盤を叩いて紡がれる音色のようで、自分の予想に間違いはないと確信する。

この近くでピアノを有する棟は……と視線を巡らせると、音の出元はどうやらトキヤが歩いていた中道の右手、今は既に葉っぱばかりが目立つ桜たちに囲まれた二階建ての小さな屋舎からであるらしい。

そこは確か学部やサークルで楽器を扱う生徒たちの為の楽器庫兼レッスン棟、だったか。

トキヤは脳内で地図を広げ、己の記憶と現在の位置関係とを照らし合わせた。

その屋舎の一階部分はトキヤから見て正面と右手側が硝子張りになっており、やや離れたこの距離からでもなんとなく内部を窺い知ることができた。

ゆっくりと足を向かわせながらもトキヤは屋内の様子を窺った。

そこはどうやらホール、のようになっているらしい。

置き去りにされた楽器やら譜面台やらメトロノームやらが部屋のあちこちに散らばるそこは、小学校から高校まででよく見慣れた音楽室にどこか似ていた。

そしてトキヤの見知ったどの音楽室にもあったもの。

それは――トキヤが探していたグランドピアノは、まるでおのれがホールの主であると言わんばかりに部屋のど真ん中を堂々と陣取っていた。

音は確かにそれから発させられているようだった。

しかしこの角度からでは開いた屋根の陰になって演奏するものの姿は確認できない。


もっと。近くに。


間断なく紡がれる旋律がじわりじわりと鼓膜を脳を心を揺さぶる。

トキヤは当初の目的を頭の隅に追いやりグランドピアノへと足早に歩を進めた。

ちらり。なにか青色が黒いボディのその陰で揺れた。


もっと。


得体の知れない焦燥感めいたものがトキヤの足を早まらせていた。


あともう少し。

あともう少しで――


――ピタリ。とトキヤの足が止まった。

よく磨き上げられた吐き出し窓はすでに目前まで迫っていた。

しかしその見えない壁一枚隔てた向こう側でトキヤになど目もくれずひたむきに鍵盤を向く青年の姿を視認した瞬間、トキヤの足は止まっていたのだ。


――泣いている…。


直感でそう思った。

実際にははらりはらりと艶やかに舞う青髪に表情は隠されわずかに口元が垣間見えるだけなので泣いているかどうかなど判りはしなかったが、


――旋律が。


奏でられるその一音一音がまるで慟哭のようで。

ここまできて、ようやく己の抱いた焦燥感の正体をトキヤは知った。

流れ続けるメロディー。流され続ける啼泣。

トキヤがそうと気がついたときにはもう――足は動いていた。

すぐさま入り口を見つけ出す。


――あそこに、行かなければいけない。

そんな正体も知れぬ使命感にも似た気持ちが、トキヤの足を動かしていたのだ。

繊細に、しかし叩きつけるように紡がれていくメロディー。

青年の即興なのだろうか。

音楽に対しては教材程度の知識しか持ってないトキヤだが、なんとなく、そう感じた。

だからこそそれには青年の感情が堰きとめられずただただ溢れ出てしまっているのだ、とも思った。

防音扉の重たいドアノブに乱暴に手を掛ける。

初めて耳にした旋律。

けれどそれが終わりに向かっているのがなんとなくだが分かった。

それは果してリットとともに徐々に高音へと向かいそして――


――ポーン――


トキヤが扉を開くと同時に、最後の一音が部屋の中に響き渡った。

わんわんとトキヤの鼓膜を震わす小さいけれど、確かな音。

突然現れたトキヤに驚き見開かれた瞳にはやはり濡れた光は見られなかったが。

それでもそれは


まるで彼が落とした一涙のような。


それとも自分の胸の奥底で弾けた何かのような。


あるいはそのどちらをも、あらわしたかのようだった。







end.





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