「れん、……レン」

口の中で復唱したその言葉は、翔の中に抵抗もなくスッと溶けた。
レン。
それがこの男の名前なのだとトキヤは言った。

「分かったのはそれだけです。何故かは知れませんが、他は悉くブロックされてしまっている。何をどうしたものか、解除しようにもエラーがでてしまう」

トキヤはそう続けて、肩を竦めた。
このアンドロイドはまったくもって、とことん不可解だらけな存在のようだ。
探れば探るほどに分からないことづくしで、いっそ呆れてしまう。

「けれどそれさえ……このヒトの名前さえ分かれば、それでじゅうぶんです」

ほっと胸を撫で下ろしセシルはそう言った。
確かに、今後呼ぶにあたって名前が分からなければそれはそれは不便で仕方がないだろう。
目覚めたときに本人に訊けばいいのかもしれないが、もし万が一名付けてくれなどと言われてしまったら少々困る。悩んでしまう。

「……そういう意味ではないです」

同意した翔に、セシルはむうと頬を膨らませて否定した。
翔は首を傾げる。
そういう意味ではないのなら一体どういう意味なのか。
しかしこの場で分かっていないのはどうやらただひとりだけだったらしく、翔は八つの瞳に悉く呆れた視線を送られていた。

「翔ってほんと、何も知らないんだね……」
「いやまあ、お前には必要のない知識といえば、そうだからな」

そんな憐れみすらも含んだ目で見られたところで、分からないものは分からない。
身近と言えば身近だが、そうでもないといえばそうでもない。
トキヤやセシルやあいつやら、その個々の人となりなら嫌というほど知っているが、改めてアンドロイド事情というものについてを尋ねられれば、翔の知識など高が知れている。
けれど決して、彼らに興味がないということではない。
そうではなく、翔にとって彼らはアンドロイドである前にトキヤでありセシルでありあいつなのだ。
そして翔は今回のようなことがなければ一生自分はマスターなどと呼ばれるものになることはないと思っていた。
普通に手に入れようとすれば、新ものならば車と変わらないのだ。
殆ど身一つで上京してきた為そもそもの貯金もあまりなく、加えて翔には奨学金の返済が待っているし、実を言うと真斗に対しても多額の借金をしている。
それに関して真斗には「返さなくていい」と言われているが、男として、借りたものは返さなければ気がすまない。いずれは押し付けてでも返すつもりだ。
それになにより、自分にはお金を貯めなければいけないもっと大事なことがある。
どれほどの額が必要なのかはまだ知れないが、それが途方もない数字であることは間違いない。
そうであるからごくごくたまに真斗とトキヤ、音也とセシルの関係を羨ましく思うこともある――いや、真斗たちの場合は少々ディープすぎてついていけないけれど――が、翔にそんな相手ができることなどどう転んでもありはしないと思っていた。
だからこそ真斗の言う通り彼らに関する――いや、アンドロイドに関する知識は必要ないのだ。
必要、なかったのだ。

「じゃあ、どういう意味なんだよ?」
「いいですかショウ。ワタシたちと結ばれるには、ギシキが必要なのです」
「儀式? 意外と堅苦しいんだな?」
「ノン。そんなにカタクルシクはないです。とってもかんたん。ただその結ばれる相手のなまえを呼びながらその者に口吻けるだけ。それだけで契約はセイリツするのです」
「ああなるほど。確かにそういうことなら名前わかんねーと、って、……………………………は?」

思わずセシルの顔をまじまじと窺ってしまう。
うっかり聞き流しかけたが、いま、この青年はとんでもないことを言わなかっただろうか。
名前を呼んで、なにをすると――?

「だから、口吻けるのです」

い――。

「いやいやいやいや。冗談言うにしてももっとこう、なんかあるだろ。ほかに。俺が詳しくねーからって、騙されるレベル超えてるから。すずめトラップ並に丸分かりだから、それ」
「ノン。ジョーダンではありません」

またもやきっぱりと否定されてしまった。
内容が内容なだけに手放しに信じられるものではないが、セシルがそんな冗談を言うタイプではないのもまた確かで。
しかし、――いや。

「観念しなさい、翔。あなたがそうしてどれほど否定しようと、それが事実なのです」

溜息をつき、まるでわがままを言う子どもをたしなめる親のような口調で、目で、態度でトキヤはそう言った。
他の三人の頭が、同意を示して縦に振られる。
本当――なのか。
嘘ではなく、冗談なんかではなく、翔をからかってのことではなくそれが――そんな馬鹿みたいなことが事実であり真実だというのか。
――なんでだよ。
翔はおもむろに真斗を振り返り、物言いたげな視線を送った。
しかし翔の心の訴えも虚しく、

「俺に言わないでくれ。それは、俺の所為ではない」

真斗はそう言って片眉を上げヒョイと肩を竦めただけだった。
ううと翔は唸る。
どうやら観念するしかなさそうだ。

「何も唇にしろと言っているわけではないのですから」
「……そう、なのか……?」
「ええ。行為自体は一見お伽噺のようにふざけ――失礼。神秘的に思える体をなし、契約や儀式などと呼んではいますが実際のところこれは登録、ですから。名前を呼ぶことによって声紋認証を。そして皮膚への接触によってその人間の――」
「ああ――。ああ、いい。そういう小難しいの、もういい」
「ではショウ。カンネンしましたか?」
「しよーがしまいがそれしかないなら、やるっきゃねーだろ」

投げ遣りにそう答えるとセシルはいやに満足げな顔でにこっと笑い、大げさな動作で後ろ一歩下がった。
残りの三人もそれに倣うように簡易ベッドから離れ、視線でもってさあどうぞと促される。
もうこうなったらやけくそだ、どうにでもなれと布の敷かれたテーブルにダンッと両手を突き上体を傾けた。
そこで翔は改めて、まじまじと、男の――レンの顔を見た。
髪と同じ橙茶色の長い睫にすっと通った鼻筋。きっちりと結ばれた唇は男にしてはやや厚めだが、全体の造作でいえば同じ美形でも華奢な印象を与える真斗とは違い、そこにニュートラルは感じない。
と――。

「――あれ?」
「? どうかしましたか、翔」
「ああ、いや……」

なにか、違和感を感じた気がする。
しかしそれは本当に些細なもので、だからなんだというものでもないような、そもそも翔の思い違いでしかないかもしれない、そんな程度のものであり、だから、

「まあ……いいか」

だから翔は、気にしないことにした。
無心になれと己に言い聞かせながらゆっくりと片腕に体重を乗せ、そろそろとその距離を縮めていく。

「それにしても、キレイなヒトですね。こうして眠っている姿はまるで神話の中の王子。月の女神に愛されて眠るエンデュミオンのようです」
「翔がちゅーしたら目、覚ましたりして」
「ワオ! ファンタスティック!」
「まあ実際は、残念ながらそうタイミングよくはいかないでしょうけどね」
「なんだ。つまらんな」
「……外野うるせー」

支えている右腕が、あらゆる意味でふるふると震える。
あまりこの体勢を維持はできない。
そして長く引っ張ったところで外野の視線と自分の精神がいたずらに辛くなっていくだけだ。
それならば、と。

「レン――」

翔はとうとう意を決し、ぎゅっと目を瞑ると勢い任せにその唇をレンの白い肌へと押し付けた。
色気の欠片もない――そんなものあってたまるか――リップ音の直後、あまり恥ずかしさから思い切りよくレンから距離を取る。
トキヤの言う通り、翔の口吻によってお伽噺よろしくレンが目覚めることは、なかった。
そのことに翔は自分が僅かなりとも落胆していることに気付き、けれど、見て見ぬ振りをした。

「無事、コードは消滅したようだな」

真斗の声にタブレットを覗くと、あの赤いウィンドウは確かに、音もなく消え失せていたのだった。




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