セシルと、そして一緒に行くとついて来た音也を連れて階段を降り、店へと繋がる扉を開けると丁度、ずぶ濡れのトキヤが同じくずぶ濡れで気を失った男を真斗によって何卓かがくっつけられた客席テーブルの上に寝かせているところだった。
明るいところで改めて見る彼の状態は、翔が思っていたよりもずっと酷かったようだ。
翔の手をも真っ赤に染めた肩もそうだが、うつ伏せていて分からなかった顔の右半分はもはや肌色が見えないほどに、まるで怪人の仮面でもつけているかのように赤黒く痛々しい。
硬く瞑られた左瞼に対し、白い唇は力なく薄く開かれている。
テーブルの上に幾枚か敷かれているタオルケットはもうすでにあのマットレスのような染みを作り始めていた。
背後からも、小さくヒィと悲鳴が上がる。
しかし翔はそれに構わず、彼らの元へと駆け寄った。

「安心してください。呼吸はあります。……辛うじて、ではありますが」

翔が隣に立って何をか言う前に、トキヤは濡れた前髪を払いながらそう言った。
テーブルを挟んだ反対側では真斗がバスタオルで血や雨水を拭っている。
見るからに清潔そうで真っ白だったそれが、どんどんと染まっていく様子に翔は言い知れぬ焦燥感に駆られた。

「な、なあ、あいつ呼んだほうがいいんじゃないか?」
「いや……ああ見えて、彼も案外多忙な人ですから。そう都合よく連絡が取れるとも限りません」
「そ………うだよな……」

項垂れる翔をちらりと一瞥してから、トキヤは背後を振り返った。

「……それに、このテの怪我の場合はあの人よりも彼のほうが適任だと思います」

翔も振り返ってみてみれば、先程よりほんの少し近づいた場所で音也の影に隠れるように身を丸めてふるふると震えているセシルがいた。
そんなセシルを宥めるようにその焦茶色の頭をおーよしよしと音也が撫でている。
これだけ見ていると実に頼りがいがないが、その実彼はあれでも怪我を治療するスペシャリストなのだ。
といっても、別に医療技術を持っている。などということではない。
セシルには、セシルだけが持ち得る特殊なチカラがあるのだ。
彼はそのチカラでもって、ありとあらゆる怪我をあっという間に治してしまう。
……今は、それが本当に真実かと疑わしくなるような怯えようではあるけれど。
彼が何に対してあんなにも怯えい るのか。
音也に励まされてようやく意を決したのか恐々とではあるが翔たちのすぐ近くまで寄ってきたかと思えば、横たわる男を見てあうぅぅと気の抜けたな涙声を漏らした。

「ワタシ……血、にがて……」

――そう。このありとあらゆる怪我を治す特殊なチカラを持ったスペシャリストであるところの彼は、それに反して怪我が、取り分け血が、大の苦手であるらしい。
セシルがこのようにぷるぷるしている様は毎度のことであり、翔はそれを見るたびに首を傾げているのだった。
それでもいざ治療する段階になれば、それは真剣そのもの。
気持ちを切り替えるために深呼吸を――やはり今回は出血量が出血量なためにやたらと何度もし――、

「目を閉じて、癒すことに、集中」

小さく小さくそう呟いた。
すると途端にその表情は一変、完全に真剣モード。その瞳が多少潤んでいるのは……ご愛嬌だ。
そうしてまずはやはり一番重傷と思われる右目へ。
先程の言葉を自己暗示のようにまた呟いた後、重ね合わせた褐色の両手をそっとそこに添え、セシルは静かに穏やかに唄いだした。
唄――いや、トキヤが言うには"詠"と書くらしい。
ゲームやアニメでよく耳にする"詠唱"の"詠"だ。
要するに翔にとって解り易く言い換えるとすればそれは"回復の呪文"といったところだろうか。
普段よりも低めのトーンでもって伸びやかに紡がれるそれはどこまでも優しく店内を包み込み、詠われている当人でないはずの翔も、息の詰まりがほんの少し和らいだような錯覚を覚えた。耳に心地好い旋律はいつまでも聴いていたいと思わせるものだが、過去に何度かお世話になったことのある翔は、それがとても短い――時間にして一分足らずしかないことを知っていた。
しかし唐突に、詠はその一分足らずをも待たずしてピタリと中断された。
手はそのままにスッと開かれたセシルの瞳には怪訝の色がありありと浮かんでいて、じっと見守っていた翔たちはどうしたのかと互いに顔を見合わせ、眉間を寄せた。

「セシル?」

そのまま押し黙ってしまったセシルに焦れ、翔は声を掛ける。
呼び掛けにセシルは薄い反応を返し、おかしいです――むすりとそう独りごちてまじまじと男の顔を見詰めた。

「おかしい……?」

おかしいとは、どういうことだろうか。
今までを振り返ってみ ても、セシルがこうして詠を中断したことなど一度もなかった。
セシルがウンと頷き、自身の手を引っ込める。
覆いが取り外されたそこは、翔の目には先程までとなんら変わっていないように見えた。
もちろん左瞼も閉ざされたままであり、時折白い歯の覗く唇もピクリとすらしない。
――セシルの言う"おかしい"が何を指してのことか定かではないが、翔もそのことには確かに違和感を覚えた。
翔の経験上、詠は、それを詠いきって初めてパッと怪我が消えるものではなくじわりじわりと掬い取るように治していくものだったはずだ。
中断されたとはいえ詠は終盤近くまで差し掛かっていたのだから、いくら傷の程度が重いといってもセシルのチカラならばある程度の効果は見られているべきではないのか。

「ワタシのウタ、このひとに届いている気がしない。……ちがう。ちょっとは届いてる。でも、ほんとうに、ちょっとだけ……」

翔の疑問に答えるように、セシルはしょんぼりと言った。

「いつもはふおふおーってするとだんだんじゅわじゅわーが上ってきてふわふわーになるのですが、彼にはそれができない。どうしてかは、わからない。けど、ふおふおのなかになにか、ビリビリしたものが混じってしまうのです、そしてそのビリビリがジャマをして、じゅわじゅわがふわふわにできない、のです」

どうしてでしょう? 首をコテンと倒し、眉尻をこれでもかと下げまるで捨てられた子犬を髣髴とさせる瞳を向けられたところで、翔にはまずいまのセシルの言葉がまったく一切これっぽっちも理解できなかったのだから、助言のしようもない。
素直に首を横に振ると、向かいからも呆れたようなため息が零された。

「セシル。それではまったく意味が分からないのだが……。 もっと、俺たちにも分かるように説明してくれないか?」
「ううん……説明、むつかしい」

そういいながらも彼なりに――やはりよく分からない擬音は多用されていたが――精一杯翔たちに伝えんとしたものを音也がなんとか翻訳したのを聞くに、要するになにかノイズのようなものに遮られて詠が正しく傷口に届かない。のだとか 。
真斗に言われ試しに肩の裂傷にも詠を施してみたが結果はさして変わらず。
ほんのちょっと、極僅かに傷口が小さくなったような気がする、程度だった。
そして右眼ほどではないけれどやはりノイズが聞こえるのだとセシルは首を横に振った。
その一連を顎に手を当て静観していたトキヤが、ふいにもしや……と呟く。
すぐ横にいた翔はそれを聞き逃さず、彼を見上げる。

「トキヤ? お前、なんか分かったのか?」
「ええ………いえ、確証はありませんが」

そこで一度トキヤは言葉を切った。
それはもったいぶるような、というよりもいまだ思案の最中、といった様子だ。
そうして形のいいシャープな顎元を人差指でトントンと叩きながら再び口を開き、セシルを呼んだ。

「私は……私も、音也たちと同じようにあなたに怪我を治していただいたことはあったでしょうか? もしくはあなた自身がご自分の怪我を治したことは」
「………? そんなことをした記憶はないです。だって、トキヤもワタシもそんなの必要ない」

なんの脈絡もなく唐突に投げかけられた問いに大きな翡翠をパチパチと何度も瞬かせ、その頭上にいくつもの疑問符が浮かべながらもセシルは答えた。
そんなセシルにトキヤはもしかすると、と続ける。

「私が怪我をして。それをあなたが治そうとしたら……同じように詠にノイズが入り、傷口も殆ど治らない。という可能性はないでしょうか?」

あッとセシルが声を上げた。
翔も、そして真斗や音也もハッとトキヤを見詰める。
あくまで私の憶測にすぎないことですが――全員の視線の中心で、トキヤは念を押すようにそう前置きしてから、横たわる彼を一瞥して言った。

「彼は、私やあなたと同じ――アンドロイドなのではないでしょうか」




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