「音也……」
静まり返った部屋の中にお袋の呟きがぽつんと震えて消えた。
「ナッチが後を追った。あの人たちに任せれば、オトは大丈夫だよ」
俺の言葉にお袋は歯痒そうに唇を噛み、力なく椅子に腰を下ろした。
その横で押し黙るダディが何を考えているのか、閉ざされた瞳からそれを推し量ることはできない。
気付かれないよう小さく息を吐く。
恐らく、黙り通すつもりはなかっただろうけれど。
高校を――あるいは早くても翔が中学を卒業してからか。
先延ばしにしたところで結果が変わるような問題ではないが、それにしても唐突すぎた。
すっと、ソファを離れダイニングテーブルへと向かう。
――唐突すぎはしたが、結果が変わるような問題じゃない。
そう、この事態の結果は――終着点は一つだけだと、俺は信じているから。
翔の傍らに立ち、その小さな肩に手を置いた。
「翔、俺たちも話をしないかい」
だから俺は、――俺にできることをしよう。





向かう先は翔の部屋でも俺の部屋でもなく子ども部屋。
黙って付いて来た翔を先に中へ入れ扉を閉める。そして所在なげに突っ立つ背中を追い越し壁に凭れて座ると、翔もそれに従うようにのろのろと床に胡坐をかいた。
その間始終翔は何かを思案するように眉を顰めていて。
「平気……ではなさそうだね」
「…………まあ、な。音也ほどじゃねーけど。…俺はなんとなくそうかもしんないってずっと、」
思ってたから…。
そう投げ出すように呟いた言葉は、酷く切ない響きを伴っていた。
そして足の上に置いた掌を見つめ暫し逡巡する様子を見せてから、翔が訥々と話し始める。
俺は黙って天井を仰ぎ、眼を閉じた。 
「だってさ、全然似てないじゃん、俺ら。顔だって性格だって髪の色も眼の色もなんもかんも。むしろ同じとこ探すほうが大変なくらいだし。街歩いてたって友達にしか見られないし。普通ねーだろ、そんなの」
そこで翔は一度口を閉ざし、そして短い沈黙の後再びでも、と続けた。
「でもさ。やっぱちげーよ。思ってんのと、実際言われるのとじゃ。かもしれないとは思ってた。けどやっぱどっかで信じてたから。"当たり前だろ"って、笑って返してほしいって。なのに……」
口篭り、それきり黙ってしまった翔に、俺は閉じていた瞳をゆっくりと開けてねえ、と呼んだ。
「おチビちゃん、昔話に付き合ってよ」
「昔、話…?」
訝る翔にうんと頷いて俺はゆっくりと息を吸った。
「――むかぁしむかし、名の知れた家にひとりの男の子が産まれた。けどその子の母親は体の弱い人でね、その子を産んですぐに亡くなった。奥さんをとても愛していた父親はその男の子を酷く憎んだ。毎夜毎晩男の子をクローゼットに閉じ込めては恐怖に声も出ない我が子にありとあらゆる罵声を浴びせ続けた。なんで生まれてきた。お前さえ生まれてこなければ――。日々エスカレートしていく父親の苛辣な言葉の暴力に、男の子はただひたすらにごめんなさいごめんなさいと夜に怯えた。……年の離れたふたりの兄も男の子を助けてくれやしなかった。それどころか彼らも男の子を疎み、男の子が五歳を迎える年の冬、その子を遠く離れた小さな施設へと、捨てた」
「……なあその男の子って、もしかして」
はっとしたように言いかけた言葉を、何も言わずに目だけで制する。
"男の子"よりも痛々しげに眼を伏せた翔に心の中でありがとうと呟き、小さく笑った。
「でも。――ねえ、おチビちゃん。冬の次に来るもの、知ってるかい?」
「……春、だろ」
唐突な投げ掛けに訝しみながらも翔は素直に答えた。
「そう、春だ。暗くて寒い冬を越えて、男の子のところにもね、春は来たんだよ。父親の呪言に怯え、施設にも馴染めずひとりぼっちで耳を塞ぎしゃがみ込んでいた男の子の前に突然現れた春は――暖かくて、眩しくて。震える男の子の全身をゆっくりとじんわりとやさしく包み込んでいった。そしてある時眠れない男の子に春はこう言った。生まれてきてくれてありがとう。私たちの子になってくれてありがとう…。まるで子守唄を唄うように紡がれた言葉に、男の子の目から涙が溢れた。暗くて狭いクローゼットに閉じ込められても暴言の限りを浴びせられても零れなかった涙が、いくら拭っても次から次へとぼろぼろ溢れて…。その時男の子は、生まれて初めて幸福を知った。嬉しくて嬉しくて、もうどうしていいかわからなくなって、泣き疲れて眠てしまうまでとにかく泣いたよ……」
ほんの一雫だけ涙が頬を伝ったが、翔は何も言わなかった。
「それで終りじゃない。この上ない幸せを得た男の子の元にまたふたつ、ちっちゃな春ができたんだ。最初のうちは警戒していた男の子だったけど、ある日ちっちゃな春を抱っこさせてもらったんだ。抱っこの仕方なんてわからないから男の子は何度も何度も落っことしかけた。けどその度にそいつは男の子をぎゅっと掴んで楽しそ うに笑った。それを見てね、思ったんだ。あぁ、今度は俺の番だ、って。だから男の子は拙い子守唄を唄ってあげた」
うまれてきてくれてありがとう。俺の弟になってくれてありがとう――。
そう一言一言大切に紡ぎ、大きな浅葱色の瞳を真っ直ぐに見据えて微笑った。
そうすると浅葱色はよりその大きさを増し、しかしすぐに逸らされた。
その目尻が薄らと赤く染まる。
その横顔にはもう数分前の翳りなど見当たらなかった。
「――えー、こうしてより賑やかになった大きな春の真ん中で、男の子は騒がしくも飽きない日々のもと今でも幸せに暮らしていますとさ」
めでたしめでたし、と乱暴に結んで再び眼を閉じる。
すると暫くして微かに身じろぐ音、そしてそれにふうと息を吐く音が続いて。
「…………お前の言いたいこと、なんとなく…わかったよ」
「そうかい?」
「親父が言おうとしたことも。それが、春ってやつなんだろ?」
「…そうだね。俺たちはそれが本物だって、信じてる。それをおチビちゃんたちにも押し付けるつもりはないけれど、わかってほしい、わかってくれたら嬉しいとは思うよ」
「それは……俺らも、お前にとっての春だから?」
「ああ。大事な大事な、ね?」
部屋の中を見詰めどこか拗ねたような口振りで問われたそれに、間髪入れずに頷く。
ついでににっこり笑ってやると、翔は一瞬面食らったような顔をしたあと、恥ずかしいやつ……。と照れ臭そうにむうっと唇を尖らせた。
「恥ずかしくなんかないさ。事実だからね。――さ、そろそろいいかい? もうじきナッチたちも戻ってくるだろうし、いい加減おなかもぺこぺこだよ」
「あ、あぁ。うん――もう、大丈夫だ」
ぐっと伸びをしながら立ち上がり、自分の掌をじっと見詰めて頷いた翔の頭をぽんぽんと撫でてやる。
その手を振り払いながら同じように立ち上がった翔は、扉へと足を向けた俺の後を追おうとしてふと立ち止まりなあ、と呼んだ。
「俺、ずっと考えてたんだ。施設から貰われてきたんだって、聞かされてから。俺がそこに、赤ん坊のときにもうそこにいた理由って、多分……これの所為、だろ」
そう言って翔は左胸の上で拳を握った。
「そうなら俺は俺を捨てた人を恨めない。仕方ないとは思わないけど、俺だって、もしその人と同じ立場になったときに俺なら絶対にそんな選択なんてしない。…って、断言はできねーもんきっと。……でもさ、あの人たちはそんな俺を選んでくれたんだよな。いつ死んじまうともわからねー赤ん坊をさ。レンだって同じだろ。それに那月たちも、たぶん。それって、それってすげーことじゃねえの。でっかくなった今だって手ぇかかるようなやつらを、しかも四人も。……ほんとの子どもみたいにだぜ。俺には真似できない」
「そうだね…」
頷きながら思った。
このまだ幼さの目立つ弟は、それでいて随分と大きく、強くなったなと。
この短い間にそれだけのことを考え、そしてゆっくりだが確実に受け止めようとしてるだなんて。
ふっと笑って、ドアノブにかけたままにしていた手に力を込めた。
「じゃあそれを伝えなくちゃいけないよ。――あの人たちが、待ってる」
開いた先からふうわりと食欲をそそる夕飯の匂い。
翔にもそれが届いたのか、くしゃりと笑って大きく頷いた。










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