八話 心のままに想うこと

「ひっく、っひっく……」

「いい加減泣き止まぬか、りん」

 紗夜が連れて行かれてから、りんはずっとこの調子で泣き通しだ。

 ――紗夜の奴……無茶をしおって……。

 邪見は顔をしかめながら空を見上げた。殺生丸の姿を探すために。
 
 すると丁度、銀色の髪を靡かせながら、殺生丸が空から降りてきた。

「「殺生丸さまっ!」」

 邪見とりんは、急いで彼の元に駆け寄った。殺生丸は泣きじゃくるりんを見てから、辺りを見回す。

「……何があった? 紗夜はどこにいる?」

「じ、実は……」

「紗夜ちゃんがっ……、りんと邪見さまの身代わりになって、野党に連れて行かれちゃったの……っ!」

「…………」

 りんの言葉に、殺生丸は表情を変えぬまま踵を返した。

 そのとき、邪見は見逃さなかった。殺生丸の瞳に一瞬、怒りの色が表れたのを。

「邪見、りんから目を離すな」

「はっ!」

 殺生丸は再びふわりと地を蹴って、空へと舞い上がる。その姿を見送ってから、邪見は言いつけ通りりんの側に向かった。





 ――まだ、微かに匂いがある……。

 殺生丸は紗夜の匂いを追いながら、夕日で赤く染まった空を飛んでいた。

 風に混じって届くその匂いはとても弱くて、紗夜が連れ去られてかなりの時間が経過していることが窺える。

 なぜ、自分は紗夜を追っているのか……。ふと、自分の行動に疑問が沸いたが、その理由を考えることはなかった。

 考えたとしても、答えが出るとは思えない。先日と同じように。

 その代わり、今にも消えそうな紗夜の匂いがその存在そのものに思えて、殺生丸は速度を上げた。





 いつの間にか日はすっかり沈んでしまい、星が淡い光を放っていた。

「――着いたぞ」

 野党の声に、紗夜は眼前の建物をぼんやりと見つめた。

 先ほど入ったこの大きな町に似つかわしい、立派で豪奢な楼閣がどんと構えている。鮮やかな朱色で色付けされた柱や壁には、見事な装飾も施されていた。絹の暖簾に『宿』と書かれていなければ、とても宿屋には見えないくらいだ。

「お頭、宿なんて久しぶりだな?」

「ああ、今日は女が手に入ったんだ。酒でも注いでもらって、楽しませてもらおうじゃないか」

 お頭の言葉に、下っ端の野党たちは歓喜の声を上げ始める。彼等は一番大きな部屋を宿屋の主人に用意させると、さっそく食事と酒にありついた。

 紗夜にも同じような食事が与えられたが、紗夜は首を横に振り、口にすることはなかった。空腹感は多少あったものの、この男たちと共に食事をする気はない。そう強く思う。

 お頭はというと、紗夜を隣に座らせて酒を注がせ、終始満足そうにしていた。時折紗夜に注がれる視線は何とも気味の悪いものだったので、あまり視界に入れないようにした。


 やがて――。

 下品な笑い声と、酒臭い部屋。不快感に耐え続けているうちに、野党たちはいびきをかいて寝始めていた。室内に灯っている蝋燭の影だけが、ゆらゆらと揺れている。

 お頭は宴の途中に抜けると、隣の小部屋で休み始めた。……今ここで起きているのは自分だけだ。

 ここから出るなら、今が好機。野党と共に旅をするつもりは微塵もない。
 紗夜が、そろりと立ち上がろうとしたとき。

 スッと、隣にある小部屋の襖の開く音がして、紗夜はそちらを振り返った。
 そこには、酒を飲んでいるというのに妙に真剣な面持のお頭が立っている。

「来い。今夜はこっちで寝ろ」

 有無を言わせない口調でお頭が言う。
 暗に、何を言われているのか何となく分かってしまった。
 途端に、ドクンドクンと心臓が早鐘のように打ち始める。堪らず手を胸元できつく握り締めた。

 何も言わない紗夜に痺れを切らしたお頭は、チッと舌打ちすると、紗夜の腕を強引に掴んだ。

 嫌でも立ち上がる羽目になった紗夜は、真っ暗な小部屋に乱暴に放り込まれる。

「……っ、」

 声も上げずに倒れこんだ先は、案の定柔らかな布団の上。
 お頭を見上げると、恐ろしいぐらい不気味な笑みを浮かべて紗夜を見下ろしていた。

 悪寒が止まらない。つっと、こめかみを冷たい汗が流れた。

 お頭は怪しい笑みを湛えたまま、襖に手をかける。ゆっくりゆっくり、襖が閉まっていく。大広間の灯りが細く、小さくなって消えていく。

 気がおかしくなりそうなほど、心臓が跳ねて跳ねて、光が線になった。

 ――恐い。

 やっと自分の心が言った。

 けれど刹那、光が消える。衣擦れの音と共に、ガバッと背中が柔らかな布団に押し付けられた。

 押し倒された、と理解して、自分の上に圧し掛かる重みを感じる。

 ――恐い、恐い、恐い、恐い。

 心で何度叫んでも、それが実際の音になることはなかった。押さえ付けられた腕の痛みも分からない。

 紗夜は叫ぶことも抵抗することも出来ず、涙さえも出ることがなかった。

 真っ暗なのに、目の前のこの男が卑劣な笑みを浮かべているのが見える。きっとその唇もさぞ歪んでいるのだろう。

「楽しませてくれよ?」

 笑いを含んだ冷たい声が聞こえ、男が紗夜の首筋に顔をうずめた。

 ――そのとき。


 バンッ!!

 襖を叩き開ける音が、紗夜の耳にたしかに届いた。

「な、なんだお前……!!」

 男が慌てた声を出し、首筋に埋めていた顔を後ろに向ける。男の上体が離れたことにより、紗夜の視界は一気に広がった。

 さっきまであった闇が、もうどこにもない。仄明るい光が襖の向こうからこちらを照らしている。

 それは決して眩しいものではなかった。
 けれど、紗夜には目を細めるほど眩しい光に思えたのだ。

 その光を背に佇む殺生丸の姿が、紗夜の瞳にはっきり映った。





 殺生丸は男に組み敷かれた紗夜を見た。
 彼女の瞳はこれまで見た中で一番虚ろで、もはや何の感情も宿っていない。その様子に多少ながら困惑を覚え、殺生丸は事の元凶に眉を寄せた。

 紗夜を組み敷いている男は、引きつった顔で殺生丸を見ながらも、紗夜から離れる気配がない。

「下衆が……どけ」

 低い声で威嚇すると、男は素早く立ち上がり、布団の傍らに置いてあった刀を取った。

「お前……妖怪か!?」

 男が刀を抜いて、刃を殺生丸に向ける。その後ろで、まだ身体を起こさず放心している紗夜が再び目に留まった。

 その瞬間、目の前のこの男に対する軽蔑と怒りが沸き上がり、殺生丸は右手をボキッと鳴らすと、男との間合いを一瞬で詰めた。

「何ッ!?」

「……そこをどけと、言っている!」

 ――ドガッ!!

 男が息を呑んだのも束の間、その顔面を殺生丸の拳が容赦なく打ちのめした。鼻の骨が折れる音が聞こえ、手の甲にその感触が纏わり付く。

「ぐはあぁっ!」

 男は一撃で意識を失い、床に突っ伏した。

 殺生丸は、ゆっくりと紗夜の側に向かう。片膝をついて、彼女の細く華奢な肩を抱き起した。





 まるで人形にでもなったような重い身体を起こすと、紗夜を支えていた手が離れた。
 
 紗夜は、自分を起こしてくれた人物をゆっくりと見上げる。隣の部屋からの灯りが、その人の表情を照らし出す。
 彼は無表情だったが、その瞳には少し心配そうな色が浮かんでいた。

 ――もう大丈夫だ……。

 そう思った瞬間、ようやくカタカタと身体が震え、紗夜は無意識のうちに手を握りしめていた。
 恐怖から解放された安堵と、先ほどまでの恐ろしい出来事が、何度も何度も頭の中を巡っていく。

 そんな紗夜を見て、殺生丸は小刻みに揺れる紗夜の肩にそっと手を置いた。

「っ……!」

 すると、紗夜は体をビクリと震わせて、ぎゅっと目を閉じる。

 ――恐い……どうしようもないくらい、恐い……。

 殺生丸は目を閉じたまま震える紗夜を見て、す、と目を細めた。

「!!」

 後頭部に緩い力が加わり、額に温かなぬくもりを感じる。驚いて思わず瞼を上げると、殺生丸の着物の襟が目に飛び込んできた。

 抱きしめるわけではない。
 紗夜は心地よい強さで後頭部を押さえられ、額を殺生丸の肩に寄せていた。

 他の誰でもない、殺生丸自身の手によって。

 驚きと、そして大きな安堵を感じて、紗夜の震えはピタリと止まった。紗夜はもう一度、彼を見上げる。

 殺生丸の瞳は、真っ直ぐに紗夜を受け止めてくれた。

「……恐かったのか」

 彼の静かな問いが、じわりと心に染みてくる。早鐘のように鳴っていた心臓はとくんとくんと、もう規則的に脈打っていた。

 そうして彼の静かな瞳を見ているうちに、どんなに心の中で叫んでも出なかった声が、ぽろりと、簡単に音になる。

「……恐かった……」

 小さく頷きながらそう言うと、殺生丸はそうか、とだけ呟いた。しかし、頭を抱く手に力が籠ったのを、紗夜はその身で感じていた。

 ――不思議……。この人に触れられても、全然嫌じゃない。寧ろ……。


 安心する。


 紗夜の張り詰めていた心が、少しだけ溶けていくような気がした。

 紗夜は握りしめていた手を解いて、殺生丸の肩へ身を委ねた。引き離されるかと思ったが、彼は何も言わず、そのままでいてくれたのだった。





 ――どれくらい、そうしていただろう。

 紗夜はゆっくりと彼から離れた。

「もう大丈夫か?」

「はい……」

 低い声に聞かれて、紗夜は答えた。恐れはなくなって、紗夜の心の中にあるのは底知れぬ安心感だけだ。

 それは間違いなく、殺生丸が与えてくれたものである。

「行くぞ」

 彼はそう言うと、右手で紗夜を抱えた。片手だけでうまく均衡を保っている。
 紗夜は浮遊感に思わず驚いてしまったが、彼の肩に掛かっている毛皮を握って体勢を整えた。

 殺生丸は紗夜を抱えて、隣の大部屋に向かった。野党たちは酒に酔い潰れ、先ほどの騒ぎにも気が付いていないようだ。さらに大きないびきをかきながら寝入っている。

 その脇を通り過ぎると、殺生丸は大きな木の窓を開けた。そして次の瞬間には、軽やかに窓枠を蹴って、星の輝く夜空をふわりと飛んでいた。

「!」

 紗夜は初めて見る上空からの景色に、目を大きく見開いた。下を見れば緩やかな川がきらきらと光り、森や村々が豆粒のようにとても小さく見える。

 上を見上げれば、空がすごく近い。手を伸ばせば、輝く星々でさえこの手に掴めるのではないかと錯覚してしまうほどだ。

「……きれい……、!」

 思わず出た、自分の声にびっくりした。
 声に出すつもりなんてなかったのに。

 自分で言って不思議そうにしている紗夜を見て、殺生丸が言った。

「……心のままに物を言うのは、悪いことではない」

 彼がそう言うのは意外で、少しきょとんとしてしまう。しかし、諭すような声色を含んだその言葉は、紗夜の胸に深く残った。

 ――心のままに……。

 心の中でその言葉を反芻して、思った。

 自分は今まで心に蓋をして生きてきた。何かを感じても、決してその感情が口から出てくることはなかった。

 紗夜の心を受け止めてくれる人が、いなかったからだ。

 でも――。

 紗夜はそっと顔を上げて、殺生丸を見つめてみる。彼はただ、真っ直ぐ前だけを向いていた。

 ――私は……この人の前だと、自分の心の蓋を開けてしまう。自分の思ったこと、感じたことを、何の躊躇いもなく言ってしまう。それは……この人が私の心を受け止めてくれるから? 私は、心の中を見せてもいい……?

 答えは出なかった。もちろん、誰も教えてはくれない。

 けれど、彼に――殺生丸に己の心を伝えることを、嫌だと思うことはなかった。それだけ分かれば充分だった。

「……殺生丸様……ありがとうございます……」

 決して大きな声では言えなかった。しかし、彼の耳にはちゃんと届いたようだ。
 その証拠に、彼は驚きに少し目を見張って紗夜を見ている。

 初めて呼んだ、殺生丸の名前。
 出会って初めて、紗夜は自分の意志で微笑んだ。彼が驚いたのはそのせいかもしれない。

 まだ心を開くなんてできない。それでも自分が少し変わったことを、紗夜は感じていた。

 空に浮かぶ半月を見る紗夜は、深い安心感に包まれていたのだった。





 その後、紗夜たちはりんと邪見の元に降り立った。

「紗夜ちゃん!!」

 地に足がつくなり、りんがこちらに駆け寄ってくる。彼女の目線に合わせて膝をつくと、りんは勢いよく紗夜に抱きついた。

「ごめんね、紗夜ちゃん……! りんたちの代わりに……っ!」

 突然抱きつかれて思わず目を見開いたが、紗夜は小さなその背にそっと腕を回す。

「りんちゃん……」

 こんなに心配させてしまっていたのか、と申し訳ない気持ちになる。
 しかし、りんは身体を離すと、腫れた目をこすっていつもの眩しい笑みを向けてくれた。

「……紗夜ちゃん、無事でよかった! りんたちを助けてくれて、ほんとにありがとう……!」

 紗夜は少し笑ってこくりと頷き、りんの頭を撫でた。

 その珍しい――一種異様な光景に、邪見は目を点にする他ない。

 ――紗夜が、わ、笑っておる……! 一体何があったのだ……?

 そんな邪見の訝しげな視線に気付いたのか、紗夜が邪見を見た。一瞬うっ、と詰まったが、口から出るのはもちろんいつものお小言だ。

「お、お前はまた! 殺生丸さまにご迷惑をおかけしおって!」

「ごめんなさい」

 そこで邪見はまた目を点にした。普段なら項垂れて謝る紗夜が、今日は微笑みを浮かべて謝ったのだ。

 ――ほ、本当に何があったの……!?

 心の中で叫びながら、邪見はちらと殺生丸を見てみる。彼は何も言わず、ただ紗夜をじっと見ているだけだ。

 彼の瞳は、長年仕えている邪見が初めて見るほど穏やかで、そしてほんの少しの憂いを宿しているようだった。

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