六話 生きる意味
翌日、一行はやっと旅路についた。紗夜の身体の調子も一日休んで回復し、その日は途中で休憩を挟みながらも歩き続けた。
紗夜はゆっくりと歩を進めながら、移り変わっていく周りの景色を眺める。
村の外に出たのは鬼に追われたあのときが初めてだったが、今はこんな風に色々な景色を見ながら歩いていた。
一行が進んでいる森は、木々が濃い緑を湛えている。楽しげな声で歌う小鳥が、時折紗夜たちの頭上を舞って飛んだ。
特に感じる所のないまま歩き続けていると――やがて、正中にあった太陽がいつの間にか西へと傾き始めた。
それから野宿の場所を定め、邪見とりんと食事を共にし、またあっという間に夜になる。辺りはすっかり暗くなり、焚き火が暗闇に赤く浮かび上がった。
邪見とりんは昼のうちに遊び回っていたので、紗夜よりも疲れているらしい。まだそんなに遅くない刻限に、二人はすやすやと寝入ってしまったのだった。
それから、数刻後――。
紗夜はもう何度目かの寝返りを打った。日中歩き疲れているはずなのに、まったく眠気がしない。だから何を考えるわけでもなく、しばらくぼんやり火を見ていた。
やがて、少し風に当たりたいと思い始め、のろのろと身体を起こす。
ちらりと殺生丸を見ると、彼は静かに目を閉じて木の根元に腰を下ろしていた。
三人を起こさないよう気を配りながら、紗夜はそっと森の奥へと向かう。
「…………」
殺生丸はふと目を開けて、暗がりへと入り込んで行く紗夜の背を見つめていた。
◇
森の奥に入って行くと、少しだけ開けた場所に出た。真っ暗な中を照らすのは、青白い月の光だけである。
紗夜は近くの木の下に座ると、空を見上げた。生い茂った木ばかりが視界を占領し、光を届けるはずの月はこれっぽっちも見えない。風が流れ、木の葉や草がさわさわと揺れる音だけが聞こえていた。
本来なら不気味に感じるであろうこの暗い景色も、紗夜にとっては落ち着く、という部類に入るものだった。
そのとき、背後から草を踏む音が聞こえて、紗夜は意識を現に戻した。ゆっくりと後ろを見て、紗夜の瞳が僅かな驚きで揺れる。
「…………」
そこにはいつまにか、いつもの無表情で立つ殺生丸の姿があった。殺生丸は何も言わずに紗夜の隣まで来ると、木に背を預ける。
「…………」
「…………」
二人とも何を言うでもなく、ただ沈黙が流れた。
紗夜は、何か用があるのかと思い殺生丸の言葉を待ってみたが、彼が口を開く気配はない。
そのうち、紗夜はふと、彼に対して抱いていた疑問を思い出した。
「……あの……一つ聞いても良いでしょうか?」
「何だ」
話しかけると、彼は短く返事をくれる。紗夜は、疑問の核心を問うてみた。
◇
「……どうして、私を殺さなかったのですか?」
紗夜からの問いに、殺生丸の気が一瞬だけ張りつめた。
なぜ、自分はあのとき紗夜を殺さなかったのか。それは自分でも考えてみたことだ。だが、その答えはまだ出ていない。
あのとき、殺生丸は紗夜を殺してもいいと思っていた。それが真の望みだと本人が言ったからだ。
しかし、なぜか殺生丸はそうしなかった。今一度考えてもその理由は分からない。
長い沈黙の末、殺生丸は呟いた。
「……理由などない」
紗夜はその言葉をぼんやりと聞き入れている。
「……そうですか……」
ややあって、紗夜はいつものように憂いと悲しみを宿した目をして呟いた。
そして暗闇の中、その瞳を見ているうちに、殺生丸は彼女に尋ねていた。
「……お前は、生きようとは思わないのか」
殺生丸の言葉に、紗夜は前を向いたまま目を見開く。しかし、すぐにそれを細めると、暗闇によく響く声でこう言った。
「……私は、死ぬために生きています」
「! ……」
独り言のような呟きで、けれどそこにはしっかりと彼女自身の強い意思があった。
殺生丸は何も言わなかった。否、言えなかったのだ。
紗夜はゆっくり立ち上がると、元来た方へ歩き出す。
「……おやすみなさい……」
振り向きざまにそう言った紗夜は、僅かに微笑んでいた気がした。
◇
闇に消えていく紗夜の背を見送って、殺生丸は空を見上げた。ここに来たとき、紗夜がそうしていたように。
繁茂している木々が空を黒く塗り潰している。木々は、殺生丸たちがいた所を隙間なく取り囲むようにして生えていた。その圧迫感に、殺生丸は目を細める。
「紗夜……お前は何に囚われている……」
誰も聞くことはないその呟きは、風に流れて消えていった。
◇
あの場を去ってから、紗夜はまた焚火の側に身体を横たえた。
『――生きようとは思わないのか』
先ほど聞いた、殺生丸の低い声が頭の中に響く。
生きたいと、心から生きたいと願って生きる――。そう思うことはないのか。
恐らく彼の言葉の意味はそういうことだろう。
紗夜は彼の言動を少し意外に思いながら何度か瞬きをして、すぐ間近にある黄土色の土に目を落とした。
もう何年も、そんな思いを抱いたことはない。きっと、これからも変わらない。
そう思って、紗夜はゆっくりと瞳を閉じた。眠気が少しずつ迫ってくる。
夢に落ちる寸前、紗夜は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
私は、死ぬために生きている。