五話 新しき陽光はここに

『逃げるんだ、紗夜!!』

 ゴォゴォと燃え盛る炎が、暗い夜を照らしていた。背後には猛烈な勢いで炭と灰に化してゆく、自分の楽園。
 家族と、兄と、みんなが幸せだった家が今は形を残していなかった。

 目の前には大きな鬼と、自分を庇うようにその前に立ちはだかった、小さな兄の背中がある。
 温厚な兄の初めて聞くような大声に驚いた。呆然としている自分に、兄は何度も叫び続ける。

『何してるんだ紗夜、早く逃げろ!』

 逃げ惑う村人の悲鳴、村を襲う妖怪たちの咆哮、紅蓮の炎が上がる音。そんな中で普通なら聞き取れないであろう兄の声が、どうしてかはっきりと聞き取れた。

 次の瞬間、気が狂わんばかりの母の悲鳴がして、鬼の瞳がギラリと光った。

『蓮、早く逃げてえぇぇっ!!!』

 兄を庇うために走る母の影が、黒く、目に焼き付いた。





「おい……は……きろ!」

 ――何……? なんだか……とてもうるさい……。

 夢現の中で、紗夜は大きな声に眉を寄せた。耳元で喚く声はどうやら紗夜を呼んでいるようだ。

 頭の隅ではそう理解したが、身体が動くことはない。早く意識を戻して、起きないと……そう思った途端、さっきよりも大きな声が空気を震わせた。

「おい、早く起きんかあぁぁっ!」

「!」

 はっきりと聞こえた大きすぎる声に、ぱっと目を開ける。

 まず目に飛び込んできたのは、緑色の小妖怪。続いて、紗夜の顔を愛らしい笑顔の少女が覗き込んだ。

「やっと目を覚ましおったか。お前のせいで、わしの声が枯れるところじゃったぞ!」

「もう、邪見さまうるさいよ? お姉ちゃん、おはよう!」

「…………」

 さっき見たものは……また、夢だったようだ。
 最近昔の夢をよく見る。あまり良くない夢。

 紗夜はゆっくりと身体を起こして、まじまじと二人を見つめた。
 そして、ようやく意識が覚醒してきた頃に、昨日の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「あ……私……」

「昨日、倒れて寝ちゃったんだよ。殺生丸さまが疲れてるんだろう、って」

 ――殺生丸、様……か。

 少女の言葉に、昨日の出来事を思い出す。
 彼は唯一、紗夜の結界を破ることができる人物だ。……今のところは。

「お前がふらふら倒れるから、殺生丸さまの旅が一向に進まぬではないか!」

 緑色の小妖怪の言葉は痛いところを衝いていて、紗夜の良心を僅かながら抉る。

「……ごめんなさい……」

 項垂れて素直に謝ると、彼は意外にもうっ、と言葉に詰まった。

「ねえねえ、まだちゃんと自己紹介してなかったよね!」

 少女が笑顔で言う。
 粗方の名前を聞いて、誰が何という名前なのかは見当が付いていたが、少女の優しい気遣いを無碍にするのは気が引ける。紗夜はこくりと頷いて少女を見た。

「あたしは、りんっていうの! こっちは邪見さま! いーっつも、殺生丸さまに怒られてばっかりなんだよ!」

「な、なんじゃとっ!」

 りんの物言いに、邪見が地団太を踏む。そんな二人のやり取りをぼんやりと見つめて、紗夜は少し可愛らしいなと思った。





 それから少しして、紗夜は殺生丸の姿がないことに気が付いたようだった。きょろきょろと辺りを見回し始める彼女に、邪見は言う。

「殺生丸さまは出かけておるぞ」

「時々どこかに行っちゃうんだ。でも、ちゃんと帰ってきてくれるから大丈夫だよ!」

「……そうなの……」

 ぽつりと答える紗夜に、邪見は目を細める。

 ――この紗夜とかいうおなご、元より静かだとは思っていたが、昨日とはあまりにも様子が違うではないか。昨日殺生丸さまにものを頼む言い様は、厚かましいほど勢いがあったというのに……。なんじゃ、この萎れた姿は。

 邪見がそう思っていても、りんは全く気にしていないのかいつも通りの調子で紗夜に話しかけている。紗夜は相変わらずぼんやりとしたままで、相槌を打ったり、やはり小さな声で返事していた。

 現在の姿と、昨日の紗夜の姿を重ねてみて、邪見は気が付く。明確ではないが、何となく。

 紗夜は自分の死に関すること以外、際立った感情を見せていない。初めてこの女と会話をしたときも、目立った感情の起伏はなかったように思う。

 どうして彼女が感情を表さないのかは分からない。生来こうなのか、それとも心を閉ざすようなきっかけでもあったのか。

 考えを巡らせていた邪見に、紗夜がふと尋ねてきた。

「……殺生丸様は、なぜ旅をしているのですか?」

「殺生丸さまは、奈落という妖怪を追って旅をしておられるのだ。奈落を倒すためにな」

「奈落……?」

「奈落は、妖怪と言っても半妖。しかもかなりタチが悪い」

 首を傾げた紗夜に邪見が説明してやると、そう……と静かに頷いた。

 そのとき、ふわりと風が流れ、邪見ははっと振り返る。

「! 殺生丸さま! お帰りなさいませ!」

 殺生丸は地に降り立つと、自らの足元に駆け付けた邪見を見下ろした。

「邪見、紗夜の様子はどうだ」

「は、はい! 何と言いますか……静かで、生気が感じられませぬ。まるで感情のない人形のような……」

 そこまで言った邪見を、殺生丸は睨み付けた。

「……私は身体の具合を聞いている」

「へっ!? は、はい! 申し訳ありません、只今聞いて参ります!」

 邪見は慌てた様子で紗夜の元に戻って行く。

 殺生丸は、視線の先に紗夜を見ていた。心中で、先ほどの邪見の言葉を思い返しながら。


「――おい紗夜、身体の具合はどうだ!?」

 不躾に聞いてきた邪見を、紗夜はきょとんと見た。答えを少し考える。

 死ぬことはないが、紗夜も疲労や痛みは常人と同じように感じる。だから、本音を言えばもう少し休んでいたい。
 しかし、これ以上足を引っ張って旅の進行が遅くなるのは心苦しい。

「もう大丈夫です」

 そう伝えると、邪見は少し離れた岩の上に腰を下ろしている殺生丸の元へと駆けて行った。


「殺生丸さま、紗夜めはもう大丈夫だと言っております! 今日こそは出発いたしましょう!」

「…………」

 邪見の言葉を聞いて、不意に殺生丸が立ち上がった。そして彼は、紗夜たちのいる方へ歩いて行く。

「殺生丸さま!?」

 邪見は慌てて彼の背を追って走った。





 紗夜の目の前まで来た殺生丸は、その顔を見た。

 確かに、昨日よりは顔色も良さそうで、疲労も少しばかりは取れているようだ。だが――。

「まだ疲れているのだろう?」

「え……?」

 紗夜が驚いたように殺生丸を見上げる。それは、肯定として受け取って良いものだった。

「余計な気遣いはするな。また倒れられてはそれこそ迷惑だ。今日は休め」

「……」

 それだけ言って身を翻した殺生丸の背を、紗夜は疑念を抱きつつ見つめた。


「……殺生丸さま、よろしいのですか? もう二日もここにおりますが……」

 殺生丸を追いかけた邪見は、横目でちらりと紗夜を見ながら彼に言った。しかし殺生丸は邪見を無視し、岩の上に座るだけ。

 邪見は彼の態度にいつもの如く小さく溜息をつき、とぼとぼと紗夜たちの方に歩いて行った。

 ――全く、この女……。あの殺生丸さまに気など遣わせおって。殺生丸さまも、こんな女など放っておけば良いのに……。

 心の中でそう思いながら、邪見はりんと一緒に火を起こして、朝食の準備を始めるのだった。





 「お姉ちゃんは休んでいて!」と、りんが言ったので、紗夜は二人の様子を見守っていた。
 
 その瞳は不思議なものを見るように揺れ、絶えず好奇心が見え隠れしている。
 実際にも、紗夜はこんな風に外で食事をした経験が一切ない。物珍しいばかりなのだ。

 しばらくしてりんが採っておいたという茸が焼き上がり、三人でありがたくそれを食したのだった。


 そのあとはゆっくりと過ごし、紗夜はりんの話を聞くときに、時折微笑みながら相槌を打つようになった。

 最も、紗夜自身はそんな些細なことには気が付いていないのだが、邪見はしっかりと、そのほんの少しの変化を見つけたのだった。


 ――そうしているうちに、夜が訪れた。
 りんも邪見も話し疲れたのか、早くから眠ってしまっている。

 紗夜は身体を横たえながらも何となく寝つけずにいて、燃え揺れる火をぼうっと見つめながら昼間のことを思い返していた。

 邪見には、何度も口うるさいことを言われてしまった。でも、それは大して不快ではない思っている。彼が悪い者ではないと、確信とまではいかずとも感じているからだ。

 りんは、反応の薄い紗夜を全く気にすることなく、好きな花の話やこれまでの旅の話を紗夜に聞かせてくれた。
 出会って間もなくとも、りんの心根の優しさは少し時間を共にすれば充分わかる。

 そして――。
 紗夜の脳裏に殺生丸の姿が浮かんだ。

 初めて殺生丸を見たとき、ただただ“きれい”だと思った。
 “きれい”なんて、もう久しく思ったことはなくて、そのときは少し驚いた。

 彼の美しさにも、美しいと思った自分の心にも。

 今殺生丸のことは、心底不思議な人だと感じている。
 どうして紗夜の体調不良を見破ることが出来たのか。更には、まるで紗夜を気遣うようなことをしてくれたのか。

 そして極めつけは、なぜ、紗夜を殺さなかったのか、ということだった。

 紗夜を殺しても、生かしておいても、彼には何の得もない。そのうえ、紗夜は殺生丸を利用しているといっても過言ではないはずだ。

 そこまで考えると、少しの罪悪感が紗夜の胸をチクリと刺した。紗夜は静かに目を閉じる。

 ゆっくりと、意識は闇に沈んでいった。

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