四話 揺らいだ結界
「せ、殺生丸さま、よろしいのですか!?」
闘鬼神の柄を握った殺生丸に、邪見が目を剥いて言う。しかし、殺生丸はそれには答えぬまま、女の方を向いて問うた。
「最後に一つ聞く。貴様はなぜ死を望む?」
すると、女は初めて僅かな喜びの色を顔に浮かべた。少しの憂いを帯びた声音で、女は答える。
「もう疲れたんです、生きることが。……それでは駄目でしょうか?」
「……ふん、下らんな」
本心を語っているのか否か、女はよく分からない口ぶりで答えたが殺生丸は心底そう思う。
自ら命を絶ちたいと言う女の言葉が、殺生丸にはひどく愚かなものに思えた。
殺生丸が無駄のない動きで闘鬼神を抜くと、刃がきらりと日の光を浴びて、鈍く輝やいた。その先端を静かに女へと向ける。
「……あなたに逢えて、よかった……」
女は柔らかな微笑を浮かべ、殺生丸を見上げた。
その言葉の真意は分からない。
単に、自分を殺せる相手が現れたという喜びなのか、それとも……。
初めてこの女が自分に向けた笑顔。
それは穏やかで喜びの色さえあるのに、寂しさと、言い知れぬ孤独があった。
女が、静かに目を閉じる。
殺生丸は何の躊躇いもなく刀を振り下ろした。
――バチバチバチッ!!
激しい音と閃光が走り、闘鬼神と結界が対峙した。刀を持つ手に力を込め、刃を結界に押し進めていく。
――この結界の強さ……。人間のものとは思えぬ。
少しでも力を抜けば、弾かれそうな刃の重み。並みの霊力を持つ巫女のそれより、恐らく強い結界だろう。殺生丸は思いながら、尚も柄に力を入れる。
その瞬間、閃光が瞬いて結界がぐわんと揺れた。
「!!」
女は驚いたように目を見開き、己の結界の歪みを見つめている。
「行けーっ! 殺生丸さま、もう少しですぞーっ!!」
「邪見さま最低っ!! 殺生丸さまは、あのお姉ちゃんを殺したりしないんだから!!」
邪見とりんの声が微かに聞こえたが、結界の阻む音に掻き消されていく。
殺生丸はさらに力を入れた。
このまま押し続ければ、結界は必ず破れる。そうすれば、この女は切望した死を迎えるだろう。
閃光が、ついに明滅を繰り返し始めたとき。
殺生丸の脳裏を、先ほどの女の笑みが掠めた。
『……あなたに逢えて、よかった……』
バチバチバチバチッ!!
空気を震わせ、弾けるような爆音が響き、真っ白な光が周囲を包み込む。
結界が破れようとした、そのとき。
――キイイィィィン!!
鋭い金属音に続き、一同の視界を支配したのは、宙を舞う闘鬼神の姿だった。
「……刀が、弾き返された……?」
邪見とりんは、目をぱちくりさせながら事態を見守る。女は呆然と殺生丸を見つめた。
殺生丸は故意に力を抜いた。白い光が走った刹那、咄嗟のことであった。
自分でも、なぜあのようなことをしたのか分からない。ただ、手を下す気にならなかったのだ。
女は疑念と失望を抱いた目で、殺生丸を見上げている。殺生丸がわざと力を抜いたことに気が付いているようだ。
「……お前の死期はまだのようだな。他を当たるがいい」
殺生丸はそう言って踵を返した。背後の地面に刺さった闘鬼神を引き抜き、腰に収める。
女は絶望に浸っているのか、手を抜いた理由を聞くこともなかった。
――もう会うこともない。……不可思議な女だった。
そう思いながら、殺生丸は女に背を向け歩き出す。
「あっ、お待ちください、殺生丸さま!」
邪見は無理矢理りんの腕を掴むと、殺生丸の後を追った。りんは何度も振り返りながら、女の様子を確かめる。その表情は何とも不安げで悲しそうだ。
女の方は、俯いて佇んでいた。その表情は影になってよく見えない。
ゆっくりと歩を進める殺生丸に従いながら、邪見もりんの手を強く掴んだまま、のろのろと歩いた。
もう何度目になるか、りんが後ろを振り返ったとき、彼女の動きがぴたりと止まった。地に擦り付けるように歩いていたりんの足は、今や全く動かない。
そのとき、りんの瞳がぱあっと瞬時に明るい光を取り戻した。それに気が付いた邪見は、釣られるように後ろを振り向く。
「!!」
女が、よろよろとこちらに歩いて来ていた。たどたどしい足の運びは今にも転んでしまいそうなほど不確かだ。
それでも女は、苦痛の色を表情に濃く浮かべ、必死にこちらへ追いつこうと歩いて来る。
「お姉ちゃん、すごく辛そう……」
女がついて来ていることに喜んだりんだったが、その苦しそうな顔を見て悲しそうに呟いた。
さすがの邪見も、ほんの少しだけ女が気の毒に思えて、前方の殺生丸の背に恐る恐る声を掛ける。
「あのぉ……殺生丸さま。あの女がついて来ておりますが……」
「放っておけ」
やっとの思いで心を決めて言った言葉だったが、それはあっさりと、たったの一言で終わらされてしまう。
仕方ないか、と邪見が肩を落としたとき、
「……あの女を殺すつもりはない」
殺生丸がぽつりと呟いた。
聞き間違いかと思うような彼の言葉に、邪見は驚きを隠せなかった。
殺すつもりはない――。
それは、殺してやる義理はない、という意味なのか。それとも、殺したくないという彼の心中の表れなのか、邪見には知る由もない。
最後にもう一度、と振り返った邪見は、
「……おおっ!?」
思わず声を上げて、目を丸くした。
なんと、女が最後の力を振り絞るようにこちらに向かって走ってくる。遠かった彼女との距離は少しずつ縮まって、やがて邪見とりんの横をすり抜けた。
そして女は殺生丸の前で立ち止まり、息を切らしながらゆっくりと彼を見上げる。
否でも応でも立ち止まることになった殺生丸は、怒るわけでも厄介がるわけでもなく、ただ静かに女の目を見据えていた。
「……あなたと共に、行かせてもらえませんか……?」
女ははっきりとした声音で言う。その言葉に、殺生丸の瞳が一瞬揺れた。
「な、なんじゃと!?」
思わず声を上げる邪見には目もくれず、女は言葉を続ける。
「お願いいたします。私の結界を揺るがすことが出来たのは、あなた様が初めてです。例えあなたの手にかからずとも、あなたと共に行けばいつか私の望みも叶うかもしれない。だから……どうか、お願いします」
女の声は静かだったが、その声色と瞳には強い意志を感じられた。
「お前、また殺生丸さまを利用するつもりか!! 全く、なんというおなごじゃ!! 殺生丸さまがお前のような者を連れて行くわけ――」
女が悲しげに俯いたのと、捲し立てる邪見を遮るように殺生丸が口を開いたのは、ほぼ同時であった。
「名は、何という」
「……へっ!? せ、殺生丸さま……?」
きょとんとする邪見同様、驚いた顔で女が顔を上げる。掠れた声が女の小さな唇から漏れ出た。
「……え……?」
「まだ、お前の名を聞いていない」
訝しげな顔の女に再度告げると、彼女は唖然としつつ答える。
「……紗夜と……申します……」
「紗夜、か。……好きにしろ」
殺生丸の言葉を聞いて、その意味を理解したのだろう。女――紗夜は、ふわりと微かな儚い笑みを口に浮かべた。
「……ありがとう……ございます……」
今にも消えてしまいそうな、けれど嬉しさの滲んだ呟きを残して、紗夜の身体がぐらりと揺れた。そのまま、眼前にいた殺生丸の胸に倒れ込む。
今にも崩れ落ちそうな紗夜の身体を殺生丸は右手で抱きとめ、肩に担ぎ上げて踵を返した。
「今日は休む」
「……は、はい! 殺生丸さま!」
「やったね、邪見さま! お姉ちゃんも一緒に旅できるんだよ!」
「まーたわしの面倒が増えるだけじゃ!」
邪見とりんのやり取りを後ろに聞きながら、殺生丸は紗夜の身体をさっきと同じ場所に寝かせてやった。
疲労が溜まっているのだろう。一週間も鬼から逃げ続け、食事どころ睡眠もまともにとっていないようだ。
それでも、死なない身体。
殺生丸は、安らかな寝息を立てる紗夜をもう一度見てからその場を離れた。邪見が起こした焚火が、その側で温かく揺れ始めた。