三話 死ねない体

「殺生丸さま、お帰りなさい!」

 殺生丸が地に降り立ったとき、りんがこちらに走って来た。いつもより嬉しそうな表情をしているので、自分が不在のあいだ何かあったらしいと悟る。

 何も言わぬままりんに目を向けると、

「あのね、昨日の女の人の目が覚めたの!」

 勢い込んで言うりんはかなり興奮気味である。

 女の方に歩を進めると、昨晩閉じていた瞼が今ははっきりと開けられているのが見えた。
 けれど女の目はどこかぼんやりしていて、光を灯していながらも己の意思さえないように感じられる。

 すると、女がゆっくりと殺生丸を見た。
 こちらの姿を捉えると、女は一瞬驚いたように目を見開いてから瞳を揺らして逸らす。
 その瞳から感情は読み取れず、殺生丸に対する恐怖心や危機感は全くと言っていいほど感じられない。――殺生丸が人でないことなど、一目瞭然であろうに。

「殺生丸さま。この女……何やら怪しい感じがいたします。昨晩も鬼に追われて逃げていたと。やはり、妖怪が化けているのでは……」

「…………」

 そこまで聞いた殺生丸は、言葉を続ける邪見の前を通り過ぎ、鋭い瞳で女を見下ろした。明瞭でない女の目が殺生丸を見上げる。

 漆黒のそれを見ながら、殺生丸は静かに口を開いた。

「女……鬼に追われていたというのは本当か?」

「はい……」

 殺生丸の問いに、女は小さな声で答える。

「私が鬼の臭いを辿り、鬼を見つけたとき……鬼はもう事切れかけていた。体中……特に指には焼けたように爛れた傷が無数にあった。あれは、貴様がやったのか?」

 この質問に、女は黙したまま静かに目を伏せた。痺れを切らした邪見が喧しくせり立てる。

「おい、早く申せ! お前は殺生丸さまにまだ御礼も言っとらんだろう!」

 その言葉に女が顔を上げた。
 何か言いたげな表情をしているが、やはり口を開くつもりはないらしい。

「……もう良い。私には関わりのないことだ。……行くぞ」

 これ以上は時間の無駄だと判断し、殺生丸はくるりと踵を返した。

「は、はい、殺生丸さま! ……おい、りん! 行くぞ!」

 邪見に呼ばれて、女の隣にいたりんは立ち上がった。だが、躊躇った様子でどうするべきか考えている。
 こんな所に彼女を一人で置いていくことが、りんには出来ないでいた。


 殺生丸は、ゆっくりと歩を進めながら考えた。

 あの女から妖気は一切感じられない。あの女は人間だ。
 だが、鬼から逃げることが出来たということ。そして、仮にあの女が鬼の死に関わっているとして、鬼の不可解な死に方を考えると、あの女がただの人間であるとは考えにくかった。

 殺生丸はそこまで考え、思考することをやめる。自分は関わらない、ともう決めた。

 女が殺生丸を呼び止める、このときまでは――。


「――お待ちください」

 あのぼんやりした瞳からは想像出来ないような強い声音に、殺生丸は思わず足を止めた。

 たどたどしい足音が背後から聞こえ、ちらとそちらを見ると、女はあの重々しい着物を着こんだままこちらに歩んでくる。
 女は殺生丸と一定の距離を取ると、頭を下げた。

「……助けていただき、ありがとうございました」

 その様子に邪見はふん、と鼻を鳴らす。

「何じゃ、何か言う気にでもなったのか?」

 挑発的なその声に、女は静かにこくりと頷き、ゆっくりと口を開いた。

「私は、ここから東にある村の公家の娘でした。ですが……一週間前然る事情で村が鬼に襲われ、ここまで逃げて来たのです」

「なっ……お前、一週間も逃げ回って来たのか!? しかもその格好で!? しぶといおなごじゃなぁ……」

 女の言葉に邪見が驚きの声を上げる。殺生丸も、ピクリと眉を寄せた。

「人間の女ごときが、無傷で一週間も鬼から逃げ回るなど不可能だ。貴様……一体何をした?」

 訝しむ殺生丸の視線を受け止め、女は深刻な顔つきになる。

「それは……私の願いを叶えてくだされば、自ずと分かるかと思います……」

「何じゃと!? お前、なんと無礼なことを申すのだ! 殺生丸さまが人間の願いなど聞き届けるわけが――」

「ほう……面白い」

「せ、殺生丸さまっ!?」

 殺生丸の意外な返答に、捲し立てていた邪見は唖然とする。
 殺生丸はそんな邪見を余所に言葉を続けた。

「それはどのような願いだ?」

 殺生丸は初め、この女と関わるつもりは微塵もなかった。
 しかし、異様な点が多いことは気がかりであるし、ただ単に興味がある。この探究さえ終わればそれまでだ。

 女は、そんなことを考えていた殺生丸を真っ直ぐに見てくる。ザワ、と冷たい風が辺りに吹き付けた。
 女はゆっくりと口を開き、強い声で言い放つ。


「私を、殺してください」


「……ええっ!?」

「な、なんじゃとっ!?」

 りんと邪見が瞬間的に声を上げる。

「…………」

 殺生丸は女の瞳の中に、初めて見るような揺るぎない意志が宿るのを見つけた。

 何の躊躇いも、死への恐怖さえもない女の声からは、血の迷いでも何でもない真剣な心持ちが窺える。

 本当に不可思議な女だ。
 
 人間は普通、いつでも自分の命が惜しい。貪欲で生への執着心はどんな生き物よりも強く、死に直面すれば怯えて何とか逃れようとする。『殺さないでくれ』と、恥じることもなく乞い願うものだ。

 そんな弱い人間を、殺生丸は数多と見てきた。それなのに、この女は人の身でありながら『殺してくれ』と言う。

 可笑しな女だ、と殺生丸が考えている間も、女は殺生丸から目を逸らさなかった。

 強い死への切望が、そこにはあった。

「お前を殺して、私に何の得がある?」

 先に沈黙を破ったのは殺生丸だった。女は考える間もなく即座に答える。

「私の身を喰ろうてください。妖怪は、人間の身を好むのですよね?」

 女の言葉に、間髪いれず邪見が言った。

「あのなぁ、殺生丸さまは人間を好んで喰うその辺の妖怪とは違うのじゃぞ!?」

 邪見の言う通り、殺生丸が人間などを口にすることはない。卑しい人間など、喰らいたいと思うはずがなかった。

「私は人間などを喰らうつもりはない」

 はっきりとそう告げると、女は僅かに困った表情を見せた。

 それは、殺生丸にとってこの女を斬り殺すことが何の利益もないことだと、女自身が肯定していることを示している。

「……私には何の得もない。他の妖怪にでもその身を差し出すことだな」

 殺生丸は再び前方を向き直った。
 だがそのときまた、新しい疑念が沸き上がる。

 ――なぜ、この女は鬼から逃げた……?

 それほど死にたいならば、逃げずに殺されれば良かったのだ。それに……本心で死を望むのなら、自ら命を絶つことも出来たはず。

 なぜこの女はそれをしない?

 殺生丸がそう考えたのと同時に、女の意を決した声が辺りに響いた。


「私は…………私は、死ねないのです!」


 はっきりとした声音はどこか悲しみを湛え、苦悩の色を濃くしている。
 殺生丸は黙したまま、女の方に少しだけ身を翻した。邪見は驚いて目を点にしていたが、やがてはっと我に返って叫ぶ。

「お、お前は人間じゃろうが! 人間が死ねぬなど、そんな阿呆な話があるか!」

「…………」

 女は黙ったまま地面に視線を落とし、不意に何かを拾い上げた。その手には、先端の鋭く尖った木の枝が握られている。

 女は何も言わないままその枝を持った手をスッと上に伸ばすと、突然、勢いよくもう片方の自分の手首目がけて振り下ろした。

「おおおお、おいっ!!」
「お姉ちゃん!!」

 邪見とりんが反射的に身を固くして声を上げる。殺生丸は、女の様子を無感情にじっと見ていた。

 鋭利な梢は真っ直ぐ女の白い手首に振り下ろされ、グサリと深く突き刺さった――と、思われたが。

 ――バチバチバチッ!!

 弾かれたような音が聞こえた瞬間、殺生丸は僅かに目を見開いた。

 女の振りかざした枝は、女のもう片方の手首に刺さる寸前で動きを止めると、跳ね返って宙を舞っていた。
 邪見もりんも、呆然とこの光景を前に立ち尽くしている。

「……結界か」

 一人納得したように呟いた殺生丸を、邪見が勢いよく振り返った。

「せ、殺生丸さま! 結界……ということは、あの女は巫女……ということですか!? とても霊力があるようには見えませぬが……」

 邪見がじろじろと訝しげに女を見る。

「巫女などではない。……その結界、己の意思に因るものではないのか」

 殺生丸が言うと、女は目を伏せて静かに口を開いた。

「……この結界は、私が生まれながらに持っていたものです。身に危険が迫れば、私の意思に関係なくこの身を守ってしまう……。それだけではなく、舌を噛んで果てることも、飢え死ぬこともできなかった……」

 顧みるような女の声を聞きながら、殺生丸はふとその足元を見た。先ほどの梢が目に留まる。

「……!」

 殺生丸は眉間に皺を寄せた。

 その梢は、酷く焼け爛れていたのだ。つい先日見たあの鬼に刻まれたものと全く同じ痕。焼け爛れた傷跡が記憶と重なる。

 ――これで合点がいった。
 鬼は、この女を喰らおうとするうちに、この結界に阻まれて力尽きたのだ。
 だが……と、殺生丸はさらに疑問を募らせる。

 鬼は何故、死ぬほどにまでこの女を喰らおうとしたのか。それが分からない。余程腹でも空いていたのか。
 考えて、殺生丸は女に目を移した。女の顔からは、相変わらず何の感情も読み取れない。

「……なぜ、私の手にかかろうと思った? 死ねぬ身体と知りながら」

 知らぬ間にそう尋ねていた。なぜそのようなことを尋ねたのかは自分でもわからない。ただ、女はふと顔をあげて答えた。

「あなたの妖力は、他の妖怪とは比べものにならないくらい強い……。だから、あなたなら……その力で私の命を絶つことが出来るかと……」

「お前! まさか、殺生丸さまを利用しようと思ったのか!? 何という愚か者じゃ!」

「……申し訳、ありません……」

 邪見の言葉に女は否定することなく、悲しげに目線を落とす。

「謝って済むと思ったら――」

「邪見」

 さらに捲し立てようとした邪見を、殺生丸は静かに制した。
 そして、数歩女の方に歩み、何の感情も籠らぬ瞳で見下ろす。女もまた、虚ろな瞳で殺生丸を見上げた。

「……貴様の願い……叶えてやろう」

「!!」

「「ええっ……!?」」

 邪見とりんが声を上げる。

 殺生丸は女の瞳に純粋な光が宿るのを見つめながら、す、と闘鬼神に手を掛けた。

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