二十一話 陽だまりのあなたは、心の中に
「…………し、びと……?」
殺生丸の言葉に、紗夜が力ない声を漏らした。彼女の瞳がゆっくりと要に向けられる。丸く見開いた、呆然としたその目に要は苦笑した。
「殺生丸様の、言う通り、です……。黙っていて……ごめんなさい、紗夜様……。私はもう……本当は、死んでいたんです……」
要は押し潰されるような胸の痛みと苦しさを感じながら、何とか答えた。
紗夜はまだ理解が追い付いていないのか、瞳を揺らしながら要の声を聞いている。再び咳き込んだあと、要はこれまでの出来事を思い出しながらぽつぽつと話し始めた。
「先月の、ことです……。私は戦で傷を負って、一度死んだ。でも、紗夜のことが頭から離れなくて……。約束した、のに……とか、離れたくないとか……死ぬときは一緒が良かったとか……。自分でも呆れてしまうくらいの執念深さだけど、どうしても心残りだった。そうやって死に切れないでいたとき……あの人が現れたんだ……」
――“愛しい女を殺して、自分も死ぬ。出来なければ、失うのは自らの命一つ。”
「それが……私が、仮初の身体と魂を得る条件だった。そして私は、その契約を……遂げられなかった」
要がそう言うと、紗夜はハッと息を呑んで声を上げた。
「ッどうして……どうしてそんな大切なこと、言ってくれなかったの……!?」
目に涙を滲ませながら声を荒げる紗夜に、要は目を細める。
「……だって、言えば紗夜様は、私と一緒に来るかどうか迷ったでしょう……? 私は……そんなことをしなくても、貴女に一緒に来て欲しかった。だから、このことだけは絶対に言わないって、最初から決めてたんです。今は、それで良かったと、本当に思います……。貴女が迷わずに殺生丸様の、傍に居られて……本当に、良かった……」
「っ……!!」
声が掠れて、けれどそっと微笑むと、紗夜は顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。
本当に、子供の頃から泣き虫だ。いつも彼女の泣き顔を見ると困ってしまって、苦しくて。沢山心を振り回された。
今だってそうだ。覚悟していたはずなのに、これで終わりだと分かっていたはずなのに。
――そんなふうに泣かれたら、やっぱり離れるのが辛いって、もっと傍にいたかったって、思ってしまうじゃないか……。
「っ……」
要は、熱い涙が頬を伝うのを感じながら腕を伸ばし、血の付いていない手の甲で紗夜の涙を拭ってやった。
「……泣かないでください、紗夜様……」
泣かないで、なんて。自分も泣いているくせに言えたことではない。それでも。
彼女の涙を拭うのは、これが最後だ。こうして触れられることも顔を見ることも、話すことも、もう出来ない。だからせめて最後まで、紗夜と一緒に重ねてきた記憶を、自分の中に刻みたい。
紗夜と共に生きた時間を自分の人生に、命に、深く深く最期のその一瞬まで。
――けれど、その前に……要には伝えるべきことがある。例えそれで“最期の瞬間”が早まってしまったとしても。
「紗夜様……貴女は……貴女は、命を狙われている、――ッ」
そう言った途端、要の心臓が早鐘を打つようにバクバクと脈打ち出した。偽りの血液がありえない速さで全身を巡っていく。苦しさに眉を寄せたが、要は紗夜に悟られないよう平静を保った。涙の溢れた紗夜の瞳が、こちらをまっすぐ見つめている。
「どういう、こと……? 一体、誰が……」
「それは、あの短刀を……私に、与えた者です……。あの人は、貴女を憎んでいる……貴女を、殺そうとしている……。あの人は、貴女の――ッ、ゲホッゴホッ!!!」
「要ッ!!!」
肝心な所を言おうとすると、要の喉から血がせり上がってきた。何度も吐血を繰り返すたびに、心臓も肺も臓器も血管も、体中の何もかもが捻り潰される心地がする。
原因は分かっていた。
“あの人”が、口封じをしようとしているのだ。
紗夜に自らの存在を悟られないように、そのときがきたら確実に仕留められるように。“あの人”は本気で紗夜を殺そうとしている。
要が胸を鷲掴みながらぜえぜえと荒い息をしていると、紗夜がハッとして青褪めた。
「要……もしかしてあなた……、私にそのことを教えると……」
「正直、もう時間が、ありません……ゲホッゲホッ……!!」
そう言った瞬間、紗夜が「駄目!!」と叫んで要の首に抱きついた。
「そんなの、絶対に駄目!! あなたを死なせてまで、私は知りたくない!! 何も知らないままでいいから…っ、だから要、死なないで……死なないでよ……っ!!」
紗夜の痛切な叫びが、要の胸に深く刺さった。
要は微笑んで、もうほとんど力の入らない手を彼女の背に回す。
「紗夜様……私のために、泣いてくれてありがとう……。私と出会ってくれて、愛してくれて、ありがとう。私は貴女と出会えて、貴女と同じ時間を一時でも生きることが出来て、幸せでした」
要は紗夜の瞳をまっすぐ見つめた。透明よりも澄んだ涙が、その頬をつっと流れ落ちていく。自分のために流されるその雫に胸が震える。要は回した手のひらに小さく力を込めた。
「紗夜様、今度は貴女の番です。大切な人と出会えた喜びを、想い合う喜びを、一生のうちに精一杯感じてください。きっと……辛いことや悲しいことは、これからもあると思います……。だけど、貴女の側には、貴女を愛して支えてくれる人がちゃんといる……。だからもう迷わないで。きっと幸せになってください。生きて……生きて、幸せになってください……」
「か、なめ……っ」
目を真っ赤にして泣き腫らした紗夜に笑いかけ、要は側に立っている殺生丸を見上げた。
「殺生丸様……紗夜様を、お願いします。これからも彼女の側で……守ってあげてください。お願い、します……っ……」
殺生丸は無言のままに頷いた。安堵して、要は弱々しく彼に笑いかけ、最後にもう一度紗夜を見た。
――紗夜様……私は、本当に幸せでした。沢山の過ちを重ねてしまったけれど……この日まで生きていられて良かった。私は一人じゃない。心の中にはいつも、貴女がいてくれる。こうして貴女の腕の中で死んでいけて、本望です。
「……ッ、くっ……紗夜様、村へ……あの村へ行ってください……! そして、貴女のご両親のことをッ――ゲホッゲホッ、カハッ……!!」
「要!!!」
これまでにないほど激しく咳き込み、要は吐血した。身体から力が抜けていくと同時に、珍しく大きな紗夜の声が耳に届く。
けれど、その声は徐々に遠くなっていった。視界は霞み、ぼやけ、意識が虚ろになっていく。この感覚を味わうのは、これで二度目だ。
でも、あの時のような恐怖を今は一つも感じない。
寧ろ心は凪いだ水面のように穏やかで、眠りにつく前のふわふわとした柔らかい浮遊感に包まれていた。このまま眠ることが、終わることがどこか愛しく思うのは、彼女への愛で心が満たされているからだろう。
要は朧になった紗夜に手を伸ばし、最後の力を振り絞って笑いかけた。
「……紗夜、さ……ま……大好きです。ずっと……ずっ、と――」
掠れた声で呟くと、要はぱたり、と手を落とした。彼は眠るように瞼を下ろし、ゆっくりと息を引き取った。
次の瞬間、強い風が吹き抜けた。重くなった要の身体は刹那の間に砂になり、さあっと紗夜の手のひらをあっけなくすり抜けていく。
要が横たわっていた場所に彼がいた形跡は何一つ残っていなかった。代わりに、小さな花だけがそよそよと優しく揺れていた。
紗夜は身体中の力が抜けて、へたりと草の上に手を付いた。
「要……」
――私が心配で、この世にいてくれたのね……。ごめんなさい……私が、あなたを縛り付けてしまっていた……。
また涙が溢れて流れ、紗夜の手の甲にぽたりと落ちた。どれだけ流しても涙は枯れない。悲しみも消えない。大切なものを心臓から抉り出されたような痛みに襲われる。
――けれど、そうだというのに。
紗夜が思い出すのは、要のあの陽だまりのような笑顔だった。いつも紗夜を支えてくれた要の笑顔。どれだけ彼に救われただろう。何度、彼に慰めてもらっただろう。
辛いときも苦しいときも、いつも要が側にいてくれた。弱い紗夜の心を癒し、一人きりの孤独を塞いでくれた。
――もう二度と、この目で見ることは出来ないけれど……。あなたの笑顔は、永遠に私の心の中に……。
「要……本当に……本当に、ありがとう」
――私も、ずっと大好きだよ。私の大切な、家族より大切な幼馴染み。忘れたりしない、絶対に。要がくれたもの、教えてくれたもの、要との思い出も全部……全部、私は覚えているからね。
「私……必ず、生きていくから。幸せになって、生きていくから……」
紗夜は声を絞り出してそう呟くと、ぐっと袖で涙を拭った。重たい瞼を持ち上げて空を見上げる。
薄青色の空には雲一つなく、どこまでも澄み切っていた。
紗夜は頬を撫ぜる柔らかな風を、温かな太陽の日差しを感じてそっと目を閉じる。そしてまたゆっくりと目を開けて後ろを振り返った。
目の前には、ここまで一緒に旅をしてきた大切な仲間たち。そして、誰よりも愛おしい殺生丸がいる。
紗夜にもう、恐れはなかった。一つ一つ思い出すのが怖くて、ずっと蓋をしてきた。やっと取り戻した自分をまた失ってしまうのではないかと思って、目を背けてきた。
でも、今はもう怖くない。彼らに、紗夜の全てを知ってほしい。
――私はもう、失わない。私の側には殺生丸様もりんちゃんも邪見様も阿吽も、みんないてくれるから。もう私を見失ったりしない……そうよね、要……。
紗夜は殺生丸たちを真っ直ぐに見据えると、一呼吸置いて口を開いた。
「殺生丸様……りんちゃん、邪見様。私、ようやく覚悟が出来ました。私の過去の出来事を――私があの日何を失くしたのか……今、全部お話しします」