十六話 真の強さ

 段々と暗くなっていく夕空を見上げながら、要は微笑んだ。

「懐かしいですね……」

「うん……」

 紗夜もまた、微笑んで頷き返す。優しい風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。

 懐かしい思い出だ。紗夜の中でも、要の中でも、それは色褪せることなく二人の心のうちにある。

「あの頃は要と喋った記憶が全然ないな……」

「紗夜様が話してくれないから、私も結構傷ついたんですよ」

 冗談めかして要が言うので、紗夜も自然と笑った。

「ふふっ……ごめんなさい。……でも、今考えると何だか信じられない」

 要のことを信用できず、彼と話さない時期があったなんて。

 遠くの峰に少しずつ沈んでいく夕日を眺める紗夜の横顔を、要はじっと見つめた。そして、一度眉を寄せて視線を落とし、ひどく静かな声音で紗夜を呼ぶ。

「……紗夜様」

「なに?」

 紗夜は口元に笑みを浮かべたまま、要を振り返った。要は紗夜を少し悲しそうな目で見つめる。

 ――どうして、そんな目をするの……?

 紗夜は思わず息を呑み、要の目を真っ直ぐ見た。
 こんな目をした要は見たことがない。要はいつも、紗夜の前では笑っていたから。
 要は尚も悲しげな瞳で紗夜を見つめると、徐に口を開いた。

「紗夜様……。私は、ずっと紗夜様にお仕えしてきましたが……。今でも、あの誓いを忘れたことはありません。貴女の命を絶つこと……貴女の望みを叶えるために、私は今まで生きてきました。……でも、」

 要はそこで言葉を区切ると、視線を落として唾を飲む。彼の喉仏が動くのを見つめながら、紗夜は要の言葉を待った。

「……誓いだけじゃない、証が欲しいんです。(しもべ)でも、幼馴染みでもない、証が」

「え……?」

 ――それは、どういう意味……?

 要の真っ直ぐな視線を受け止めて、紗夜は狼狽える。すると――。

「……ッ!」

 考える間もなく、紗夜の身体は要の胸の中に収まっていた。要の震える声が、紗夜の耳に届く。

「……好きなんです、紗夜様のことが……。僕でも、幼馴染みでもなく……一人の、男として……」

「か、要……」

 ――好き……? 要が、私を……?

 紗夜は目を丸くしたまま、要の言葉を聞いていた。

「ずっと……ずっと、好きだったんです。紗夜様が側にいてくれるのなら、私は何もいりません。村も家族も、“綺麗”なものも、何もいらない。貴女と死ねるのなら、私の命だって……。だから……だから、私と一緒に、来てくれませんか……?」

「!!」

 紗夜は息をするのも忘れそうなほど、要の言葉を聞いて固まっていた。

 ――私はどうして……今まで気が付かなかったんだろう?

 要の気持ちを聞いた今、彼の行動や言動を振り返ると、確かにそういう意味で取れることも沢山あったのに。

 ――要は今まで、どんな気持ちで私を見てきたの……?

 名ばかりの主従関係、大切な幼馴染み、家族以上の存在。そんな紗夜の気持ちを知りながら、要は紗夜を想っていた。
 紗夜が彼を大切な幼馴染みだと言う度に、彼はどんな気持ちだったのか。

 ――きっと、苦しかったはずなのに。それでも、要は私の側で私を守ってくれた。不満一つ言わないで、いつも優しくて……。それなのに、要のことを考えなきゃいけないのに……。

 どうして、殺生丸様の顔が浮かんでくるの……?

 気が付けば、紗夜は要の胸をそっと押し返していた。この瞬間、紗夜の歩む“道”が決まった。

「……紗夜様……」

 要がぽつりと紗夜の名を呼んだが、紗夜は顔を上げることが出来なかった。

「……要、ありがとう。でも……ごめんなさい……私、要の気持ちに……応えられない……」

 こんなときにでも、殺生丸の姿が浮かんでしまう。
 
 要に後ろめたい。でも、要の“好き”は、私とは違う『好き』だ。
 私の、“好き”は……。

「……あの、殺生丸様という方ですか?」

「――!!」

 その名を呼ばれて、紗夜は反射的に顔を上げた。

 要は僅かに瞳を揺らし、驚きと困惑の色が浮かんだ紗夜の顔を見て、困ったように微笑する。

「……分かりますよ。紗夜様のことですから」

「……ごめんなさい……っ」

 紗夜は申し訳なさと悲しさと切なさと――要を大切に思う『好き』の気持ちがない交ぜになって、涙が滲んでくるのを感じた。

 俯いたままの紗夜の肩に、要の手がそっと置かれる。

「……紗夜様、いいんです。分かってました、紗夜様がなんと答えるか。……でも、自分の気持ちは言っておきたかったから……」

 だから、顔を上げてください。と要が少し笑って言う。

 いつも通りの、優しくて明るい声。
 どうして、こんなときにまでそんな風に接してくれるの……?

 のろのろと顔を上げると、やっぱり要は笑っている。

「紗夜様……頑張ってくださいね」

「う、ん……。ありがとう」

 頑張る。

 頑張って、生きてみる――。

 紗夜は涙に詰まりながら頷いた。要の顔は、ぼやけてよく見えない。

「……ねえ、どうしてそんなに優しいの……?」

 紗夜が涙を袖で拭いながらそう尋ねると、要が一瞬言葉に詰まる。
 そして、低い声で言った。

「……優しくなんて、ないですよ。私は……」

 正直、紗夜はその言葉にも、彼の表情にも戸惑った。
 いつもなら笑って言いそうなのに、今の要の表情は暗い。だから、そんなことはない、と否定するのも気が引けて言えなかった。

 それからしばらく、要は黙ったまま風に揺れる花を見つめた。真っ赤な色をした花だった。
 紗夜はそんな要の姿を見ながらも、特別疑問を抱かなかった。きっと、何かを考えているんだと思っていた。

 要はやがて、意を決したかのように口を開く。

「紗夜様……実は、もう一つ大切なお話があるんです」

「大切な、話……?」

 今の告白がそうではなかったのだろうか?

 てっきりそうだと思っていた紗夜は、小首を傾げながら要を見る。要は何度も何度も口を開きかけては、閉じることを繰り返した。躊躇うようなことなのだろうか。

「要、大丈夫……話して?」

 少し不安になりながらも、紗夜は要を覗き込む。要は静かに頷くと、ようやく言った。

「実は……見つけたんです……」

「……何を……?」

 紗夜は穴が開くほど要を見つめる。
 要は目を伏せたあと、視線を紗夜に戻して言った。

「……紗夜様が……死ぬ方法を……」





 さっきまで僅かながらに残っていた夕日も、今はすっかり沈んでしまい、仄暗い夕闇がやってきた。周りの景色も暗く、周囲に何があるのかはよく目を凝らさなければ分からない。

 時折冷たいような、生暖かいような風が吹いては草を揺らし、葉のざわめく不気味な音が辺りに響いた。
 紗夜の胸はその音を聞くたびに跳ね上がり、怯え、恐怖を覚える。

 殺生丸と出会う前なら――殺生丸と出会って間もない頃なら、それらは寧ろ心地が良かった。自分の存在を許されている気がした。

 でも、今は違う。
 たまらなく恐ろしい。

 不気味なものも、暗いものも、紗夜から全てを奪っていきそうで恐いのだ。殺生丸と生きることは出来ないのだと、誰かにそう囁かれているようで、恐い。

「殺生丸様……」

 ――やっぱり私は……あなたと共には、生きられないかもしれない……。

 紗夜は泣きそうになるのを堪えながら、目を閉じた。





『見つけたんです。紗夜様が……死ぬ方法を……』

『…………え?』

 要の言葉に、紗夜は目を丸くして彼を見つめた。

 すぐには意味が理解出来ず、ただ要を見つめ、その先の言葉を促すばかりである。
 要は紗夜の視線を受けて目を伏せると、ぽつぽつと語り始めた。

『実は……戦で各地を転々としているうちに、聞いたんです。紗夜様が死ぬ方法も……どうして、紗夜様の御身体が普通の人間とは違うのかも……』

『!!』

『……誰からそれを聞いたのか……。紗夜様自身の秘密も、私と共に来てくだされば、全てをお話しします』

 紗夜は要の唇が動くのを見つめながら、ぼんやりと彼の言う事を頭の中で受け止める。
 彼が何を言っているのか、分からなかった。けれど、ただ一つ。確かなことが、一つある。

 たった今決めたばかりの道は、簡単には行けそうもないということだ。

 ――殺生丸様と共には……行けないかもしれない。

 これだけは、明朗に働かない頭でもはっきりと分かって、紗夜は静かに俯いた。

『……明日の、朝……どうするか決めるから……。それまで、待ってて……』

 そのときの要の表情は見ていない。けれど、要は少ししたあと悲しそうな声で言った。

『……分かりました。私は、どれほど待っても構いませんから……』

 要の言葉を聞いて、紗夜はこくんと一つ頷く。要の言葉はありがたかったが、紗夜の胸は苦しくなった。

 殺生丸は、明日にはここを発ってしまう。やはり、今晩どうするか決めなければならない。

『……じゃあ私、もう行かなきゃ……』

『……はい、お気をつけて』

 要の言葉を背に聞いて、紗夜はのろのろと歩き出した。
 殺生丸のいる所に向けて。





 紗夜は意識の外で周囲をぼんやりと見つめながら、とぼとぼと歩いた。
 藍色の空には粒のような星の光が無数に散らばり、夜空を彩っている。まだ遠い森は相変わらず暗く、黒色に染まって見えた。

 暗く、光などあるわけもない。
 そんな世界で自分はこれからも生きていき、そして死んでいくのか。

 心から愛しいと思える人と歩くことも、その人の傍らにいるという未来も、望むことは出来ないのか。

 ――苦しい……。

 紗夜はうまく息も出来ないような圧迫感に襲われて、自分の胸の辺りの着物を鷲掴んだ。

 “死ねる”。
 それは、これまで紗夜が歩いて来た、死を求める道ではない。
 歩いた道の先には、これまで切望していたはずの“本当の死”が待っている。

 紗夜が、一番に選ばなければいけない道だった。

 紗夜が殺生丸と共に生きる道を選んだのは、もちろん、殺生丸のことを慕っているからだ。己の気持ちに素直になった結果、選んだことである。
 しかし、それはあくまで“死ぬことができない”という前提があるからこそ選べたのだ。『死ねないから生きている』から。

 けれど、もし要の言う通り確実に死ねるというのなら、話は別になる。

 過去、紗夜のせいで死んでいった者たち。そして、これから紗夜に関わることで災厄に巻き込まれる被害者を出さないためにも、紗夜はその道を選ばなければならない。
 要が紗夜を慕っていようと、紗夜が殺生丸を慕っていようと、そこに感情が割り込むような隙間はない。だって、それ以外の選択が許されるはずもないだろう。

 紗夜の望みは、もう大半が殺生丸と生きたいという想いに占められていたが、これまで降り積もった罪悪が、決して細くはない糸で紗夜を死へと繋ぎ留めている。

 だから、こうして再び迷ってしまった。
 生きたい、でも死ななければならない。そんな葛藤がまた、紗夜を苦しくさせる。

「どうしたらいいのか、分からない……」

 どうしてこうなってしまったんだろう。
 どうして、“普通”に生きることすら出来ないんだろう。

 生きたい。殺生丸様と、生きたい。
 普通じゃなくてもいいから……あの人と――。

 紗夜はつっと涙が流れるのを感じながら、拭うこともせずにただ歩き続けた。





 ――もう夜、か……。

 殺生丸は空を見上げながら、心の中で呟いた。

 今夜、紗夜は答えを出して戻ってくる。今朝の様子では、殺生丸と行くか迷っているように見えたが……。
 昼間のうちにあの男が、紗夜に何かを吹聴して共に行かせようとしている可能性もある。

 そうすれば、紗夜の心はどちらにも傾きながら、いつまでも終着することなく迷い続けてしまうだろう。
 ……或いは、もうあの男と行くと決めているかもしれない。

 ――例えそうだとしても……やはり紗夜を死なせるわけにはいかぬ。

 あのとき、紗夜を一度突き放したのは自分だというのに。
 ……しかし、紗夜が死ぬかと思うと。
 
 紗夜にもう二度と会えなくなるかと思うと、殺生丸は何をしてでも紗夜を、己の側に留めておきたい感情に駆られるのだ。

 ――私は……紗夜をどう思っている……?

 ここ最近、殺生丸は何度かこの問題に行き着いた。しかし、その度に目を背け続けている。考えないように頭の隅に追いやって、それでも考えそうになればまた止める。その繰り返しだった。

 殺生丸は拒んでいたのだ。
 紗夜に対する気持ちに答えを出してしまえば、今までの自分は必ずどこかへ消え去ってしまう。

 真の強さを追い求めることを、誰かを想うということに塗り潰される。そんな気がした。

 殺生丸はこれまで、自分のためだけに……真の強さを手に入れるためだけに、生きてきたのだ。
 真の強さとは、情や優しさなどという生ぬるいものが介入して得られるものでは決してない。

 他者と馴れ合い、助け合うことなど、弱い証。誰かを想い、慈しむことも殺生丸にとっては邪魔なものだった。確かにそうだったのだ。

 りんや、他でもない。

 紗夜に出会うまでは――。

 紗夜に出会って、殺生丸は変わった。誰かを慈しみ、誰かを心から守りたいと、初めて明確に思うようになった。

 しかしそれが、その気持ちこそが、弱さの証なのではないか。
 紗夜への気持ちこそが、真の強さを遠ざけるものではないか。

 そう思うと、紗夜に対する感情を認めるわけにはいかなかった。殺生丸の生きる目的は、強さを求めることなのだから。

 ……だが、それでも紗夜を切り捨てることはできない。

 殺生丸もまた、葛藤を繰り返しながら、静かに目を閉じた。いつだったか、紗夜が幸せそうに微笑んだ顔が浮かんだ。





 すっかり辺りは暗くなってしまった。空には星が輝いていて、青白い月まで浮かびつつある。
 邪見は焚火の周りをぐるぐると回りながら、機嫌悪そうに言った。

「紗夜の奴、一体何しとるんじゃ! こんな時間まで!」

「遅いねえ、紗夜ちゃん。昨日はもう少し早かったのに……」

 りんも寂しそうに呟きながら、地面に指でくるくると丸を書く。

「……何かあったのかなあ?」

「縁起でもないこと言うんじゃないわい!」

「邪見さまったら、どうしたの? いつもはそんなに心配してないのに」

「そ、それは……」

 邪見は言葉に詰まりつつ、りんを見た。

 ――昨日の晩。邪見は、聞いてしまったのだ。
 殺生丸が紗夜に、「本当に死を望むのならあの男の所へ行け」と言うのを。


 昨夜、紗夜が夜中に森を出て、その後を追うように、殺生丸まで出て行ってしまったので、邪見は珍しく気配で目が覚めてしまった。
 そして、気になって二人の様子を見に行くと、そういう話になっていたのである。

 それから邪見はずっと考えていた。
 “あの男”とは一体誰なのか。紗夜はどうするつもりなのか。

 もし、紗夜がここからいなくなってしまったとしたら……。

「……なあ、りん」

「ん? なあに?」

「もし……もしじゃぞ。紗夜がいなくなったら、どうする……?」

 りんにそう尋ねると、りんは眉を寄せて頬を膨らませた。

「もう! 邪見さま、縁起でもないこと言わないで! 紗夜ちゃんは必ず帰ってくるもん!」

「違うわい、これからのことじゃ」

「……? これからの……?」

 りんは小首を傾げて邪見を見る。邪見は、りんの様子を見ていて思った。

 紗夜がもしいなくなってしまったら、りんは必ず泣いて、帰ってきて欲しいと言い続けるだろう。
 邪見も、紗夜がいなくなれば多少は……いや、寂しいと思う。

 殺生丸は、どうなのだろう。

 邪見は、瞳を閉じたまま木の根元に腰を下ろし、微動だにしない殺生丸を見つめた。
 殺生丸は紗夜のことを何とも思っていないから、わざわざ自分の元を離れるように提案したのだろうか。

 ――いや、そんなはずがない……。殺生丸さまは、紗夜のことを……。

 邪見は殺生丸から、燃えたぎる焚火の炎へと視線を移した。

 あれは、いつのことだっただろうか。これまで旅をして来たなかの、ある一日。ひどく曇った、そして急な雨が降った日のことだった。

 幸せそうに笑う紗夜と、それを穏やかな瞳で見つめる殺生丸。
 邪見は確かにあの日、冷酷なはずの主人が優しく微笑むのを見た。あの、人間を蔑み、愛や情を否定してきた殺生丸が。

 邪見はそのとき、自分の目を疑ったことをよく覚えている。初めて見た、殺生丸の情のある微笑だった。
 それ以来、邪見はあることを心のどこかで考えるようになったのだ。

 ――殺生丸さまは、紗夜のことを好いておられるのではないか……?

 ……そんな、少しまではとても信じられないようなことを。

 以前までは単なる疑問で留めていたものの、邪見のその考えは近頃になって確信に変わり始めていた。そして、今ではもう既に――。

 ――まさかあの殺生丸さまが、人間の娘をお想いになるとは……。

 邪見は今まで殺生丸に仕えてきて、彼の非情さや冷酷さは誰よりも知っているつもりである。
 そして、それが真の強さを追い求める故だということも。

 殺生丸は、真の強さに愛や情などというものが入り込むことを許さなかった。
 それが入り込むことこそが弱さだと、彼はそう思っているのだ。

 そして、その考えが変わっているとは考えにくい。
 なぜなら、殺生丸は紗夜と出会うずっと前から、その思想を貫いて今まで数百年という時を生きてきたのだから。

 いくら紗夜によって心に変化が生まれたといえど、長年貫いたその思想を簡単に変えられてしまうほど、殺生丸は軽々しい男ではない。
 ……となると、問題が一つ生まれる。

 ――殺生丸さまが紗夜への想いにお気付きになられても、それを簡単に認められることはないじゃろう……。

 そうなれば、自身に穏やかな時間を与えられる存在を、殺生丸は永久に失ってしまうかもしれない。
 もし紗夜がこの場を離れると言い出したら……それは現実になる。

 そして、紗夜への想いを認めぬまま、その存在の大きさに失ってから気付いたとき――。

 殺生丸は、“真の強さ”を失ってしまうのではないだろうか。
 
 それだけは、なんとしても避けなければならない。邪見はそう思いながら、焚火の傍に腰を下ろす。

 邪見も今までは人間を蔑み、人間同士の相手を思いやる心など馬鹿にしてきた。
 しかし、りんや紗夜と関わることによって、人間に対する思いが少しずつ変わっていった。

 愛や情は、心を弱くするもの。
 その考えも、どこか変わってしまったのだ。

 寧ろ、愛や情こそが、心を強くするのではないだろうか、と。

 現に、犬夜叉たちを見ていればよく分かる。仲間のため、好きな者のためと、愛や情を持つことで、彼等は時に驚くほどの力を発揮している。

 誰かを――大切な者を想う気持ちを持つことこそが、真の強さを得ることになるのではないか。

 邪見はすっかり変わってしまった自分の考えに、改めて静かに驚きながら、再び殺生丸に目を移す。
 
 そして徐に立ち上がると、相変わらずピクリとも動いていない殺生丸の側に歩き出した。


「? 邪見さま、どこ行くの?」

「!」

 背後からりんに突然尋ねられて、邪見は思わず不自然に飛び上がった。慌てて後ろを振り返ると、りんが満面の笑みで邪見を見ている。

「ねえねえ、殺生丸さまのとこに行くの? りんも行く!」

「ダメじゃダメじゃ! お前はここで待っておれ! わしは殺生丸さまに、大事なお話があるのだ!」

 邪見が思いっきり首を振って、睨みながらそう言っても、りんは笑顔のままで頷いて見せる。

「大丈夫だよ、りん邪魔なんてしないから! ほら行こう、邪見さまっ!」

「……ああ、もう……」

 邪見は溜息をつきながら、自分の前を楽しげに歩いていくりんの背中を追った。先ほどまでの真面目な思考が全部吹き飛んでしまった気がする。

 ――さっきのまま殺生丸さまの所に行ってたら、絶対良いこと言えたのに……。

 邪見はがっくりと肩を落とし、殺生丸の側に行った。焚火から離れたその場所は少し暗い。それでも、辺りの状況は窺えた。

 殺生丸は、邪見とりんが側に行っても、相変わらず目を閉じたままである。邪見はそのとき、ふと考えた。

 ――ん? もし殺生丸様がお休みになられていたら、わし……ぶん殴られるのでは?

 自分が殺生丸に殴られる図が容易に浮かんで、邪見は殺生丸に声を掛けるのを躊躇った。すると、隣にいたりんが。

「何してるの、邪見さま? 殺生丸さまにお話しがあるんじゃないの?」

「バカもん! もしお休みになっておられたらどうするのだ! 殴られるのはわしなのだぞ!」

 邪見がぼそぼそ言い返すと、りんはにっこりと笑う。

「じゃあ、りんが呼んであげる! ……ねえ、殺生丸さま!」

 ――ぎゃあーーっ!!

 邪見は殺生丸にぶん殴られないように、心の中で大きな叫び声を上げて頬を押さえた。冷や汗がだらだらと流れ落ちる。
 そんな邪見のことなど露知らず、りんはにこにこと笑って殺生丸に話し掛けた。

「殺生丸さま! 邪見さまが、すっごーく大事な話があるんだって!」

「こ、これ、りんっ! やはり殺生丸様はお休みになられておるのだ! 後ほど改めて――」

 やっと邪見が正気に戻ってそう言うと、ぴくりと殺生丸が動いた。邪見は慌てて彼の方を向き直る。

「…………」

 殺生丸はゆっくり目を開けると、ちらりと邪見を睨み付けた。邪見はビクッと跳ね上がり、慌てて土下座を繰り返す。

「も、申し訳ございません、殺生丸さま!! お休みの最中だというのに、りんめが勝手に――」

「……邪見。話とは何だ」

「へ?」

 てっきり殺生丸に殴られるものだと思って、りんに罪をなすり付けようとしていた邪見は、彼の意外な言葉に顔を上げる。
 殺生丸はぽかんとしている邪見に対して、不機嫌そうに眉を寄せた。

「早く言え」

「は、はいっ! そのぉ……」

 邪見は勢いよく返事をするが、すぐに言葉に詰まってしまう。

 いざとなると、自分が殺生丸に言いたかったことが纏まらない。
 しかし、これ以上殺生丸を待たせてしまうわけにはいかないのだ。邪見は自分でもよく分からないまま、とりあえず話し始めた。

「あの……これはあくまでこの邪見めの考えですが……。殺生丸さまが弱く思っていらっしゃるものは、何と言いますか……本当は強いというか……」

「……何が言いたい?」

「へっ!? そ、それは……」

 邪見は殺生丸から目を逸らして、俯いたまま考えた。

 ――言ってもいいのか!? しかし、「紗夜のことをお好きなのでは……?」なんて、口が裂けても言えん!! ただでさえ認めておられぬはずなのに、そんなことを言えば……わし、間違いなく殺される!! じゃが、言わねば殺生丸さまが……、っええいっ!!

「紗夜のことでございます!!」

「!!」

 ついに邪見がやけくそでそう言うと、殺生丸が僅かに目を見開いて邪見を見た。

 ――ああ……言ってしまった……。わし、もう確実に殺される……。


「邪見……」

「はい……」

 殺生丸に名を呼ばれても、邪見は諦めからもうビクリとしなかった。俯いて、殺生丸に粉砕されるのを大人しく待つ。

 ――しかし、制裁はいつまで待ってもこなかった。

 邪見が不思議に思って恐る恐る顔を上げると、殺生丸と目が合う。すると、彼は表情を変えないまま、静かに言い放った。

「……真の強さとは、何だ?」

 殺生丸が質問することも、その内容も珍しく、邪見は口をぽかんと開け放って彼を見つめる。

 本当に、冷酷だったはずの自分の主人はすっかり変わってしまった。
 紗夜という一人の娘が、そして紗夜を想う殺生丸が、彼自身を変えたのだ。

 ――これも、紗夜へのお気持ちのため……。

 邪見はもう、殺生丸から目を逸らさなかった。

「それは、誰かを想う心ではないかと……」

「…………ふん」

 殺生丸は邪見の言葉を馬鹿にするわけでもなく、静かにその言葉を受け止めると、やがて空へと目を移した。
 その凛とした横顔を見ながら、邪見はどこか満足した気分になる。

 ――これで、よかったのだ……。

 殺生丸に、邪見の言いたいことが伝わったかどうかは定かではない。だが、伝わっていると信じたい。

 誰かを想う心――。
 そんな言葉を口にすれば、必ず鼻で笑って(あざけ)ったであろう以前の殺生丸が、今は何も言わないのだから。

「ねぇ邪見さま、何の話?」

「……お前にはまだ早いわい」

「えっ、邪見さまはいいの? りんより小さいのに……」

「背の問題ではないわ!」

 りんと邪見はいつもと変わらぬ言い争いをする。

 殺生丸は側にいる二人の声が耳に入ってくるのを受け入れながら、邪見の言葉を考えた。

 ――誰かを想う心……。紗夜を想うことが、真の強さになるというのか。弱さの証ではなく、強さに……。

「……!!」

 殺生丸が考えていると、覚えのある――いや、待ち望んでいた匂いがした。思わずすっと立ち上がり、森の入り口の方を見る。

「殺生丸さま? どうなさったので?」

「…………」

 邪見とりんは、殺生丸の見つめる先に目をやった。そして。

「あーっ!! 紗夜ちゃん!!」

「遅かったではないか!」

 りんと邪見が、同時に声を上げる。

 三人の視線の先には、暗い木々の向こうから歩いて来る、紗夜の姿があった。

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