二十四話 道の先へ
雲の多い月夜。
月の光はほとんど隠されてしまって、辺りはぼんやりとしか見ることが出来ない。
風がとても強かった。時折強く吹き過ぎては、黒い木々を騒がせる。
そんな闇の中、不意に温かな灯りが現れた。提灯の橙は闇夜にふわりと浮いて、持ち手の姿を明かす。
ゆったりとした調子で、線の細い男は歩いていた。やがて川に近づいて、水の流れる音が聞こえ、丹塗りの太鼓橋に差し掛かる。そのときまた、強い風が吹いた。
提灯の火が消えて、男は憂いを帯びた、色の薄い瞳を上げる。その拍子に、桑染色の髪が揺れた。重かった雲が流れて、その隙間から満ちた月が垣間見える。
月の青白い光は、闇夜のもう一つの影を明らかにした。男は立ち止まり、静かに目を見開いた。
◇
「――紗夜」
「――はい!」
殺生丸に呼ばれて、紗夜ははっと我に返った。
「どうした?」
尋ねられて、紗夜は「何でもありません」と小さく首を横に振る。思い出していたのだ、今朝見た夢を。
月の光、太鼓橋、細い二つの影、若い男。記憶にはない光景だった。しかし……。
紗夜は目を伏せて、思い浮かべる。若い男は、紗夜が知っている“彼”とは違うが……そっくりだった。優しげな目元に、珍しい桑染色の透き通るような綺麗な髪。
――でも、なぜ……。
紗夜は目を伏せて考えてみたが、やはり答えが出ることはなかった。
◇
村までの道を行く一行が、誰かとすれ違うことはなかった。
紗夜のいた村の向こうにもいくつか小さな村があり、昔はこの道も人けがあった。道の手入れがされている所を見ると、全く人通りがなくなった訳ではなさそうだったが、主要な道としては余り使われていないのかもしれない。
風がそよぐだけの道を、りんと邪見の話し声が賑やかにしてくれる。
紗夜は安堵を覚えた。どんなときも明るい二人を見ていると救われる。何となく、大丈夫な気がしてくる。
ちら、と紗夜は隣に目を向けた。殺生丸はいつも通り、凛と前を向いて歩いていた。
何も変わらない。何があっても、この人たちは、私の居場所は、ここにある。
紗夜は前方に目を移すと、間近に迫ってきている懐かしい故郷を見据え、その一歩を踏みしめた。
◇
南北の分岐点に来て、一行は北に曲がって歩いた。ここからの一本道が、紗夜の故郷に続いている。
この道も始めは手入れされていたものの、しばらく進むと段々と草は伸び切り、紗夜の膝下までの高さになっていた。随分誰もここを行き来していないのだと分かる。
村人たちはどうしただろう。逃げられただろうか、死んだだろうか。
考えるとずしりと罪悪感が生まれるが、紗夜はただ黙ってその感情を受け入れた。
さらに歩みを進めると、次第に道がひらけてきた。見覚えのある場所に見覚えのある民家がある。
草藪を抜けて村に入り、紗夜は立ち止まって村を見回した。
人の手が加えられなくなった草木は青々と生い茂り、昔は賑やかな声が聞こえていた広場に人の姿はない。そのまま古びたような家もあるが、妖怪たちの仕業か崩れてしまっている家もある。
視線を村の傍らにある森の方へとやると、蔦の絡まった寺が森を背にしてひっそりと佇んでいた。幼い頃匿われたあそこにも、今や人はいないようだ。
「…………」
紗夜はすうっと息を吸った。
ここで、兄が死んだ。要と出会った。私の、全ての始まりの場所。
緩い坂を上った先を見据える。あの夜壊れ、崩れ、焼け焦げた懐かしい家がある。
「……行かなくちゃ」
――あそこに、きっと真実に繋がる何かがある。私の秘密への手がかりが。
紗夜は真っ直ぐに、坂の上の屋敷に向かった。
◇
壊れかけた屋敷はひっそりと静まり返っていた。道からそのまま庭の方へ行ってみると、予想通り草が地面を覆い隠している。
しかし、東の隅の方だけは土が顔を見せていた。よく見ると土が二つに盛り上がっている。紗夜は近付いて、そして息を呑んだ。
それは、人が横たわったぐらいの大きさだった。気付くと同時に要の言葉を思い出す。
要は戦のあと村に帰り、紗夜の父と母の死を確認して埋めてくれたと言っていた。盛られた土の上で枯れてしまった花が、寂しげに風に揺れていた。
「……父様、母様……」
二人の死を聞いたときは、ああやっぱり、と思っただけだった。悲しいだとか、寂しいだとかそんなことも感じなくて、感じる理由もないと思っていた。自分は愛されていない子だったから。要らない子だったから。
だから、自分も親の愛情なんて求めなかった。親なんて、居て居ないものだと思っていた。
でも、いざ二人の死を前にすると、複雑な気持ちになる。愛してほしかったとか、許してほしかったとか、そんなことじゃなくて。
死を望んで飛び出して、生きる希望を持って帰ってきた自分を、見てほしかった。見せたかった。
でも、もう二人は“終わってしまった”んだと、急ごしらえの墓で眠る二人を見ると思い知らされる。
そして、そう思うということは、どんなに心無い態度を取られて冷たく当たられたとしても、紗夜にとって彼らはやはり親だったということだ。
紗夜は二人の眠る場所に近づくと、しゃがんで手を合わせた。色んな記憶が廻った。何度も後悔した記憶だ。兄が生きてさえいればと。
――でも、時間は戻らない。私の時間は、まだ止まっていないから。全部持ったまま、生きていきます。だからどうか、安らかに。
心の中でそう伝えたとき、ふわりと風が吹いた。目を開けると、隣でりんが一緒に手を合わせてくれていた。
ありがとうと微笑んで、紗夜はゆっくりと立ち上がる。
庭の奥を進み、崩れたところから屋敷に入った。どこもかしこも、昔の面影はないほど荒れ果てている。
屋根が剥げたところから、日の光が漏れ入っていた。光の筋に小さな砂や埃が映り、ゆっくりと螺旋に舞っている。
紗夜は板や家具が散らばった畳の上を歩きながら、北の自分の部屋に向かった。
「ここが、私の部屋だった所……」
りんたちに教えながら、紗夜は部屋の中に入った。屋敷を出る前から弦が切れていた琴、何度も繰り返し読んだ物語集。箪笥からは、見覚えのある着物がいくつかはみ出していた。
どれもこれも、懐かしい物ばかり。一つ手に取ってしまえばいくつも掘り返してしまいそうなので、紗夜はちらと見るだけに留めて別の部屋へと向かった。
炊事場を通り、客間を通り、廊下を渡ると、こちら側の部屋は損傷が特にひどかった。暗く瓦礫に埋もれて、入れない部屋もある。
しかし、南の一室だけは柱が斜めになっていたが、かろうじて入れそうだった。紗夜は躊躇わずそこに入った。
そこは、父の部屋だった。
若いときから真面目で寡黙だった父は、よくここに籠って仕事をしていた。
文机には、先ほどまでそこにいたかのように巻物が広げられ、筆も側に置かれている。
棚にはたくさんの書物が並べられ、父が得意にしていた笛も埃を被ってそこにあった。
父は笛が得意だった。母は琴が得意だった。
父も母も楽は得意だったのに、紗夜はなかなか上達しなくて練習が嫌になったのを思い出す。幸せだった頃のことを思い出して、少しだけ笑みが浮かんだ。
と、そのとき、足元に落ちている一冊の冊子が目に入った。端が少しだけ焦げていて埃を被っているが、他は何ともない。
薄緑の表紙を撫でて埃を払うと、「日記」という綺麗な字が現れた。
「日記……。父様の……?」
呟くと殺生丸も隣に来て、それを見つめた。紗夜は破けないようにそっと表紙を捲り、パラパラと軽く読み進めていく。
前半には仕事のことや家のことなど、日記らしい他愛のないことが書かれていた。内容からして兄が死ぬ前のことだ。
しばらく読み飛ばしながら中盤少しまで進めていくと、やがて八年前のことになった。丁寧な字の羅列を、紗夜は自然と真剣に追っていく。
『卯月。もうすぐ紗夜の生まれた日になる。暦では丁度その日が満月のようだ。私は出仕で家を留守にする。満月のことを考えると気が重い』
『蓮の訃報を聞いて帰宅した。蓮が死んでしまったことが未だに信じられない。もう、あの子の顔が見られないかと思うと涙が止まらない。だが、桜も毎日のように泣いているので、私がしっかりしなければ。そして、紗夜は……あれ以来表情も感情も失くしてしまった。まるで人形のようだ。一番惨いのは私でも桜でもなく、あの子だろう。桜は、紗夜が蓮の葬儀に出ることを許さなかった。私は、桜がそう言うのを聞いていたが……何も言えなかった』
「…………」
紗夜は困惑して日記を見つめた。
父は、自分に対して決して無関心ではなかった。桜――母の仕打ちを惨いと思いながらも、止められなかった。日記からはそんな罪悪感が読み取れるような気がする。
でも、それならどうして母を止められなかったのだろう? 母は確かに豹変したが、兄が死ぬ前は話を聞かないような人ではなかった。紗夜ならともかく、父の言うことになら耳を傾けるくらいしたはずだろうに。
――それとも何か、止められない理由があった……?
紗夜はざわつく胸に急かされて、次の紙を捲る。
『日に日に桜の、紗夜への当たりが強くなっていく。父親として紗夜を守ってやらなければならないのに、私にはそれが出来ない。桜の気持ちを考えると、桜を傷つけてしまったことを考えると、私は紗夜に何もしてやれない。全て私が悪かった。私は、人を傷つけることしかできない。いっそ死んでしまいたい。きっと……あの人もそれを望んでいるはずだ。私の死を』
「あの人……?」
一体誰のことだろう? 文脈からして母や紗夜を指した言葉ではない。兄のことを“あの人”なんて呼ぶこともないだろう。謎の存在に疑念が湧く。
考えを巡らせていると、ふと何かに導かれたように、頭の中にある光景が浮かんだ。今朝見た夢だ。
月の光、太鼓橋、細い二つの影、若い男。
若い男――夢の中で見たその人は、紗夜の知らない、若かりし頃の父の姿だった。
――なぜ今あの夢が出てくるの……? 何か、関係があるの……?
そう思った瞬間、
「きゃっ……!!」
突然、手に持っていた日記がボッと音を立てて燃え上がった。指先に感じた熱さに驚いて、紗夜は思わずそれを取り落とす。
そして、それと同時に先ほどまで静かだった屋敷が、いきなり炎に包まれた。
「きゃぁぁ!!」
「な、何事じゃ!?」
りんと邪見の悲鳴と共に、燃え盛る炎の音が世界を支配した。
「一体何が……!?」
火種になるものなんてなかったし、突然何が起こったのか分からない。狼狽えていると不意に腕を掴まれた。
「紗夜、出るぞ」
殺生丸の声を聞いて少し冷静さを取り戻した紗夜は、慌てて外へと走り出した。
火の手はおかしなことに屋敷全体に回っていたが、四人は何とか広い庭まで出て来られた。
「はぁ、はぁ……」
紗夜は屈んで荒く息を繰り返した。混乱した頭にも熱くなった肌にも、外気が心地良い。
「まったく、焼け死ぬかと思ったわい……」
「あれ? ねえねえ、外暗くなってるよ!」
夜みたいだね、というりんの声に紗夜は顔を上げる。言われてみれば、さっきまでの穏やかな日差しは消え失せて、辺りには夜の闇が広がっていた。
「どうして……?」
何かがおかしい。日記が燃えたり、屋敷が突然炎に包まれたり、昼が夜になったり。
――何が起こっているの……?
戸惑っていると、今度は殺生丸が唐突に紗夜を庇うように、屋敷と紗夜の間に立ちはだかった。
驚いて振り向くと、殺生丸は屋敷を見据えたまま言い放つ。
「下がっていろ」
殺生丸の背の向こうでは、黒煙を出しながら屋敷が燃えている。真っ赤な炎は自然とあの日を思い出させた。――そう、始まりのあの日を。
ぎゅうっと、心臓を鷲掴みされたように感じた。ドクドクと身体が、頭が、脈打ち始める。
――何か来る。
言い知れぬ恐怖が、本能を通してじわじわと迫ってきたとき。
ドオォォン!!と激しい音を立てて屋敷が崩れ、そこから黒い影が空に向かって飛び上がった。
「なんじゃあれは……!! 人か!?」
邪見が声を上げ、紗夜も目を凝らす。それはやはり、人の形をしているようだった。
人影はすっと地面に軽やかに降り立つと、炎を背にゆっくりとこちらに歩いてくる。線の細い身体に鎧を纏い、長い髪が風に靡く。
「――待っていたぞ、紗夜」
聞いたことのない女の声が紗夜の名前を呼んだ。
「誰、なの……?」
胸騒ぎがする。暗くて見えなかった女の顔が、ようやく見える所にまでやってきた。
「「「――!!」」」
その場にいた全員が、思わず息を呑む。
「私が誰か、だと? ……見れば分かるだろう」
女は嘲るように笑って言った。
女の顔は、紗夜によく似ていた。顔立ちも真っ黒な瞳や髪も雰囲気も、何から何までそっくりだ。
違うといえば、女は紗夜よりかなり年上なため、紗夜にはない妖艶さを持っていること。
そして、その瞳は強い憎しみに燃えていることだった。
「あなたは……誰……?」
紗夜は、震える声で尋ねる。
尋ねてはいけない、自分の根底を揺るがす何かが目の前にいると分かっているのに、それでも尋ねずにはいられなかった。女は、鋭い瞳で紗夜を見据えた。
「私は朝霞。お前の、本当の母親だ」