二十三話 未来への約束

 紗夜が全てを語ってから、三日が過ぎた。

 殺生丸一行は要の残した言葉の通り、紗夜の生まれ育った村を訪れることにした。
 今まで歩いてきた道をもう一度辿りながら、一行は少しずつ村へと近付いていく。

 けれどその道は決して短くなくて、紗夜は改めて、自分がどれほどの距離を殺生丸たちと歩んできたのか再確認した。

「邪見さまー」

「なんじゃ」

「んー、呼んでみただけっ!」

「なっ、わしで遊ぶでないっ!」

「あははははっ!」

 隣で楽しそうにしているりんと邪見を見て微笑みながら、紗夜はゆっくりと空を見上げた。風が紗夜の長い髪を攫って、ふわりと宙に舞い上げる。

 『村へ……村へ行ってください……! そして、貴女のご両親のことを――』

 紗夜は要の言葉を思い出して、少しだけ眉を寄せた。

 ――どうして“両親”なんだろう……?

 紗夜の身体に秘められた謎と、紗夜の両親。そこに一体どんな関係があるのか、紗夜には見当もつかない。そして、それは殺生丸もきっと同じだった。

 紗夜は、前方を迷うことなく歩いて行く殺生丸を見つめる。
 彼は、とても鋭い。
 勘が鋭いというのもあるのだろうが、きっと頭の回転自体も速いのだろうと紗夜は思う。

 だからもし紗夜の過去を踏まえて気付いたことがあれば、きっと教えてくれるはずだ。

 しかし、彼から聞かされていることは特にない。恐らく彼も何も思い当たらないということなのだろう。

 紗夜がそんなことを考えていると、森を抜けた辺りで殺生丸が唐突に立ち止まった。

「ここで休む」

 殺生丸はそう言うと、さっさと近くの木陰に歩いて行った。そしていつものように木の根元に腰を下ろす。
 紗夜はそれを見てから辺りをきょろきょろと見回した。

 すぐ向こうに綺麗な小川が流れている。ここにいても水の心地よいせせらぎが聞こえてきた。青々とした草の中には色とりどりの可愛らしい花が咲いていて、思わず花冠を作りたくなる。

 広々とした視界に、美しいその景色に、紗夜は心が晴れやかになるのを感じた。少しだけ笑みを浮かべていると、隣にいたりんが嬉しそうな声を上げる。

「わーい、休憩だね、紗夜ちゃん! ねえねえ、何して遊ぼうか?」

「お前、殺生丸さまのお言葉を聞いておったのか? 殺生丸さまは“休む”と仰ったのだぞ?」

「うーん……じゃあ、鬼ごっこね! 最初は邪見さまが鬼だよっ! 紗夜ちゃん、逃げようっ」

「あ……うん!」

 りんは呆れ顔の邪見を無視して一方的に告げると、紗夜の手を引いた。紗夜は驚きながらもすぐに頷き、りんと一緒に野原へ駆け出す。

「邪見さまは足が短いから、疲れたら言ってねー! りんが鬼、変わってあげるから!」

「なぬぅ、りんのやつ!! わしは短足ではない!! 待っておれ、すぐに捕まえてやるわーーっ!!」

 後ろから邪見の叫ぶ声が聞こえて、りんと走りながら笑い合った。
 久しぶりに大地を駆け回る感覚も、声を上げて笑うのも、どれも紗夜の心を軽くしてくれる。
 紗夜は大空の下を駆けながら、柔らかく微笑んだ。

 ――ありがとう。りんちゃん、邪見さま。

 紗夜の心の中はこの晴天のように明るく、温かかった。





 それから邪見は誰も捕まえることが出来ないまま体力がなくなり、結局鬼ごっこは終了した。邪見は最後まで悔しそうに地団太を踏んでいたが、さすがに疲れたのかあとは静かになっていた。

 三人は小川で一休みしたあと花の咲き乱れる中にのんびりと座り、紗夜はりんに花冠の作り方を教えていた。

「で、ここをこうして……」

「ええっと、ここを……こう?」

「そうそう、りんちゃん上手!」

「えへへ……紗夜ちゃんの教え方が上手だからだよ」

 紗夜とりんはそう言って笑いながら、花冠を作っていく。邪見は背を丸めて座り込みながら、すぐ前を黄色いチョウチョが飛んでいくのを目で追っていた。

「……できたーっ!」

「やったね、りんちゃん! すごく綺麗に出来てるわ!」

「うんっ! 紗夜ちゃん、ありがとう!」

 りんは出来上がった花冠を掲げながら立ち上がって、ぼんやりしている邪見の頭にぼすっとそれを被せた。

「ぬおっ!? な、何じゃコレは、前が見えんではないかっ!?」

「あれ、ちょっと大きかったかな? でも邪見さま、すっごく可愛いよっ! 似合ってる!」

 りんの言葉に紗夜もうんうん、と頷くと、じたばたしていた邪見は花冠を首まで通し、大きな目をぱちくりさせた。

「え、そう? わし可愛い? 似合ってる? えーもうしょうがないなぁ着けちゃおっかなぁ〜」

「はい、これりんちゃんの分」

「えーっ! りんに作っててくれたの? 紗夜ちゃん、ありがとう!」

「わぁ……りんちゃん、すごく可愛い!」

「えへへ〜」

「…………」

 邪見はぽつんと取り残されながら、けれど花冠はしっかりと被っているのであった。





 そうして花で手遊びをしながら色々作っているうちに、りんが突然声を上げた。

「あーっ! りん、いいこと思い付いた!」

「? どうしたの?」

 紗夜が尋ねると、りんは手に持っていたものを見せる。それは、薄紅色や黄色や白の花を編んで、長い紐状にしたものだった。適当に花を繋ぎ合わせているうちに出来たのだろう。

 意図が分からず紗夜が首を傾げると、りんはそれを邪見に預けて紗夜の後ろに回る。

「紗夜ちゃん、ちょっと髪の毛触るね」

「え? ええ、いいけど……」

 一体何をするのだろう?
 紗夜が思っていると、りんは紗夜の髪を一つにまとめてさっきの花の紐をそこにぐるぐる巻きつけ始めた。

 しばしその行為に格闘し、りんはようやくふぅーっと息をついて身体を起こす。

「出来たあ! やっぱりすごくいい感じ!」

「これって……」

 紗夜が自分の髪にそっと触れると、りんがにっこりと微笑んだ。

「うん、頭の真ん中ぐらいで髪をぐるぐる巻いて、一つにまとめたんだよ」

 所謂お団子という髪型に、慣れない紗夜は戸惑う。

「へ、変じゃない、かな……?」

 いつも髪は下ろしたままなので、髪を結った自分が想像できない。紗夜がおずおずと尋ねると、前に回ってきたりんが感嘆の声を上げた。

「わぁっ、全然変じゃないよ! 紗夜ちゃん、すごく似合ってるし、きれい……!」

 ね、邪見さま!とりんが振り向くと、邪見も紗夜をまじまじと見つめた。

「ぬ、ぬぅ……否定できん……」

 普段辛口の邪見がそう言ってくれたので、どうやら似合わないということはないらしい。紗夜は気恥ずかしさに少し悩んだが、せっかくりんが結ってくれたので今日はこの髪型でいることにした。

「りんちゃん、綺麗に結ってくれてありがとう」

「うんっ、どういたしまして!」

 紗夜は首に直接風が触れるのをくすぐったく感じながら、もう一度髪の毛に触れてみる。
 きっと花で編んだ紐なので長くはもたないだろうが、新しい髪型が新鮮で紗夜の心は躍った。

 ――殺生丸様に見せるのは少し恥ずかしいけれど……。でも、見て欲しいな……。

 彼は何か言ってくれるだろうか? 紗夜はそんなことを考えて、つい緩む頬を両手で押さえた。





 やがて日が暮れて西の空は赤く染まり、夕陽は遠くの山に沈んでいった。夕方の風が髪を結った紗夜の首筋を撫ぜ、少しだけ寒さを感じさせる。だが、三人で起こした焚火の炎が身体をじんわりと温めてくれた。

 三人は小川で捕った魚を食べながら、のんびりと夕餉の時間を楽しんでいた。

「今日は一日、すごく楽しかったね!」

「うん、本当に楽しかった!」

 りんがにこにこしながら言ったので、紗夜も微笑みながら答える。

「邪見さまは? 楽しかったでしょ?」

「うむ、まあな」

 りんが問うと、むしゃむしゃと魚を食べていた邪見は少しだけ顔を上げて、まだ口をもごもごさせながら答えた。りんは満足そうに笑って頷き、自分も食事を再開する。
 紗夜は二人の変わらない様子を穏やかな気持ちで見つめていた。

 本当に、今日は楽しかった。りんと邪見と鬼ごっこをして、一緒に花冠を作って、小川で水遊びをして。今日の出来事は全てきらきらと輝いて、紗夜の心の中に全て残っている。

 ―――ずっと、続けばいいのにな……。ずっとこの幸せが続いてほしい。

 紗夜はそっと目を伏せ――そして気が付けばいつの間にか顔を上げて彼を見ていた。
 殺生丸はいつものように瞼を閉じて木の側に腰を下ろし、長い銀髪を風に靡かせている。その姿に紗夜は思わず見惚れてしまった。

 たしかに時間は流れているというのに、彼を見ているとその周りの時間だけ止まっているように見える。そんなことを思いながらぼんやりとしていると。

「紗夜ちゃん?」

「!」

 不意にりんに声をかけられて、紗夜はハッと我に返った。二人の方を振り返れば邪見がいやにニヤニヤしている。

「紗夜……おぬし、殺生丸さまに見惚れておっただろうっ!」

「…っ!! もう、そういうこと言わないでください、邪見様!」

 邪見に指摘されてかあっと頬が熱くなる。堪らず声を上げれば、りんも首を縦に振った。

「そうだよ、邪見さま! いいじゃない、見惚れちゃうくらい殺生丸さまはかっこいいんだから!」

 「ね、紗夜ちゃん!」とりんに笑顔を向けられ、紗夜は小さく頷いた。

「ねぇ紗夜ちゃん、殺生丸さまとお話してきたら? 今日、一回もお話してないし……」

「りんちゃん……。そうね、ありがとう。少し行ってくる」

 紗夜はりんの気遣いに感謝しながら微笑むと、ゆっくりと腰を上げた。

「おい、紗夜! いくら恋仲になれたからといって、調子に乗って殺生丸さまに無礼な振る舞いをするでないぞっ!」

「っ……言われなくても、そんなことしません!!」

 後ろから聞こえた邪見の声にそう言い返して、紗夜は二人の側を離れた。

 歩を進めるほど焚火の灯りが徐々に遠退いていく。深呼吸に合わせて空を見ると、星明かりに気が付いた。さっきまで夕方だったのに辺りはいつの間にか夜に包まれている。

 時間が経つのは早い。けれど――。
 草を踏んでいた足を止め、紗夜は殺生丸を見つめた。

 やはり、彼の周囲は時が止まっているようだった。
 夜の闇の中、星の光に照らされて微かに見える彼の睫毛の影。伏せられた瞼も端正な顔立ちも、風に揺れる銀髪も、彼の全てが紗夜の胸を高鳴らせる。

 近づけば増々美しく見える殺生丸に見惚れてしまって、紗夜は胸の辺りを押さえた。
 眠っているのか、木々のさざめきでも聞いているのか、いずれにせよ声をかけるのが躊躇われてその場に立ち尽くしてしまう。でもずっとそうしている訳にもいかないので次の一歩を踏み出したとき、夜風がふわりと吹き抜けて、殺生丸がゆっくりと瞼を持ち上げた。

「――どうした?」

 思いがけず彼が声を発したので、紗夜は目を見開いた。反射的に謝罪の言葉が出かけるが、殺生丸の瞳が柔らかな色をしていたので思い留まる。

 代わりに少し歩みを進めて彼の側まで行き、その隣にゆっくりと腰を下ろした。殺生丸は拒むことなく受け入れてくれる。緊張と喜びが一緒になって、紗夜の胸をきゅっと締め付けた。

「……お側にいても、いいですか……?」

 すぐ隣にいる殺生丸を直視することは出来なくて、紗夜は目を伏せながら小さな声で尋ねた。彼が少し上から自分を見下ろしているのが分かる。

「好きにしろ」

 静かな優しい声音に顔を上げれば、彼は丁度視線を空へと移した所だった。重ならない視線はもどかしく、けれど、何だかとても愛しい。

 紗夜は凛とした殺生丸の横顔を見つめ、頬を赤く染めて目線を落とした。とん、と肩を殺生丸に寄せてみたが、咎められることはない。

「……髪を結ったのか」

 唐突に投げかけられた彼の言葉に、紗夜はそうだった、と思いながら髪に触れる。

「はい、りんちゃんが結ってくれて。花で編んだ紐だから、すぐ解けてしまうかもしれませんけど……。どう、でしょうか……?」

 おずおずと顔を上げて問うと、殺生丸はこちらを向いた。ようやく重なった視線に、ついドキッとしてしまう。
 そんなとき、彼のはっきりした声が耳に届いた。

「似合っている」

「!!」

 金色の瞳に見つめられながら低い声でそう言われて、紗夜は目を見開いた。
 何か言ってくれるだろうか、と淡く期待していたが、彼は紗夜の期待以上の言葉をくれた。

 嬉しくて、でも少し照れくさくて。紗夜は「ありがとうございます……」と小さな声で言いながら、やっぱり緩んでしまう頬を押さえた。

 少しして殺生丸を見ると、穏やかな顔をしている。
 今この瞬間がとても幸せだった。胸の中が温かく満たされている。彼もひょっとすると、そんな温もりを感じているのかもしれない。

 そんなことを考え、紗夜はゆっくりと殺生丸の視線の先を辿った。
 群青色の夜空には、幾万もの星が光を放っている。小さな、ほんの小さな粒のような光なのに、星々はいつまでも輝きを失わない。

「……きれいな空ですね」

 ぽつりと呟くが答えはない。だが、そんなことは全く気にならなかった。紗夜はいつか、殺生丸が言ってくれたことを思い出していた。

 こんな、星が綺麗に見える夜、彼は心のままに思うことを教えてくれた。紗夜に物思う心を思い出させてくれたのだ。
 胸が締め付けられて目を細める。

 今まで、殺生丸やりんや邪見や阿吽たちと一緒に旅をしてきた。楽しいことも嬉しいことも、悲しいことも辛いことも、本当に色々なことがあった。
 けれど振り返ってみれば、やっぱり自分は幸せだったように思う。

 犠牲も、自分が負うべきものも、決して忘れたわけじゃない。これからもそれは一生紗夜の肩に圧し掛かり、心に暗い影を落とすだろう。

 だがそれでも、紗夜はこの旅の中でかけがえのないものを見つけることが出来た。
 綺麗なものを素直に綺麗だと思える心、仲間を得た喜び。そして――。

 心から愛しいと思う人に巡り逢えたこと。生きる喜びを知り、心の底から生きていたいと思えたこと。
 失くしていたもの、知らなかったものを沢山得ることが出来た。それがとても幸せだった。

 だから、もう失いたくない。この幸せを、失くしたくない。

 不意にじわりと涙が滲んで、空がぼやけた。これ以上泣くまいとして、何度も唾を飲み込んで耐える。
 けれど、耐えようとすればするほど涙が込み上げてきて、結局少し泣いてしまった。

 せめて声は漏らさないように、隣にいる殺生丸に気付かれないように、紗夜はさりげなく口を手で塞ぐ。
 だが、彼には既に気付かれていた。

「怖いのか?」

「!」

 低音で呟くような彼の言葉は、紗夜の今の気持ちをぴたりと言い当てていた。本当に、彼は何でもお見通しだ。

「……真実を知ることが、怖いんじゃないんです……」

 紗夜は着物の袖で涙を拭い、俯きがちにそう答える。

 真実を知ること――自分のこの異常な体が、両親と関係があること。それを知るのも、決して怖くないわけではない。
 でもそれは、紗夜自身が知りたいと望んでいることなのだ。そして殺生丸たちもきっと、紗夜にどんな秘密があっても受け入れてくれる。だから未知の恐怖にも耐えられる。だが――。

「怖くて……死ぬことが、怖くて……。要を利用した人は、私の命を狙っています……。私も殺されるかもしれないし……殺生丸様や、りんちゃんたちにも、何かあったら……っ」

 震える声でそこまで言って、紗夜は唇を噛んだ。

 これまで死の恐怖なんて感じたことはなかった。けれど、今なら分かる。

 大切な仲間がいるから、愛しい人がいるから。ずっとずっと一緒にいたいと思う未来があるから、死ぬのが怖い。大切な人を失うことも。

 誰一人、欠けていい存在なんてない。みんなが無事でないと、幸せになんて生きていけない。

「私、今日すごく楽しくて……。りんちゃんと邪見様と遊んで、殺生丸様のお側にいられて、すごく幸せでした。この幸せがずっと続けばいいのにって、何度も思って。でも……もしそのうちの何かを失ってしまったらって考えると……すごく、怖いんです……」

 消え入るような声で言ったとき、それまで黙って聞いてくれていた殺生丸の腕が紗夜の肩を包むように、そっと抱き寄せてくれた。
 布越しに感じる温もりにゆっくりと顔を上げれば、金色の瞳が優しく紗夜を捉えてくれる。

「……お前を死なせはしない。何があっても、私が必ずお前を守る。お前の幸せと共に」

 囁くように、けれどしっかりとした声音で殺生丸はそう言うと、肩を抱いていた手を放して紗夜の頬に伝っていた涙を指で拭ってくれた。

 涙で揺らぐ視界の中、目に映る彼の表情はいつもとあまり変わらない。それなのに、涙を掬ってくれる手つきが、紗夜を見る瞳が、とても優しくて。
 彼の心の強さに、優しさに、また涙が零れてしまった。

「……殺生丸様……」

 紗夜は殺生丸の腕の着物を握ると、彼の肩に額を寄せた。

 ――ありがとうございます。

 小さな、掠れかけた声だったが、彼にはちゃんと聞こえたようだった。ふわりと、殺生丸の手が紗夜の頭を撫でてくれる。

 ――恐怖も不安も、完全に拭えたわけじゃない。けれど、殺生丸様が側にいてくれる。私も、私の幸せも、あなたが守ってくれる。だったら、私も……。

 私も、あなたを守りたい。力も何もない私だけど、私も、あなたの幸せを守りたい。だから、少しでも強くあれるように……。

 紗夜は心の中で願いを込めて、ずっと殺生丸の温もりを側に感じていた。





 夜は次第に深さを増して、気が付けば焚火の傍にいたりんたちはもう眠ってしまっていた。

 紗夜は変わらず殺生丸の隣に座りながら、少し重い瞼を上げて、星空を見上げる。先ほどよりも輝きを増したそれは、辺りを薄青く照らしていた。

 澄んだ星空の美しい情景を眺めて、紗夜はふと、邪見の言っていたことを思い出す。
 殺生丸は、“奈落”という人物を追って旅をしているのだと。
 
 だが、紗夜が一行に加わってから、奈落云々の話は聞いたことがない。
 殺生丸が奈落のことを置いておいて、紗夜の問題に付き合ってくれていることは明白だった。

 今更という気もするが、そう思うと申し訳なくなって、紗夜はおずおずと殺生丸へ視線を移す。

「あの、殺生丸様……。私のせいで殺生丸様の旅を遅らせてしまって、ごめんなさい……」

「構わん。奈落になど、すぐに追いつく」

 謝ると強気な答えが返ってきて、紗夜はきょとんとしたが彼らしさに笑みが浮かんだ。

「……そうですね。これが終わったら、すぐに奈落を追いましょう」

 どんな結末が待っているのか、それは誰にも分からない。ただ、これが終わったらきっと、紗夜のしがらみに一つの決着がつく。そんな予感がした。これで終わらせるんだと、紗夜はもう一度星空を見上げ、心の中でそっと誓った。

 そのとき、

「……紗夜」

「はい、」

 不意に殺生丸に名前を呼ばれて、紗夜は彼を振り返った。
 そして、彼がいつもより真剣な面持ちをしていることに気が付く。つられるように紗夜も口を結ぶと、殺生丸がゆっくりと口を開いた。

「紗夜。お前の問題に方が付き、私が奈落を倒したら……お前と、祝言を上げたい」

 殺生丸は真っ直ぐに紗夜を見つめてそう言った。
 迷いも躊躇いもない口調に、紗夜は目を見開いて動きを止め、彼を凝視する。

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。だが、彼の言葉を何度も何度も反芻し、ようやく意味を理解していく。

「っ……!!」

 途端、紗夜は驚きや喜びや愛しさ――色々な感情が押し寄せてきて、口を押えた。
 まさか、殺生丸がそんなことを考えてくれていたとは思わなかった。本当に、本当に、嬉しかった。

 暗い運命に縛られて、どこへ行ってもやっかまれた自分。
 そんな自分がお嫁に行けるだなんて。本当に今まで、一度も考えたことがなかった。
 でも殺生丸は、そんな紗夜を受け入れ、妖怪と人間という壁を越えて紗夜を望んでくれている。

 これ以上の幸せなんて、きっともうどこにもない。

「っ……う……っ、ぐすっ……」

 自然と涙が溢れ出し、大粒の滴が頬を流れ落ちた。

「私とでは嫌か?」

 ふ、と笑いながら殺生丸が言って、紗夜はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。

 そんなはずない、そんなこと、あり得るはずがない。
 だって、私はこんなにも、あなたを愛しているのに。

「私で……私で、いいんですか……?」

 震える声でそう問えば、殺生丸の手が紗夜の濡れた頬を柔らかく包む。自然と顔を上げさせられて、彼と目を合わせれば、大好きな金色の瞳があった。

「……私は、お前がいい」

 殺生丸は微かに笑みを浮かべながらそう言うと、紗夜の唇を優しく塞いだ。突然のことに紗夜は身を固くしたが、すぐに目を閉じてそれを受け入れる。

 口付けの柔らかな感触と温もりに体中が熱く火照って、頭まで麻痺しそうな、そんな錯覚を覚えた。
 触れるだけのそれは、紗夜が呼吸を止めて苦しくなってきた頃そっと離れ、紗夜は浅く息をする。

 赤く染まった顔を上げ、穏やかな表情をした殺生丸を見上げて、紗夜はふわりと柔らかく微笑んだ。

「私もです……。ずっと、殺生丸様のお側にいさせてください」





 殺生丸は自分の肩に頭を乗せ、寝息を立てている紗夜を見つめた。
 勢いよく首を振ったときにでも解けたのだろう。いつの間にか、紗夜の髪を結っていた花の紐が地面に落ちていた。紗夜の髪は風に揺れ、甘い香を運んでくる。

 無防備な寝顔と、伝わってくる体温。彼女の全てが愛おしく感じた。
 思わず口元を緩め、殺生丸は視線を前に移す。

 まさか自分が、人間の女に惚れ込むとは思わなかった。未だに信じられないと思うときもあるが、紗夜を想う気持ちに偽りはない。
 だから、紗夜が自分の側にいればいいと思うし、彼女の幸せを守りたいと思う。

 殺生丸はそんなことを考えて目を細め、仄暗い夜を見据えた。
 そして、紗夜の身体を少し起こして木に凭せ掛け、徐に立ち上がる。紗夜は寝入っているようで目を覚ますことはなかった。

 夜風が吹きつける中、殺生丸は数歩歩みを進めて止まり、己の鎧に手をかけた。ガシャリと鈍い音がして鎧は草の上に転がり、肩からその重みが消える。

 殺生丸は着物の上から左肩を撫で、眉を顰めた。既に修復された着物に、要から受けた刀傷の痕はない。だが……。

「…………」

 殺生丸は着物の合わせ目を開き、露わになった左肩を見た。
 要に刺されて数日経った今、傷口こそ塞がったものの黒い痣が消えない。しかもその痣は痛みはないものの、日に日に身体中に広がっている。今は左胸、左肘にまで達していた。

 紗夜の結界を通り抜ける刀で刺されたのだ、こんなことがあってもおかしくはない。だが、これだけの痣を残しておきながら何の支障もないのが引っ掛かる。

 ――そして、あの男……。死にかけるまで、この私が死人だと気が付かなかった。

 殺生丸は、眉間の皺を濃くしながら考えて着物を直した。

 分からないことばかりだ。紗夜の身体が紗夜の両親と関係があるという理由も、見当がつかない。

 ――行かねば分からん、ということか。

 殺生丸は心の中で呟き、再び鎧を身に着けると静かに踵を返した。

 この奇妙な痣のことを紗夜は知らない。殺生丸も伝えるつもりはなかった。伝えればきっと紗夜は必要以上に心配するだろうし、また自分を責めるだろう。もう紗夜にそんなものは必要ない。

 そのときふと、先ほど口付けたあと微笑んだ紗夜の顔が、声が浮かんで、殺生丸は思わず歩みを止めた。

 青白い光がその後ろ背を照らし出す。

 満ちかけた月に、まだ誰も気付いていない。

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