二十二話 さようなら、仮初の幸せよ

 温かな日の光に包まれた穏やかな日々。庭には美しい花が咲き乱れ、小鳥が楽しげに囀っている。過ぎ去っていく風はいつも優しく、心地良かった。
 ――そんな幸せな毎日を、七つの紗夜は安穏と過ごしていた。

「兄様、今日は何をして遊ぶの?」

 幼い紗夜は、四つ年上の兄――蓮の顔をにこにこと見上げながら、その袖を引っ張った。

「紗夜、今日は遊ばないんだよ。そろそろ楽の練習もしなきゃね」

 苦笑しながらそう答える蓮に、紗夜は視線を落とした。

「……私、楽の練習きらい。だって、笛もお琴も上手に弾けないんだもん」

「そんなことないよ。まだ、練習をあまりしてないだけ。ほら、母様に教わっておいで」

「はあい……」

 紗夜は少ししょんぼりしながら、蓮に連れられて、縁側に座って二人を見ていた母の元に行く。

「まあ、紗夜ったらそんな顔をして。私とのお稽古が嫌いなの?」

「上手に弾けないから、練習したくないんだって」

 母が冗談交じりに問えば、蓮が答えた。すると、母は笑みを浮かべながら紗夜の手を優しくとる。

「大丈夫よ。練習すれば、あなたも上手に弾けるようになるから、ね?」

「……うん!」

 母に頭を撫でられて、紗夜はにっこりと微笑んだ。そうして、紗夜が早速屋敷に入って琴を弾く用意をしていると、奥の部屋から父が出てきた。

「あなた、今日はお帰りになりますか?」

「ああ。今日はこの辺りの村を回るだけだから、夕方頃には帰るよ」

 父は母に柔らかく答えると、紗夜が琴をつついているのに気が付いた。

「……紗夜は、琴の練習をするのかい?」

「はい……。あんまり上手じゃないから……」

 紗夜の父は忙しい人で、都まで出仕をすることも多く家に帰らないことも頻繁だった。だから、紗夜はあまり父と話したことがない。元からお喋りな人ではないこともあって、父と話すのに慣れていなかった。

 それでも小さな声で答えると、父は屈んで紗夜の頭を撫でてくれる。そして紗夜の瞳を、何も言わずじっと見つめた。

「……父様?」

 紗夜が小首を傾げると、父ははっとした様子で「頑張りなさい」と微笑んで屋敷を出て行った。

 それから紗夜は昼過ぎまで母と琴の練習をし、母からの許しが出たので蓮と遊びに出かけた。





「兄様、お花を見に行きたい」

「うん、いいよ」

 紗夜は蓮に手を握られながら、屋敷の裏手にある小高い丘の花畑へ向かう。丘の天辺に着くと、風の中で色とりどりの綺麗な花が数えきれないほど沢山揺れていた。

「今日もきれーい!!」

 紗夜は駆け出して花畑の中に飛び込むと、白くて小さな花に顔を近づける。花の甘い匂いに胸が躍った。蓮は、日課になりつつある妹の行動に微笑むと、彼女の近くに腰を下ろす。

「そういえば、あと三日だね。紗夜の生まれた日まで」

「うん! 今年で八つだよ」

「八つか……もうそんなに経つんだなぁ」

 蓮は感慨深そうに呟くと、暮れなずむ茜色の空を見上げた。

「兄様? どうしたの?」

 紗夜が問いかけると、蓮は「何でもないよ」と呟いた。

 しばらく花畑での時間を楽しみ、やがて空が薄暗くなり始めると、蓮が立ち上がった。

「紗夜、そろそろ帰ろうか。じきに、夜になるから」

 紗夜は来たときと同じように蓮に手を引かれ、丘の道をゆっくりと下りて行った。いつの間にか日は落ち切って、夜空には幾つもの星が瞬き始める。

「あ……兄様」

「ん? なあに?」

 言葉を切った紗夜を見ると、彼女の小さな指が空を真っ直ぐ指していた。蓮がその指し示す先を見てみると、あと数日で満ちるかのような、月。

「…………」

 それを見て、蓮は少し険しい顔をした。

「……兄様。私、またお寺に行くの……? 生まれた日でも?」

 くい、と袖を引かれて紗夜を見ると、彼女は不安げに俯いている。蓮は眉尻を下げて妹と同じ目線の高さに屈むと、その肩を包むように押さえた。

「……そうだね。生まれた日でも行かなきゃいけないんだよ。満月の夜は、怖い妖怪が沢山襲ってくるんだから……」

「うん……」

 蓮の言葉に紗夜は小さく頷いた。蓮は悲しげに瞳を細め、小さな妹を抱きしめる。

「大丈夫だよ、紗夜。僕も一緒にいるから……。必ず、紗夜を守るからね……」

 紗夜は兄の温もりに少し安心して、もう一度ゆっくりと頷いた。
 月は冴え冴えと冷たく、空に輝いていた。





 三日後――。その日は早朝から屋敷中が慌しく、下働きの奉公人たちが廊下を行ったり来たりしていた。
 月に一度、満月の日はいつもこうだ。紗夜が物心ついた頃には既にこの習慣が屋敷の中で定着しており、紗夜は夜になる前に村の近くの寺に預けられる。そこで何人もの法師が祈祷をするなか、一晩ずっと寺の中で過ごすのだ。

 紗夜は、その理由を大まかにしか聞かされていない。兄にも母にも何度も尋ねたが、二人ともはっきりとは教えてくれなかった。
 ただ、満月の夜はたくさんの妖怪が来るから寺に隠れていなければいけない、と。

 だから紗夜はいつも、兄と一緒に寺に隠れる。しかし、父や母、村の人たちは隠れなくてもいいのだろうか?
 紗夜は常々疑問に思っていたが、きっと答えてはもらえないだろうと思って聞かなかった。

 紗夜がそんなことを考えながら室内でぼんやりしていると、廊下で奉公人と母の話し声が聞こえた。紗夜はこっそり廊下に近づいて、その会話を聞いてみる。

「――奥方様、西の祠と南の祠は既に準備が整いました」

「そう。残りの準備ができ次第、すぐに結界を張ってちょうだい」

「はいっ、伝えて参ります」

 奉公人の走り去る音が聞こえたと思ったら、紗夜が耳を寄せていた襖が開いた。

「! 紗夜、聞いていたの!?」

「……母様、結界って……?」

「……まあ、これはいいでしょう」

 母は襖を閉めて紗夜の前に座ると、声を落として話してくれた。

「いい、紗夜? 妖怪はね、満月の夜にだけ現れるものじゃないの。満月の夜はただ数が多いというだけ。昼間でもいつでも、妖怪はここを襲ってくるかもしれないの」

 母の言葉に不安になって、紗夜は顔を曇らせた。そんな紗夜を見て、母は目を細める。

「安心しなさい。そういう日は妖怪の数も多くないから、祠のお札だけでも村を守れる。普段、この村で妖怪を見ることはないでしょう?」

「はい……」

「だけど……満月の日は、偉いお坊さんに結界を張ってもらわなきゃいけないのよ」

 僅かに目を伏せた母の話を聞き、紗夜はそうだったのか、と納得した。
 ついでにどうして自分と兄だけが寺に行くのか聞こうとしたが、母は話し終えるとすぐに腰を上げてしまう。

「それじゃあ、私は準備をしてくるわ。蓮の側にいるのよ」

 母はそう言い残し、襖を閉めて部屋を出て行ってしまった。
 そういえば、兄はどこに行ったのだろう。廊下に顔を出して覗いてみるが、蓮の姿は見えない。

「兄様……?」

 不安になって庭の方を見に行くと、丁度向こうから蓮が走って来たところだった。

「紗夜ーー!」

「兄様、どこに行ってたの!?」

 紗夜は履物を履いて庭に飛び出すと、肩で息をする蓮を出迎える。
 蓮は額や首に汗を伝わせながらにっこりと微笑むと、紗夜の方に手を差し出した。その手には白くて小さな花を集めた花束が握られている。

「今日は紗夜が生まれた日だから。おめでとう、紗夜」

「っ、兄様……! ありがとう……!」

 紗夜は花束を受け取って、満面の笑みでお礼を言った。
 あの丘の上の花畑に咲いていた花と同じ。満月の日は不用意に出歩くなと言われているのに、蓮は母の言いつけを破り、そして危険を冒して丘の上までこの花を摘みに行ってくれたのだ。紗夜のために。

 ――忘れられると思ってた、私の生まれた日……。兄様、ありがとう。

 きっと、明日になって思い出したように祝われるのだろうと思っていた紗夜は、思い掛けない兄の贈り物が本当に嬉しくて、つい頬を緩ませた。

「……っ」

「! 兄様、大丈夫……?」

 ふと、蓮が苦しそうに息を呑み込んだ気配がして、紗夜は花束から顔を上げた。

「うん……、大丈夫だよ」

 蓮は未だに荒い呼吸を繰り返していたが、軽く汗を拭うといつものように笑って見せる。

 季節はまだ肌寒ささえ感じる春だ。この時期に少し走ったくらいで、こんなに汗をかくものだろうか……?

「大丈夫だよ、紗夜。急いで戻って来て、少し疲れているだけだから」

「うん……」

 不安な気持ちを抱えていると、蓮はそれを溶かすように優しく笑って、紗夜の頭を撫でてくれた。いつもと変わらない兄の姿に、紗夜の疑念も少しずつ薄まっていく。
 
 何か引っかかりを覚えつつも、紗夜は蓮に促されるまま屋敷に入った。やがて、屋敷の中の慌ただしさに呑まれてしまって、次第にその小さな疑念のことも忘れてしまった。





 ――あっという間に日が暮れて、もうすぐ月の掛かる夜が訪れようとしていた。

「紗夜、仕度は済ませた?」

「はい、母様」

「父様は留守にしているけど、屋敷のことは心配しないでね。気を付けて……」

「紗夜、行こう」

 紗夜は母に小さく手を振って、蓮と一緒に屋敷を出た。
 数人の法師に囲まれながら村へ下りると、通りにある家屋の戸は全て閉じられていた。ひっそりと静まり返った村はまるで廃村のようで、紗夜は不気味さを感じながら蓮と共に寺に向かう。

 寺に続く道は村の外れにあり、これまで何度も通って来た。夕陽に照らされ、草木だけが静かに揺れる道を歩いて行く。
 紗夜は手に握った白い花束を見つめた。

 ――早く、明日になればいいのに。

 寺で過ごす時間はいつも退屈で、そしてとても不安だ。妖怪というものは見たことがないけれど、母や奉公人、祈祷を捧げる法師たちの張り詰めた顔を見れば、とても怖いものだということは想像できる。

 寺にいる紗夜や蓮は安全だろうが、母や屋敷の皆、村の人たちは大丈夫なのだろうか?

 浮かんだ不安を押し込めるように、紗夜は手の中の花束を握りしめた。いつもそうしているように。

 ――明日になったらまた兄様と遊んで、母様と楽の練習を頑張って……。それで楽が上手になったら、父様に聞いてもらいたいな……。

 今までと同じようにくる明日。当然のようにくる明日を想って、紗夜が少しだけ胸を落ち着けたときだ。

「ぎゃあぁぁっ!! 妖怪だ!!! 妖怪が出たぞーーっ!!!」

「――!!」

 たった今通り過ぎてきた村の方から叫び声がして、皆が足を止めて振り返った。紗夜も慌てて後ろを振り向く。そして、目を見開いた。

 真っ赤に染まった空に、幾百、いや幾千もの黒い影がひしめいている。禍々しく邪悪な、地の底から唸るような恐ろしい声が空の上から響いてくる。

 ――あれが。

「よう、かい……」

 声が漏れた次の瞬間にはもう、全てのものが動き出していた。

「っ、どうして……!! いつもは夜になるまで襲っては来なかったのに!!」

 蓮は珍しく声を荒げると、握っていた紗夜の手を法師に託す。

「僕、行ってきます! 母は屋敷の中にいるから、まだこのことを知らないかもしれない! 紗夜を、お願いします!!」

「兄様っ!!」

「落ち着いてください、紗夜様!! 蓮様を追いかけてはいけません!! あなたは、一刻も早く寺に行かなければ!!」

「嫌っ、放して!! 兄様ーー!!」

「あっ、紗夜様!! お戻りください!!」

 紗夜は身体中をじたばたさせて暴れまくり、法師の手を振りほどいた。
 兄の背は既に遠くなっていて、慌てて後を追いかける。白い花束は暴れた拍子に、冷たい地面に散らばった。

 走りながら紗夜は空を見上げた。さっきよりも妖怪の姿が近く、そして数も多くなっている。

「っ……」

 紗夜は恐怖で足が動かなくなりそうなのを我慢して、必死に屋敷へと走った。兄を放って自分だけ安全な所に行くなんて絶対に嫌だった。あんな恐ろしいものを見て兄は大丈夫だなんて、とてもじゃないけど思えない。

 ――早く、早く……!

 紗夜は村人たちが自分の家へ逃げ込むのを横目に見ながら、村を通り過ぎ、屋敷への坂道を一息で駆け上がる。息が切れて、今にも倒れそうだった。
 それでも何とか屋敷に辿り着き、紗夜はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。

「! 紗夜、どうしてここに!!?」

 庭先に行ってみると、母が信じられないというように目を見開いて紗夜を見た。

「紗夜……?」

「兄様! っ――」

 兄の声がして庭に入ると、屈んだ母の足元にぐったりした様子の蓮が寝ていた。紗夜は、思わず息を呑んで立ち尽くす。蓮はふと苦しそうに笑った。

「黙っててごめん、紗夜。僕は小さなときからずっと肺の病だったんだ……紗夜を心配させたくなかった。でも、大丈夫だから……すぐに治まる――っげほっげほっ!!」

「蓮、もう喋らないで!! っ、紗夜!! あなたは早く寺へ行きなさい!!」

「!」

 紗夜は初めて見るほど厳しい母の目を見て、思わずびくりとする。
 しかし、兄がこんな状態で自分だけ安全な所に逃げるなんてしたくない。病気なら猶更だ。紗夜はぶんぶんと首を横に振って、母の言葉を拒絶した。
 すると母は、キッと紗夜を鋭く睨みつける。

「早く行きなさい!! あなたが行かないと――」

「やめて、母様」

「! 蓮……だけど、この子がここにいたら……」

「分かってる。だけど……紗夜に、惨い思いをさせたくない……」

 蓮は苦しそうに顔を歪めながら身体を起こすと、手を伸ばして紗夜の頭を撫でた。

「紗夜、大丈夫だから……。明日になったら、僕はまた元気になる。だから、いい子にして? すぐに……寺に、戻るんだ……」

「っ……やくそく……」

「うん、約束。ほら、お行き――」

 兄がにっこり微笑むのを見て、紗夜は頷き立ち上がった。

 ――怖い……。兄様が元気にならなかったら? 妖怪に、食べられたら? もう……もう二度と会えなくなる……。私がいない間に兄様も母様も死んじゃったら……怖いよ。離れたくない。だけど……兄様も母様も、私はここにいてはいけないって。

 紗夜は目に浮かんだ涙を乱暴に袖で拭った。

 いつも、どんな時でも兄は側に居てくれた。その兄が自分から離れて、紗夜に行けと言うのだ。きっと、何か理由がある。

 紗夜は自分に言い聞かせながら顔を上げ、庭を出た。
 その瞬間。

「見ぃつけたァ……」

「―――」

 聞いたこともないような、奇妙な、恐ろしい声が頭上から降ってきた。
 紗夜はびくりと足を止め、恐る恐る上を見上げる。

 ギョロギョロした大きな一つの目玉。鋭く大きな嘴と爪を光らせ、一つ目の巨大な怪鳥が紗夜の頭上に浮いていた。黒い翼がガサガサ不気味な音を立てて動いている。

「きゃあああっ!!」

紗夜は恐怖に悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んだ。シャアアッと、妖怪が雄たけびを上げて襲いかかってくる。

 しかしその瞬間、ジュッ――と溶けるような音がして怪鳥が消え去った。屋敷に張った結界の跡が、壁のようにうっすらと目の前に残っている。
 紗夜は恐怖で足が竦み、立ち上がれなくなってしまった。

「蓮、もうダメよ、妖怪が集まってきている!! ここの結界じゃ長くは持たないわ!!」

「奥方様!! いつもより妖怪の数が多く、東と南の結界が破れました!!」

「な、何ですって!!?」

「――っ、く、そ……っ」

 蓮は母と奉公人の言葉を聞いて、ゆっくりと立ち上がる。

「蓮!? 一体、どうするつもりなの!?」

「母様、僕が……僕が紗夜を、連れて行きます」

「何を……何を言っているの!? そんな身体で動けるわけがないでしょう!!」

「でも!! きっともう、寺へ行っても手遅れです。寺の結界もすぐに破られるかもしれない。村への被害を考えれば、今すぐ紗夜をここから連れ出すしかありません」

「だったら……だったら……ッ!! ――あなたが一緒に行く必要なんてない!! お願いよ蓮、行かないで……!」

 母は何かを叫びかけて止め、押し殺した声で懇願した。その必死な顔を見て蓮は悲しげに目を細め、縋る母の手をほどく。

「それでも……紗夜は僕の妹だから。紗夜はまだ八つです。村を出て一人で生きていくなんて出来ない。僕にしか、出来ないんだ……」

「蓮!! 蓮、お願い、やめてっ!!」

 蓮は泣き叫ぶ母を少し振り返ると、そのまま紗夜の元に駆け寄った。

「紗夜、立って。村を出よう。ここはもう、安全じゃないから……」

「うっ、っ、兄様……病気、は?」

「治った。ほら、行こう!」

 蓮は泣いている紗夜を強引に立たせ、屋敷を飛び出した。病に蝕まれた身体を引きずるようにして懸命に走る。

 紗夜は蓮に手を引かれて走ったが、苦しそうな兄の横顔に胸騒ぎがした。やっぱり、治ったなんて嘘だ――そう思ったけれど、声を掛けられる雰囲気でもなく、大人しく兄について行く。

「どこだァ、どこにいる!!?」

「喰わせろォ、その身を喰わせろォッ!!」

 空を埋め尽くす妖怪が口々にそう叫びながら、何かを探すように旋回している。
 紗夜は出来るだけ妖怪を見ないようにして、兄の背だけを見つめて走った。
 
 やがて村まで下りて、二人は一瞬たじろいだ。村は轟々と燃え上がる炎に包まれ、人々は悲鳴を上げながら逃げ惑っている。妖怪に喰われ襲われ、飛び散った血が炎に照らされて生々しく光っていた。

 紗夜も蓮も、眼前の地獄から目を逸らせなかった。これが現実だと受け入れるまでに時間がかかった。そして、先に我に返ったのは蓮だった。

「紗夜、こっちだ! 早く!」
 
 蓮は呆然とした紗夜の手を引き、村の脇道に押し込もうとする。その時だった。

「おいッ、いたぞおぉっ!! 妖怪ども、おめえらの目当てはあの娘だろう!! これ以上村を襲うなっ!!」

「何ィ……?」

 村人の叫び声を聞いて、屋敷の方に向かっていた大鬼が足を止める。そして、村人が指さす方を見て――紗夜を見て、ニィッと気味悪く笑った。

「見つけたぞォ、紗夜……!」

「っ!?」

 ――どうして私の名前……、なんで妖怪が私のことを知ってるの……!? 私を、探してたの……?

 紗夜は、鬼のギラギラした目に怯えながら、そういえばあの怪鳥も同じようなことを言っていたと思い出す。

 なぜ妖怪たちが自分を探していたのか――。
 考えて、紗夜はハッとした。

 ――まさかこの地獄のような光景は、自分が招いたもの……?

「っ、逃げるんだ、紗夜!!」

 紗夜は立ち止まってしまった。足が動かなくて、何が何だか分からない。屋敷の方から爆発音がして、屋敷がゴォゴォと音を立てて燃えている。

「何してるんだ紗夜、早く逃げろ!!」

 鬼から庇うように兄が紗夜の前に立って、初めて聞くような大声を出した。
 頭は霧がかかったようにぼうっとしているのに、色んな音に掻き消されてしまいそうなのに、その兄の声ははっきりと聞き取れて。

「退けえぇっ、小僧ォ!!」

「――っ!! 蓮、早く逃げてえぇぇっ!!!」

 恐ろしい鬼の声と、兄を庇うために走る母の声。全てが黒く、黒く、炎の中に焼き付いていく。

 鬼の鋭い爪が、空を切って振り下ろされた――。


「―――」

 
 全ての音が消えた。大切な人が地面に倒れる。それは、そのひとは。


「に……い、さま……」


 呟いた瞬間に、全ての音が蘇った。

「嫌あああぁぁっ!!!!」

 母の、絶叫に近い悲鳴が辺りに響き渡る。

「蓮、蓮!! しっかりしてっ、蓮っ!!」

「っ……う、ぐ………」

 紗夜はとぼとぼと兄の方へ歩み寄った。倒れ伏した兄を見下ろすと胸に大きな穴が開いていて、そこから真っ赤な血が溢れ出ている。

 怖いとは思わなかった。というより、感じる機能が麻痺していた、と言った方がいいかもしれない。紗夜の意識はずっと、ずっとぼんやりしていた。

 蓮は、紗夜の姿を見つけると弱々しく微笑んだ。優しくて、でも寂しい笑顔だった。母が兄を抱き起こしながら、狂いそうなほど泣いている。

 ――ああ……きっともう、兄は助からない。もう二度と会うことも、話すことも、遊ぶことも、何も出来ない。

 つっと、紗夜の頬に涙が伝った。

「紗夜……」

 虫の息で、蓮が紗夜の名前を呼んだ。そして、彼は掠れる声で。

「紗夜、どんなに……辛いことがあっても、生き、て……」

 蓮はそう言うと、紗夜を見ていた優しい瞳を閉じて動かなくなった。

「蓮……? 蓮!! 蓮っ!!!」

 母は死んだ蓮の身体を揺さぶりながら、何度も何度もその名を呼んで泣き叫ぶ。

「……兄、様……」

 兄の側に行こうと紗夜が一歩足を踏み出すと、母が勢いよく振り返った。すると――。

「来ないで!!」

「!!」

 母の怒声に紗夜はビクッと肩を跳ねさせ足を止めた。

「あなたのせいで……あなたのせいで、蓮は死んでしまった!! 全部全部あなたのせいよ!!!」

「――っ」

 母は叫ぶと、憎悪の籠った瞳で紗夜を睨み付けた。見たことのない母の形相に驚き、そしてその言葉の意味が分からず紗夜は困惑する。そうしている間に、今度は兄を殺したあの大鬼が雄たけびを上げた。

「紗夜、覚悟ォォッ!!!」

「ッ!」

 鬼に注意を向けたときには、既にその巨大な腕がこちらに降ってくるところだった。
紗夜は恐怖に捉われながらも反射的に身を庇うように手を翳し、ぎゅっと強く目を閉じてやってくる痛みに備えた。

 けれど、心の中ではもうどこか諦めていた。ああ、これで死ぬのか、兄と一緒に。
 そう、思っていたのに。

 ――バチバチバチッ!!!

「ギャアアアアッ!!」

 稲妻が轟くような、弾けるような音が聞こえた次の瞬間、鬼が苦痛の声を上げた。
 紗夜は恐々と目を開け、そして、信じがたい光景を見る。

「なに……これ……」

 バチバチと自分の周りを取り巻く透けた球体。そしてその向こうには、腕を焼かれ悶え苦しむ鬼の姿。

「紗夜!! 貴様ァ、何をしたァッ!!?」

「っ……知らないッ!! 私は、私は……」

 ――私は、何なの……?

 紗夜は、急に怖くなった。なぜか妖怪に狙われて、さっき殺されていたはずなのに死んでない。自分は一体何なのか。

 背を丸め恐怖に震える紗夜を見て、母はフッと笑みを浮かべた。

「ふふふふふ……あっはははははっ!!!」

 母は狂った笑い声を上げると、兄の身体を地面に横たえゆらりと立ち上がる。紗夜は狂気に満ちた母の様子に声を上げることも忘れ、けれど、目を離すことも出来なかった。

 母は煤に汚れた顔を歪めるよう笑い、憎悪に燃える瞳を紗夜に向ける。

「ようやく気付いたようね、自分が“異常”だってことに。そうよ、あなたは化け物なのよ、紗夜」

「化け、もの……?」

「そう、化け物。満月の夜、妖怪たちは村を襲いに来るんじゃない。妖怪たちはあなたを……あなた一人のために、ここを襲いに来るの!!」

「!! そ、んな……でも、何のために……」

 紗夜は半信半疑のまま、震える唇で母に尋ねる。彼女はふん、と鼻を鳴らすと、辺りに集まってきた妖怪を見た。

「妖怪たちはあなたの身体を、魂を欲しがっている。その命を喰らえば、驚くほどの妖力と寿命を得ることが出来るのよ。だから、妖怪たちは血眼になってあなたを探す。どこまでもどこまでもね。けれど……」

 母は鋭い目を紗夜に戻すと、冷たい笑みを浮かべた。

「妖怪たちはあなたを喰らうどころか、殺すことさえ出来ない!! あなたを守る結界が、その殺意を許さない!!」

「どうして……どうして、私はそんな身体に……?」

「……生まれたときから、そうだったわ」

 母は少し間を置いて、妙に静かに答えた。
 紗夜が現実を受け入れかねていると、母が紗夜に近づいてきて顔を覗き込んでくる。

「……ねえ、どんな気分かしら? 自分一人のためにこんなに他人が犠牲になって、大切な蓮も……兄上も死んでしまった。それでも自分はその罪を負っていつまでも生き続けなければならない。どこに行ってもやっかまれ、死を望まれても死にたいと思っても、あなたは絶対に死ぬことは出来ない……! それってまるで」

 生き地獄ね。

 母はそう言ってにこりと笑った。

 心の壊れる音が聞こえた。





 その後、近隣の村から妖怪退治屋や法師が来て、紗夜の村の妖怪は一掃された。村から妖怪が消えたのは、夜が明け昼を過ぎ、夕方になった頃だった。翌日、都へ行きかけていた父が、兄の訃報を聞いて戻ってきた。

 兄の葬儀はその翌日に行われたが、紗夜は参加させてもらえなかった。紗夜は修復の進む屋敷の隣にあった蔵の中に押し込まれ、その中でただじっとしていた。昨晩、母に言われたことを思い出しながら。


 紗夜は生まれたときから、“異常”だった。
 紗夜が生まれて初めて迎えた満月の夜、突然襲ってきた妖怪に成す術のなかった両親は、たまたま村を訪れていた高名な僧に助けられた。

 そして、その僧に言われたのだ。この赤子には「妖怪に有益な力がある」と。
 けれど、赤子自身は結界に守られ傷つくことも死ぬこともない。

 僧は惨いことだと言った。巻き込まれた周りの人間は次々と妖怪に命を奪われてしまうのに、事の現況は決して死ぬことはない。

 当然、村の者たちは紗夜を快く思わなかった。すぐに村中から赤子を余所に移せと声が上がり、それは役所にも伝わった。しかし役所は被害の拡大を懸念し、赤子を村の外へ出すことを禁止したのだ。

 そして二度目の襲撃からは、死ぬはずのない赤子に厳重な警護がつけられることになった。
 それは他でもない、兄。
 蓮が、両親に懇願してのことだった。





『……蓮、この子は死なないのよ? 警護なんて、必要ないわ』

 母がそう言えば、幼いながらもしっかりしていた蓮は静かに首を横に振った。

『確かに死ぬことがないなら必要ないことかもしれない。でも、何もかも本当のことを教えるのは、可哀想だよ……』

 自分は、普通の人間じゃないこと。自分のせいで、関係のない人々まで死んでしまうこと。それなのに、自分は決して死なないこと。

 村人から疎まれ、外に出ることも許されない。そんなどこにも行き場のない妹が、蓮は可哀想で仕方がなかった。妹はまだ赤ん坊だが、じきに話すようになり物事も理解できるようになってくる。

 でも、全てを知るには幼すぎるだろう。小さな肩に重荷を負って、心が耐えきれるはずがない。蓮がもしその立場なら、きっと心が壊れてしまう。

『ずっとじゃなくていいんです……。紗夜が、本当のことを受け止められる年になるまで、何も教えないであげてください――』

 そうして紗夜は、真実を知ることがないように寺に隠された。
 八年間も何も知らないまま、この幸せが当然のものだと信じて疑わず、それがずっと続くものだと思って安穏とした日々を送ってきたのだ。

 だが今、紗夜は真実を知ってしまった。
 兄がずっと隠してくれていた真実。
 それは兄が予想した通り、あまりにも重すぎる現実で。

 やはり紗夜も受け止めることができなかった。
 もしも誰か支えてくれる人が側に一人でもいたのなら、紗夜の心が暗闇に呑まれてしまうことはなかったのかもしれない。

 紗夜は暗い蔵の中で膝を抱えて座り、顔を埋めた。そこにはただ静かな闇が広がるばかりで、何も聞こえない。

 ――ねえ、母様……分からないの。どうして……どうして、あんなに怖い目で私を見るの? どうしてあんな酷いことを言うの……? 昨日までは、いつもの母様だったのに……。

 紗夜は思いながら父の顔を思い出した。
 父は母のように紗夜のことを責めたり、憎しみの眼差しを向けてくることはなかったが、何も言ってはくれなかった。
 「蓮の葬儀には出ないで」と言う母の言葉を、父は黙って聞いていただけだ。表情に出さないだけで、きっとそれが父の答えなのだろう。

 ほんのこの前まで当然のようにあった幸せが崩れて、消えてしまう。この家が変わってしまった原因は、一つしかない。

 ――兄様が死んだから。私のせいで、死んだからだ……。死なない私なんかを庇ったから……。

「っ……兄様……!」

 紗夜はぎゅっと拳を握りしめ、血が滲むほど唇を噛みしめた。身体の痛みなんて、心の痛みに比べたら無いも同然だった。

 母はきっと、こんな“異常”を持つ紗夜のことを元々疎ましがっていたに違いない。
 思えば母は、昔から兄を溺愛していた。自分と特別差を感じていたわけではないが、兄を見る母の目は、どんなときも深い愛に満ちていた。

 けれど、先日。紗夜が兄を追いかけて屋敷に行き、母が戻れと言ったときのあの目。
 あの鋭い瞳は、きっと兄のことしか考えていなかったからだろう。
 だから母は意図的でないとはいえ、兄の命を奪った紗夜を憎んでいる。父も、そうなのかもしれない。

 静かな蔵の中では自分が息をする音だけが聞こえていた。か細くていつか途切れてしまいそうな、けれど決して途切れることのない呼吸音。

 ――死にたい。

 生まれて初めてそう思った。どうして自分は生きているんだろう。生きていたって何も生まない、人の命を奪うだけの存在なのに。そんなの、誰も求めない。要らない。
 それなのに、皆に必要とされている兄は死に、要らない自分は生きている。

 ――死にたい。もう、何もかも終わりにしたい。全部全部捨てたら、きっと楽になれる。今ならまだ、夢に出来る――。

 紗夜はゆっくりと顔を上げた。蔵の中には火災の中で残った雑多なものが乱雑に詰め込まれている。――紗夜もその一つに違いなかった。

 紗夜はのろのろと立ち上がり、戸口の方に無造作に置いてあった包丁を引きずり出した。やけに重く感じるそれは、明かり取りの小さな窓から入る、僅かな外光を受けて鈍く光っている。

 紗夜はそれを持ち上げた。躊躇いなく自分の首筋にそれを当てる――。
 けれど、鬼が襲いかかってきたときと同じように、バチバチッ! と結界の阻む音がすると、次の瞬間、銀の刃物は宙を舞って床に刺さった。

「……そっか、本当に死なないんだね」

 紗夜はぽつと呟いて、自分自身を嘲笑った。

「ふふ……ふふふ……、――っ」

 ぽた、と涙が溢れ出して着物に染みを作っていく。止めどなく流れる涙を拭う気も起こらず、紗夜はただひっそりと泣き続けた。心に、もうこの世にいない兄の姿を浮かべながら。

 ――兄様。もし兄様が生きていたら、きっと私の側にいてくれたよね。私も時間がかかったかもしれないけど……兄様がいてくれたらきっと、ちゃんと受け入れられたと思う。だけど……。

「もう……誰もいないよ……っ」

 涙でぼやけた視界の向こうは、一人ぼっちの孤独だけが広がっている。疎まれる辛さ、信じたくない現実。それだけだ。

 ――ああ、私の幸せって。

 紗夜は、目を細めて、そしてゆっくりと瞼を閉じた。

 私の幸せって、兄様がいたからあったんだね。――さようなら、兄様。

 さようなら。私の、仮初の幸せよ。

『紗夜、どんなに……辛いことがあっても、生き、て……』

 兄の最期の言葉が、胸のなかに静かに響いた――。







 サアッと、草を揺らす風に、紗夜は閉じていた瞼を持ち上げる。
 日の光が眩しい。けれど、とても心地よかった。

 ここは辛い思い出のある屋敷でも、村でもない。けれど、場所も過去も遠いのに、悲しいことほど綺麗に鮮やかに覚えている。

 紗夜は空を見上げてから、ゆっくりと後ろを振り返った。

「……これが、私の過去。要と出会う前のことです」

 後ろを見れば、りんと邪見が静かに涙を流してくれていた。紗夜は殺生丸へと目を移す。
 彼の金色の瞳が、優しい色を浮かべて紗夜を見つめていた。

「……っ……」

 そこに宿る温かさが、死んだ兄のそれに重なる。昔のことを思い出せば、未だに後悔することばかりだった。

 あのとき兄を追いかけなければ、兄の言うことを大人しく聞いて早く逃げていれば、兄は死なずに済んだかもしれない。みんな、ずっと一緒に、幸せに暮らせていたかもしれない。

「っ……ダメですね、私……。強く、前向きになろうって決めたのに……っ……」

 紗夜は頬に伝う涙を袖で拭いながら苦笑した。

 どれだけ時間が経ったとしても、やはり過去は変えられない。悲しい思い出は悲しいまま、今も紗夜の心を鉛色に変えて、石のように重くする。

「……ふ、……ぅッ、」

 紗夜が堪えきれずに押し殺した声で泣いていると、ふわりと温もりに包まれた。おずおずと顔を上げれば、殺生丸が抱きしめてくれていた。
 壊れ物を扱うかのようなその優しい力に、紗夜の目から大粒の涙が零れ落ちる。

「っ……」

 唇を噛んで耐えると、背中に回された彼の腕に少しだけ力が籠もった。

「もう、耐えなくていい。泣きたければ泣け……。私が、全て受け止める」

「殺生丸、様……っ……」

 殺生丸の静かな声音に促されて、紗夜は彼の胸の中でひとしきり泣いた。今まで抱え続けていたものが少しずつ、少しずつ溶け出すかのようだった。

 誰かが受け入れてくれること。誰かが、側にいて支えてくれること。
 それだけでとても幸せだということを、紗夜は温かな涙のなかで感じていた。

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