二十話 傷跡

「紗夜ちゃん!!」
「紗夜ーー!!」

 りんと邪見の悲鳴に似た大きな叫び声が、花畑を震わせた。その声に紗夜はびくりと反応したが、足が動くことはない。――否、動かせないのだ。彼女は怯えた瞳で要だけを見つめ、竦んだ足を恐怖でガタガタと震わせている。

 そんな紗夜を見て、要は心の中が満たされるのを感じた。
 例え向けられる感情が恐怖でも、紗夜はいま、要を見ている。要のことだけを。
 彼女を支配しているのは、自分だ。

 要は零れる笑みを押さえられなかった。自然と、短刀の柄を握る手に力が籠もる。

 この刀身が彼女の身体に埋まり、その命をじわじわと奪うときが待ち遠しくて堪らない。
 やっと、紗夜が手に入るのだ。幼いときから焦がれ続け、狂おしいほどに愛してきた彼女が、永遠に要だけのものに。
 
 思うだけで動悸がした。心臓が破けるのではないかと疑うほどに、脈の速さが増していく。さあ、早く!! と、絶え間なく何かが要を追い立てている。

 段々と身体が浮くように、自分のものでなくなるように、感覚が麻痺していった。要の足は勝手に動いて、腕は目の前の愛しい女を殺そうと短刀を前に突き出す。

 刃が、紗夜の心臓めがけて飛び出した。その瞬間――。


『要――』


「――!!」

 紗夜の唇が、微かに動いた。要は息を呑み、大きく目を見開く。

 それがたしかな音だったのか、それともただ、微かに空気を震わせただけだったのか、はっきりとは分からない。
 しかし彼女の口の動きは、“要”を呼び覚ますのには十分だった。要は目の前の紗夜を凝視して、動きを止める。

 紗夜は、泣いていた。
 悲しそうに眉尻を下げて、頬に涙を伝わせて、怯えたように震えていた。
 
 その姿は、“あの頃”の紗夜と何ら変わりなかった。
 「満月の夜が来るたびに、もう失うものさえないというのに、それでも失くしてしまうものがある」といつしか彼女は言っていた。そして、同じように静かにはらはら涙を零して、泣いていた。

 ――今目の前にいる紗夜の泣き顔は、彼女が要を必要としてくれていたあの頃と、何も変わらない。だが……。

 その澄んだ黒い瞳の中に、もう絶望の影はない。純粋な、曇りなき光を宿した瞳。

 彼女に、“希望”を与えたのは――。

「っ……!」

 要はギリッと唇を噛んだ。
 紗夜を変えたのは、あの男――殺生丸だ。あの男がいる限り……いや、あの男がいなくなったとしても、きっともう紗夜を手に入れることは出来ないだろう。

 紗夜の中から、彼が消えることはない。殺生丸を殺しても、紗夜を殺しても、紗夜は決して要のものにはならない。

 殺生丸が憎い。紗夜の心を奪ったあの男が憎い。要を捨てた紗夜が憎い。
 憎くて、憎くて、手に入らないならいっそ。
 何もかも奪ってやりたかった。自分が失くしたものを、心を、大切な人を、そして、命を――。すべて、奴らから。


「うわあああああ!!!」


 要は獣のような咆哮を上げると、ガッと勢いよく腕を振り上げた。

「!!」

 紗夜は、要の目に涙が滲んでいるのを最後に見て、ぎゅっと瞼を閉じた。

 ――このあとに待っているのは、何なのだろう。

 要が結界に呑まれる音か。それとも、味わったことのないほどの痛みが、紗夜を襲うのだろうか。ひょっとしたら本当に、ついに死ぬのかもしれない。

 迫る未知の恐怖を前にして、紗夜の中で想いが巡った。こんな一瞬のうちによく頭が回るものだと思ったが……刹那は、やはり早かった。ビュッ、と風を斬る重い音が耳の側で聞こえた。

 ――要、ごめんなさい……。そして、殺生丸様……私は……。





「っ!!」

 要は紗夜の首をめがけて、刃を振り下ろした。短刀は紗夜の身を守る結界を生むことさえなく、簡単にその側をすり抜ける。要は微かに息を呑んだ。
 そして、力任せにそれを振り抜いた。

「――させぬ……!」

「っ!?」

 低く鋭い声が響いたかと思うと、突然、ガシ!! と要の腕が掴まれた。短刀は切っ先が紗夜の肌に触れる直前で止まっている。要は驚いて顔を上げた。

 そこには、先ほどまで向こうにいたはずの殺生丸の姿があった。殺生丸は、庇うように紗夜の前に立ちはだかり、要の腕を捻りあげる。

「く、ぅっ……!!」

 ギリギリと、腕が白くなるまで力を籠められ、要は痛みに歯を食いしばった。腕を振って抵抗し、殺生丸を振り払おうとするが、妖怪の彼に力で敵うはずもない。要は声を張り上げた。

「っ、くそっ、放せ!!!」

 殺生丸を睨み付け、さらに腕に力を込める。それでも、殺生丸の力が弱まることはない。

 要は悔しげな表情を浮かべると、唐突に、ふっと身体の力を抜いた。不意に要が抵抗をやめ、殺生丸の力が僅かに弱まる。
 ……その刹那。


 ――ブシャッ!!

 肉を貫く生々しい音がして、鮮血が青々とした草の上に散った。

「――!!!」

 紗夜はハッと口を手で押さえ、息を止める。後ろから、りんと邪見の小さな悲鳴が上がった。要は、はぁはぁと荒く息をついている。

 短刀は、殺生丸の左肩に深々と刺さっていた。傷口からは彼の真っ赤な血がどんどん溢れ出てくる。要が間合いを取るために後ろに飛び退くと、それに従って刃がずるりと引き抜かれた。

「っ……」

 刃が抜かれると同時に、殺生丸は少し苦しげに眉を寄せ、右手で肩の傷を押さえた。

「――殺生丸様!!」

 紗夜はすぐに殺生丸の元に駆け寄った。

「殺生丸様、大丈夫ですか!? ッ……!」

 彼のその傷口を見て、紗夜は絶句する。
 刃は深く大きく、殺生丸の肩を貫いていた。躊躇いなんてない刺し方だ。人間であれば……殺生丸でなければ、きっと致命傷だっただろう。

「殺生丸様、早く手当てを……!」

 せめて止血だけでもしておかなければ、と思って紗夜は顔を上げ、殺生丸に訴える。
 しかし、殺生丸は要を見据えたまま平生と変わらぬ声音で言った。

「構わん、このくらいどうということはない……。それより、お前は私の後ろにいろ」

 有無を言わさぬはっきりとした声に、紗夜は何も言えなくなった。
 自分を庇ったせいで、結果的に殺生丸が怪我をしてしまったのだ。加えて、紗夜には何の力もない。唯一あった紗夜の結界も、今は一切役に立たない。

 要のあの短刀は、紗夜の結界を通り抜けた。殺生丸が助けてくれなければ、きっと紗夜はあの刃に貫かれて死んでいただろう。

 要の言っていた、“紗夜が死ぬ方法”。それは恐らく、あの短刀のことだ。

 ――でも……どうして要がそんなものを……。

 考えても答えは出ないが、一つだけ明確に分かっていることがある。
 今何も出来ない紗夜は、大人しく殺生丸の言うことを聞くしかない、ということだ。





 紗夜が項垂れながら後ろに回ると、殺生丸がゆっくりと要に視線を移した。
 怒りと蔑みに満ちた眼差し。黄金の瞳は真っ直ぐ、鋭く、強く、要の歪んだ心を射抜いてくる。

 紗夜は、彼のこんな瞳に惹かれたのだろうか。この瞳に導かれ、今を生きているのだろうか。

 自分にはないものを持っている殺生丸。自分には出来なかったことを果たした殺生丸。悔しさ、怒り、妬み、後悔、劣等感。ぐちゃぐちゃで真っ黒に膨れた心を、感情を、どこかにぶつけたくて仕方ない。

 要は血が滲みそうなほど唇を強く噛み、短刀を投げ捨てた。
 何が足りなかったのか、何がいらなかったのか、もう考えたくもない。自分が失くしたのと同じものを、全て奪って消してやりたい。
 要と同じ絶望を味合わせ、そして、何もかもを終わらせたかった。

 紗夜が憎いのか、殺生丸が憎いのか。自分の運命が、自分の腐りきった心が憎いのか。何をどうしたいのか、要にはもう分からなかった。

 要は血でべたつく手のまま、腰に差していた刀をスラリと抜く。緊迫していた空気が、さらに重みを増した。

「死に急ぐつもりか」

 殺生丸の静かな声が、要をさらに苛立たせる。要はキッと殺生丸を睨み付け、吐き捨てるように声を張り上げた。

「うるさい!! もう……何もかも終わりにするんだ!! 紗夜を奪ったお前も、私を捨てた紗夜も、そして……こうなってしまった私も……っ! もう嫌なんだ!! だから、全部終わらせる!!」

 要はすごい剣幕でそう叫ぶと、

「たああああぁっ!!!」

 殺生丸の元へ一直線に走り、斬りかかった。

「馬鹿な事を……」

 殺生丸は僅かに悲哀の籠った声で呟き、憂いを帯びた目を細める。

「はあああっ!!」

 全力で走った要が、勢いよく刀を薙いだその瞬間。今まで微動だにしなかった殺生丸が、ついに動いた。

「なっ……?!!」

 尋常ではない速さで、突然目の前から姿を消した殺生丸に、要は驚いて立ち止まる。
 そして要が辺りを見回すよりも早く、殺生丸は再びバッ! と眼前に現れた。

「っ……!!」

 要が目をむいた瞬間、殺生丸が拳を振り上げる。

「――ガハァッ!!!」

 彼の拳が、要の頬を直撃した。鈍い音と共に要の身体はガクンと傾き、勢いよく草の上に倒れこむ。持っていた刀は殴られた反動で飛び、向こうの地面に刺さってしまった。

「っ……」

 ジンジンと痛む頬を押さえながら、要は顔を上げる。眉根を寄せた殺生丸が、要を見下ろしていた。
 
 あの速さで動いても、彼は息一つ乱していない。――要は、あっけなく殺生丸に負けてしまった。
 妖怪相手に勝ち目があるとは思わなかったが、それでもこの恨みをぶつけたかった。

 だが、要は負けた。彼の振り抜いた、たった一つの拳に。

 戦おうと思えば、死ぬまで戦うことは出来ただろう。しかし、要にそんな気力はもう残っていなかった。
 拳一つで分からされたのだ。自分はこの男に、何一つ敵わない、と。

 力も、強さも、心も、一人の男としても、何一つ敵わない。紗夜に相応しいのも、紗夜を導けるのも、殺生丸しかいないのだ。
 それに気が付いたとき、ぶつけきれなかった感情が堰を切って溢れ出した。

「っ、何で……何でっ、私じゃ駄目なんだ……! こんなに、愛してるのに……貴女だけが居ればいいのに……」

 叫ぶように声を荒げ、要は抉れるほど強く地面を殴りつける。

「何もかも捨てた……紗夜様のために。紗夜様と一緒に居たかったから……!! なのに私は……私は何のために、今まで……ッ」

 要は掠れた声で言って、地面に泣き崩れた。叩き付けた手は真っ赤になり、痛いだろうに止めようともしない。悲痛な泣き声を躊躇いもなく上げる要の姿は、あまりにも憐れだった。

「っ……」

 紗夜の瞳にも、じわりと涙が滲む。自分のせいで、大切な幼馴染みがこんなにも苦しんでいる。自分が彼を苦しめている。罪悪感が紗夜を襲った。

 要の願いを聞くことは出来ないが、彼を放っておくことも、紗夜には出来なかった。紗夜が思わず、要の方に歩み出したとき。

「! ……殺生丸、様?」

 まるで「お前はここにいろ」と言うように、殺生丸が紗夜の動きを腕で制した。彼はそれから、徐に歩き出す。

 殺生丸は、地面に伏して泣く要の前で歩みを止めた。要はその気配に気が付いて、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした目で殺生丸を力なく睨み付け、要は自嘲気味に笑った。

「……愚かだと笑いますか? こんなに足掻いて足掻いて……私は結局、何も手に入れられなかった。……私は、何一つ貴方に勝てなかった。力も、心も、男としても…」

 殺生丸は要の言葉を聞くだけで、答えはしない。けれど要は構わず続けた。

「貴方は、私の望むものを全て持っている。これからもずっと、貴方は紗夜様と一緒にいられる……。っ……貴方がいなければ、そうなるのは私のはずだった……! 紗夜様の側にいたのは、私だったはずなのに……!!」

 要は沸き上がる悔しさに声を上げながら、冷たい土を握りしめた。俯いた拍子に、透明の涙が手の甲に落ちる。惨めな温度を感じていると、頭上の空気が微かに揺れた。


「――貴様は何がしたかった? 貴様が望んでいたのは、己の欲を叶えることか」

「!!」

 静かな、けれど重みのある声音に、要は弾かれたように顔を上げた。不思議だった。殺生丸の問いが、すぅっと染み込むように要の心に入ってきた。

「私が、したかったこと……」

 自分は、一体何がしたかったのか。

 ――紗夜様が欲しかった? 紗夜様の側にいたかった? でも、それが出来ないと分かったら……壊したくなった。紗夜様も、上手くいかない現実も、狂っていく自分も、心も。全部終わりにしたかった。だけど……私が本当にしたかったこと。その、始まりは――。


「……私は紗夜様を、救いたかった……」

「!!」

 要の言葉に、紗夜が目を見開いた。

 ぽろりと出た要の言葉は、すんなりと要の中に納まった。まるで、元あった場所に戻るようにぴったりと。そうすると、思い出すのは。


『要、いつもありがとう。あなたが居てくれるから、私はまた笑えるようになったの』

『寂しくなんかない。だって……、要が側にいてくれるじゃない』

『必ず、帰って来てくれるよね? きっとまた、会えるよね……?』

『私はあなたを、家族よりも大切な家族だと思ってる……。だから絶対、死なないで……』

『要、大好き!』

 思い出すのは、紗夜と一緒に過ごした全ての時間だった。彼女の怒った顔、拗ねた顔、泣いた顔、笑った顔――全てが、要の中にはっきりと刻み込まれている。今でも、鮮やかに思い出すことが出来る。

 あの屋敷で初めて迎えた、満月の夜。村を襲う、見たことがないほどの妖怪の群れ。逃げ惑い、悲鳴を上げる人々。咽返るような血の匂い。そして、初めて直面した死への恐怖。

 どれも忘れることが出来ない。それが、要の“始まり”だったのだ。


「……私は、紗夜様を救いたかった……。村人やご家族までもが、紗夜様を煙たがっていた理由も、紗夜様が何を抱えていたのかも、全部あの満月の夜に知ってしまったから……。だから、どんな形でもいいから、私は貴女を救いたかった。貴女が楽になるのなら、それで救われるのなら、私がこの手で終わらせようと……」

 そこまで言うと、要は眉根を寄せて俯いた。

『貴女が死を望んでも、私はずっとあなたの側を離れません。貴女が楽になるのなら……救われるのなら、私の手で、貴女の運命を終わらせる……! だからもう……これ以上苦しまないでください……』

 あの夜、紗夜を抱きしめながら要は誓った。ボロボロに傷付いて壊れかけていた彼女の心を、何としてでも救いたかった。迷いは一切なかった。彼女を救う手段は、彼女の望みを叶えることだと、固く信じて疑わなかった。
 それが、運命の歯車を狂わせる選択だとも知らずに――。

「でも……私は、間違っていたんですね……。紗夜様を救うものは“死”だけだと、生きる希望なんて与えられないと、私はどこかでそう決めつけていたのかもしれない……」

 要は顔を上げて、ゆっくりと立ち上がった。目元に溢れた涙を袖で拭う。

 ――私は、自分が何をしたかったのか見失っていた……。そしてあの夜から既に、本当に大切なことが何なのかを忘れていたんだ。

 “死”だけが生きる希望になることが、どんなに悲しいか。虚しいか。そうして迎えた死の先には何も残らないということを……そんな簡単なことを、私はようやく思い出せた……。

「私は、本当に最低な男です……。真に貴女を救う方法を考えられなかった。そのうえ、自分の不遇ばかり嘆いて、気持ちを押し付けて……嫌がる貴女に、刀まで突き付けてしまった……! 私がもっと強ければ、強い心があれば……っ、貴女をもっと早くに救えたかもしれないのに……。私は、本当に馬鹿な男ですね……」

「っ……」

 自分を卑下して微笑むと、紗夜がこちらに走って来た。唐突にぎゅっと、強く抱きしめられる。

「! ……」

 要は突然のことに思わずふらりとよろめいたが、しっかりと紗夜を受け止めた。戸惑いながら紗夜を見下ろすと、彼女の肩は小刻みに震えている。漏れ聞こえてくる小さな嗚咽が、彼女も自分と同じように泣いていることを教えてくれた。

 そっと細い肩を抱きしめると、紗夜は俯いたまま小さく呟く。

「……とう」

「え……?」

「要……ありがとう……。私を救ってくれて、ありがとう……」

「――!!」

 ゆっくりと顔を上げて言った紗夜の言葉に、要は目を丸くする。

 自分は救えてなんかいない。何もしてやれなかった。
 真っ先にそう思ったのが、ありありと顔に出ていたのかもしれない。紗夜は要の顔を見てゆるゆると首を振ると、口を開いた。

「要は、あのときちゃんと私を救ってくれた。……たしかに私も要も、間違っていたかもしれない。生きたいと思う今なら、そう思うわ。だけど……」

 紗夜は言葉を切って、眉を下げてそっと微笑む。
 
「あのとき私は、たしかにそれで救われたの。要がいなかったら私、きっとあのまま心を失くしてた。笑い方も感情も、人間らしいものは全部、一人ぼっちの孤独な時間に埋もれて、忘れて……たぶん二度と思い出せなくなってた……。要との時間があったから……要が側にいて思い出させてくれたから、私は今ここで、自分で生きたいと思って生きてるよ……」

「紗夜様……」

 つうっと、温かい涙が要の頬を伝った。視界がぼやけて、紗夜の顔がはっきりと見えない。しかし心は――心だけは、朝の眩しい光を浴びたように清々しく、あたたかだった。

 ――私は、救えたんだろうか。救いたかった大事な人を、救えたんだろうか……。

 涙を拭って鮮明になった紗夜の顔を見れば、紗夜は照れくさそうにはにかんでいる。その様子に、要は目を細めた。

 救えたのかもしれない――。初めて、そう思えた。
 それは、間違ったやり方だったのかもしれないが、“あのときの紗夜”を救うことが出来た。

 ならば、“これからの紗夜”は……。

 要は、紗夜を見守るように佇んでいた殺生丸を見やった。
 “これからの紗夜”の側にいられるのは、彼しかいない。紗夜が再び迷ったときに救えるのも、紗夜を心の底から大切に想い、愛してくれるのも、彼しかいないのだ。

 ――だったら、私は……。

 要は決意の籠った目を閉じると、そっと紗夜の肩を離した。不思議そうにこちらを見上げる紗夜をそのままに、要はその場で深く頭を下げる。紗夜の動揺が伝わったが、要は頭を垂れたまま謝罪した。

「紗夜様、殺生丸様……先ほどまでの無礼な振る舞い、本当に申し訳ありませんでした。殺生丸様には怪我まで負わせてしまって……ごめんなさい……」

 要はそう言っておずおずと顔を上げ、殺生丸と紗夜の顔を真っ直ぐ見て言う。

「こんなことをしてしまった私の話は、信じてもらえないかもしれませんが……。それでも、お二人に聞いて頂きたいんです。私が知っている限りのことをお話しします。……紗夜様の、特異なお身体のことについて」





「!」

 要の言葉を聞いて、紗夜はハッと目を見開いた。色々あって忘れていたが、当初はそのことについて要に聞くつもりだったのだ。

 要とのわだかまりが解けた今、紗夜はようやく謎の答えを知ることが出来る。そう思うと、途端に緊張してきた。

 紗夜が固まっていると、要が向こうに捨てられていた短刀と鞘を拾って戻って来た。ぴたりと刃を鞘に納めて、要は短刀を紗夜たちの方に見せる。見た目は至って普通の刀だが、この短刀は紗夜の結界を何事もなく通り抜けたもの。何か、不可思議な力があるのかもしれない。

 訝しむように短刀を見ていると、要が呟くように言った。

「これは、紗夜様の結界を貫くことが出来る特別な刀……。戦が終わって私が村に戻る前に、ある人から貰ったものです」

 ばつが悪そうに目を伏せて言った要に、紗夜は眉尻を下げた。すると、やや後ろにいた殺生丸が口を開く。

「それは誰だ?」

「それは……」

 要は歯切れ悪く答えると困ったように俯き、やがて、真剣な眼差しを紗夜に向けた。

「紗夜様……落ち着いて、聞いてくれますか……?」

 要の重い声音に、紗夜の心臓がドクンと鈍く跳ね上がる。笑みのない要の顔を見れば、きっと良くないことを言われるのだとすぐに分かった。正直、聞くのが怖い。

 不安で思わず手をぎゅっと握りしめると、横でふわりと白い物が揺れた。紗夜が隣を見上げれば、そこには殺生丸がいる。後ろからいくつか足音が聞こえて振り返れば、阿吽に乗ったりんと邪見がいてくれた。

 ――みんな……殺生丸様、ありがとう……。

 紗夜は小さく頷いて、真っ直ぐに要を見据える。

「要、私は大丈夫。……教えてくれる?」

 そう言うと、要は少し緊張した色を顔に浮かべて頷いた。

「はい……。この刀を渡してきたのは……紗夜様、貴女の――」

 要が、そこまで言った瞬間。

「――ゴフッッ!!!」

 目の前にいた要が突然咳き込み、そして、その口から真っ赤な血が噴き出した。

「ッ、要!!!」

 紗夜は草の上に崩れるように膝をついた要の側に、すぐさま駆け寄る。あまりに急な出来事に何が何だか分からなかったが、要が危険な状態だということだけははっきりしていた。要の顔色は真っ青だった。

 腕や袖が血で汚れるのも構わず、紗夜はぐったりした要の身体を抱き起こす。

「要、要!! どうしたの!? 何があったの……!?」

「ゲホッ、ッ……ごめん、なさ……紗夜、様……ッ……ゴホッ!!」

 口を覆った要の手はその血液で真紅に染まり、尋常ではない血の量に紗夜は目を見開いた。要の顔からどんどん血の気が引いていく。

「っ…要、しっかりして!! 要……!!」

 紗夜が必死に呼びかけていると、いつの間にか殺生丸やりんたちもすぐ側に来ていた。

「殺生丸様、要が……!! 要が、突然……!」

 殺生丸を縋るような気持ちで見上げると、彼は眉を寄せながら静かに要の顔を見て、やがて珍しく驚いたように目を見開く。

「! ……なぜ黙っていた」

「……?」

 意味が分からず首を傾げていると、さらに信じられない言葉が殺生丸の口から飛び出した。

「……貴様……死人だったのか」

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