一話 欠けゆく月の夜

 パチパチと、焚火の弾ける音が夜の静寂に響いていた。天空に瞬く星々の光さえ彼方に追いやるように、火は赤々と燃えている。

「ねぇ邪見さま、殺生丸さまどこ行っちゃったのかな?」

 焚火の傍で膝を抱えて座り、暖をとっていた幼い少女が言った。
 邪見さま、と呼ばれた緑色の体色を持ち、少女より小さな体をした妖怪が、溜息まじりにそれに答える。

「鬼の臭いがすると言われて行ってしまったわい。全く……りん、お前のお守りさえなければ、わしも殺生丸さまと一緒に行けたというのに……」

 少女――りんは、そんなことはもう言われ慣れているのか、特に気にした素振りは見せず、空の星を眺めていた。

「……ん?」

 ふと、空を仰いでいたりんの視界の端で、何かが動いた。そちらの方に視線をやると、夜の闇の中、満月に近い大きな月がぽっかりと浮かんでいる。

 そう言えば、昨日は満月だったっけ?

 そう思った瞬間、月明かりに照らされて一つの影が揺れた。

「……! 邪見さま、何かいる……」

 くいくいと邪見の服の裾を掴むと、邪見は鬱陶しそうにりんの示す方に目をやった。闇に揺れるそれが、月明かりで白く浮かび上がる。

「! 人だ……!」

 りんの声と同時に、邪見もそれを認識した。ふらふらと覚束ない足取りで前に進むその影は、たしかに人の形を成している。

 月の光の逆光で、その人物がどのような者なのか皆目見当がつかない。男か女か……あるいは人であるかさえも怪しまれる。
 こんな夜半に、こんな森外れの崖の傍で、人間を見ることなどありえないはずだ。

「妖怪か……?」

 邪見は自らの手に掻き抱いていた人頭杖を握りしめながら、その正体を掴もうと目を凝らす。
 するとその瞬間、ふらりと影が揺れ地面にドサリと崩れ落ちた。それを見たりんが、

「大変! 行くよ、邪見さま!」

「! こら待て、りんっ!」

 邪見の返事も待たず、りんは向こうに駆け出してしまった。その背はどんどん遠退いていく。

「全く、あやつは……。待て、りーん!」

 諦めた邪見は、慌ててりんを追いかけた。





 りんの足が人影の前で止まり、邪見もようやく追いついた。だが、りんは地面に倒れた人物を見て立ち尽くしている。

「…………」

「どうしたのじゃ、りん?」

 邪見が尋ねると、りんがやっと口を開いた。

「見て、邪見さま。この人、すごくきれい……」

 どこか恍惚としたりんの口調に邪見の好奇心は掻き立てられ、少し歩を進めて足元に目をやる。

 人影の正体は、まだ若い人間の女であった。まだ十六か、十七くらいであろうか。

 月光を受け、女の腰ほどまである長い黒髪は艶やかに光を帯び、綺麗に閉じられた瞳の傍では、これもまた長い睫毛が風に揺れている。たしかに、なかなか見ないような美人である。

 しかし、暗いせいかは分からないがその顔色はあまり良くない。白い肌に映える唇も、血色はいいものの乾いていた。

「この女、生きておるのか?」

ツンツンと人頭杖の先で女の体をつついてみるが、何の反応もない。

「生きてるよ! だって、さっきまで歩いてたんだもん! ほら、早くあっちに運ぼうよ」

 りんがさっきまでいた焚火の方を指差して、それから女の側にしゃがみ込んだ。

「そんな女放っておけ! 殺生丸さまがお怒りになるではないか! だいたい、こんな刻限にこんな場所を人間の女が出歩くはずがなかろう! 姿は人間でも、正体は妖怪やもしれぬ!」

「でも、放っておけないもん!」

 りんが強い口調で言い返してきて、邪見は思わず押し黙った。

「よい、しょ……っ」

 りんが女の肩を持ち上げる。
 だが、女は見事な着物を幾枚も重ねていて、とてもりんでは支えきれない重さのようだ。それでもりんは、女から手を放すこともせず、必死に肩を支えようとしている。

「……本当に、お前は世話が焼けるわい。今回だけじゃからな!」

「! ありがとう、邪見さま!」

 邪見はりんとは反対側に回ると、女の肩を持ち上げようとした。

 ……しかし、邪見の身の丈はりんより小さい。そんな彼が、重たい着物を支えられるはずもなく――。

 ――ドサァッ!

「わあっ!」
「ぬおぉっ!」

 左右の均衡はあっけなく崩れ、二人は女とその着物とともに倒れてしまった。
 しかも、その下敷きになってしまうという最悪の形で。二人は必死にもがいて出ようと試みたが、それも叶わず。

「「助けてー、殺生丸さまーっ!!」」

 二人の泣き声に近い叫びは、空に吸い込まれていった。





 二人が動けなくなってしばらく経った頃。

 ジャリ、と砂を踏む音が聞こえ、邪見は這いつくばったまま首だけを動かした。眼前で止まった見慣れた足。上を見上げて、邪見は思わず目を見開く。

「「殺生丸さま!」」

 りんと邪見の声が揃った。

「…………」

 殺生丸は無表情且つ無言のまま、その光景を見下ろしている。

「あのね殺生丸さま、この女の人がここで倒れちゃってたから、助けようとしたの! でも、下敷きになっちゃって……」

「この女の着物が重すぎて、身動きが――」

 邪見が話しているのも構うことなく、殺生丸はすっ、と軽々女の身体を持ち上げた。途端に背中が軽くなり、邪見とりんは立ち上がる。

「ありがとうございます、殺生丸さまっ」

「殺生丸さま、ありがとう!」

 二人は礼を言うと、早くも向こうに歩いていくその背中を追いかけた。





 殺生丸は、女を肩に担ぎ上げた。着物の重さも、殺生丸にとってはないに等しい。寧ろ体の線は細すぎるくらいで、女自身の重みは心許ないほどだった。

 ゆらゆらと揺れる炎の側にその身を下ろしてやると、女は力なく地面に倒れ込む。ふわりと風が吹いて、女の甘い匂いが殺生丸の鼻に届いた。

「!」

 ふと、女の匂いとは別の臭いがして、殺生丸は眉を寄せた。

 人間の臭いではない――鬼の臭いが、この女から僅かに嗅ぎ取れる。それも、先ほど殺生丸が臭いを嗅ぎつけて殺した鬼の臭いと、全く同じものであった。

 この近辺にいた鬼だったので襲われたのかもしれない。しかし、この着物で人間の女が鬼から逃げ切るなどまず不可能だろう。

 ――この女……一体……。

 殺生丸が考えていると、りんと邪見が焚火の元へやってきた。殺生丸は焚火から少し離れた木の根元に歩いて行って腰を下ろし、静かに目を閉じて、冷たい夜風が頬を撫でていくのを感じていた。

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