十八話 欲望
どこまで走っても、ずっと闇が広がっていた。月も星もなく、目の前は何も見えない。何度も何かに躓いては立ち上がり、要は走り続けていた。
――いや、走っているつもりだった。
『はあ、はあ……っ!』
息はすでに荒く、足も鉛のように重い。必死で足を動かしているのに、景色は何一つ変わらなかった。
要は、走っていなかった。足を引きずるように、よたよたと前に進んでいただけだ。木の根に躓いてはのろのろと起き上がり、それでも前に進んでいく。
――痛い……。
ズキズキと熱く痛む脇腹を押さえると、温かくぬるりとした感触が手に纏わりついた。それは止まることなく、要の腕を伝って地面に滴り落ちる。色など見えもしないが、きっと真っ赤に染まっているのだろう。
早くも渇き始めてきた指先のそれは、擦り合わせると僅かな粘りを感じさせた。自分の周りに充満した鉄の匂いに、要は眉をしかめる。
――痛い、痛い、痛い……。
横腹の傷口が、今まで経験したことのないほどの痛みを要に与える。
『っ、はぁ……』
あまりの痛みに、要の瞳に涙が浮かんだ。しかし、目に映る暗闇が霞んでいくのは、それだけが原因ではない。意識もぼんやりし始めて、それでも無理やり身体を動かす。
――こんな所で……立ち止まるわけには、いかない……!
ギリと歯を食いしばり、また一歩前に歩み出したとき、ついに要の身体がふらりと傾いた。
『っ――!』
ドサッ!!
身体が、冷たい地面に叩き付けられる。腹の方でバシャッと水音がして、自分の血だまりの上に落ちたのだと気が付いた。
虚ろになっていく瞳、そして意識の中、要は自分のか細い呼吸音を聞く。
何も見えない本当の闇。自分の生きている音以外、何も聞こえない。
死が、要の目前まで迫っていた。冷たく、少ししっとりとした地面に頬を当て、僅かな息を繰り返す。つっと目頭を伝って涙が地面に落ちた。
――もう、動けない……。痛い、苦しい、死にたく、ない……。
『こんな……とこ、ろで……死ぬわけには、』
いかないのに……。
要の頭に、四年前――戦に行く前に別れを告げた、紗夜の姿が浮かぶ。
要が与える以外の愛情を忘れた、心の冷え切ってしまった少女。自分だけに見せてくれる、誰よりも愛らしい笑顔。そして、あの日の少女への誓い。
ずっと側にいると、必ず願いを叶えると、約束したのに――。
『守れ、なかった……な……』
ふっと苦笑すると、空気が口から零れ出る。ぼんやりと、闇の中で一人ぼっちでいる紗夜の姿が浮かんだ。
今自分が一人きりで死んでいくように、彼女はこれから一人で死ぬまで生きていくのだろうか。いつ死ねるかも分からない、あまりに不確かなその命で。
要はギリ、と強く唇を噛み締めた。悔しくて、悲しくて、寂しくて。その途端、涙がどっと溢れ出した。
『――っ、死にたくない……! こんな所で、死にたくないっ!!』
要は叫びながら、力いっぱいに地面に指をくい込ませ、土を抉る。
悔しい。こんな形で死んでいくなんて、いやだ。
『紗夜様……っ』
――死ぬときは、紗夜様と一緒に死ぬと決めていた……。貴女が終わるときが、私の終わるときだった。貴女を失くした世界で、私に生きる意味はないから。貴方を愛してしまったから。何よりも、誰よりも、この世で一番愛しているから。
でも……私は、もう――。
『ごめんなさい……、紗夜様……』
涙混じりに呟いた、そのとき。
ザアッと嫌な風が吹いた。だが、何かの気配を感じても、要はもう顔を上げることさえ出来ない。
唯一残る絶望という意識の中で、要はぼんやりと闇を見つめた。
――もう、何もかもどうでもいい…。どうせ今から死んでしまうんだ、今更何が来たってもう構わない。妖怪に食われても、野党に身ぐるみを剥がれても、もう構うものか。
ただ……。
紗夜様……死ぬときは、貴女と一緒に……死にたかった……。
一つの悔いを残して、要がすっと目を閉じた瞬間。
『――生きたいのか』
不意に聞こえた声に、言葉に、要は目を見開いた。男とも女とも分からない、不思議な声。
しかし、今の要にはその声が誰のものでも良かった。
ただ素直に、生きたいと。紗夜が死ぬときまで生きたいと、本能のままにそう思った。惨めでも何でもいい、ただ生きることに縋りたい。
紗夜と共に、いたい――。
『……生き、たい……生きたい!!』
悔しさに、生まれて初めて感じる絶望に任せて要は叫んだ。叫ぶほど大きな声ではなく、むしろ吐息のような掠れた声だった。
しかし、不思議な声は理解したようで。満足気にふっと鼻を鳴らし、要を嘲笑った。
『いいだろう、お前を生かしてやる』
その声を聞いた刹那、要の意識はゆっくりと闇に呑まれ始めた。
身体の全てが、何かに埋まっていく感覚。冷たい土に融け込むように、深い深い何かに嵌っていった。
意識はほとんどないはずなのに、不思議な声だけははっきりと耳に届く。その声は、要にこう言った。
『条件はただ一つ、お前の願いを叶えること……。つまり、お前の愛しい女を殺し、己も死ぬこと。もしそれが果たせなければ、お前の命一つを失うことになる。……お前に出来るか?』
尋ねられて、要はすぐに答えた。出来ると。その瞬間、僅かに残っていた意識が途切れた。
絶望と希望と、生と死と。狭間にゆらゆら揺れながら、要は静寂に飲み込まれた。
――紗夜様……貴女と一緒に、いたい。
ただ一つの願いだけを胸に抱いて。
◇
ふわりと風が吹いて、要の前髪をそっと揺らす。もう花弁を閉じてしまった花畑に仰向けに寝転がり、要は空を見ていた。時折雲に隠れながらも、何度も姿を現す月が、要の影を静かにその場に落とす。
要は、目を細めながら夜空を睨み付けた。
あの日……あの夜、何もかもが変わってしまった。要は昔のように、純粋に笑うことが出来なくなった。嬉しいとか楽しいとか幸せだとか、そんな気持ちももうない。
あの夜新しく手に入れたのは、要が今まで知らなかった感情ばかりだ。もう、同じものなんて残っていない。
紗夜への、愛しさ以外は。
彼女と関わることで喜びを、愛しさを、幸せを感じられるのなら、あとはもうどうでも良かった。例えその愛が醜く歪んでいたとしても、誰も心の中まで覗くことは出来ない。要の心の歪みは気付かれない。
偽りの優しさを、偽りの微笑みを自分の外側に張り付けて、いつまでも変わらないふりをする。誰も、誰も気が付かない。
三年半も一緒にいた、紗夜でさえ。
そして、要がそんなことをする理由は、一つしかなかった。ただ一つの欲望、願い――それだけのために。
その願いが叶えば、自分の命すらどうでも良かった。彼女以外に執着は何もない。
要はふっと鼻で笑った。要はもうすっかり変わってしまった。同じ所なんて、何一つない。
紗夜と、同じように。二人の行く先に、願いの中に、交わる点はもうないのだ。
『殺生丸様……っ!!』
要と紗夜が四年ぶりに再会したあの日、紗夜は微笑みながら、あの妖怪に――あの男に駆け寄った。目に、涙まで浮かべて。
あの瞬間、はっきり分かった。紗夜は、あの男を慕っているのだと。
心を開いた相手にしか、要にしか見せたことのなかった涙を、紗夜はあの男に見せていた。そして、あの男の紗夜を見る瞳。歪みのない、真っ直ぐな愛おしさを宿した眼差しだった。
要は唇を噛み締めた。血が滲むほどに噛みしめても、もう痛みを感じない。
要だけが知る、要だけのものだった紗夜を、あの男が奪っていった。
そして、今日――。
『ごめんなさい……私、要の気持ちに……応えられない……』
要の気持ちを伝えたときに、紗夜はそう言った。
顔を俯けていた彼女がそのとき何を考えていたのかなんて、要には手に取るように分かる。
あの男のことを、考えていたのだ。要の存在を差し置いて、あんな妖怪の男のことを。
要はまた、小さく笑みを漏らした。冷たい、氷のように凍てついた微笑み。
初めから知っていた。想いを告げて、紗夜が何と答えるのか。紗夜が誰を想い、何を考えているかなど、最初から分かっていたのだ。それでも、彼女に気持ちを伝えたのは――。
要は笑みを崩すと、ぼんやりと夜空の星を見つめた。この大きな空に散らばった、小さな星々を全て数えるなんて、きっとどれほど日にちがあっても出来はしない。
人間の心もまた、同じようなものだろう。心の中にある感情を一つ一つ数え上げて名前を付けることなど出来はしない。想いはいつも複雑に絡み合い、繋がっている。
要を支配する醜い感情の中にも、たった一つだけ光があった。だから、要は想いを告げたのだ。
紗夜はまだ、自分を必要としてくれている。そう、信じたかった。信じてみたかった。……けれど。
「もう、私はいらない……」
今にも消えそうな声が、風に運ばれていく。要は目を閉じて、腕で瞼を覆った。
真っ暗だ。あの夜みたいに。また、絶望がやってくる。殺生丸に笑顔を、涙を、愛しそうな瞳を向ける紗夜が、浮かんで消えた。
「言うつもりなんて、なかったのに」
――『見つけたんです。紗夜様が……死ぬ方法を……』。
言うつもりなんてなかった。言うはずじゃなかった。そんなことを言わなくても、紗夜は一緒に来てくれると思っていた。
彼女を変えたのは、彼女を奪ったのは誰だ? 自分だけのものだったはずの彼女を、奪ったのは――。
「っ……!」
要は、自分の側に咲いていた花を鷲掴んでむしり取った。紗夜と見た美しい草花。明日また、綺麗に花開くはずだったものを。躊躇いもなく千切って、捨てた。
――憎い……憎い、憎い、憎い!! 全てを奪ったあの妖怪が、男が、憎くて憎くてたまらない……! 変わってしまった彼女も、憎くて、憎くて。でも…………、
愛している。
「……愛してるんですよ、紗夜様……」
貴女がいれば何もいらない。“美しい感情”なんて、もういらない。私は、貴女さえ側にいればいい。どんな“犠牲”を払ってでも……貴女さえいれば。
要の狂った笑い声が、夜の空気にこだました。まだ、光なき夜は明けない。