十七話 素直な気持ち
ようやく森に入ることが出来て、紗夜は木々の中の仄明るい場所を目指して歩いて来た。
涙もすっかり渇ききり、風が吹くたびに頬に冷たさを感じる。
今にも腰が抜けてしまいそうな感覚に陥りながら、それでも求めるものだけを頼りに、覚束ない足取りで前に進んだ。
――どうしよう……どうしたら……。生きたいという気持ちを、ようやく思い出せたのに……。私はもう、死ぬことしか……。
死を望んだ自分の気持ちが、言葉の重みが、紗夜の両肩に圧し掛かってきた。決して軽々しく言ったつもりではなかった。殺生丸と出会う前までは、本当にそれを望んでいたし、そうしなければいけないと思っていた。――でも、今は……。
後悔しても、もう遅い。紗夜は引き返せないところまで来てしまったのだ。ただ、自分が憎かった。
紗夜がぼんやりしたままふらふらと歩いていると、温かい色をした焚火が前方に見えてきた。その側では、りんと邪見が楽しそうに話している。
やがて二人は紗夜に気付いたのか、何やら声を上げるとこちらに走って来た。
その瞬間。
「あ…………」
紗夜の膝が、かくんと地面に落ちた。
「!!」
「紗夜ちゃん!?」
「紗夜!?」
りんと邪見が心配そうに紗夜の名を叫んで、紗夜に駆け寄る。
紗夜はそれを呆然と見つめ、そして――。
渇いていたはずの涙が、頬を伝っていくのを感じた。
「紗夜……お前、」
「紗夜ちゃん……? どうした、」
困惑した邪見とりんの言葉が消える。
紗夜は強く強く、二人を腕に抱きしめていた。
「うっ……うっ、うああぁぁっ!!」
――ただ……生きたい。多くのものは望まないから。どうか私に、この人たちの側で。あの人の側で生きることが出来る、命をください……。
「紗夜ちゃん……」
「紗夜………」
もらい泣きしたのか、りんは目にうっすら涙を浮かべ、紗夜の肩に顔を埋める。邪見は目を細めながら、その小さな手で紗夜の背を撫でてやった。
「う、ううっ……っく、っ……」
生きたい。
生きたい。
堂々と、生きてみたい。
誰かに申し訳ないなんて思わないで、生きることを認められたい。
生きてもいいんだって、自信を持って。
生まれてきても良かったんだって、そう思いたかった。どうして……もっと早くに気が付けなかったんだろう。
本当は、昔も――。私は、あのときからずっと、そんな風に生きたいと願っていたのに……。
「っ……う、ぇ……っくっ、ふ……」
「……紗夜」
静かな声が、上から聞こえた。見覚えのある足が、紗夜の目に映る。
紗夜は、りんと邪見を抱きしめていた腕を無意識のうちに放して、のろのろとその人物を見上げた。
「……せっ、しょう、まる……さま……」
掠れた声でぽつりと、紗夜が殺生丸の名を呟く。目に沢山の涙をためて、殺生丸を見上げていた。
殺生丸は紗夜をしばらく見つめてから、数歩歩んで、音もなく紗夜の前に片膝をつく。
紗夜の顔は、まるで幼子が泣きじゃくるように歪んで、眉が頼りなく震えていた。
「――っ、殺生丸様ぁぁっ……!!」
紗夜は殺生丸の名を涙混じりに叫ぶと、その細腕を伸ばす。
「!!」
殺生丸は己の鎧にしがみつく紗夜を受け止めながらも、その背に手を回そうとして――ピタリと止めた。
――愛や情は……弱さの証。真の強さを阻むもの。
殺生丸の頭に、長年の己の考えがよぎった。
――今、紗夜を受け入れれば、私はそれを認めることになる。
殺生丸はすっと目を細め、未だに右手を宙に彷徨わせたまま、紗夜を見下ろす。すると、紗夜の唇が微かに動いた。
「…………けて……」
聞き取れず、紗夜の唇の動きを目で追う。
紗夜はぎゅっと瞼を閉じて、叫ぶように、けれど小さな声で言った。
「……たす、けて……助けてっ、殺生丸様……っ!!」
「…………」
――紗夜……。
殺生丸は紗夜の言葉に内心驚きつつ、静かに彼女を見つめる。
『……真の強さとは、何だ?』
『それは、誰かを想う心ではないかと……』
――誰かを想う、心……。
「わた、し……っ、殺生丸様と……生きたい……っ!!」
「!!」
「殺生丸様の、お側で、っ……生きていたい……!! でもっ……でも、出来なくて……! 私……どうしたら、いいのか、っ……分からないっ……!!」
紗夜が嗚咽交じりに殺生丸を求める。
殺生丸は紗夜を見つめたまま、憂いを帯びたその瞳を細めた。
――認める、認めぬと……。答えなど、初めから決まっていたのだ……。
殺生丸はゆっくりと紗夜の背に手を回すと、その身体を抱き寄せて。
きつく、きつく、抱きしめた。
「……生きればいい……私の側で」
「! っ……う、っああぁっ……!!」
殺生丸は、紗夜の泣き叫ぶ声を。紗夜の魂からの悲鳴を聞きながら、静かに目を閉じた。
――もう迷いはない。紗夜……私がお前を受け止める。お前の過去も、感情も、すべて。そして、お前が私と生きたいと言うのなら、お前と共に生きよう――。
そのとき殺生丸は、揺るぎない強い感情を、確かに己の胸に感じた。
◇
『生きればいい……私の側で』
そう殺生丸に言われて、彼に抱きしめられたとき――。
紗夜は、自分の胸が何かで満たされていくのを感じていた。初めて誰かに、『生きてもいい』と言われた気がした。
ずっと、誰かに認めてほしかった。
どんなに忌々しい身体でも、“紗夜”という一人の人間がこの世に生まれたことを。この世にまだ、生きていることを。これからも、生きていくことを。
ずっと、誰かに許してほしかった。
――殺生丸様は……こんな私を、受け入れてくれた……。あなたの側で生きてもいいと、この世で、生きてもいいのだと……。
それに、それだけじゃない。こんなに満たされた気持ちになるのは……殺生丸様が、抱きしめてくれるからだ。
何よりも愛しい温もりを、この身で感じることが出来るから。
――大好きです、殺生丸様――。
紗夜は、胸に少しの寂しさと溢れそうな愛しさを感じて、殺生丸に抱きついたまま、子供のように声を上げて泣いた。
◇
――ひとしきり泣いたあと、ようやく嗚咽が止まって、紗夜は殺生丸からゆっくりと身体を離した。
そして、殺生丸にこう言ってもらった今でも、まだ心に残っているわだかまりを、正直に殺生丸に話そうと思った。
まだ気にしているのか、と呆れられるかもしれない。しかし、紗夜にとっては大切なことなのだ。今答えを出さなければ、きっとこの先何度も躓いてしまう。
紗夜に関わって死んでしまった者たち、これから傷ついてしまうかもしれない人々にとって、最も良い答え。
死を、選ばないのならば……生きて、自分が出来る償いは一体何なのか――。
袖で涙を拭き、そっと上を見上げると、殺生丸の瞳が真っ直ぐ紗夜を受け止めてくれる。紗夜は涙声のまま、ゆっくりと口を開いた。
「……殺生丸様……。私……まだ、答えが出てないんです……」
「…………」
殺生丸は何も言わないまま、紗夜の言葉を待つ。紗夜は膝の上でぎゅっと掌を握って、目を伏せた。
「生きて……生きて、私が出来る償いが、分からなくて……」
紗夜は自分の頼りない拳を見つめながら、殺生丸が口を開かないことを少し不安に思った。
――やっぱり、呆れてしまった……?
心の中でそう思ったとき。
「……死ぬことだけが、償いではない」
「……え……?」
唐突に殺生丸が呟いて、紗夜は意外な彼の言葉に思わず顔を上げる。殺生丸は変わらず紗夜を真っ直ぐ見据えたままだった。
その眼差しの強さに、紗夜は息を呑む。彼は静かな声で、紗夜に言った。
「死ぬことは、生きることよりも容易いだろう。死の苦しみも、生きる苦しみに比べれば他愛ないのものだ。……紗夜……お前は、生きることから逃げていただけではないか?」
「!」
――生きることから、逃げて……。
そうかもしれない、と紗夜は息を呑んだ。
人を死なせてしまったから。人を傷つけてしまうから。もちろん、それもそうだった。
でも、そうなることで今よりもっと自分が傷ついてしまうことが、本当は何より怖かったのかもしれない……。
蔑んだ目で見られ続けて、生きることは認められず、家族にさえも見放され――そんな毎日に絶望した自分を、これ以上傷つけられたくなかった。
だから、死にたかった。
生きることが怖かったのだ。苦しみも辛さも、もう受け止められないと思っていた。死ぬことに逃げた。
「……っ……」
――なんて弱いんだろう……私……。
考えることも、苦しむことも、生きることからも逃げて。いつも後ろ向きに、弱音ばかり吐いていた……。
紗夜は自分への苛立ちと、悔しさに唇を噛む。
こんな生き方しか出来なかった後悔が、紗夜の胸に押し寄せてきた。膝に置いた拳を、さっきよりも強く握る。
すると、その様子を見ていた殺生丸が、紗夜の強く握った手に己の手を重ねた。
紗夜は、僅かな熱を持っている殺生丸の手の感触に目を丸くする。
「……悔やまずとも良い、紗夜。済んだことだ」
「!!」
紗夜が顔を上げると、そうだろう、とその瞳で問いかけられる。
紗夜は、身体から余計な力が抜けていくのを感じて頷いた。
「……はい」
――殺生丸様の言う通りだ……。死んでしまった人々はもう、帰って来ない。私が死に逃げた過去も変えられない。だけど……これからは変えられる。もう、私は逃げたりしない。
この苦しみを負って、受け止めて生きていこう……。それが、これからを生きる私に出来る償いだ。
もやもやしていた気持ちが次第に晴れていき、紗夜は自然と微笑んだ。
殺生丸はその穏やかな表情を見ると、紗夜の手に重ねていた己の手を、そっと離す。
「……あ、」
そこでようやく、紗夜の頭は冷静になった。紗夜はピクリとも動かないで、自らの行動を思い返す。
――思えば私、何て大胆なことを……! 突然泣き出して、殺生丸様に抱きついて……一緒に、生きていきたいとまで、言ってしまった……!
「っ……!!」
そう考えた途端、紗夜の頬がぼっと赤くなる。紗夜はぱっと頬を両手で押さえた。
紗夜の、その一連の行動を黙って見ていた殺生丸は、紗夜の真っ赤になった頬を見て眉を顰める。
「……今更何を考えている」
「!! っあ、えっと……その……」
紗夜は殺生丸を見上げ、そして再び俯いた。
――今更ってことは、殺生丸様も今までの私の行動は恥ずかしいものだと思ってる……と、いうこと……よね?
そう思った瞬間、紗夜は心臓が高鳴るのと共に、へにゃりと身体から力が抜けるのを感じた。
――前は、安心するだけだったのに……。今は殺生丸様に抱きしめられるだけで、こんなにも心が一杯になる……。でも、それだけ殺生丸様のことをお慕いしているということだもの……。
未だ赤い頬を押さえながら紗夜が俯いていると、時機を窺ってりんと邪見が紗夜の側に来た。それと同時に殺生丸が立ち上がる。
「おい紗夜! 落ち着いたのなら、わしらにも説明せんか!」
「りんにも教えてっ!」
「あ……」
今までのことをりんたちにも見られていたのだと思い出して、紗夜の頬はさらに赤くなった。それを見た邪見も顔を赤くして、紗夜を怒鳴りつける。
「な、なに今頃赤くなっとんじゃ! こっちが赤くなりたいわ!」
「ご、ごめんなさい……」
邪見の言い分が最もすぎて、何も言い返すことが出来ず、紗夜は仕方なく項垂れる。
そうして紗夜は自分の失態を恥じつつ、りんと邪見にこれまでのことを話した。
要という幼馴染みがいること。殺生丸と要、どちらと共に行くか迷っていたこと。そして――。
「……ここに来る前、要に言われたんです。私が……死ねる方法があるって……」
紗夜がそう言うと、りんと邪見は驚いた顔をした。殺生丸は、相変わらずの無表情で紗夜を見つめている。
「それで、要と一緒に行けば、私の身体がこうなってしまった理由も、誰がそれを教えてくれたのかも、全部話してくれるって……」
殺生丸は紗夜のその言葉に眉を寄せた。
――やはりな……。あの男が紗夜に何かを吹き込む可能性は考えていたが。
まるで取引のようなそのやり口に、殺生丸は怒りを覚えた。紗夜を混乱させ、そんなことを餌にするあの男の性根が気に入らない。
それに、その情報も真実なのか怪しいものだ。紗夜を連れて行くための方便かもしれない。
そう考えていた殺生丸の隣で、りんは少し不安そうな顔をして紗夜に尋ねる。
「……でも、紗夜ちゃんは、もうりんたちと一緒に行くんだよね?」
「ええ。でも……」
りんを安心させようと思って、紗夜は笑顔で頷いた。しかしすぐに俯いて、そしてまた顔を上げる。
紗夜は殺生丸を見つめた。
「明日の朝、要に答えを告げると約束したんです。私のことについて、要は一緒に行けば教えてくれると言ったけど……。私……自分のことを知りたい。どうしてこんな身体なのか……誰が、なぜ私のことを知っているのか……」
――要なら、きっと教えてくれる。私が要と行く道を選ばなかったとしても……。きっと要なら、頑張ってください、っていつもの笑顔で送り出してくれる……。
「……だから明日、要に教えてもらいます。それで……殺生丸様にも、一緒に聞いてもらいたいんです……」
紗夜は、要にどんなことを言われるのか少し不安だった。
だが、それから逃げるつもりはない。ただ殺生丸が側に居てくれれば、どんなことでも受け止められる気がする。
紗夜が頼むと、殺生丸は少し考えるように黙り込んで、やがて口を開く。
「もし…………いや、何でもない」
殺生丸は言い掛けて途中でやめると、口を閉ざしてしまった。
紗夜はその様子に少しの不安を感じたが、彼が静かに踵を返したので、それ以上は聞かなかった。
「明日は早く出る」
殺生丸は横目で紗夜を見てそれだけ言うと、元いた木の側に行ってしまった。紗夜は、殺生丸のその言葉が了承だと分かり笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、殺生丸様!」
紗夜は礼を述べながら、遠ざかっていく彼の背を見送った。
◇
それから紗夜はりんと邪見と一緒に、すっかり遅くなった夕餉をとりながら、久しぶりに楽しい気持ちで会話をしていた。
「はあ……今日の殺生丸さま、いつにも増してかっこよかったぁ……」
邪見がうっとりとした様子で、目をキラキラさせながら言う。紗夜が思わず頬を引き攣らせると、りんが悪びれず言った。
「邪見さま、気持ち悪いよ」
「なんじゃとうっ、りんっ!!」
「だって、ほんとのことだもーんっ」
もちろん邪見が黙っているはずもなく、いつもの言い争いが始まる。
「ふふっ……」
二人の可愛らしい喧嘩に、紗夜は思わず笑みを漏らした。
すると、邪見とりんは言い争いをぴたりと止め、紗夜を見つめる。紗夜はどうしたのだろう、と首を傾げた。
「紗夜ちゃん、今までで一番楽しそう!」
「え、そう?」
――今までも十分楽しかったけど……。でも……りんちゃんの言う通り、今日が一番心が軽い。やっぱり、殺生丸様のお陰、よね……。
紗夜が心の中でそう思っていると、邪見がふてくされたように言う。
「ふん、殺生丸さまにちょーっと構ってもらったからといって、調子に乗るんじゃないわい」
「か、構って……!?」
邪見の言葉に、紗夜は思わず肩をびくりと跳ねさせた。
――邪見様ったら、なんてことを言うの……!!
紗夜はまた頬に熱が集中してくるのを感じて、それを二人に知られないように俯く。
「なんじゃなんじゃ、今更何を考えている!」
「なっ! っ……!」
――それ、殺生丸様がさっき言ってた言葉じゃないの!
紗夜は顔を赤くしたまま、面白そうに笑う邪見を睨み付けた。すると、唐突にりんが叫ぶ。
「殺生丸さま―っ! 邪見さまが、紗夜ちゃんをいじめて喜んでるよーっ!」
「ぎゃあああっー!! 馬鹿、りん!! そんなこと言ったら、わしが殺されるではないかっ!!」
邪見は大慌てでりんに捲し立てる。しかし、りんはいつもの笑顔を浮かべて言った。
「仕方ないよ、邪見さま。人生諦めが肝心だって、りん、聞いたことあるよ!」
「お前のような小娘が、人生を語るでないわーっ!!」
りんにそう叫んだとき、邪見の背後に黒い影が差した。
「――邪見」
「へ……」
殺生丸の低い声がした瞬間。
――ボカッ!!
「す、すみません……殺生丸さま……」
「ふん」
殺生丸は邪見の頭を殴りつけると、興味なさげにさっさと向こうに行ってしまった。
紗夜は地面に潰れている邪見には目もくれず、去って行く殺生丸の背中を見つめる。
――殺生丸様……。
紗夜の視線を横から見ていたりんは、ずいっと紗夜に身体を寄せてきた。
「……ねえ、紗夜ちゃん。殺生丸さまにお伝えしなくていいの?」
「な、何を……?」
紗夜は一瞬ひやりとしたのが、自分でもわかった。りんはそんな紗夜に全く気が付いていないようで、いつものようににっこりと笑って。
「何って、紗夜ちゃんは殺生丸さまのことが好――」
「!!」
紗夜はりんが高らかに皆まで言う前に、彼女の口を手で塞いだ。慌てて殺生丸が聞いていなかったか確認する。
幸い、殺生丸はもう向こうの方に行っていて、どうやらこちらの話は聞いていないようだった。紗夜はほっと息をつくが、頭の中は混乱状態だ。
「り、りんちゃん!! 何で知ってるの!?」
「お前、あれで気が付かんと思うのかっ!!」
いつの間にか復活した邪見が横から入ってきた。邪見の言葉に、紗夜は目を丸くする。
「え……邪見様も知ってるんですか!?」
「当たり前じゃ! あれほど分かりやすいものがあるか!」
「!! …………」
紗夜は少し衝撃を受けながら、今までの自分の行動を振り返る。……考えてみれば、確かにそう取られるようなことしかしていない。特に今日は。
――ということは……殺生丸様も、気が付いてたり、とか……?
殺生丸が鋭いことは、紗夜も熟知している。ありえないことはない。寧ろ、気が付いている可能性の方が高いようにも思える。
「ど、どうしよう……!」
紗夜は赤いような青いような、複雑な顔色で声を上げた。すると、りんがまるで太陽のように眩しい笑顔を向けて、紗夜に言う。
「大丈夫だよ! 殺生丸さまも紗夜ちゃんのこと、きっと大好きだよ!」
「りんちゃん……」
紗夜はりんの優しさに感動しつつも、それは紗夜と同じ恋慕の情なのだろうか、とどこかで考える。
紗夜が苦笑しながら思っていると、邪見がにやにやしながら紗夜を小突いてきた。
「言ったらどうだ〜? もしかしたら、もしかするかもしれんぞ〜」
「紗夜ちゃん、りんもお伝えした方がいいと思う! 自分の気持ちには素直になった方がいいもん」
「う、うん……」
りんの言葉に頷いて、紗夜は少し俯いた。
――素直に、か……。確かに、りんちゃんの言う通りよね。自分の気持ちに素直に……そう教えてくれたのは、殺生丸様だもの。
……言おう、今晩。殺生丸様に、私の気持ちを。
紗夜は心の中で決意して、しばらくの間りんと邪見と共に過ごした。
◇
やがて夜も更け、りんと邪見が阿吽の側でぐっすりと眠りについた頃。
紗夜は二人が熟睡しているのを確認して、そっと上体を起こした。
殺生丸に想いを告げようと決めたはいいが、りんと邪見の前でそんなことをしようものなら、りんはともかく――邪見には絶対に茶化されてしまう。
だから、紗夜は二人が寝静まるまで起きていた。もう夜も遅いが、全く眠くはない。
殺生丸に気持ちを伝えるということが紗夜を激しく緊張させ、眠気がさすことも許さなかった。
――どうしよう、行こうかしら……。
紗夜は揺れる焚火の炎を見つめる。
殺生丸に告白すると決めたときの決心は固かった。しかし、いざとなってみると中々勇気は出ないもので……。緊張で心臓が跳ねるたびに、苦しくて、不安な気持ちになる。
殺生丸を想う気持ちに、迷いなどない。ただ……。
――怖いんだ、私……。殺生丸様に、拒まれるのが。
殺生丸自身に側で生きることを許されたといっても、それが恋慕の情によるものかどうかなど、紗夜には知る術もない。
彼が単なる一行の一人として紗夜を見ているだけだったら、確実に気まずい関係になってしまう。これまで通りに接してもらえないかもしれない。
――でも……もう逃げたくない。怖くても、苦しくても、逃げたくない。
『自分の気持ちには素直になった方がいいもん』
夕餉のとき、りんの言っていた言葉が紗夜の頭を過った。
――そうよね、りんちゃん。……よし、行こう!
紗夜は心の中で気合いを入れると、二人を起こしてしまわないように、そっと立ち上がった。
焚火から少しずつ離れると、夜風が少し肌寒さを感じさせる。加えて、月の光しかないので、殺生丸の側に近づくたびに少しずつ夜の暗さを実感した。
同時に、心臓が小さくドキドキと跳ねる。
「……あ」
殺生丸の側まであと数歩、というところで、紗夜はぴたりと立ち止まった。殺生丸は木に背を預けたまま、静かに目を閉じていたのだ。
しまった、と紗夜は眉を顰める。
自分は夜でないといけないと思いこうして起きているが、皆にとっては休む時間だ。それは、殺生丸にとっても同じことである。
――ああ、私って気が利かない。……出直そう。
殺生丸をわざわざ起こすわけにも行かず、紗夜は自分の思慮のない行動に落ち込みながら、静かに踵を返した。
そのとき――。
「……何だ」
「!」
殺生丸の声が後ろからして、紗夜はぱっと振り返った。さっきまで目を閉じていたはずの殺生丸が、紗夜の方を見ている。
「ご、ごめんなさい……! 起こしてしまって……」
「構わん、起きていた」
紗夜が慌てて謝ると、殺生丸はそっけなく答えた。紗夜は、殺生丸が寝ていなかったことにほっとしながら、その側に行く。
「殺生丸様……お隣に座ってもいいですか?」
「好きにしろ」
「はい、ありがとうございます」
紗夜は緊張しながらも嬉しくて、頬を緩めながら遠慮がちに殺生丸の隣に腰を下ろした。
ふわりと風が吹いて、頭上の木々を揺らす。空を見ると、雲に隠れてはまた現れる、美しい月が浮かんでいた。
紗夜は空から地面へと視線を戻す。横目に殺生丸の着物が映って、胸が高鳴った。
「……何かあったのか」
殺生丸に静かに問われて、紗夜の胸がさらに激しく跳ねた。平静を装おうと努力してみたが、どうにも出来そうにない。
少し息をついてから、紗夜はせめて声が震えないように注意しながら言った。
「……えっと、殺生丸様に、お話したいことがあって……」
「……どうした?」
殺生丸はいつもと何ら変わらない調子で言う。
紗夜は自分一人違う空間にいるようで、大きな焦りを感じた。そのため、不自然に口籠ってしまう。
「……っそれは……そ、の……」
言いたい言葉はただ一つのはずなのに、ちゃんと口を動かせない。何度も言葉に詰まるうちに、心臓がバクバクと音を立て始める。
「っ……」
紗夜は、この音が殺生丸に聞こえてしまうのではないかと思って、恥ずかしさに耐え切れずぎゅっと目を瞑った。
――言わなくちゃ……! もう、逃げないって決めたんだから……!
心の中で自分を激励し、紗夜はようやく重たい口を開く。
「……せ、殺生丸様……私……」
「…………」
――もうダメ……心臓が飛び出しそう……。
紗夜はきゅっと胸の着物を掴んだ。息が苦しい。
――でも、言わなきゃ。殺生丸様に、伝えたい……。私がどれほど殺生丸様に感謝していて、どれほど殺生丸様を慕っているか。
胸元を押さえた手に、心臓の跳ねる動きが伝わる。頭の中も同じように脈打った。
紗夜は大きく息を吸い込み、勢いに任せてぱっと顔を上げる。
そして、隣にいる殺生丸に向き直った。
「……わ、私っ」
紗夜が意を決した、その瞬間――。
「!? っ……」
ぐっ、と突然腕を引かれて、紗夜は思わず息を呑む。驚きに目を丸くするが、大人しくその力に身を委ねた。
ほんの数秒――しかし、とてもゆっくりと時間を掛けて、紗夜の身体がぴたりと落ち着く。
紗夜は目の前に呼び込んできた鎧を見て、何が起こっているのかを理解した。
「……せ、殺生丸、様……?」
紗夜は、殺生丸に寄り添うように抱きしめられていたのだ。
殺生丸の鎧に手を当てて、紗夜はゆっくりと顔を上げた。至近距離にある彼の顔があまりに綺麗で、意図せず肩が震えてしまう。殺生丸の頬には、月の光を受けたその長い睫毛の影が、憂いを帯びて落ちていた。
途端に、驚きで消えていた緊張が蘇った。紗夜の心臓は、再びバクバクと激しい脈を打ち始める。
やがて、金色の瞳が紗夜を捉えた。殺生丸に見つめられると、かあぁっと頬が熱くなる。咄嗟に目を逸らそうとするが、なぜか、囚われてしまったように彼から目が放せない。
「……あ……」
吸い込まれてしまいそうなほど深いものを秘めたその瞳に、紗夜は僅かに開けた口の隙間から、感嘆の溜息を漏らした。
紗夜の赤くなった顔をしばらく見つめ、殺生丸はすっと、その頬を包むように右手で触れる。
夜の空気に冷えた殺生丸の手に、紗夜はまた肩を震わせた。だが、身体の芯は相変わらず熱かった。熱の籠る瞳で彼をまっすぐ見上げると、殺生丸はその様子に目を細め、静かな声で言葉を紡ぐ。
「紗夜……私は、気の利いた台詞を言うつもりはない」
「……はい……」
紗夜は一瞬目を見開いたが、すぐにこくんと頷いた。それを見て、殺生丸はさらに続ける。
「……そして、お前を手放すこともない。この先、何があっても」
「っ……」
紗夜は殺生丸を見つめていた。殺生丸も、紗夜を見つめている。しかし、紗夜は段々と彼の顔がぼやけてくるのを感じた。
「……っ、ふ……ぅ……」
紗夜の目には、溢れるほどの涙が浮かんでいた。今日あれほど泣いたというのに、一体どこに涙が残っていたのだろう。
紗夜は、今この瞬間の殺生丸の表情を見逃すまいと、必死に袖で涙を拭いた。
しかし、拭っても拭っても、涙はちっとも止まってくれない。
「……なぜ泣く?」
殺生丸は少し口元緩め、問いかけながら、紗夜の頬に流れた涙を指で掬ってやる。
「っ、だって、殺生丸様が……!」
――殺生丸様が、そんなことを言ってくれるなんて。
その言葉は、涙のせいで音にならなかった。紗夜は大きな声を漏らさないように片手で口を覆うと、殺生丸の鎧に添えていた手をぎゅっと握る。
紗夜の胸にはかつて感じたことがないほど、沢山の感情が溢れていた。喜び、嬉しさ、愛しさ。そして、幸せ。
好きで、好きで、大好きで、愛しくて。ずっとその側にいたいと思える人に、『もう手放すことはない』――そんなことを言ってもらえて、幸せ以外に何があるのだろう。
気の利いた台詞なんていらない。あなたが側に居てくれるなら、それでもう充分、充分すぎるほど。どんなことがあっても、私はあなたがいるならきっと幸せを感じられる。だから――。
「う……っ殺生丸、様っ……」
「何だ?」
涙混じりの声で、紗夜は殺生丸を呼んだ。瞳からぽろぽろと涙を零す紗夜を見ながら、殺生丸は幾分柔らかな声音で問いかける。
紗夜はぐっと涙を呑み、目をごしごしと拭いて殺生丸を見上げた。
――もう、言える。私の気持ち。
紗夜は殺生丸の瞳を見つめると、泣きそうなのを堪えながら、微笑んだ。
「私……殺生丸様のことが、好きです」
「――!」
ふわりと、夜にしては温もりのある風が吹いて、紗夜と殺生丸の頬を優しく撫ぜていった。殺生丸は率直な言葉に僅かに目を見開いたまま、紗夜の涙に潤んだ、しかし、強さのある瞳を見つめる。
「殺生丸様が……大好きだから。だから、殺生丸様のお側に……ずっと、いたいです……」
「…………」
殺生丸は気が付くと紗夜の身体を引き寄せ、そして、抱きしめていた。二人の間に隙間などないほど、強く。
紗夜ももう、狼狽えたりしない。殺生丸の背中に腕を回して、その身体ごと、温もりを感じるために抱きしめ返す。殺生丸の心地良い低い声が、紗夜の耳に優しく響いた。
「紗夜……私の側にいろ。ずっと……」
「はい……」
つっと一筋、紗夜の頬に新しい涙が流れた。木々の隙間から差す月の光に輝いたそれは、この世で一番幸せな涙だった。