十五話 道、そして恋

『私はお前を死なせるつもりはない。この先、何があっても……。しかし、お前が真に死を望むのなら…………あの男と行け』

 昨晩、殺生丸に言われた言葉。
 それは突き放すように聞こえながらも、本当は、何よりも優しいものだった。

 ――そうでなければ、私を死なせるつもりがないなんて、きっと言わないもの……。

 紗夜は仰向けに寝転んだまま、じっと空を見つめながらそう思った。

 殺生丸は、紗夜を死なせるつもりはないと言った。それなのに、敢えて死への道を紗夜の前に開いたのはなぜか。

 紗夜の気持ちがまだ、“死”に執着していることを知っているからだ。
 紗夜の生死を決めるのは、自分ではない。紗夜自身にあるのだと、殺生丸は思ってくれた。

 そして自分を死なせたくないと、もし彼が本当に思ってくれていたとしたならば。
 それは簡単に出せる決断ではないだろう。そこにどれほどの苦悩が込められているのか、察し切ることは出来ない。

 紗夜は淡い青と黄色を混ぜた東雲の空を見て、唇を噛んだ。

 殺生丸が、どうしてそれほどまでに優しいのか。自分の気持ちを抑えてまで、紗夜の意志を尊重してくれるのか。

 どうしてそんなに強い心があるのだろう。
 それに対して自分は……。その優しさに甘えてばかりで、自分自身で決めなければいけないことにも迷ってしまっている。

 出来ることなら、彼に笑顔を、幸せを、与えられる存在になりたいのに――。

 そこまで思って、紗夜ははっとした。

 ――私、今なんて……? 殺生丸様に、幸せを与えたい……どうして、そう思ったの……?

 こんな気持ちは初めてだった。いつも、自分が死ぬことばかり考えていた。
 自分が人に与えられるものなんて何もないと思っていたし、誰かに何かを与えたいなんて……思えたこともなかった。なのに――。

 バサバサバサッ……。
 鳥が飛び立つ音がして、紗夜はゆっくりと起き上がった。

 薄明るくなった空には、灰色のぼんやりした影を落とした雲が、漂いながら浮かんでいる。風が柔らかく吹いて、紗夜の髪を弄んだ。

 膝に置いた紗夜の手が、僅かに震える。心臓が、熱を持ったように鼓動した。まさか。

「……私は……生きたいと、思ってる……?」

 掠れた声で口にすれば、また心臓がドクンと跳ねた。まるで、「そうだ」とでも応えるように。

 紗夜は自身の胸にそっと手を当てた。鼓動が規則的に鳴っている。

 ――私が、生きている証……。

「…………、どうして……」

 つっと、熱いものが頬を流れた。それは紗夜の膝上に、ぽたりと静かに一粒落ちた。





 ――後悔はしていない……。

 殺生丸はす、と瞼を持ち上げた。まだ微かに残っている夜の冷気が、殺生丸を包んでいる。明けゆく空を見上げると、鳥が木から飛び去るのが見えた。

 ――後悔はしていない。殺生丸は繰り返し思う。
 後悔など、してはいけなかった。

 例え殺生丸が紗夜を死なせたくなくても、生きていればいいと思っても、紗夜が死を望んでいるのならば、いずれ受け入れなければならないことだ。

 それが殺生丸の望む所ではなく、どんなに胸を締めつけることだとしても。
 これは、紗夜自身が決めなければ。

 ――これで良かったのだ。

 あれから何度、自分にこう言っただろう。「本当にこれでいいのか」という自分の声は、未だに消えない。

『――私は、要と行きます』

 紗夜がそう言って自分の元を去ったとき、果たして引き留めずにいられるだろうか。死ぬと分かっている紗夜の手を、放すことが出来るだろうか――。

「……」

 殺生丸は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。感じたことがないほど複雑な思いがせめぎ合い、殺生丸の中で葛藤を繰り返している。

 今まで紗夜と過ごしてきた、僅かながらも“長い”時間。その間に、殺生丸の紗夜への想いは徐々に、しかし大きく変わってしまった。

 軽々しく扱えぬほど脆くて儚い、大切なもの。死なせはせぬと、誓ったはずだった。

 そのとき、どこからかすすり泣く声が微かに聞こえた。

「っ……く……」

 本当に弱くて、今にも消えてしまいそうなほど小さな呻き。紗夜が苦しそうに胸を押さえて、静かに涙を流している。
 ぽろぽろと頬を伝うそれは、紗夜の膝上に落ちてはその着物を濡らしていた。

 紗夜も、迷っているのだと分かった。
 
 彼女も同じように葛藤を繰り返し、今を生きるか迷っている。
 殺生丸と歩むことを、迷っている。

 ふと、朝日の白い光が森にすっと入り込んだ。それは草の上の露を柔らかく輝かせ、木々の隙間を縫って生きとし生けるものを照らし出す。

 殺生丸は、思わず目を見開いた。日の光が紗夜の上にも降り注ぎ、その涙を輝かせる。
 瞼をそっと持ち上げた紗夜の瞳は、悲しげで儚く、今にも脆く崩れてしまいそうで。――そして何より、美しかった。

 こうしてこの少女は何度も傷ついては涙を流し、心を殺して生きてきた。死にたいと言えども死ねず、今もこうして。
 そして、その心には、一度死んでも再び生き返るだけの力がある。

 ――弱くなどないのだな……お前は……。

 例え簡単に壊れてしまいそうでも、彼女はいま確かにここに生きている。

 まだ、死んでなどいない。

「……死なせるものか……」

 心から漏れた声は、木々のさざめきに呑まれていく。
 涙を拭いて立ち上がり、森を出ていく紗夜の背を、殺生丸は静かに見ていた。





 森を出た紗夜は真っ直ぐ村へと向かった。

 ここに来るのは、今日で最後。明日には出発してしまう。それまでに、紗夜は決めなければならなかった。

 今まで、何の迷いもなく暗い一本道を歩いて来た。ただ一つの目的だけが、紗夜をここまで連れて来た。……けれど。

「いつから、変わってしまったんだろう……」

 ――私の目的は、願いは、心は……一体いつから……。

 紗夜は目を伏せた。

 紗夜は、願ってしまったのだ。

 “生きたい”と――。
 殺生丸と共に生き、その側で彼だけを見つめて、生きてみたいと。

「私は……」

 殺生丸様のことを……。

 そう思った瞬間、心臓がとくんと跳ねた。

 生まれて初めての感情。胸を熱く焦がすような想い。
 戸惑いはあったが、それはすんなりと紗夜の胸に染み込んだ。

 殺生丸は紗夜が野党に連れ去られたとき、真っ先に助けに来てくれた。心に素直になることを教えてくれた。
 その優しさで紗夜を包み込み、紗夜の心を癒してくれた。紗夜が生きることを、望んでくれた。

 思い返せば、彼はどれほどのものを自分に与えてくれたのだろう。

 優しい心も、真っ直ぐに前を見つめる強い瞳も、抱きしめてくれるその腕も……。いつしか自分は、こんなにも彼に惹かれていた。
 殺生丸を想うだけで感じたことのない切なさを覚え、そして何より、愛おしい気持ちで満たされる。

 その姿を瞳に映し、彼の側で、彼と一緒に生きていたい。――願わくば、彼にもそう思ってもらえるような、そんな未来が欲しい。

 紗夜の願いは、いつしかそんなものに変わっていたのだ。

 しかし、その願いの裏側には、絶ち切れないものが多くある。紗夜が今まで死にたいと思っていた気持ちは、容易く捨てられるものではなかった。

 寧ろ、捨ててはいけない。

 自分だけ生きて、殺生丸と共に歩んで、幸せになって。今まで自分と関わることで死んでいった罪のない人々のことを思えば、そんなこと許されるはずがなかった。

 ――終わらせなくちゃ……。これ以上、私に関わって死ぬ人を出しちゃいけない。死んでいった人たちも……きっとそれを望んでいる。……でも。

 殺生丸様……。

「――私は……どうすればいいの……?」

 生きる道も死ぬ道も選べない。選ぶべき道は分かっているのに、生まれて初めて抱いた願いが消えてくれない。

 沢山の人々の願いを奪ってきた自分には、そんな権利微塵もないのに。選べない自分の浅ましさが恥ずかしく、そしてひどく憎かった。


『お前のせいではない』

 初めて殺生丸の前で泣いてしまったとき、彼は紗夜が一番欲しかった言葉をくれた。頭に蘇ったそれが、紗夜を甘く引き留める。

「……殺生丸様……」

 紗夜は森を振り返った。
 今夜には、決めなければならない。

 紗夜はゆっくりと、前に進み始めた。





 紗夜が村に着くと、村人は朝も早いというのに、もう起きてあくせくと働いていた。それは犬夜叉たちも例外ではないようで。

 犬夜叉と弥勒は瓦礫を通りから退ける作業、珊瑚は妖怪の残した痕跡を調べ、七宝と雲母は……のんびりしている。
 そしてかごめは、瓦礫を除けたあとの掃き掃除をしていた。

 紗夜の事情を全く知らない彼等を見ると、どこか気持ちが落ち着く気がした。
 少しの間だけでもこの沈んだ気持ちを忘れていられそうで、紗夜は迷わず、近くにいたかごめの側に行く。

「かごめさん、おはよう」

「あら紗夜さん、おはよう! 早いのね」

 紗夜が挨拶をすると、かごめは気さくに返事をしてくれた。

「あの、私も手伝っていいですか……?」

「もちろん、助かるわ! あっちに箒があるから、取って来てくれる?」

 かごめは清々しい笑みを浮かべてそう言った。彼女の指した民家の壁には、竹箒が立て掛けてある。
 紗夜はそれを取って通りに戻ると、早速落ちている木の欠片や、瓦の破片を掃いて回った。砂埃を舞わせながらそれを集める作業を繰り返していると、ふとかごめが紗夜に尋ねる。

「……ねえ。気になってたんだけど、紗夜さんと要君って、どういう関係なの?」

 かごめの質問に紗夜は顔を上げた。

「? 幼馴染みですよ……?」

 初めて要を紹介したときに言わなかっただろうか?
 紗夜が小首を傾げながらかごめを見つめると、彼女は少し苦笑する。

「うん、そう聞いたんだけど……。ほら要君、紗夜さんのこと、様付けして呼ぶじゃない? どうしてなのかなあと思って」

 嫌なら別に答えなくていいから、とかごめが言う。しかし、別に話してどうということもないので、紗夜は素直に答えた。

「要は、小さいときから私の家の奉公人だったんです。だからきっと、今でもその癖が抜けないんだと思います。……私にとっては、奉公人というより幼馴染みなんですけどね」

 紗夜がそう言うと、かごめは目を丸くする。

「奉公人……って、お手伝いさんみたいなものよね? ……ってことは、紗夜さんってどっか良いとこのお嬢様!?」

「いえ、一応公家という身分だけど……。実際はただの田舎娘ですよ」

 苦笑して紗夜は言ったが、かごめはなぜか目をキラキラと輝かせている。

「公家ってことは貴族! どうりで品があると思ったわー。……あ、そうだ。ねえねえ、要君って昔からあんな感じだったの?」

「あんな感じ?」

「うん! 昔からあんな風に優しくて、まさに好青年! って感じの子だったの?」

「そうですね。昔と、全然変わってないと思います」

 紗夜はにこりと微笑んで即答した。それは、疑いようもない真実だったからだ。

「へえ……ほんとにいるのね、好青年って……」

 どこか遠い目をしてかごめが言う。もしかすると、犬夜叉のことでも考えているのかもしれない。
 紗夜は少し苦笑すると、竹箒で通りを掃く作業に戻った。

 ――要、か。初めて会ったのは、もう随分前になるな……。


『――紗夜様、初めてお目にかかります。今日からここに仕えさせていただく、要と申します。よろしく、お願いします!』

 まだ幼い頃、彼はそう言って紗夜の前に現れた。

 ――彼はいつも笑顔で、優しくて……。私にも毎日、普通に声を掛けてくれた。家の者たちにさえ蔑まれていた私にも。

 要は、あの頃と何も変わっていない。紗夜は小さく笑みを漏らした。

 要はいつも心配症で、おせっかいで。でも、優しくてとても温かい性格の子供だった。……それなのに――。

 紗夜は、犬夜叉たちの方で作業している要を見る。要は重たそうな瓦礫を運びながらも、どこか微笑んでいるように見えた。
 村の人のために動いているからかもしれない。要は昔からそういう人だ。

 ――でも、今は……要を見ると苦しくなる……。

 生きるか死ぬか、その選択を迫られているように感じてしまう。とても、苦しい。

 ――要がいなくなったあのとき……。あのときの私なら、迷わずあなたについて行った。終わらせて欲しかった。でも……。

 捨ててはいけないものを、捨てたわけじゃない。
 でも、紗夜は知ってしまった。

 生きることの喜び。大切な人を心から想う温かな気持ち。そして、未来を見つめる心を。

「……」

 紗夜は要からそっと視線を外し、再び竹箒を動かしながら黙々と作業に取り組んだ。





 それから紗夜は、自分の中のもやもやした気持ちを一時でも取り払うべく、忙しく働いた。
 二日目ともなると自分に出来ることも見つけられるようになって、暇になることはない。

 そして、紗夜が丁度、幸い崩れることのなかった村の小さな食料庫にいたときだ。蓄えている米や野菜の量を確認していると、

「――紗夜様」

「……要」

 名前を呼ばれ振り向けば、いつものように柔らかく微笑んだ要が立っていた。

 紗夜は先ほどの複雑な気持ちを思い出しつつ、食料庫から出て彼を見る。

「どうかしたの?」

 紗夜が尋ねると、要はほんの少し笑みをほどいた。そして、どこか真剣な瞳で紗夜を見つめる。

「……今晩、どうするのかお決めになるかと思って……。だから、その前に私から紗夜様に申し上げなければならないことがあります。日暮れ……私と一緒に来て頂けますか?」

「……分かったわ。帰る前に、要に声を掛けるわね」

 紗夜が頷いてそう言うと、要はどこかほっとしたように顔を綻ばせた。

「はい、ありがとうございます! 手を止めさせてしまって、申し訳ありませんでした。……では、私は戻りますね」

 要は一度頭を下げると、向こうにゆっくりと歩いて行く。

 ――話って、何だろう……?

 紗夜は再び食料庫に入り、野菜をぼんやり見ながら思った。

 紗夜がどちらと共に行くのか、それに関係する話だというのは何となく想像できる。しかし、一体どんな内容なのか……。

 少しの不安と好奇心が、紗夜の頭をいっぱいにした。色々な想像を巡らせてみるが、どれも確信はない。
 結局答えに行きつかないまま、あっという間に日暮れを迎えた。





「紗夜さん、要君! 今日まで本当にありがとう! またいつか、どこかで会えるといいわね!」

「ええ。こちらこそ、ありがとうございました」

 紗夜と要が村を出るとき、犬夜叉一行が見送ってくれた。かごめの言葉に紗夜が笑顔で頷きながら答えると、弥勒が溜息をつきながら言う。

「紗夜さま、行ってしまわれるのですか……。あなたのような美しい方に、せっかく出会えたというのに……」

「法師さま」

「分かっていますよ、珊瑚。そんなに睨まなくても……」

 弥勒にキッと鋭い視線を向けた珊瑚は、紗夜たちの方を見ると、先ほどまでの目つきが嘘のように優しく笑ってくれる。

「慣れないだろうに、お疲れさま。あんたたちのおかげですごく助かったよ。ありがとう」

「いえ、お役に立ててよかったです」

 珊瑚の言葉に、今度は要がにこりと笑って言う。すると、かごめが犬夜叉を小突いた。

「ねえ、犬夜叉も言うことがあるでしょう?」

「けっ、んなもんねえよ」

「相変わらず素直じゃないのう、犬夜叉は。礼の一つぐらい、言ったらどうじゃ」

「そう言うお前だって、何も言ってねえだろうが!」

「おらは素直じゃから、いつでも言えるぞ。紗夜、要、ありがとな!」

「うん」

 七宝の可愛らしい様子に、紗夜は思わず頬を緩ませながら返事した。犬夜叉はニヤリとする七宝を、うっ……と言葉を詰まらせながら睨み付けている。

 やがて、彼はふいと顔を逸らせたまま口を開いた。

「……あ、ありがとよ……」

 いつもより遥かに小さな声で言うと、犬夜叉は少し頬を赤らめる。彼の意外な一面を発見して、紗夜は思わず笑みを零した。

「ありがとう、犬夜叉。それじゃあ……皆さん、さようなら」

「どうぞ、お元気で」

「またねーっ!」

 紗夜と要は犬夜叉たちに背を向けると、歩き出した。





『またね』

 その言葉が紗夜の頭にこだまする。

 また、彼等に会うことは出来るのだろうか――。
 ふと冷静になりながら、紗夜は考えた。

 紗夜が死ぬことを選んでしまえば、彼等と会うことはもう二度とないだろう。彼等とは、きっと何もかもが反対になってしまうから。

 ……そして、それは犬夜叉たちばかりではない。
 今一緒に旅をしている殺生丸、りんに邪見に阿吽も……もうきっと、一生会えない。

 どんなに会いたくなっても、戻りたくなっても、もう引き返せない。

 ――りんちゃんと話すことも、邪見様に怒られることも、時々阿吽の背中に乗せてもらうことも……。そして……殺生丸様の瞳を見ることも、その声を聞くことも、側にいることも……出来なくなる。もう、何も……。

 本当にそれでいいの? 私は、それで――。

「――紗夜様、着きました」

 そのとき、ふと要の声がして紗夜は顔を上げた。気が付けば、いつの間にかあの大きな花畑が目の前に広がっている。

 小高い丘の上に立つと、真っ赤な夕日が山の向こうに浮かんでいるのが見えた。夕日のせいで黒く見える鳥が二羽、紗夜たちの頭上を飛んで行った。

 音のない世界。要も紗夜も、何も言わない。

 要が、緩い斜面を静かに降り始める。紗夜も同じように足を踏み出した。

 ――いつ以来だろう。要と会話がないなんて。

 要の広い背中を見ながら、紗夜は幼い頃のことを思い出した。
 初めて要が来た頃、紗夜は要にさえ心を開いていなかった。

 どうせ、この子も同じだと思った。
 周りの人や、村の人たち。“普通”の人間なんて、みんな同じだと。

 ……でも、要は違った。“普通”だったが、同じじゃなかった。

 ――だから時間はかかったけど、私は要に心を開けた。人前では流せなかった涙も、要の前では流すことが出来た。要の前では笑うことも出来た。咎めるものは何もなくて、彼の前でだけは本当の私でいられた。

 私にとって、要は本当に大切な存在。家族じゃないけど家族のようで、家族以上に大切な存在。それは昔から変わらない。今だって、そう。

 ……なのに。本当に大切なのに。

 今の私は、すぐに要の手を取れない。
 それなら……もし、私が生きる道を選んだら……?

「……っ」

 紗夜は奥歯を噛み締めた。

 ――今度はきっと、二度と要に会えなくなる……。

 大切な何かを手に入れれば、同じくらい大切なものを失ってしまう。どちらも手に取ることは出来ない。

「……紗夜様」

 静かに要に名前を呼ばれ、紗夜はようやく我に返った。

「ほら、見て」

 要の優しい声に顔を上げると、いつもの安心する笑顔。そして、花畑に来たら必ず作る、花冠。

 紗夜はまた、いつの間にか花畑に来ていて、要もいつの間にか花冠を作っていた。

「今日は、いつもより綺麗に出来たんですよ」

 そう言って要は笑った。

「……いつも、綺麗に出来てるのに……」

 紗夜が少し笑って花冠を受け取ると、要も目を細める。そして、ゆったりとした動作で、花畑の中に腰を下ろした。紗夜もその隣に座る。

 少し沈黙が続いたあと、要が夕日に染まった空を見上げて言った。

「……紗夜様、覚えてますか? 私たちが、初めて会ったときのこと」

「……ええ、覚えてるわ」

 懐かしむように、紗夜も空を見上げる。

 あれは、今から七年も前のこと。
 紗夜はまだ九つで、要が十一のときのことだった――。





『紗夜様、初めてお目にかかります。今日からここに仕えさせていただく、要と申します。よろしく、お願いします!』

 その人が上座に座った瞬間、要は深々と頭を下げてそう言った。手をついて、額を畳に擦り寄せる。

 初めての奉公人という仕事。要の少し後ろには、同じくこの屋敷で奉公人を勤めている父が座っている。

 要は初めての仕事への緊張や不安、期待に、小さな胸をドキドキと弾ませながら、父から教わった通りの挨拶をした。
 しかし、相手の方は一向に口を開く気配がない。

 要は頭を下げたまま困り果てた。その人の許しがあるまで、奉公人の要は顔を上げてはいけないからだ。

「……あの……」

 少し待っても沈黙が続くので、要は小さな声を出してみた。……やはり、返答はない。

 若干首の疲れを感じながら、要は父の言っていたことを思い出した。

『今からご挨拶に行くのは、このお屋敷のご息女、紗夜様という方だ。歳はお前よりお二つばかり下だったか……』

 そう言いながら長い廊下を歩いて行く父の背を追い、要はこの部屋に来た。屋敷の一番奥の部屋。暗くて、日も差さないこの部屋に。

 ――まだ小さいだろうから、なんて言ったらいいのか分からないのかな……?

 そんなことを思って、要はそのままの姿勢で後方の父を見やる。すると、あろうことか、父は呆れた顔をして溜息をついた。

 要ではなく、“ご息女”に。

「……紗夜様、どうなさればいいのかご存知のはずです。早く言ってやっては頂けませんか?」

 普段の父からはとても想像出来ないほど、冷たい声だった。軽蔑したような口調で言う今の父には、奉公人としての誠意なんて欠片も感じられない。

 要は驚いて父を見つめた。まだ逆さまに見える父は、要の前にいる人物を鋭く睨み付けている。
 しかし、父がそう言っても睨んでも、要より幼いらしい少女は何も言わなかった。最早、気配さえもないような気がする。

 やがて、父はもう一度深く溜息を吐き出すと、今度は要を見た。

「……要、もういい。顔を上げなさい」

「! で、でも父上……!」

 要は目を丸くしながら父を見て、反論した。しかし、父はさも当然だと言うような口振りで言う。

「お前が咎められることはない。どうせ、何も言わないんだからな。……挨拶は済ませたから、もういいんだよ」

 微笑みさえ浮かべる父を、要は睨み付けた。

 どうしてそんなことを平気で本人の前で言えるのか。それでも、本当にここに仕えている奉公人なのか。
 幼いながらも、要は怒っていた。父にそう言ってやりたかった。

 けれど、要でさえ怒っているというのに、当の本人は相変わらず何も言わない。ぴくりと動く衣擦れの音さえしない。

 どうして何も言い返さないのか。幼くても、侮辱されていることぐらい、分かるだろうに。
 要はまだ見ぬ目の前の少女に対しても苛立った。そして、なぜか自分が途方もなく悔しかった。

 意地でも顔を上げるものか。要がそう決め込んで動かずにいると、ついに父が立ち上がる。

「いい加減にしなさい、要!」

 そうして父は要を叱ると、襟を掴み上げる。要はそのとき、初めて少女の顔を見た。

「あっ……!」

 そのとき要が思ったのは、「ついに見てしまった」、という罪悪感ではなかった。

 ――少女の瞳は、とても九つの少女とは思えないものだったのだ。

 光の灯らない、真っ黒な瞳。夜の闇のような、その暗さ。
 とても、生きているようには見えなかった。

 ――どうして、こんな()をしてるんだろう。

 一瞬、それ以外何も考えられなかった。
 
 やがて廊下に出された要は、足早に歩く父の背を追いながら、自分のドロドロした気持ちに任せて父を罵倒した。父の言葉に傷ついて、あの子はあんな目をしてしまったのだ。そう、思ったからだった。

「父上、どうしてあんなことを言ったのです!? 例え幼くとも、あの方は私たちの主人ではないのですか!?」

 父は何も言わずに廊下をどすどすと歩いていたが、やがてピタリと立ち止まる。

「要……決して、あの子に近付いてはいけない。あの子は――」

 災いを招くから。

「……災い……?」

 要は、この言葉の意味を知っていた。
 しかし、あの少女とその言葉のつながりを要が知るのは、もっと後のことである。

 要は首を傾げながら、父の後をついて行った。

 ――明日、謝りに行こう……。昨日はごめんなさい、って。……父上は、近寄ってはいけないと言ったけど……このままじゃ、なんだか気持ちが悪い。

 要は自分の胸をさすりながらそう思った。



 そして、翌日。

 要は朝早くに近くの花畑で、可愛らしい桃色の小さな花をいくつか摘んで屋敷に帰った。

「紗夜様、許してくれるかな?」

 要は摘んだばかりの花を見ながら、少し不安になってそう呟く。そして、要は肝心なことを忘れているのに気が付いた。

「……そうだ、どうやって渡せばいいんだろう?」

 所詮、要は奉公人。お仕えしている人に馴れ馴れしく会いに行くのも、いくら子供といえど躊躇われる。

「困ったな、考えるのを忘れてた……」

 さらに悪いことに、紗夜の部屋は屋敷の一番奥にある。庭からこっそり行けるような所でもない。

「どうしよう……」

 困り果てて、要は屋敷の裏口の垣根の側で立ち尽くした。
 すると、垣根の隙間の向こうで、何やら白いものが動いている。要は目を凝らした。誰かいるんだろうか。

「……? ――あっ」

 要は垣根に添って裏庭に入り、中を覗いて声を上げた。

 そこには、要がどうやって会おうかと思案していた、紗夜がいたのだ。

 紗夜も要の声に、ゆっくりとこちらを振り返る。昨日と同じ、黒くて大きな瞳が要を捉えた。

 紗夜は要より二つ下ということもあって、要より背が低かった。よく見てみると顔も青白い。そして、まるでそれを際立たせるように、白地に浅葱色の染め模様がされた着物を着ている。

 けれど、彼女の顔立ちは本当に綺麗なもので。
 可愛らしいというのもあるが、彼女はどこか神秘的な雰囲気さえ持っていた。まだたったの、九つだというのに。

「あ……おはようございます、紗夜様」

 要は緊張で少しこわばった笑顔で言った。
 だが、紗夜は相変わらず何も言わないまま、要をじっと見つめている。

「昨日はごめんなさい。怒って、ますよね……? 父が失礼なことを言って、本当に申し訳ありませんでした……!」

 要は紗夜に頭を下げて謝った。

 ……しかし、一向に反応は返ってこない。
 ちらと顔を上げてみると、彼女は既にすたすたと向こうに歩いていた。

 要は反射的に、彼女の後を追いかけた。

「あの、紗夜様!」

「…………」

 呼びかけると、紗夜は意外にも立ち止まってこちらを振り返ってくれた。そのことに勇気づけられて、要は何とか桃色の花を差し出す。

「これ……昨日のお詫びです」

「…………」

 紗夜はしばらく、差し出された花を見つめていた。その瞳は相変わらず暗くて、何を思っているのか全く見当がつかない。

 やがて、彼女はふるふると首を横に振った。いらない、ということなのだろう。

 要は落ち込んだ。気に入らなかったのだろうか。それとも、まだ許していないのだろうか。何も話さないので分からない。

「……気に入りませんでしたか? ごめんなさい、きれいだと思ったんですけど……」

 それでも精一杯苦笑してそう言うと、彼女が僅かに口を開いた。
 しかし、掠れたそれは息になって出るだけで。

「ごめんなさい、もう一度……」

 要がもう一度聞き返すと、彼女はか細い喉を震わせた。やっとのことで、声が音になる。

「……きれいだと、思わないから……」

「!!」

 掠れた声。悲しい言葉。
 要は目を見開いて、彼女を見ることしか出来なかった。

 まさか自分より小さな子供から、そんな言葉が出るとは思ってもみなかったのだ。

 紗夜はそれだけ言うと、踵を返して向こうに歩いていく。日陰に沿って歩くその姿はあまりにも小さくて、今にも融けて消えてしまいそうだった。

 要は裏庭に、桃色の小さな花をぽとりと落とす。

 このとき、紗夜と要は初めて言葉を交わした。

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