十四話 変わってしまったもの

 ずっと離れていたわけではないのに、彼に再び会えたことで、紗夜の胸は何とも言えない締め付けられるような気持ちでいっぱいになった。

 彼に限って死ぬことはないと思っていたが、それでも怪我を負っていたら……。
 彼にとっては面倒でしかない自分の所に、もう一度姿を見せてくれるのか、もう一度彼の側に居られるのか……。

 そんな不安を今、彼が払いのけてくれた。

「殺生丸様……っ!!」

 紗夜は自分の想いに駆られるまま、焦がれたその存在の元に走り寄る。彼の数歩手前で立ち止まると、ゆっくりと顔を上げてその整った、美しい顔を仰ぎ見た。

「よかった、殺生丸様……!ご無事で、また……会うことが出来て……」

 喜びと安心のあまり、心知らず張りつめていた緊張の糸が切れた気がして、紗夜は少しだけ涙ぐむ。
 殺生丸はそんな紗夜を見つめると、ふと口元を緩めて目を細めた。

「この殺生丸が死んだとでも思ったか」

 彼の言葉に、紗夜は力なく首を振る。視線を地面に落とすと、寂しげな声で呟くように言った。

「殺生丸様に、このまま置いて行かれて……もう会えなかったらと思ったら……不安で、悲しくて、……っ」

 涙まじりの声で言った紗夜の言葉に、殺生丸は僅かに目を見開く。
 
 殺生丸に紗夜を置いていくなどという選択肢はもとよりない。だというのに、紗夜は杞憂の心配をして心を曇らせ、自分が来るのを心細く待っていたのだ。

 彼女の想いを考えると、殺生丸は紗夜の震える小さな肩を抱いて、心から安心させてやりたい、そう思った。
 ――だが。

 殺生丸はちらりと紗夜の背後へと目を移す。
 
 その男は、まるで何も見ていないかのような空虚な瞳で紗夜の背を見つめていた。無表情なその顔に、暗い影が落とされる。

 殺生丸が怪訝に眉をしかめると、紗夜は心を落ち着けたのだろう。少し息をついて目を擦ると、ようやく顔を上げた。

 そして、紗夜が口を開きかけたとき――、男が先ほどの表情とは想像もつかないほど、明るい声音で紗夜に問うた。

「紗夜様、その方を紹介して頂けますか?」

「あ……ええ」

 紗夜は思い出したように返事をすると、男の方に向き直った。

「この方は殺生丸様……。私が、今一緒に旅をさせて頂いてるお方です」

 そう言うと、紗夜は殺生丸の方を向き、今度は男の紹介を始めようとする。
 しかし、その前に男は自ら前に進み出ると、にこりと柔らかな笑みを浮かべた。

「私は要と言います。幼い頃から、紗夜様のお屋敷で使用人として仕えてきました。殺生丸様……よろしくお願いします」

 要と名乗ったその男は、隙のないその笑顔を崩すことはなかった。

 ――この男……気にくわぬ。

 能面のような表情をさらしておきながら、今は屈託のない笑顔を向ける。

 その心が深い深い闇の底に隠されているような気がして、殺生丸はさらに訝しげな顔をすると、要を睨み付けた。

「貴様……何を企んでいる?」

「え……?」

 要は、何を言っているのか分からない、というような顔をして、丸い目で殺生丸を見る。紗夜も驚いたように殺生丸を見上げていた。

「……何のことを仰っているのか分かりませんが……。私は、何も企んでなどいませんよ」

 苦笑してそう言うと、要はそれ以上何も言わず、紗夜を見つめて微笑む。

「……紗夜様。私は、しばらくの間この村に留まって、村の人々に微力ながらお力添えをしようと思っています。もしよろしければ……紗夜様も、共に行きませんか?」

「!」

 要の言葉に、紗夜は大きく目を見開く。答えはもちろん決まっているのであろうが、おずおずと殺生丸を仰ぎ見た。

 その瞳が乞うように殺生丸を見つめ、殺生丸は少し考えた挙げ句、

「……二日後には発つ」

 とだけ呟いた。

「ありがとうございます……!」

 紗夜は承諾されたことが嬉しくて、ぱっと笑みを浮かべると、殺生丸に頭を下げた。

「では紗夜様、早速行きましょう」

 要もどこか浮ついた声音でそう言うと、紗夜にこちらにくるように促した。

「殺生丸様、行ってきますね。夜までには帰ります」

 紗夜はそう言うと、要と並んで村の方へと歩いて行く。

「…………」

 殺生丸はしばらく二人の後姿を見つめたあと、ゆっくりと歩き始め森の中に紛れ込んだ。





 紗夜と要が村に着くと、村はどこか慌しい様子に見えた。壊れた家屋を建て直したり、怪我人の手当てをしたり、死んだ者を埋葬するための穴を掘ったり……。

 皆、何かしらの作業をしていて、先ほどまで呆然としていた村人たちの影はない。だが、それは悲しみを紛らわそうとしているようにも見えた。

 悲しい顔をしていても、生きるためにまた村を作る。きっと、彼らは何度だって、生きている限りそれを繰り返すのだろう。

 自分の命があることに感謝して、生きたいと願って生きている。例え、どんなに苦しくつらい経験をしたとしても。

「…………」

 どうして、彼らはこんなにも強いのだろう。紗夜はそう思わずにはいられなかった。

「…………」

 要は、村人を光の灯った瞳で見つめる紗夜を見て、少し眉を寄せ目を伏せる。

 二人並んで、静かに村の様子を眺めていたとき、不意に脇から声がして紗夜を呼んだ。

「あ! 紗夜さん!」

 聞き覚えのある声に振り向くと、かごめがこちらを向いて手を振っている。紗夜は小走りに彼女の元に向かった。

「さっきは大丈夫でしたか? 具合悪そうだったけど……」

 かごめが心配そうにそう言って、紗夜は自分がここを飛び出してしまったことを思い出した。同時に申し訳ない気持ちになる。

「ごめんなさい、心配をかけてしまって……。もう大丈夫です」

「それならよかった! 見慣れないもの見ちゃったら辛いですよね。……? その人は?」

 ふと、かごめの視線が紗夜の背後に留まる。要のことを言っているのだ。

「あ……この人は私の幼馴染で、要という者です。さっき、偶然再会して……」

 要は紗夜に紹介されると、人好きする笑顔を向けて丁寧にお辞儀をする。

「へえ、こんな所で会うなんてすごい! 紗夜さん、幼馴染がいたのね! 私、かごめっていいます」

 よろしく、と二人が挨拶を交わしていると、再び聞き覚えのある大きな声が響いた。

「お、紗夜じゃねえか!」

「犬夜叉!」

 突然の声に驚いたのか、かごめが声を上げる。犬夜叉はぴょんと地を蹴ると、一つ数えるうちにかごめの隣に降り立った。

「お前、殺生丸に会えたんだろ? 何で戻って来たんだ?」

「え!? 何よそれ、聞いてないわよ」

「あ? 言ってなかったか? 殺生丸の臭いがしたんだよ、ちょっと前に。……ん?」

 犬夜叉は要の存在に気が付いたようで、訝しげに眉を顰める。

「誰だ、そいつ?」

 紗夜は再び要のことを紹介して、今ここにいる所以を説明した。


「――それで、私たちも何か出来ることがあったらと思って……」

「うーん、そうねえ……。怪我人の手当ては、もう終わっちゃったし……」

 かごめは頭をひねらせて考え込んでいたが、やがてぽんっと手を叩いて微笑んだ。

「あっ! お花採ってきてほしいかも! お供えするための……。紗夜さんが、もしよかったらだけど……」

「もちろん行かせてもらいます!」

 正直、もう少し大きなことをするかと思っていた紗夜は少し戸惑ったが、自分にも出来ことがあると思うと嬉しくて、勢い込んで言った。

 そんな紗夜を初めて見て、かごめは目を丸くしたが、こんな一面もあったのか、と微笑む。

「あの、私も紗夜様と一緒に行っても構わないでしょうか?」

 要が控えめにそう尋ねると、かごめは辺りを見回してから大きく頷いた。

「うん、こっちは人手が足りてるみたいだし、大丈夫よ」

「そうですか、ありがとうございます」

 要は嬉しそうに微笑すると、紗夜を見やった。

「では行きましょうか、紗夜様」

「うん」

「気をつけてねー!」

 二人は村の外れにある、少し小高い丘を向けて歩いて行く。かごめは二人の背を見送った。


 ――あの青年……要は、どこか不思議な雰囲気を纏っている。それが良いのか悪いのかは定かではないが、彼はつかみどころのない人だ。
 かごめは直感的にそう思うのだった。





 要は緩い傾斜を、草を踏みしめながら登った。時折、前方から吹いてくる涼やかな風が心地いい。

 この丘の先の緩い斜面を下りれば、美しい色鮮やかな花々が咲き乱れていることを、要は知っていた。この辺りに来るときに見ていたのである。

「今日はいい天気ですね」

「本当ね。気持ちいい……」

 澄みきった青い空を見上げて要が言うと、紗夜は微笑を浮かべて目を閉じ、深く呼吸をする。そうする間も、二人はゆっくりと歩いた。

 やがて、丘の一番盛り上がった所に着くと、思わず足を止める。紗夜がほうっと感嘆の溜息を漏らした。

「すごい……!」

 向こう側の斜面の中ほどから、黄色や橙色の小ぶりな花が咲いている。
 
 下の方に降りるにつれ、花も色もその数を増していき、斜面を降り切った平らな場所には見たこともないほど大きな花畑が広がっていた。

「こんな大きな花畑……私、初めて見た……!」

 紗夜が目を丸くして嬉しそうに声をあげる。きらきらとしたその瞳を見つめながら、要も笑った。

 ――ただ、昔とは全く違う心持ちで。

「……! あっ、待ってください紗夜様!!」

 要は、まるで子供のようにはしゃいで斜面を駆け下りていく紗夜の背を見て、反射的に声を張り上げていた。それはもう癖のようなものである。

「要ー、早くー!」

 そんな要の些細な憂いを、彼女は全く知ることもなく、昔と変わらぬ声で要を呼んだ。

「もう……。変わらないな……」

 要は一つ溜息をつき寂しげに目を伏せてから、斜面を駆け下りる。

 彼女は何も変わらない。
 自分が戦のため屋敷を去ったあの日と、何一つ変わらない。表情も声も、仕草も物言いも、全てが昔と同じまま。本当は明朗な性格も、彼女は変わらずありのままに見せてくれる。

 それは、要が紗夜と過ごした、約三年半の間に築いた信頼関係が成す技なのか、要ははっきりと分からなかった。
 しかし、それだけではないと思う気持ちの方が今はただただ強い。

 一人の男の顔が浮かんで、消えた。――否、消した。

「ほら見て、この花すごくきれい」

 斜面を下りきった要は、紗夜の弾んだ声に顔を上げてその手元を見る。彼女の手には真っ白な可愛らしい花が握られていた。

 すっかり童心に返ってしまった紗夜は、花に囲まれて地面に座り込むと、にっこりと要を見上げて微笑む。

「本当に、綺麗ですね」

 要も微笑んでそう言った。美しく微笑む紗夜を見て、心底綺麗だと思った。

 だが、それではいけないのだ。

 要は相反する己の感情に、一瞬だけ眉を寄せるとそれを彼方へ押しやって、紗夜の隣にしゃがみ込んだ。


 紗夜は出来るだけ大きめの花を選びながら、茎を手折る。色とりどりの花は、摘んでも摘んでも尽きることなく、風が吹く度にさわさわと音を立てて揺れた。

 美しい花を見て、頬を撫ぜる風を感じて……。
 紗夜は、自分の心が珍しく弾んでいることに気が付いた。

 久しぶりに要と一緒にいるからだろうか。
 紗夜はまるで、子供の頃に戻ったような錯覚を覚えた。心が弾んで、色々なものに興味を持って、何をしても楽しいと思えた頃に。

 それは、紗夜の忘れかけていた記憶の引き出しをそっと開いていく。


 ――要とは、よく屋敷の裏の山や花畑に行って遊んでいた。寧ろ、それ以外の場所へは行ったことがない気がする。

 そして、花畑に行くと二人は必ずやることがあったのだ。

 紗夜はふとそのことを思い出し、要も覚えているか尋ねようと彼の方を振り返る。

「ねえ、要――」

「……はい、紗夜様。花冠」

 紗夜が振り向いたと同時に、要がふわりと紗夜の頭の上に花冠を乗せた。

 突然の彼の動作に目を丸くした紗夜だったが、花の芳しい香りを感じて一瞬目を閉じる。

「いい香り……。覚えていたの?」

 頭に乗った花の輪を指で触れながら紗夜が尋ねると、要ははにかんだように微笑んだ。

「忘れるわけないです、紗夜様との思い出だから……。紗夜様は……覚えていましたか?」

「もちろん覚えてるわ。今も、要に聞こうとしたの」

 紗夜が頷きながらそう言うと、要は嬉しそうに顔を綻ばせる。

 花畑に行くと、どちらともなく始めた二人の習慣。

 それは、花冠を作ることだった。

 何気なく始めたことだったが、要は生来手先が器用で、あっという間に花冠を作ることができた。
 対して紗夜は決して不器用ではなかったが、花冠はどうにも難しく上手く作ることが出来なかった。

 上手く作れない紗夜のために、要は花畑に行く度に花冠の作り方を教えてくれた。そうして、この習慣が出来たのだ。

「……でも、結局完成しないままでしたね……」

 要が少し寂しそうに言う。

 それは、出来る出来ないの結果を言っているのではなく、二人が離れた時間に向けて言っているのだと、紗夜も少し寂しい気持ちで聞いていた。

 彼は紗夜に作り方を根気強く教えてくれた。

 だが、四年前に戦で要が村を出る頃になっても、紗夜はとうとうそれを完成させることができなかったのだ。

「……要、少し後ろを向いてて」

「? はい……」

 紗夜の言葉に要は首を傾げていたが、素直に従った。そうして幾らも経たないうちに、紗夜が声をあげる。

「――できたっ! もういいよ、要」

 もういいと言われて、ゆっくりと紗夜の方を向き直る。要は、思わず目を見開いた。

「紗夜様、それ……!」

 紗夜は微笑むと、手に持っていたものを胸の位置まで上げる。
 華奢なその手には、可愛らしい花々でできた、綺麗な花冠が握られていた。

「実は……要がいなくなってからも、ずっと練習していたの。すごく時間がかかっちゃったけど……」

 紗夜は眉尻を落としながらそう言うと、背伸びをして要の頭にそれを乗せた。要は胸に込み上げてくるものを必死で押さえながら、声を振り絞る。

「っ、ありがとうございます、紗夜様……」

 今にも震えそうな声だったが、紗夜は気付いていないようで微笑むばかりだった。

 自分がいない間も、一人であの花畑に行って練習していたのかと思うと、要の胸は熱くなる。紗夜の中での自分の存在が、垣間見えた気がした。

 それは嬉しい。嬉しいはず、なのに――。

 要の心は曇ってしまう。

 昔の紗夜の心に自分の存在が大きくあったのかと思うと、“今”の紗夜の心の中にある自分を探してしまう。

 探す度に気付かされるのだ。

 “今”の紗夜の心には、もっと大きなものがあると。

「……要、そろそろ行こう。遅くなったら申し訳ないから」

 紗夜の軽やかな声音に、要の思考は止まった。紗夜がゆっくりと腰を上げ、花の束を腕に抱える。

「……そうですね、行きましょうか」
 
 声まで暗くならないように、努めて明るくそう言うと、要も立ち上がった。





 村の手前で花冠を外し、かごめの姿を見つけた紗夜と要は彼女に駆け寄った。

「二人ともお疲れ様! こんなに沢山……ありがとう!」
 
 かごめは紗夜から花束を受け取ると、嬉しそうに顔を綻ばせる。
 紗夜も釣られて微笑むと、かごめが紗夜と要の持っていた花冠に目を留めた。

「あっ、それ花冠? すごくきれいね!」

「あ……! ありがとう」

 かごめは花冠を珍しそうに見て目を輝かせると、はしゃいだ声を上げる。

「そうだ、早くこれをもお供えしなきゃ。……行きましょうか」

 かごめは思い出したように花束に目を向けると少し寂しい顔をして、こんもりと盛り上がった土が並ぶ方へ歩き出す。

 遠目から見ても何があるのか分かって、紗夜の足は思わず竦んでしまった。

「……これは、私が持ちましょう」

 不意に要の声が聞こえたかと思うと、紗夜が持っていた花冠が手から離れた。要を見上げると、少し眉尻を下げて花冠を持ってくれる。

 紗夜の動揺を理解したのだろう。要は、すっと紗夜の側に来ると耳打ちするように言う。

「大丈夫ですよ、紗夜様。私がいます」

 要が柔らかな笑顔を浮かべてそう言ったので、紗夜の心は少しだけほぐれた気がした。

 紗夜は小さく頷くと、かごめの背を追って歩き出した。





 亡くなった人たちに花を手向けた後、紗夜と要は出来ることを見つけて動いた。気が付くともう夕方で、紗夜は殺生丸との約束を思い出す。

「かごめさん、ごめんなさい。私、そろそろ帰らなければいけなくて……」

 丁度かごめが近くを通ったときにそう告げると、かごめはそうだった、というような顔をした。

「ああ、殺生丸の所に行くのよね! 今日は本当にありがとう! 明日はどうするの?」

「明日、もう一日来ようかと思ってます」

「わかったわ。じゃあ、明日もよろしくお願いします! お疲れ様」

「はい。かごめさんたちも、ゆっくり休んでくださいね」

 紗夜とかごめの話が終わると、要が紗夜の側に寄ってきた。
 ふと、彼は今日どうするのだろうと思って、紗夜は尋ねてみる。

「要は今日、どこで休むの?」

「私はこの村で泊まろうと思っています。でも、その前に紗夜様をお送りしようと思って」

 そう言う要に促されるまま村を出ると、要はずっと持っていたのだろうか。あの花冠を紗夜の頭の上にそっと載せる。二人は森に向かって、ゆっくりと歩き始めた。

 
 村を出てすぐある草原に来ると、夕日が沈んでいくのがよく見えた。何もかもが赤く染まって、草の上に黒い影を落とす。

 村から殺生丸がいる森まで、そう遠くはない。二言三言言葉を交わすうちに、あっという間に森の手前まで来た。

 森の方を見ると、煙が上がっているところがある。きっと、りんたちが夕餉の支度をしているのだろう。

「要、ここで大丈夫。ありがとう」

「……はい。では、おやすみなさい」

「おやすみなさい。また明日……」

 紗夜は微笑んで要に手を振ると、森に向かって歩いて行った。


 要は夕日に照らされるその後ろ姿を見送る。そうして、思った。

 彼女は何もかも変わってしまった、と。

 月日を経て、要が思わず胸を跳ねさせてしまうほどに彼女は美しくなっていた。幼い時から可愛らしい顔立ちをしていたが、今は可愛いというよりは美しいという言葉の方が合っている。

 もちろん、変わったのは外見だけではない。

 要は、彼女の心もその生き方も、生に対する考え方でさえも、変わってしまった気がした。仕草や本質は変わらずとも、心のうちは何もかも変わってしまっていたのだ。

 ――同じところなんて、一つもない。

 要は心の中で呟く。
 自分が思っていたものとは全く違っていた、と。

 それは、本来喜ぶべきことなのかもしれない。彼女を愛しているのなら。
 
 ――だが、本当に愛しているからこそ、全く逆のどす黒い感情が生まれてしまう。自分が描いていた『未来』を、望んでしまう。

 ぎゅっと拳を握りしめ、彼女の背中が見えなくなるまで見つめる。
 
 ふと森に入る直前、紗夜がもう一度こちらを振り返り、手を振った。
 要はぎくりとしながらも、手を振りかえす。夕日が照っていてよかったと思った。きっと今、自分は醜い顔をしている。

 ――こんな遠い距離で、分かるわけがないのに……。

 要は苦笑して踵を返した。

「また明日……紗夜様……」





 日暮れになり、薄暗くなった森の中。

 りんと邪見は紗夜の帰りを待ちながら、夕餉の支度をしていた。

「……ねえ邪見さま、殺生丸さま何かあったのかなあ? 今日はずっと元気ないよ?」

 りんがこそっと邪見に耳打ちする。邪見はちらりと自らの主を盗み見た。

 彼は、りんたちとは少し離れた木の根元に腰を下ろし、目を伏せていた。それだけ見ればいつもと変わらない。

 しかし、長年付き従ってきた邪見と、その優しさ故に他人の気持ちがよく分かるりんは、彼の些細な違いを察していた。
 物思いに耽るような殺生丸の顔は、いつもよりどこかぼんやりしているように見える。

「きっと、何かお考えになるところがあるのだ」

 邪見はそう言って、今朝の殺生丸の様子を思い出した。


 結局明け方まで続いた妖怪との戦いのあと、殺生丸は休む間もなく紗夜の行方を追った。
 だが、川に落ちた紗夜の匂いはすっかり消えてしまっていたのだ。

 仕方なく川を下ったものの、匂いがないためどこに流れ着いたのかもわからない。

 そうして時間が経つうちに紗夜の匂いが現れ、殺生丸は邪見たちを置いて真っ先にその元に飛んで行ったのである。

 そして、邪見たちが彼に追い付いた頃、紗夜の姿はそこにはなかった。

 殺生丸にその故を問うと、『村に行った』の一言だけ。
 そのうえ、彼の表情はどこか不機嫌そうでそれ以上は聞けなかった。

 そこまで回想して、邪見はもう一度殺生丸を見てみる。恐らく紗夜のことを考えているのだろうが、殺生丸の纏う雰囲気はやはりいつもとは違っていた。

「邪見さま、魚焼けたよ」

「ん、ああ……」

 邪見はりんに空返事を返すと、のそのそと焚火の傍に移動した。





 パチパチと焚火が燃え爆ぜる音がする。その側では、いつものようにりんと邪見が騒いでいた。
 そして、いつも静かに微笑みながらそれを見守る紗夜。しかし、彼女は今ここにはいない。

 一月前は元々いない存在だった。だが、今はその姿が見えないとどうも落ち着かない。殺生丸は頭の隅でそんなことを考えた。

 こんなふうに落ち着かないものならば、村に行かせなければよかったと、思わないこともない。だが、彼女の気持ちが分かるからこそ、その哀願を承諾したのだ。

 けれど、彼女一人で村に赴いたのならば、まだ良かった。
 問題はあの要という男だ。あの男の暗い瞳が何度も頭を過る。

『私が必ず貴女の運命を終わらせる』

 それは話の文脈を読むに、紗夜が望んでいる、死を与えるということなのだろう。そして肝心なのは、それに応じようとした紗夜の方だ。

 紗夜はまだ、死ぬことを望んでいるのだろうか。

 殺生丸はふと考えた。
 出会った頃から今までの紗夜の変化は、言うまでもなく知れている。

 しかし、それが彼女の考えが全て変わった証であるかというと、言い切ることは出来ない。

 殺生丸は紗夜の心の変化を知りつつも、彼女の揺るがないほどの決心の強さも、あらかじめよく知っているのだ。

 ……だが。
 殺生丸は僅かに眉を寄せると、木々の中の闇を静かに睨み付ける。

 ――紗夜の死から、一体何が生まれるというのだ。

 殺生丸は少しの怒りさえ持って、心の中でそう呟いた。

 例え紗夜が死んだとしても、今までに紗夜に関わって死んだ者が生き返るわけではない。まして、紗夜の死がその者たちへの償いになるはずがないのだ。

 紗夜は、ただの犬死になる。

 ――……そうはさせぬ。

 それで紗夜の心が救われたとしても、紗夜の願いであったとしても。

 殺生丸がそう誓ったとき、ふと、その脳裏に昼間のことが蘇った。

『紗夜様……どうか、私と共に地の果てまで来てはくれませんか……? 貴女の呪われた運命を絶ち切るために……』

 そう言って紗夜を腕に抱いていた、あの男の顔が浮かぶ。
 殺生丸は思わず拳を握りしめそうなほど、苛立った感情に襲われた。
 
 あの要という男は紗夜の命を絶とうとしている。どういった方法でかは知らないが、それは容易なことではないはずだ。
 だというのに、それを実行するという。それは紗夜を想うが故、その望みを叶えてやろうということに違いなかった。

 全く対極に位置する、殺生丸と要の考え。しかし、殺生丸が苛立つ理由はそれだけではなかった。

 要の紗夜に対する、火を見るよりも明らかな感情を、まざまざと見せつけられているようで心地が悪い。今も、紗夜があの男と一緒にいると思うと落ち着かなかった。

 その理由は自分でも定かには分からず、はっきりとしない霧のようなものが胸に立ち込めているようで、重い。
 今までないこの感情も、殺生丸の苛立ちに拍車をかけていた。

 そんなことを考えていたときである。
 りんの明るい声が辺りに響いた。

「あっ! 紗夜ちゃん、お帰りなさい!」

「ただいま」

 今日久しぶりに聞く紗夜の声音に、殺生丸ははっとする。
 そして彼女の方に顔を向けると、花の輪を頭に載せている以外、普段と変わらない紗夜が立っていた。

 出迎えたりんと邪見に微笑みながら話す様子からも、彼女が何も変わっていないことが窺える。
 そのことに何処か安心して、殺生丸は肩の力を抜いた。不思議と、先ほどまでの苛立ちが波が引くように消えていく。

 紗夜という存在が、自分の目の届く範囲に……側に居るだけで、殺生丸はその心が落ち着くことを知った。
 こんなにも身近な存在になっていたのだと思い知らされる。安穏な心持ちになったときだった。

「わあ! すっごくきれーい! それ、どうしたの?」

 りんが感嘆の声を上げた。
 思わずそちらに目をやると、どうやら花の輪について言っているようだ。

 ――そこまではよかった。

 しかし、これに対する彼女の反応が殺生丸の心を再び揺さぶってしまうことになる。

 紗夜はりんに尋ねられると、花が咲いたように満面の笑みを浮かべた。

「これね、私の昔から大切な人が作ってくれたの」

 珍しく声を弾ませながら言った紗夜の言葉が、殺生丸の心に衝撃を走らせた。殺生丸は思わず目を見開く。
 なぜ、紗夜と要が一緒にいることが落ち着かないのか……はっきりとわかった瞬間だった。

 ――何故考えなかった……。紗夜は、私の元を離れるかもしれないと――。

 その答えが出れば、繋がるものがあった。自分がどうして落ち着かず、苛立っていたのか。

 自分の知らぬ所で紗夜と要の結びつきが強くなり、紗夜が自分の元を去るのではないかとどこかで思っていたからだ。
 しかも、紗夜の願いと要の考えは、寸分違わず合致している。紗夜が自分の元を去る可能性は全くないというわけではない。

 理由が分かったというのに、殺生丸の心が晴れることはなかった。寧ろ、重さを増して考えるべきことを増やす一方である。
 紗夜がもし、己の元を去りたいと言ったとき、殺生丸はどうすればいいのか考えた。

 紗夜には生きていてほしい。ならば、彼女を要の元に行かせるわけにはいかない。
 だが自分の勝手な思いで、彼女の生死を決めてしまうのも違う。ならば、どうすればよいのか。

 ――そもそも元を辿って行きつくのが、なぜ自分がこのようなことを考えているか、である。

 なぜ自分はここまで紗夜の生き死にに己の思いを交えて思考しているのか。紗夜に生きていてほしいと思うのか。
 最早大切な存在だから、と言ってもいい。しかし、それは少し違う。

 りんや邪見と全く同じ“大切な”存在というわけではないのだ。そこに優劣はないが、差がないともいえない。

 殺生丸は終着点のない考えを繰り返しながら、腕に大事そうに花冠を抱えた紗夜を見る。

 夜は静かに、けれど刻々と更けていった。





 僅かに欠けた金色の月が、空高く浮かぶ頃。

 殺生丸は目を閉じたまま、未だに答えを探し続けていた。しかし、いつまで経ってもそれは出ず、さすがに集中力も欠いてくる。

 考えることを止めようかと思い始めたとき、それを助長するかのようにごそごそという音がして、思考を中断させた。
 殺生丸はすっと瞳を開くと、物音のした方へ目をやる。

 すると、眠れないのだろう。紗夜が何度も寝返りを打っていた。殺生丸は再び瞼を閉じる。
 しかし、何か動く気配があって、もう一度目を開けると。

 紗夜が、立ち上がって森の外の闇へと歩いて行くのが見えた。焚火の炎は既に消えていたが、その姿ははっきりと分かる。

 普段ならば、眠れないので風にでも当たりに行くのだと考えただろう。
 だが、今日の殺生丸にそれはできなかった。

 紗夜がこのまま、要の元に行くのではないか――。
 そんな思いがよぎって、殺生丸は立ち上がると彼女の後を追った。


 森を出てすぐの草地に、紗夜は腰を下ろしていた。森と違って木々のない草地は、月の柔らかな光を直接地上に浴びている。
 ぼんやりと月に照らされて闇に浮かび上がった紗夜の背中が見えて、殺生丸は心から安堵した。

 静かに草を踏む足音が聞こえると、紗夜はゆっくりと後ろを振り返る。

「! 殺生丸様……」

 一瞬驚いた顔をして、紗夜はにこりと微笑んだ。その微笑みに、殺生丸は先ほどの考えを隅に置いておく。

「……眠れぬのか」

「……はい。どうしても気になってしまって」

 そう言って彼女が見せたのは、あの花冠だった。途端にドクンと殺生丸の心臓が波打つ。

「輪が外れてるのに気が付いて……。火をつけると、りんちゃんたちが起きちゃうから……」

 ――だからわざわざ、起きてここまで来たというのか……。

 殺生丸は胸のざわつきを抑えられなかった。

 紗夜があの男と関わっているだけで無性に腹が立つ。やはり、紗夜がここを去るつもりなのではないかと思った。

 言い知れぬ焦燥感から殺生丸は自分を抑えることが出来なかった。だから、いつもなら容易に踏み込まないところに、踏み込んでしまったのである。

「……紗夜……。お前はまだ、死を望んでいるか?」

「え……?」

 突然の問いかけに、紗夜は困惑しきった瞳で殺生丸を見上げていた。
 しかし、殺生丸はそれ以上何も言わず、紗夜の答えを待つ。

 紗夜は感じたこともないような威圧感を放つ殺生丸に戸惑い、視線を彷徨わせ口籠った。重たい空気が流れる。

 しばしして、殺生丸はあれほど考えても出なかった答えをあっさりとこの場で見つけてしまった。

 それが最善だと言えるのかは分からないが、殺生丸はこの一時の感情に任せて出した答えではないことは重々理解していた。
 それなりの覚悟と、決心があった。

「……私はお前を死なせるつもりはない。この先、何があっても……。しかし、お前が真に死を望むのなら…………あの男と行け」

「!!」

 はっと紗夜が息を呑む。何かを言おうと口を開きかけるが、それが言葉として紡ぎ出されることはなかった。

 殺生丸は静かに紗夜を見つめると、やがて踵を返して森の中へと歩いて行った。

 紗夜はしばらく動くこともできずに、ただ遠ざかっていく殺生丸の背を見つめていたのだった。

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