十三話 過去を知る者
『私は、紗夜様のお傍にずっといます。例え貴女が死を望んだとしても』
――懐かしい声がした。
心を閉ざした紗夜の側に、いつでも彼はいてくれた。紗夜が頼めば、彼はどんなに無茶な願いでも聞いてくれた。
……だが、それももう昔のことだ。もう彼に会うことはないだろう。
『約束します、紗夜様。私が必ず、貴女の――』
彼の声はそこで途絶えた。
彼の言葉の続きを思い出す前に、紗夜の意識は段々とはっきりしてきて、瞼の外が白らんでいるのを認識する。
「……ん……」
ゆっくりと重たい瞼を持ち上げると、日の高く上った青空が視界に広がった。雲は一つもなく、空を流れるものは何もない。
……ここは、一体どこだろうか。
頭の隅で考えていると、突然紗夜の視界に見慣れない黒髪の少女の顔が現れた。その少女は紗夜より少し年下のようで、綺麗な面立ちをしていたが、可愛らしい。
「よかった、目が覚めたんですね!」
少女は大きく目を見開いて紗夜を覗き込むと、安心したように顔を綻ばせる。
自分に向けられた微笑みをぼんやりと見つめながら、紗夜はゆっくりと上体を起こした。
「!」
身体を起こして、思わず驚きに目を見開く。
少女の着ている衣が見たこともないようなものだったのだ。異国の衣なのだろうか、と紗夜は考えを巡らせたが、すぐに他のことに気をとられてしまう。
少女の背後にはまだ数人人がいて、法衣を着た男に、妖怪退治屋姿の少女、その肩には猫のような生き物が乗っていて、さらには小さな子供のような者もいる。
そして、紗夜の目を一際引いたのは、赤い衣を纏った少年だった。鮮烈な赤に目を引かれたわけではない。
紗夜は彼の長い銀髪に目を奪われたのだ。必然的に、それは殺生丸を思い出させる。
殺生丸の姿を思い出して、紗夜は俯いた。
彼は……彼等は、今どうしているだろう。きっと助かっているだろうが、確証などない。
もう一度、会えるかどうかも分からない。
「? ……大丈夫ですか?」
「……! あ……はい……」
暗い顔で俯いてしまった紗夜を見て、少女が心配そうに尋ねる。紗夜ははっと我に返ると、返事をして顔を上げた。
すると、法衣姿の男がいつの間にか紗夜の目の前に座っている。
彼は紗夜の瞳をじっと見つめると、感嘆の溜息をついた。
「これは、なんとお美しい……。あなたは、この川上から流れてきたのです。これも、何かのご縁……つきましては私の子を――」
法師が滑らかに言いかけたとき、彼の頭上に風を切る何かが舞う。そして、次の瞬間――。
ゴンッ!!
鈍い音がして紗夜が法師を見てみると、彼の頭の上には見事なまでのたんこぶが出来ていた。
「いっ……!」
痛そうに声をあげる法師の後ろには、退治屋姿の少女が大きな板のようなものを抱えて立っている。おそらく、彼女が法師を殴ったのだろう。
このやり取りは日常茶飯事なのか、誰も気に留める様子はない。
紗夜は法師を少し気の毒にも思ったが、不思議な恰好の少女が話し始めたので、彼女へと目を移した。
「ああ、ごめんなさい……いつものことだから気にしないでください。……私は、かごめって言います。それから、さっきの法師が弥勒さま。あの退治屋の女の子が珊瑚ちゃん。その肩に乗ってるのが雲母。それから、この子が七宝ちゃん」
不思議な格好の少女――かごめが、簡単にそこにいる者の紹介をする。
やがて彼女は、赤い衣の少年に目をやった。
「それから、こっちが犬夜叉。犬夜叉があなたを助けて――」
「……犬夜叉……?」
少女の言葉を聞いて、紗夜は一瞬息を呑む。聞き覚えのある名前だった。
ついその名前を繰り返すと、犬夜叉は眉を寄せて紗夜を見下ろす。
「なんでい、なんか文句あんのか?」
苛立ったような、不機嫌そうな声音で言いながら、犬夜叉が紗夜の目の前にしゃがみ込んだ。
『犬夜叉は殺生丸さまの左腕まで、何の躊躇もなく斬り落としたのだ!』
前に邪見から聞いた言葉が、犬夜叉への最悪な印象と共に、紗夜の頭に鮮明に蘇ってくる。
紗夜は冷静に考えることさえ忘れて、思わず口を開いていた。
「……あなたが、犬夜叉……? それじゃあ、あなたが殺生丸様の……」
「!! 殺生丸だと!?」
「――っ!!」
犬夜叉が大声を上げ、紗夜はハッとして慌てて両手で口を押さえた。
犬夜叉たちがどういう人物なのか分からない以上、彼の名は出さない方が良かった。殺生丸に迷惑をかけてしまうかもしれないし、犬夜叉と殺生丸の仲が悪いのならば、尚更である。
「殺生丸って、あの殺生丸でしょう!? どういうことか、教えてくれませんか?」
かごめにそう言われて、紗夜は彼女を真っ直ぐに見つめた。
かごめの人柄はどう見ても悪く見えない。犬夜叉はともかく、他の人物も悪い者ではないように思われた。
……それに、彼らには助けてもらった恩義がある。そう思った紗夜は自分の失態を悔いながら口を開いた。
「……私は、紗夜といいます。助けて頂き、ありがとうございました……。私は……殺生丸様と共に、旅をさせて頂いていた者です。ですが……昨晩妖怪に襲われた際に、崖から落ちてしまって……。そして、ここに流れ着いた次第です……」
紗夜が簡単に経緯を説明すると、弥勒が驚いたように言う。
「あの殺生丸が人間を連れているとは……信じがたいですね」
「……ああ。でも、信じられないことはまだあるよ」
珊瑚は弥勒に同意しながらも、怪訝そうな顔で紗夜を見つめた。
「あなたは崖から落ちたと言った。でも、普通の人間ならとっくに死んでいるはずだ。万が一命があったとしても、怪我一つないわけがない。でも、あなたは無傷だった」
怪しんで言う珊瑚に犬夜叉も頷き、紗夜を睨み付ける。
「お前はこの妖怪たちと一緒に流れてきた。そもそも、妖怪に喰われてねえのがおかしいんだよ。……お前、何者だ?」
脅すように言いながら、犬夜叉は側の川に流れる妖怪の死体に目を向けた。紗夜を喰えずに息絶えた、爛れた身体の妖怪たち。
紗夜もそれを見てから、犬夜叉に視線を戻した。彼は厳しい目でこちらを見ている。
怪しまれるのも、疑われるのも慣れていた。ただ、最近まではそんな中にいなかったから。本当は温かいあの人の側にいて、忘れそうになっていた。
……だからだろうか。
その眼差しが少し恐ろしく、そして悲しいと思うのは。
――だが、言うわけにはいかない。
どれだけ怪しまれても、疑われても、自分のことを語るつもりはなかった。
「…………」
黙ったまま犬夜叉を見つめると、犬夜叉はチッと舌打ちして長い爪の生えた手を紗夜の眼前に突き出した。
「早く白状しやがれ。死にたくねえだろうが」
「!」
「犬夜叉、おすわりーっ!!」
「ふぎゃっ!!」
かごめの声が響いたかと思うと、紗夜の目の前にいた犬夜叉が地面にへばりつくように倒れた。
紗夜が突然のことに驚いて目を丸くしていると、かごめが慌てて口を開く。
「ごめんなさい、紗夜さん! 犬夜叉も悪気はないんです。ちょっと荒っぽいだけで……」
「い、いえ……私の方こそ……。ごめんなさい、どうしても言えないんです……」
かごめの優しい表情に、心底申し訳ないと思い始めて紗夜がそう言うと、弥勒がにこりと微笑んだ。
「出会ったばかりなのですから、仕方ありません。これ以上の詮索はやめておきましょう」
「……そうだね。私も悪かった……」
「いいえ、そんな……」
珊瑚が申し訳なさそうに言うので、紗夜は慌てて首を横に振る。すると、七宝が紗夜の側にやって来た。
「ところで、紗夜はこれからどうするのじゃ? 殺生丸の所に戻るのか?」
「……それは……」
七宝の質問に、紗夜は押し黙る。
……出来ることならば、殺生丸の所に戻りたい。しかし、殺生丸はそれを望んでいるのだろうか。
自分が殺生丸の側にいれば、今後も彼に迷惑をかけてしまう。殺生丸も、本心では紗夜を面倒な存在だと思っていたら……?
そこまで考えた紗夜の脳裏に、昨晩の殺生丸の姿が浮かぶ。
紗夜のために必死になってくれた姿。
紗夜が生きていることに、微笑んでくれた姿――。
本当に面倒だと思ったら、紗夜に対してそんな姿を見せてくれるだろうか……。
――きっと、殺生丸様は私を疎んではいない。でも……。
面倒をかけると分かっていながら側にいるのは、許されることなのだろうか? 彼のことを思うなら、このまま戻らない方が……いいのかもしれない。
そう思い始めると、殺生丸の元に帰ってはいけない気がした。
帰りたい、でも帰ってはいけない。
会いたい、でも会ってはいけない。
相反する気持ちに揺れながら考え込んでしまった紗夜を見て、かごめが控えめに声を出す。
「あの、紗夜さん……。よかったら、少しの間だけでも私たちと一緒に行きませんか?」
「……え……?」
かごめの突然の提案に、紗夜は目を丸くする。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。そして、かごめの提案に驚いたのは紗夜だけではなかった。
犬夜叉たちも驚きに口をぽかんと開けている。だが、犬夜叉ははっと我に返ると、すぐにかごめに喰いかかった。
「おいかごめ! 勝手に何言ってんだよ!」
「だって、一人にしておけないもの! また妖怪に襲われたらどうするの!?」
「確かに……いつ妖怪が襲ってくるか分かりませんね。それに、殺生丸ならば紗夜さまがどこに居ても匂いでわかるでしょうし……」
「ああ。殺生丸が迎えに来るまでは一緒にいた方がいいね」
かごめの提案に弥勒と珊瑚まで、最もらしい顔で賛成する。
犬夜叉はうっと押し黙り、溜息をつきながら紗夜を見た。
「……で、お前はどうなんだよ? おれらと一緒に行ってもいいのか?」
犬夜叉に問いかけられ、紗夜は不安げに俯いた。
自分から、殺生丸の元には戻らない。……戻れない。けれど、もし彼が迎えに来てくれたのならば。
そのときは、彼の元に戻りたい。
ただ、殺生丸が紗夜を迎えに来てくれるという確証は一つもなかった。紗夜は、静かに顔を上げた。
「あの……もし殺生丸様が来なかったら……?」
小さな声でそう言うと、かごめが少し目を見開いてから、柔らかく微笑む。
「殺生丸は、きっと来ると思いますよ」
「?」
断定的に言うかごめの口調に、紗夜は何を根拠に言っているのだろう、と小首を傾げた。
そんな紗夜の様子を見て、かごめはさらに笑みを深める。
「だって、殺生丸ってすっごく人間嫌いなのに、紗夜さんを連れてるんだもん。だから、きっとまた迎えに来るわ」
かごめの言葉に、紗夜の心が少し晴れていく気がした。
気が付くと、紗夜は頬を綻ばせて彼らを見上げていた。
「……ありがとう……」
口から零れた柔らかな声音は、自分でも驚くほど温かい気がして、よく見ると犬夜叉たちも目を丸くしている。
紗夜が微笑んだのが意外だったのかもしれない。少しの気恥ずかしさに頬を染めると、彼等は優しく微笑んでくれた。
「それじゃあ決まりね!」
「よろしくのう、紗夜!」
「よろしくお願いします……!」
紗夜は座ったままぺこりと頭を下げた。
心が、温かかった。
人に囲まれて微笑むことが出来るのは、なんて幸せなことなんだろう。
「ったく、殺生丸が来るまでだからな。でも、ま、それまでは面倒みてやるよ……」
犬夜叉がふいっと照れくさそうに横を向きながら紗夜に言う。
紗夜はその言葉だけで満たされる気がして、もう一度お礼を言った。
犬夜叉に対する悪い印象も、既に紗夜の中から消えていた。たしかに邪見の言っていたような部分もあるのかもしれないが、最後は自分の目で見たものを信じたい。
紗夜はそんなことを考えてから、ふと空を見上げた。
――殺生丸様。もし許されるなら、どうかまた、あなたのお側に戻ることができますように……。
相変わらず雲一つない青空を見上げて、紗夜は祈りながらそっと目を閉じた。
◇
紗夜が犬夜叉たちと行動することを決め、少ししたあと。犬夜叉一行は出発した。
かごめたちは紗夜の身体を気遣って、もう少し休もうと言ってくれたのだが、紗夜は丁重にそれを断った。
怪我もしていないし、少し疲労はあるものの耐えられない程ではない。
自分のせいで一行の足止めをしてしまうのは心苦しかったのだ。
そうして川原を出発した紗夜たちは、川上へと行くことになった。昨晩の妖怪の大群について調べに行くつもりらしい。
犬夜叉たちは、その妖怪たちの出所が気にかかっているとのことだった。
犬夜叉たちは殺生丸と同じく、奈落という妖怪を追っているそうで、昨晩の妖怪とその奈落が何か関係しているのではないかと疑っているらしかった。
かごめは、紗夜と共に流れてきた妖怪たちには水のせいで臭いが残っておらず、犬夜叉の鼻でも奈落の手先がどうかが分からない、ということまで、丁寧に紗夜に説明してくれた。
そんなことを話しながら土手の上を歩いていると、川ばかりだった景色が少しずつ移り変わってきた。視界には段々と田園が広がってきて、少し遠くに目を移せばうっそうとした森も見える。
作物が実っている畑を見れば、近くに人が住んでいる事が想像できた。
「ねえ犬夜叉、あそこに村があるわ。話を聞いていきましょう?」
かごめが指さす方へと目を移すと、森の手前に人家の屋根がぽつりぽつりとあるのが見える。犬夜叉もそれを確認すると、かごめを向き直った。
「ああ、妖怪のことについてなんか分かるかもしんねえな」
「決まりね! じゃあ行きましょう」
そうして一行は先にある村を目指して歩みを進めるのであった。
◇
村へと到着した一行は、唖然としてその光景を見つめた。
「嘘……」
紗夜は思わず吐息を漏らす。
村は、ほんの数件の人家を残しているだけで、他の家々は壊れて崩れ落ち、とても普通の村だったとは思えないほど荒れ果てていた。
地面に染みついた血の赤と、一列に横たえられた無数の人々の亡骸を、紗夜はだだ呆然と、食い入るように見つめる。地獄のような光景に愕然として、嫌な予感に胸を支配された。
「これはひどい……。随分と荒らされていますね……」
弥勒が険しい顔をして、亡骸を見る。他の者も苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「お前さんたち、旅の方かね……?」
突然聞こえたしわがれた声にはっと顔を上げると、青白い顔をした老人が立っていた。
その面持は暗く、目の下にくまを作っている。明らかに滅入っている様子が、ありありと分かった。
「おじいさん、この村で何かあったんですか……?」
かごめが老人の方を向いて尋ねると、老人は俯いてぽつぽつと渇いた声で語り始める。
「昨日の晩のことだ……。突然、見たこともねえぐらいの妖怪の群れが、村の上を通って行ったんだ」
「!!」
老人の昨晩という言葉に、紗夜ははっと息を呑み目を見開いた。
「始めは、普通に通り過ぎて行ったんだが……しばらくすると戻ってきて、この村を襲い始めた。それはもうすごい数で……村の奴らは次々と喰われていったよ……」
わしは何とか生き延びられたんだがね……と、老人は自嘲気味に唇を少し釣り上げると、震える手をもう片方の手でそっと押さえる。
「おじいさん、私たちも何か出来ることがあれば手伝います」
「ええ、ご供養は私にお任せください」
涙で次第に潤んでいく老人の瞳を見て、かごめと弥勒が言った。老人は二人の申し出を聞くと、驚いたように顔を上げて、やがて「ありがとう」と掠れる声で言った。
つっと一筋零れ落ちた老人の涙を見て、紗夜は自分の拳をきつくきつく握りしめる。
――何となく、分かってはいたのだ。この村がどうしてこうなってしまったのか。それが自分のせいであることなど、もう百も承知のことである。
自分はまた、何の関係も無い人を巻き込んでその命を奪ってしまったのだ。
一体何度繰り返せばいいのだろう。いつになったら終わりが来るのだろう。
「っ……!!」
押しつぶされそうな胸を押さえて、紗夜は気が付くとその場から逃げだしていた。――怖かった。
「あ、紗夜さん!?」
かごめの驚いた声が後ろから聞こえたが、紗夜は振り返らずに走った。震える体で、足が今にも縺れそうになりながらも、必死に走った。
「無理もないね……」
「ええ、この有様です。見慣れていないおなごには少々きつかったのでしょう」
「気分でも悪くなったんだろ、ほっときゃあいいんだよ」
「もう、犬夜叉ってほんっと口が悪いんだから! ……でも……たしかに、今はそっとしといてあげた方がいいのかもしれないわね……」
四人はそう話すと、各々生き残った者たちを手伝いに行くのであった。
◇
「はあ、はあ、はあ……っ!!」
紗夜は村近くの森の手前でようやく足を止めた。肩を弾ませて息をしながら、早鐘のように打つ心臓の音を聞く。
着物の上から手を当てても、それはドクドクと脈を打ち、自分がまだ生きていることを嫌でも実感させた。
紗夜はかくんと膝を折ると、崩れるように地面にしゃがみ込む。指で土を抉るようにして握ると、手の甲に涙がぽつりと落ちるのが見えた。
「っ……どうして……」
――どうして早く死ねないの……。私なんか生きていても何の意味もない。私のせいで今まで何人もの人が死んだ。私が、代わりに死ねばよかったのに……。そうすれば今頃、きっと――。
“あの人”も笑ってくれていた。
紗夜の頭に、幸せだった頃の記憶が蘇る。兄と遊び、父と母に見守られて、温かい家は優しさと幸せに満ちていた。
あのときまでは、何があっても揺るがない絆が、そこにはあったはずなのに……。
あのとき、すべてが変わってしまった。
八歳のときのこと。“あの人”が死んだ、あのときから――。
「っ……」
ギリッと唇を噛み締めて、紗夜は嗚咽を呑みこんだ。何度振り返っても、もう戻らないことは分かっていた。
それでも、代わりに自分が死んでいればよかったと思わずにはいられない。
もし自分がこんな運命でなければ、もっと幸せを感じることが出来ただろうか。
生きることを、いま生きていることを、素直に喜べただろうか。
「……私は――」
「……紗夜、様……?」
「……?」
どこからか声がして、紗夜はゆっくりと顔を上げた。すると、目の前に紗夜とそう年の変わらない青年が立っている。
長めの髪の毛を後ろで一つに束ね、目を大きく見開いて紗夜を見つめていた。すっと高い鼻に、形の良い唇、だれがどう見ても美青年だというような青年である。
見覚えのない顔に紗夜は首を傾げるが、その顔はどこか人懐こさがあり、親しみを持ってしまう。
……それどころか、紗夜は懐かしい気さえしてくるのだ。
「あの……、あなたは……?」
おずおずと青年を見上げながらそう問うと、青年は困ったように眉尻を下げて苦笑した。
「無理もありませんね、もう四年も経ったのですから……」
青年の言葉に、紗夜はさらに首を傾げるばかりである。困惑する紗夜を見て、青年は微笑んだ。
「お久しぶりです、紗夜様。ずっと、お会いしたかったんですよ」
「――!!」
――紗夜様。
その呼ばれ方に、紗夜の記憶の引き出しが開いた。一人の人物が、紗夜の中に浮かんでくる。
「……もしかして、要……?」
呆然としたまま頭に浮かんだ名前を口から零せば、青年はにっこりと優しい笑みを浮かべた。
「はい、紗夜様。要です」
春の暖かな木漏れ日のような笑顔を見て、紗夜ははっきりと確信する。
“あのとき”からずっと紗夜の側に居てくれた、たった一人の人。唯一無二の大切な存在。
紗夜は見違えるように成長した青年、要の顔を見つめて、その中に自分の知っている彼を探す。
要の瞳は真っ直ぐ紗夜を捉えていて、四年前と変わること無く澄んだ光を宿していた。紗夜のよく知っている要に違いなかった。
「要……! 本当に、要なのね……」
久しぶりの再会に感動して、止まっていたはずの涙が再び頬を伝っていく。
要はそれを見ると困った顔をして紗夜の側に駆け寄った。
「ああ、泣かないでください、紗夜様。本当に、要ですよ」
苦笑しながらも、どこか嬉しそうにそう言う要に釣られて、紗夜も口元を緩める。
――要は、“あのとき”の次の年から紗夜の家に奉公人としてやってきた、紗夜より二つ年上の男の子だった。
そして四年前――。要が戦で村を出たとき、彼はまだ十四歳で、紗夜は十二歳。要はあどけなさの残る少年だった。それがすっかり成長して、大人になっている。
そういえば、と紗夜は要の顔を見つめた。
川へと落ちて気を失っている間、夢で聞こえた声が要のものだったことを思い出す。
もう要とは会えないものだと思っていた紗夜は、どういう偶然であれ彼にまた会えて良かったと心から思った。
「要、生きててよかった……。また会えて嬉しい……」
指で涙を拭いながら紗夜がそう言うと、要は少し目を見開いてまた笑った。
「私も嬉しいです、紗夜様。……やっと、貴女と再会することができた……」
要はそう言うと、紗夜の肩を支えて立ち上がらせ、柔らかな草の上まで来て腰を下ろすように促す。
二人で並んでそこに座り、紗夜は要に尋ねてみた。
「要は今までどうしていたの?」
「紗夜様のお側を離れた四年前から数ヶ月前まで、ずっと戦に赴いておりました」
要は懐かしむように草に目を落として言う。
「実は戦が終わってから軽い病にかかってしまって、中々村に帰ることが出来なくて……。つい先月、ようやく村に帰ったんです」
要の言葉に、紗夜はじっと身を固める。
……要も、あの変わり果ててしまった村を見たに違いない。今どうなっているかは分からないが、要が村へ着いたのは、紗夜が村を逃げ出してすぐのことだろう。
要の両親だってあの村に住んでいた。彼らの安否さえ、紗夜は分からない。
心臓が押し潰されそうになる感覚に再び襲われながら、紗夜はぎゅっと膝を抱えた。要にその先を促す勇気も紗夜にはなく、要が言葉を続けるのをじっと待つ。
「……村には、誰もいませんでした。それで……」
そこまで言うと、要は言いにくそうに躊躇いながらも、紗夜の方へと向き直る。
「ここから先は、お伝えしてよいのか分かりません……」
要のその言葉は、暗に紗夜に許可を求めていた。
紗夜は先を聞くのが恐ろしいと思いながらも、知らなくてはいけないという半ば責務のようなものを感じて口を開く。
「……いいわ。教えて……?」
「……はい。実は……紗夜様のご家族は、皆様……もう既にお亡くなりになっていました……」
紗夜は思わず一瞬息を止めて、要の言葉を飲み込んだ。
「……そう……」
短く、それだけ返事をする。
覚悟はしていた。あれほどの惨事になったのだから、紗夜の屋敷が無事なはずが無い。
しかし、要の口から出たその言葉は妙に生々しさを感じさせて、紗夜の家族はもう誰一人この世にいないのだと実感させる。
僅かばかり感じた動揺をもみ消すように、紗夜はつい要に尋ねてしまっていた。
「……要の家族は……?」
そう聞いてからすぐ、しまったと思ったのは言うまでもない。要の顔が刹那、寂しそうなものになった。
「……私の父と母も、死んでいました」
哀しげな声色で要はそう言うと、またいつものように微笑む。
「でも、仕方ないんです。父は足が悪かったから……きっと逃げられなかったんです。母も父を置いてはいけなかったのでしょう」
どこか他人事のように仕方ないと言う要。
でも、本当は悲しくて、寂しいに違いない。彼の家族もまた、もうこの世には誰一人としていなくなってしまったのだから。
……なのに、どうして要は笑うことが出来るんだろう。紗夜のことを恨まないのだろう。
どうして今も、こうして紗夜の側にいてくれるのだろう。
紗夜は何も言えないまま、要の顔をじっと見ていた。すると、要が驚いたように目を見開く。
「紗夜様、どうして泣いてるんですか……?」
要にそう言われて、初めて自分の視界が滲んでいることに気が付いた。手で拭うと、じんと鼻が痛む。
最近の自分は、すぐに泣いてしまう。なんて弱くて、いつまでも逡巡してしまうのだろう。
「ごめんね……要……ごめんなさい……っ……」
紗夜に出来ることはもう謝ることしかなくて、要の目もまともに見られずに、俯いて何度も謝った。
要は何度も何度も謝罪する紗夜を見て、悲しげに瞳を伏せる。
「……泣かないでください、紗夜様……」
「…………」
要の珍しく低い声に、紗夜は思わず顔を上げる。すると、要は戸惑った様子で紗夜を見つめていた。
「……私は、貴女のためだけにここにいるんです。何が犠牲になったとしても、貴女の側に変わらずいられるなら、それでいい。だから、紗夜様が嘆く必要はないんですよ」
いつもの和らぐような笑顔で、要はそう言い切った。
「……どうして……。どうして要は、私の側にいてくれるの……?」
自分の両親を失ってもなお、その元凶である紗夜の側にいてくれる要。
紗夜のためだけにいるという要。
紗夜には全く、彼の気持ちが分からなかった。
心底不思議そうに尋ねる紗夜を、どこか懐かしむような目で見ながら、要は口を開く。
「忘れてしまいましたか? でも、私は覚えています。貴女が、初めて私の前で泣いたとき……私は、紗夜様とお約束しました」
そこまで言うと、要は笑みを消して真剣な顔つきで紗夜を見つめる。
紗夜は要の瞳を受け止めながら、次に紡がれる要の言葉を待った。少しの緊張感と共に、ふとこの前の夢が蘇ってくる。
『私は、紗夜様のお側にずっといます。例え貴女が死を望んだとしても……』
その続きは、今目の前にいる要の口から零れ出た。
「私が必ず……紗夜様、貴女の運命を終わらせる、と……」
「――!! か、要……!?」
要はそう言い終わるやいなや、紗夜の身体を抱きしめた。紗夜の丸くなった目に、要の着物の襟が映る。
強く抱き寄せられた身体は離れることもできず、紗夜は要に身を任せたまま、要の懐かしい匂いに安心感を覚えた。
「紗夜様……。どうか、私と共に地の果てまで来てはくれませんか……? 貴女の呪われた運命を絶ち切るために……」
要は静かな優しい声音で囁く。紗夜はまどろんだ心地の中、その声を聞いていた。
そして、要に誘われるがまま、返事をしようと口を開きかけたとき――。
「それは許さぬ」
「!!」
鋭く、低い声が紗夜の意識をまどろみの中から掬い上げた。
紗夜ははっと目を見開くと、要から身体を離し辺りを見回す。
聞き覚えのある声は、間違いようもないほど紗夜が焦がれていたものだ。背後の木々の陰に目をやって、紗夜は思わず声をあげた。
「殺生丸様……!!」
青々とした草を踏んで、殺生丸が姿を現す。
白銀の美しい妖怪の存在を認めた要は、紗夜の瞳がきらりと光を宿すのを見逃さなかった。
要は紗夜の腕だけを緩く掴むと、妖怪を見つめる。紗夜はその時の要の表情を知る由もない。
ただ殺生丸だけは、目の前の青年の瞳が暗い影に囚われているのを見たのだった。