十一話 大罪

 紗夜たちが町に降り立つ、少し前のこと。

 質屋の主人はいつものように店の板の間に座って、質物の整理をしていた。棚から出してその品々を見ると、誰が何を預けて行ったのか今でも思い出せる。
 ずっと昔に来た人のことも、この質物たちのことも、忘れることはない。
 
 主人はふと、衣紋掛に掛けてある美しい着物を見た。昨日これを質入れしに来た、あの若い娘のことを思い出す。

 彼女はずっと悲しげな表情をしていた。着物を見る瞳は確かに怯えていた。
 絶ち切れない過去が、あの娘を苦しめているのだろう。彼女をのことを思い出す度に、どこか不憫に思えて仕方なかった。

 でも、自分はどうすることもできない。

 そんな苦悩を抱きながら、主人は着物を撫でた。すると、少しずつ穏やかな気持ちになってくる。
きっとあの娘は大丈夫だ。何の根拠もない考えだが、不思議とそう思えた。

 最後に見たあの娘の笑顔が頭の中にすうっと浮かんだ。――そのとき。

「きゃあああっ、鬼よーっ!」

「大変だ、鬼が出たぞーっ!!」

「く、来るな、来るなあぁぁっ! ぎゃあああぁぁっ」

 店の外から、町の人々の悲鳴が響き渡った。

 板の間に座ったままでも、入口から外の様子が窺えた。逃げ惑う人々に交じって、点々と血の赤が大通りを濡らしている。

 そんな奇怪な景色を見ても、主人の心は穏やかだった。

ドシン、ドシン……と、巨体の歩く音が地を揺らし、地響きを立てながらこちらに近づいてくる。……きっと、ここが目的地なのだ。

 ――ドシン!

 入口から、とても大きな足が見える。それは動くことなく、その場でピタリと止まった。

 メリメリッ!!

 頭上から木くずがパラパラと落ちてきた。どうやら屋根をもがれたらしい。
 ゆっくりと上を見上げると、大きな目をギョロギョロさせて、鬼が主人を見据えていた。

 鬼は、低く恐ろしい声で言った。

「貴様ァ……女を匿っているなァ? 出せェ……」

 目を背けたくなるような、醜く恐ろしい姿。
 しかし、主人は決して目を逸らさなかった。

「……何のことでしょう?」

「隠してもムダだ、ここからあの女の匂いがしたんだ……! 早く出せ、喰ろうてやるわ!!」

「ここにおなごなどおりませんよ」

「嘘をつくな! この匂い……この着物の匂いは、間違いなくあの女のものだア!!」

 鬼は叫びながら、爪先で着物を摘もうとする。しかしその前に、主人はサッと着物を引き寄せた。

「これはお客様からの預かり物。勝手に触れられては困ります」

 主人は凛として言った。爪一つの大きさが、自らの等身と同じなくらい巨大な鬼に向かって。

「なんだとォ!? フンッ……女を出さないのならば、貴様から喰ろうてくれるわアアアァ!!」

 咆哮が聞こえた瞬間。
 主人は着物をしっかりと抱きしめて、目を閉じた。

 ――あの娘が何故苦しんでいたのか、分かった気がする。でも、あの娘なら大丈夫だろう……。

 そう思った。ただそう思いたかっただけかもしれない。
 恐れは不思議となかった。寧ろ心の中は穏やかで、長らく生きて一番のようにさえ思う。

 主人は、そっと微笑んだ。最後に見た、あの娘の笑顔を思い出して。





 町に降り立った一行は、すぐに鬼の姿を見つけた。なぜなら、その鬼は巨体だったからだ。民家を三軒ほど積み重ねたぐらいだろうか。

 一行は真っ直ぐそちらに向かった。

 こっちの方向は、あの質屋のある方だ。嫌な予感がさらに大きさを増す。段々と民家は崩れた物ばかりになって、もはや形を留めていない。

 紗夜たちは大通りをひたすら走った。

 ――お願い……無事でいてください……!

 何度も祈りながら走るうちに、紗夜たちは質屋の前まで来て、そして愕然とした。

 まず目に入ったのは、屋根をもがれた質屋。板の間と質物だけが、その地に残っている。
 次に目に入ったのは、真っ赤な液体。鮮やかなそれが、紗夜の色彩感覚を停止させる。

 ――いない…。あの人が、質屋の主人が、いない……。

 何度辺りを見回しても、その姿はない。

 ドクンドクン……。心臓が早鐘のように鳴る。すると、鬼がザッと勢いよく振り返った。

「見つけたぞぉ……女ァ……」

 鬼はニタァ……と笑って、おぞましい声を発した。紗夜はその声にのろのろと顔を上げる。

「……主人を……ここの主人をどうしたの!?」

 嫌な悪漢が、ぞくりと背筋を撫でた。

「ここの老いぼれなら、さっきおれが喰ってやったわ!」

「!!!」

 頭が真っ白になった。体に力が入らなくて、膝がガクガクと震えだす。あの真っ赤な血を思い出す。

 ――主人が、死ん、だ……? 喰われた……?

「……どうして……、どうして……」

 ――どうして、あんなに良い人が、死ななくちゃならないの……? あの人は、私に優しくてくれた。私の気持ちを、少しだけでも分かってくれた。なのに。

「どうして、っ……」

 悲痛に顔が歪む。

「へへへっ、いいなぁその顔……。お前に良い事を教えてやろう」

 鬼が楽しげに、不気味な笑みを浮かべる。

「おれは、お前の匂いを追ってここに来た。そうしたら、お前の匂いが染みついた着物と、老いぼれのジジィしかいなくてよぉ。ジジィにお前の居場所問い詰めても知らばっくれやがる。だから、喰ってやったのよ」

 得意げに話していた鬼は、そこまで話してほくそ笑んだ。

「でも……その様子だと、ジジィが匿ってた訳じゃなさそうだァ……。あの老いぼれも、気の毒になァ? お前がここで着物なんて売らなければ、あのジジィは死ななかった」

「!!」

 ――主人が死んだのは、私のせい……? 私が着物を売らなければ、あの人は死ななかった……?

 鬼の妙に断定的な言葉が、すんなりと胸に入ってくる。それはもう、自分には慣れ親しんだものなのかもしれない。

 ――すう……っと、紗夜の瞳から光が消えた。

「ククク……そうだ、紗夜。それでいい。お前は昔からその顔が一番よく似合う……」

 鬼は、紗夜の名前を知っていた。そして、紗夜の過去も知っているようだ。
 紗夜は感情のない瞳で、鬼を見上げる。

「思い出したか? 紗夜。お前の村を度々襲った、このおれを……」

 ――ああ、思い出した。たしかこの鬼は何度か私を襲ってきた。喰らうことが出来ないと分かっていながらも、しつこく来た妖怪の一匹。こんな所にまで来たのね。

「紗夜よ、周りを見てみろ。罪のない人間が、お前のせいで何人も死んだ。お前の走って来た道は、血で濡れていただろう?」

 鬼に言われるまま、紗夜は周りを見回した。

 老人も子供も、男も女も。昨日まで生きていた人が、死んでいた。

 私のせいで。

 がくり、と紗夜の膝が落ちた。地に膝をつく感覚も、最早なかった。
 何も見えない真っ暗闇。何も聞きたくない。聞きたくないのに……。

 あの、鬼の声が聞こえる。

「お前のせいで死んだんだ。お前が、罪のない人間を――」

 ――殺したんだ!!

 そう、言われる。
 紗夜は覚悟していた。そう言われても言い返せない、と。自分は、そう言われても仕方ないぐらいの犠牲を生んでしまったのだから。

 ――でも、いつまで待ってもその言葉は降ってこない。代わりに聞こえたのは。

「貴様……先ほどから聞いていれば……戯言を言うな!」

 彼の声だった。

 初めて、こんなに怒っている声を聞いた。

 ――ザシュッ!!

 肉を切り裂く音が聞こえる。

「紗夜、起きろ……!」

 今度はずっと近くで、彼の声が聞こえた。





「……っ……」


 瞳を開けると、彼の顔が視界を占めた。

「殺生丸、様……っ」

 どうやら紗夜の意識は、座ったまま飛んでいたらしい。今は殺生丸に肩を抱かれていた。

「……大丈夫か?」

 まだ完全に光を戻していない瞳で殺生丸を見上げ、こくりと頷く。

 ふと前を見ると、巨体をばっさり斬られた鬼が倒れていた。切り裂くようなあの音は、殺生丸が鬼を切った音に相違ない。
 もう、あの鬼の声はしない。

 そう思って安心しかけたとき。

「ぐへへへ……、紗夜……お前のせいで“また”死んだんだ……。お前は過去に縛られたまま、一生救われることはない。クククッ……せいぜい、自分を、恨むこと……だ、な……」

 言い終わると、鬼の巨体は灰になって風に飛んでいった。

「…………」

 紗夜が口を開くことはなかった。最後の鬼の言葉が、紗夜の瞳から全てを奪った。

 殺生丸はあの鬼を心底忌々しく思いながら、紗夜を抱き上げる。脱力した紗夜はまるで人形のようにピクリとも動かない。

 野党に襲われたあのときの姿と重なるが、今の様子がそれと違うことは明らかだった。殺生丸は空へ舞いあがると、元の草原へと向かうのだった。





 日も暮れて空が茜色に染まった。紗夜は何をするでもなく、ただ草の上に座って流れる雲を見ていた。夕日の色は、初めて見るほど真紅に輝いている。

 ――まるで血の色……。
 あの町にあった血も、こんな色だった……?

「っ……!」

 紗夜は肩を震わせた。さっきのことを、鮮明に思い出してしまいそうだった。
 鬼の言葉も、血も、質屋の主人のことも。

 紗夜はぎゅっと強く目を瞑った。



「……紗夜ちゃん、すごく辛そう……」

「そりゃあ、鬼にあんなことを言われたのだ。気が滅入らぬはずがなかろう」

 紗夜の様子を遠くから見守っていた、りんと邪見が言った。

「あの鬼の言っていたこと、りん、よく分かんなかった。だって、紗夜ちゃんのせいじゃないのに……」

 りんがしょんぼりした様子で項垂れる。

「まあな……。じゃが、鬼の口振りからすると、昔紗夜と因縁があったようじゃな。どういうことかは分からぬが……」

 邪見はちらと殺生丸を見た。彼は目を伏せて、何かを考え込んでいるようである。

 ――殺生丸さまも態度には出されないが、紗夜の過去が気になっているはず……。

 邪見はほうっと溜息をついた。

 ――殺生丸さま、わしにだって少しは教えてくれればいいのに……。

「邪見さま、溜息ついたら幸せが逃げちゃうよ」

「やかましいっ」





 ――それから、夜になった。

 殺生丸は木の根に腰を下ろしたまま、遠くにある紗夜の背を見つめる。あの場から動かない彼女の姿が、ひどく小さく見えた。

 りんと邪見はまだ起きている。まだ夜更けではないので仕方がない。だが、殺生丸は出来るだけ早く紗夜の元に行ってやりたかった。

 自然と拳を握りしめ、殺生丸は空を見上げる。今宵は朔のようだ。空を飾るのは幾万もの星ばかり。

 早く夜が更ければいい。殺生丸はそう思った。





「…………」

 ――今日は、月がないのね。真っ暗。何も見えない。このまま、闇に呑まれてしまってもいいのに……。

 そう考えていると、後ろから草を踏む音が近づいてきた。
 振り返るのが億劫で、紗夜は俯く。足音が紗夜の隣で止まった。

 のろのろとそちらに視線を向けると、真っ白な着物が目に映る。

「……殺生丸様……」

 掠れた声が喉から出た。殺生丸は紗夜を見下ろしている。不思議と、暗闇の中でも彼の姿ははっきりと見えた。

 殺生丸は静かな動作で紗夜の隣に腰を下ろす。サアッと冷たい夜風が吹いた。

 紗夜は俯いたまま、地面を見る。殺生丸の顔を見るのが怖かった。
 鬼のこと、主人のこと、自分のこと、過去のこと。良いことも悪いことも全部。

 彼を見たら、きっと全部思い出してしまう。
 それが、無性に怖かったのだ。

 そんな紗夜の気持ちを見透かしたように、殺生丸は俯いたままの紗夜の名を呼ぶ。

「……紗夜」

「……っ」

 ――嫌だ、思い出したくない。何も考えたくない。そう、思っているのに……。

 紗夜はぎゅっと目を閉じた。
 初めて、こんなに優しい声を聞いた。そのやさしさに、彼の方を振り向いてしまいたくなる。そうすればきっと、今まで蓋をして閉ざしていた記憶が、気持ちが、溢れてしまう。

「紗夜……私の顔を見ろ」

「…………」

 優しい、けれど悲しげな殺生丸の声に紗夜は思わず目を開け、ゆっくりと殺生丸を見上げた。
 とくん、とまるで今初めて動き出したかのように、心臓が一度大きく跳ねる。

 殺生丸の瞳は昨夜見たときと同じように、優しい色を宿していた。

「……!」

 紗夜は目を見開く。殺生丸の優しい瞳と、質屋の主人の、あの柔らかな笑顔が重なった。そうしてその一瞬の間から、走馬灯のように思い出が溢れてくる。

『嫌な思い出でも、そのうち忘れられる日が来ますよ。きっと……』

 そんな日なんて来ない。私は、過去を忘れてはいけない。そう思った。
 でも、主人は私の心を少しでも軽くしようとしてくれた。例えそれが気休めだと分かっていても。

『また、この着物が見たくなったら、いつでも来て下され』

 主人は信じてくれていた。
 私が過去を捨てるようにあの着物を手放したとき、私がちゃんと過去を乗り越えて、またあの着物を取りに来ることを。

 主人と交わした言葉。優しい笑顔。ほんの少しの時間だったのに、主人は私のことを心から思ってくれた。

『あのおじいさん、いい人だったね!』

 りんの言葉が蘇る。
 そう、本当にいい人だった。なのに――。

『ここの老いぼれなら、さっきおれが喰ってやったわ!』

 鬼の言葉を思い出すと同時に、怒りと悲しみが沸き上がった。

 ――どうして……あの人が死んでしまったの……? 何も悪い事なんてしてない、のに……。

『お前のせいだ、紗夜』

 闇の中で、あの鬼の声がする。

 ――聞きたくない……。

『お前が自分の着物を売らなければ、あの老いぼれジジイは死ななかった。何も知らない町の人間も死ななかった』

 ――聞きたくない……!

『何の罪もない人間が死んだ! お前のせいだ!』

「――!!」

 ――私の、せい……。
 私が……私が、殺して、しまった……?

『ククク……、そうだ。お前が殺した。お前は“また”たくさんの命を奪ったのだ。そしてそれは、これからも変わることはない。お前はまた人を殺める……。お前の苦しみは、お前が死ぬまで終わらないのだ!!』

 ――私、は……私は……っ……!

「……っ、はあ……う……っ……」

 紗夜は鬼の高らかで悍ましい笑い声を聞くとともに、一気に現実に引き戻された。肩で何度も荒い呼吸を繰り返す。

「紗夜……落ち着け」

 殺生丸が心配そうに紗夜を見る。でも、そんな様子は意識の中に入ってこない。目に映るだけで、何の感情も生まれない。

「私……私は……!」

 ――あるのは、

「私のせいなんです……!!」

 自責の想いだけだった。

「私が町に行かなければ、私が質入れなんてしなければ、誰も死ななかった! 主人も町の人もみんなみんな、生きていた……!!」

 紗夜の心ははち切れて、言葉になって止めどもなく溢れてきた。鬼に対する怒りよりも、自分に対する怒りが込み上げてくる。自分が何を言っているのか、そんなことは考えられなくなっていた。

「……私が殺したのも、同じです……」

 紗夜の声が少し小さくなる。それは、冷静さが戻ったのではない。自らへの責め苦が、紗夜から着々と気力を奪っていくのだ。

「私は“また”、大罪を犯してしまった……」

 静かに紗夜の言葉を聞いていた殺生丸は、そのとき全てを悟った。

 詳細は分からない。だが、紗夜の過去が非情で残酷なものだと知った。殺生丸が目を細めたとき、ふわりと暖かな風が吹いた。

 ――バサッ、と。紗夜の膝の上に、何かが落ちてきた。紗夜はそれを持つと、目を大きく開いて息を呑んだ。

「……! これは……どうして……」

 それは、紗夜の打掛だった。質屋に売った、あの着物のうちの一つ。
 暗くてぼんやりとしか見えないが、間違いない。つうっと着物に指を滑らせるが綻びはなかった。

 それなりの重みがある打掛が、なぜ風に舞ってきたのか。……皮肉にも、紗夜の所に。

 紗夜はぐっと打掛を手繰り寄せると、それに顔を埋めた。

 ――鬼に捕られたと思ってたのに。もしかして、主人が守ってくれたの? 私のせいで死んでしまったのに、私の打掛なんかを……死んでまで……。

 紗夜は着物を黙って見つめて、何かじんわりしたものを感じた。

 殺生丸は黙したままの紗夜を静かに覗き込み、

「!」

 目を見開いた。

「……っ……」

 紗夜の頬に、涙が伝っていた。暗闇でも光る紗夜のそれを、殺生丸は初めて見た。

 紗夜の涙は悲痛な表情とその心を表して、何粒も何粒も溢れ出る。
 やがて、紗夜は自嘲的な微笑みを浮かべて、とても静かな声で言った。

「……殺生丸様……、どうして私は、死ねないのでしょう……?」

「―――」

 殺生丸は紗夜の腕を引いていた。すっぽりと自分の胸に収まった紗夜は、とても小さくて、あまりにも弱い。

「お前のせいではない……」

 殺生丸の言葉に、紗夜が息を呑むのが分かった。殺生丸は紗夜の頭を自らの胸に寄せ、静かに囁く。

「お前は誰も殺めてなどいない。自分を責めるな……」

「ッ、殺生……丸様……っ……」

 咽び泣きながら、紗夜は殺生丸の背中に腕を回した。
 広い背中が温かい。今、この瞬間だけは自分の罪も、過去も忘れていられる。

 頭の隅でぼんやりとそう思って、紗夜は殺生丸の胸の中でひとしきり泣いた。





 しばらくして、紗夜はゆっくりと顔だけをあげ、殺生丸を見つめた。紗夜の過去について、殺生丸は知ることを望んでいる。

 ――殺生丸様になら、言ってもいい……。でも……。やっぱり、まだ怖い……。

 紗夜の不安げに揺れる瞳を受け止めた殺生丸は、紗夜の気持ちに気が付いたようだった。

「……まだ構わぬ。無理に語るな。だが、心が定まったのならば、自分の口で言え」

 言葉は冷たいかもしれない。でも、紗夜はしっかりと見た。殺生丸の瞳が、誰よりも優しさに溢れているのを。

「……はい……」

 紗夜はまだ涙で濡れた顔で、微笑んだ。殺生丸が、もう一度紗夜の頭を抱き寄せる。

 ――これで、やっと分かった……。殺生丸様が、誰よりも優しい人だということ。

 紗夜は背に回した腕に力をこめて、目を閉じた。





 殺生丸は紗夜の腕に力が籠ったのを感じ、自然と彼女を抱く手を強めた。

 初めて紗夜の涙を見た。悲しい、という顔はよく見る。だが、泣いたのを見たのは初めてだった。
 紗夜はどんなに悲しい顔をしても、涙を見せたことは一度もない。

 思えば出会ったばかりの頃は、紗夜のいろいろな表情も、過去も、何も知らなかった。それが今ではこんな風に抱き合っている。

 ふと、出逢い初めの頃のことが頭に浮かんだ。

『私を、殺してください』

 出会ったばかりのとき紗夜にこう言われて、殺生丸は初め、この女を殺しても構わない。そう思っていた。この女の望みを叶えてやるのだ、と。

 だが、紗夜に対する憐みが、殺生丸の手を止めた。

 紗夜に対する憐み――それは、死を望みながら、死ねぬ体だからではない。

 紗夜は、死ぬために生きている。直感的にそれに気付いたからだ。

 本当に紗夜を憐れに思うのなら、紗夜の願いを叶えてやれるこの手で、紗夜を殺してやればいい。
 でも、それが分かっていて、殺生丸はそうしなかった。

 殺生丸はふっと口元を緩め、星だけが輝く空を見上げる。今なら分かる。

 ――柄でもないが、私は紗夜に……望んで生きたいと。そう思わせてやりたかったのだ。

「……お前はいつまで死を望むのだ? 紗夜……」

 殺生丸は、いつの間にか眠りに落ちた紗夜を抱き上げると、温かな光を灯した焚火の元へ歩いて行った。

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