十話 執着の秘密、事件の足音

 ――目の前にいる人を、紗夜は呆然と見つめていた。

 大好きな、とても大切な人が、自分の目の前に倒れている。
 真っ赤な炎の中、同じくらい真っ赤になったその人の着物が、幼い自分の瞳に焼き付く。

 怖いとは思わなかった。
 その人はいつものように紗夜を見て、優しく微笑んでいた。
 いつもと同じはずなのに、どこか寂しい。そんなその人の瞳を見て、紗夜も寂しくなり、悲しくなった。

 ほんの少しして、もう一人の大切な人が倒れたその人に駆け寄った。目にいっぱい涙をためて。その光景を見て、ぼんやりと思った。

 もう、この人は助からない。
 もう二度と会えない。

 そう思うと、じわりと視界が滲んだ。

 倒れたその人は、紗夜の顔を見ると掠れた声で呟く。

『紗夜、どんなに辛いことがあっても……生き、て……』

 そう言って、その人は微笑みを浮かべたまま、優しげな瞳を閉じた。
 もうその目が開くことはない。真っ白な頬が、青ざめた唇が、それを物語っていた。

 その人の側に寄り添った、もう一人の大切な人が泣き叫ぶ。悲痛な声を上げながら、その人はゆっくりと紗夜を見た。

 その、瞳は――。





 町に出かけた次の日。

 ――また、あの夢……。

 最近見なくなったと思っていた昔の夢をまた見てしまい、紗夜は朝から重苦しい気持ちを抱えていた。
 これ以上は思い出したくなくて、紗夜は眠気を吹き飛ばし身体を起こす。

 紗夜が起きたときにはもう、殺生丸の姿はなかった。邪見が言うにはどこかに出かけたらしい。紗夜たちはのんびりと、殺生丸を待つことにした。


 そして、東にあった太陽がゆっくりと昇り、やがて頭上まできた頃。

「ねえ紗夜ちゃん、水遊びしようよ! あっちに川があったの」

 先ほどまで花を摘んでいたりんが言った。まだ幼いからか、彼女の興味の対象は留まることを知らない。

「川遊びなど着物が濡れるであろう。風邪を引いても知らんぞ」

「大丈夫、少し足を浸けるだけだもん。ほら、邪見さまも行くよ!」

 そうして紗夜たちは、近くに流れる川へと向かった。

 陽光を反射して、水がキラキラと光っている。川のせせらぎが耳にとても心地良い。

「きれいだねえ、早く入ろう!」

 りんは素足を水に浸けると、丸い石の転がる川岸に腰を下ろした。
 紗夜も履いていた草鞋を脱ぐと、そっと足を水に入れてりんの隣に座る。

 突如として、足が冷水に包まれた。とても冷たいが、心地良い。

「気持ちいい……」

「ほんとだね! 邪見さまも入ればいいのに、冷たくて気持ちいいよー!」

 紗夜たちの後ろに立っている邪見は、川に入るつもりはないらしい。人頭杖を持ったまま、むんと立ちつくしている。

 紗夜とりんは二人で足をバタバタ動かし、飛び散る水しぶきをお互いにかけた。

「きゃっ、冷たーい!」

 りんがきゃあきゃあとはしゃぐ。
 紗夜はふと、りんの着物の裾が水に入りそうなのに気が付いた。

「あ、りんちゃん、着物が……」

 そうして手を伸ばしたとき。

「?! ――っ、何……っ!?」

 紗夜は驚きの声を上げた。

 ヌルリとした感触が、紗夜の手首を掴んだ。どうやらそれは、川の中から伸びてきたもののようだ。

「っ、きゃあっ!」

 突然すごい力で腕が引っ張られ、右腕は水中に浸かってしまう。思っていたより深くて、手が川底につかない。

「紗夜ちゃん、大丈夫!?」

 異変におろおろしながらも、りんが慌てて立ち上がる。

「どうしたのじゃ!?」

 邪見も様子がおかしいことに気が付き、こちらにやって来た。

「ッ、川に、引き込まれるっ……!」

 必死に左手で川岸の石を握って、紗夜は川に引きずり込まれないように力を入れた。
 小石の上に置いていた両膝が、ずりずりと川に近づいていく。痛みに顔を歪めるが、水中の力はさらに強くなった。

「邪見さま、引っ張って! せーのっ!」

 後ろからりんの声が聞こえ、それと同時に帯がぐいっと後ろに引っ張られる。どうやらりんと邪見が引っ張ってくれているらしい。
 だが、二人の助けも空しく、水中の力はさらに増した。

「っ、あ……」

 ――痛い…! 腕が、千切れる……っ!

 グンッと勢いよく腕が引かれ、鼻先が水面に触れかけた。引き込まれる! と思った瞬間――。

 ぐ、と紗夜の腹の周りに温かいものが触れて、後ろに柔らかく引かれた。

「きゃっ……!」

 ザバッ、と腕が水中から上がり、その勢いで紗夜は川岸に尻餅をつく。
 じんと痛む腰を我慢して、後ろを振り返った。

「……! 殺生丸、様……」

 そこには丁度、紗夜の腹から手を放す、殺生丸の姿があった。

 りんと邪見が、あんなに強く引っ張ってもびくともしなかったのに、殺生丸はほんの少しの力で、いとも容易く紗夜を引き上げたのだった。

 驚いている紗夜の横に、殺生丸が歩を進める。そして、水面を睨み付けて言った。

「出てこい」

 すると、水面が静かに揺れ、川底から二つの影が現れた。その姿を見て、紗夜たち三人は目を点にする。

「こ、こやつら……」

「河童さん……かなあ?」

 そこには、白い円板を頭にのせて、背には体色と同じ深緑の甲羅を背負った河童が立っている。

「なんだか邪見さまに似てるね」

「なっ! だ、誰がこんな頭の悪い連中と!」

 りんの言葉に邪見が怒る。

「……貴様ら……」

 殺生丸が二人の河童を睨み付けた。

「す、すんません」

「ちょっとした出来心やったんです」

 河童たちは殺生丸の目にびくびくしながら頭を下げた。殺生丸はそれを見ると、こちらを振り返る。

「……紗夜、着物を乾かしておけ」

「は、はい。あの……ありがとうございました」

 紗夜はぺこりと頭を下げると、りんと邪見と一緒に火を起こしに行った。

 本当は、何故自分を襲ったのか聞きたかったが、殺生丸がそれを望んでいないような気がしたのでやめた。

 ――大体の見当はつくのだけれど……ね……。

 紗夜は腕の所の着物を火の傍にあてて乾かしながら、そんなことを考えていた。





 ――その頃……。

 殺生丸は河童たちを見据えて、自分の疑問を問うた。

「貴様ら、何故女の方を狙った? お前たちのひ弱さならば、小娘を捕まえる方が容易かったはずだ」

 すると河童たちは丸い目でお互いを見合う。

「なんで小娘やのうて、女の方狙ろうたかやて」

「ああ、あの姉ちゃん、べっぴんでうまそうやったなあ。それで、あの姉ちゃんがどないしたんや?」

「なんであの姉ちゃん狙ろうたかやて」

「姉ちゃん言うたら、あのべっぴんでうまそうな」

「そうそう」

「その姉ちゃんがどない――」

「……貴様ら、この殺生丸を愚弄しているのか……?」

 河童たちの果てしなく無駄な会話に、今まで耐えていた殺生丸はついに終止符を打った。
 殺生丸の沸き上がる怒りに気づいた河童たちは、ひいぃぃっ、と再び身を縮める。

事情を聞くために生かしておいたが、これほど無能な者たちからはそれも出来なさそうだ。

「…………」

 殺生丸が静かに爪を構えた瞬間――。

 ザバアッ! と、水音がして、もう一匹河童が現れた。

「「長老!」」

 長老と呼ばれた河童は、白い髭と眉を持っており、その目は毛の多い眉でほとんど見えない。確かに、長老という風貌である。

「どうか、若い者たちの非礼をお許しください」

 長老は深々と頭を下げる。

「少しは話の分かる奴のようだな」

 殺生丸はスッと腕をおろし、彼を見据えた。
 長老は河童たちに川底に戻るように伝えると、再び殺生丸に向き直る。

「話は聞いておりました。何故、おなごの方を襲ったのか、ということでしたかな?」

「分かっているのなら早く話せ」

 長老は頷くと、ゆったりとした口調で話し始めた。





「若い者がおなごの方を襲ったのは、恐らくあのおなごがただの人間ではないからです」

「…………」

 確かに、紗夜が不死の身であることを考えると、ただの人間ではないことは明確だ。

 しかし、何の事情も知らないこの河童が、なぜそこまで言い切れるのか不思議に思い、殺生丸は長老の言葉に耳を傾けた。

「あのおなごは我々妖怪にとって、非常に有益……つまり、あの身を喰らえば並外れた妖力と、長い寿命を得ることができる存在だからです」

「……なぜそのようなことが分かる?」

「妖力を求める者は、常に力を欲している。力を欲する本能が引き寄せられる物は、必然的に力を与えるものなのです」

「つまり貴様らは、妖力を欲する本能で女を襲ったということか」

「その通りです」

 殺生丸は眉をしかめた。

 ならば、どうして殺生丸や邪見は妖怪の身でありながら、今まで紗夜を喰らおうとしなかったのだろうか。

 大妖怪の殺生丸も、妖怪は妖怪。力や妖力を欲する本能は必ずあるはずだ。そんな殺生丸の疑問を察したかのように、長老が言う。

「力を欲する本能は、本来ならば理性で制御するもの。つまり、下等妖怪や力に飢えた妖怪は理性を失いやすい。逆に、貴方様のような大妖怪や、理性の強い妖怪は、その本能を抑制しやすいのです」

「…………」

 なるほど。これで合点がいった。

 初めて紗夜と会ったとき、彼女は鬼に追われていた。一週間も鬼が紗夜に執着した理由は、きっとこのせいだったのだろう。

 ならば、紗夜は過酷な日々を送ってきたのかもしれない。

「お知りになりたかったことは、これで全てのようですな」

「ああ」

「貴方も気をつけなされ。いつかきっと、本能を抑えられなくなるときが来る。己自身に負けないように……。では、わしはこれにて」

 長老は水面を揺らすと、川底に戻って行った。

「…………」

 殺生丸はしばらくそれを見つめて、考える。

 紗夜は過去に何かあって、それであのように心を閉ざしてしまったのだろうか。まだ確かにそうとは言い切れないが、その可能性は否定できない。

 そんなことを考えながら、殺生丸は三人の方に向かって踵を返した。





「あ、殺生丸さま、何をお聞きになっていたので?」

 いち早く殺生丸に気付いた邪見が尋ねる。

 殺生丸はそれには気にも留めず、紗夜を見据えた。
 意味ありげなその瞳に、紗夜は殺生丸が河童から何を聞いたのか、粗方の想像をつける。

 きっと、妖怪が紗夜を襲う理由が分かったのだろう。そして……。

 ――紗夜の過去のことも、殺生丸なら気を回しているかもしれない。

「紗夜、話は後で聞く」

「!! ……」

 いつもと変わらず静かに告げられ、紗夜は俯いた。

 ――過去が……私の過去が、知られてしまう……。

 口にするのが、怖い。それに、何より――。

 ――殺生丸様に受け入れてもらえるか分からない……。

「紗夜ちゃん?」

 りんが俯いたままの紗夜に心配そうに声をかける。

「……大丈夫よ……」

 紗夜はのろのろと顔を上げた。

 ――言わなくてはいけないわよね……。

 殺生丸には、絶対に言わなければならない。何度も助けてくれて、自分に安らぎを与えてくれる彼には――。

 紗夜が決心したそのとき。

「! この臭い……」

 殺生丸がぽつりと呟く。

 紗夜の胸がドクンと跳ねて、同時に嫌な予感がした。

「……町の方から鬼の臭いがする」

「!!」

 町から、と聞いて紗夜の心臓が激しく脈打つ。りんと邪見も弾かれたように殺生丸を見上げた。

 ――どうして、こんなに胸騒ぎがするの?

 ふと、脳裏にあの質屋の主人が浮かんだ。

「殺生丸さま、人間など放っておいて先に進みましょう」
「殺生丸様……! 町に、一緒に行って頂けませんか……!?」

 紗夜は気が付くと、邪見の声を押しのけて、必死な声で言っていた。

 どうしても、あの主人が気になる。
 あの人だけは助けたい、助けなければいけない。そんな思いに駆られてのことだった。

「紗夜、これ以上殺生丸さまにご迷惑を――」

「行ってどうする?」

 邪見の言葉を遮って、殺生丸が言う。

「……どうしても、助けたい人がいるんです」

 真っ直ぐに彼を見つめて言った。

 殺生丸はしばし黙っていたが、ふわりと地を蹴る。

「殺生丸様……!」

「行くぞ、早く来い」

 紗夜たちは阿吽に乗ると、殺生丸の後を追った。





「よかったね、紗夜ちゃん!」

「ええ……」

 空を飛びながらりんと話す。
 阿吽に乗って空を飛ぶのは初めてだったが、今はその感動に浸っている場合ではない。

 そう思うほど、紗夜は焦っていた。心臓の音がさらにそれを駆り立てる。

「……紗夜ちゃんが助けたい人って、あの質屋のおじさんだよね?」

「そう……あの人は、必ず……」

 助けないと――。

 その言葉が、どうしてだか口から出ることはなかった。

 どうか、この嫌な予感が当たりませんように……。そう思いながら、紗夜は町に降り立ったのだった。

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