九話 些細な出会い
野党との一件があってから数日後、一行は深い森を抜けた。
頭上に生い茂っていたはずの木々はすっかり後方に遠ざかり、目の前にあるのは足首までの高さの草に覆われた、平穏な草原ばかりである。
「おい、紗夜! 何をしている、置いて行くぞ!」
呆然と立ち尽くしていた紗夜は、邪見の声にはっとした。
この草原まで来たことで、自分が故郷から随分と離れた遠い所に来ているのだと、改めて感じていたのだ。
紗夜は少し小走りに、彼らの後を追いかけた。
草原を数刻歩くうちに、少し遠くの方で煙が上がっているのを見つけた。りんが好奇心たっぷりな様子で、そちらの方を眺める。
「町だ! ねえ、町があるよ!」
その声に紗夜も煙の元をたどった。
なるほど、確かに町がある。あまり大きくはないけれど、それなりの賑わいを見せているようだ。
少し寄ってみたいな……と紗夜が思ったとき、りんが言った。
「ねえ殺生丸さま、あの町に行ってみてもいい?」
その言葉に、いつもの如く邪見が口を挟む。
「駄目じゃ駄目じゃ! 寄り道などしておったら一向に進まんわい!」
「もーっ、邪見さまには聞いてないでしょっ!」
そんな二人の言い合いを聞いていると、不意に視線を感じて紗夜は顔を上げた。
殺生丸が、お前はどうしたいのだ、という目で紗夜を見ている。
それに気付いて、紗夜は思いのまま首を縦に振った。彼はそれを確かめて静かに言う。
「好きにしろ。だが、日暮れまでには戻って来い」
「せ、殺生丸さま、よろしいので!?」
「はーいっ! ありがとう、殺生丸さま! 行こっ、紗夜ちゃん!」
「あ、少し待って……」
紗夜は阿吽の側に行くと、その鞍に括り付けていた風呂敷を手に取った。この中には、以前着ていた打掛などが入っている。
人間の貨幣など当然持ち合わせていないだろうこの一行は、人の世で物を買うことは出来ない。だが、この着物を売ればそれなりの額の貨幣が得られるはずだ。
そういうつもりで、紗夜は重い風呂敷を持ったのである。
りんはそんな紗夜の手を取ると、町に向けて駆け出した。
◇
町に入って、紗夜とりんは忙しなくきょろきょろと辺りを見回していた。
遠目から見たときは余り大きくないと思ったこの町も、一歩足を踏み入ればその賑やかさに思わず立ち尽くしてしまう。
紗夜は、こんなに人の多い所に来たのは初めてだった。昔住んでいた村は人が少なく、大して栄えてもいなかった。紗夜は苦々しく眉を寄せた。
「すごいねえ。いろんな物が売ってる!」
りんの声で我に返り、紗夜は改めて大通りに羅列した店の数々に目をやる。
菓子を売る店、幼子の遊び道具を売る店、日用品や着物を売る店など、その種類は様々だ。
「あーあ、せっかくだから何か買いたかったなあ。でもりん、お金なんて持ってないし……」
りんが心底残念そうに呟くのを見て、紗夜は微笑んだ。
「大丈夫、ちゃんと買えるわ」
「?」
りんは小首を傾げながら、紗夜に手を引かれるのだった。
◇
紗夜は町の質屋を探し出すと、店の中に入った。
「いらっしゃい」
白髪の優しそうな老人が、にこにこしながら店に入った二人を迎えてくれる。
紗夜は囲炉裏の側から店先に移動して来た主人の元へ行くと、床板の上に風呂敷を広げた。
「……これを、質入れしたいのですが……」
主人は目を見開いて息を呑む。
絢爛な装飾が施された着物は美しく、見る者の心を惹きつけた。厚手の生地には金や銀糸の刺繍がされ、鮮やかな色彩で染色されている。
「こんなに素晴らしい着物を質入れしてしまって、本当によろしいのですか?」
「……はい、お願いします」
主人に答えると、りんが不安げに見上げて言う。
「紗夜ちゃん、このお着物売っちゃうの? 大事なものなんじゃ……」
「いいのよ。これで……」
紗夜は呟きながら、着物に視線を落とす。
「……何か、特別な思い出があるようですね」
黙して着物を見つめる紗夜に、主人は柔らかな笑みを向けた。
「……あまり、いい思い出はありません」
紗夜が答えると、主人の顔が僅かに曇った。しかし、紗夜はすぐに着物に視線を戻し、知らず知らずに顔を歪める。
いい思い出なんて、少しもなかった。例えあったとしても、それは鮮烈で恐ろしく、残酷な思い出に容易く塗り替えられてしまう。
「……嫌な思い出でも、そのうち忘れられる日が来ますよ。きっと……」
主人の言葉に、紗夜は自嘲気味に微笑んだ。
「……そうですね……」
そう答えたものの、内心は主人の言葉を肯定していなかった。
忘れられる日なんて、きっと来ない。
私は、忘れられない。忘れてはいけない。あの、忌々しい過去を。
◇
何度も悲しげな表情をする紗夜を、質屋の主人は心配そうな目で見つめていた。
目の前のこの娘の生い立ちが、常人には知れぬ過酷なものだったのだろうと、長年生きているせいか少し話しただけで分かってしまった。
娘の言葉一言一言が、着物を見つめる黒く、光のない瞳が、それを物語っている気がする。主人はふと目を細め、紗夜を見た。
「またこの着物が見たくなったら、いつでも来てくだされ」
思いもしなかった言葉に、紗夜は顔を上げた。
いい思い出がないと言ったのに、そんなものを見たいと思うはずがない。
寧ろ紗夜は今、この着物を手放せて少なからず喜びさえ覚えているというのに。
でも、主人は紗夜がそう思っているのも分かり切っているようで、心の底から優しい笑顔を向けてくれた。
「大丈夫。お前さんならきっと、またこの着物を買いに来れるよ」
紗夜ははっと目を見開いた。彼の伝えたいことが、分かった気がした。
紗夜が小さく頷くと、主人は穏やかに目を細めてまた笑うのだった。
それから、貨幣を手にした紗夜とりんは店を出た。去り際に主人を見て微笑む。自嘲なんかじゃない、感謝の意味を込めて。
「あのおじいさん、いい人だったね!」
終始二人のやり取りに首を傾げていたりんだったが、そう思ったようで。彼女らしい着眼点だと思った。
「……そうね……」
過去を忘れてはいけない。そう思うことに変わりはない。
でも、そんなことは関係なしで、あの主人にはまた会えたらいいと思った。
◇
それから二人は、再び大通りの店の前を歩いた。日は西に傾いているが、日暮れまではまだ時間がある。大通りは相変わらずの人通りで、あちらこちらから生きのいい声が聞こえてきた。
「あっ、紗夜ちゃん、あれ!」
りんが元気よく指した方に目をやると、子供連れの客が目立つ店がたっている。店の棚に並ぶ商品を見て、紗夜は小首を傾げた。
「……お菓子……?」
そこはどうやら菓子屋のようで、子連れの客が多いのも合点がいく。
「お菓子、買いましょうか」
紗夜が言うと、りんはこれ以上ないほど目を輝かせる。
「いいの!? ありがとう!!」
その様子が可愛らしいと思いつつ、紗夜は店の前に行った。
棚の上には砂糖菓子や団子、餅などが所狭しと並んでいる。
「うーん、どれにしようかなぁ?」
りんはいろいろなお菓子を見つめながら悩んでいたが、やがて綺麗な色の砂糖菓子と餅を選んだ。紗夜は店の女から包んだ菓子を受け取り、銭を渡す。
「紗夜ちゃん、ありがとう! あとで一緒に食べようね!」
「ええ」
紗夜は微笑して返事をしながら歩き出し、一つの店の前で足を止めた。
そこは、飾屋だった。
金や銀で花や蝶を模した髪留めや、丹塗りの簪に金の菊の花が描かれた、きらびやかなもの。鼈甲の櫛もある。あまりに美しいので、思わず立ち止まって見てしまった。
「わぁーっ、きれーい!」
りんが感嘆の声をあげて、直後、思いついたように言った。
「そうだ! 紗夜ちゃん、お菓子のお礼にりんが何か選んであげる!」
「いいの?」
思いもよらないりんの提案にきょとんとして言うと、りんはいっぱいの笑顔を浮かべた。
「もちろん! うーん……全部きれいだなぁ。どれがいいかなぁ……」
「お嬢ちゃん、いらっしゃい! 何か探し物かい?」
店の主人がりんに声を掛ける。
「うん。あのね、このお姉さんに似合う物を探しているの。でも、全部きれいで……」
りんの言葉に、主人が隣にいる紗夜を見て溜息をついた。
「おお……これはこれは美人さんだねえ。……そんなら、これなんてどうだい?」
主人は一つの髪飾りを手に取ると、りんに差し出した。
「わあ……すてき!!」
それは細幅の赤い紐を蝶々結びにして、その結び目に何枚もの淡紅色の花びらと、銀に光る真珠を縫い付けた、留め具式の見事な髪飾りだった。紗夜も思わず目を見張る。
「これください!」
「はいよ」
紗夜は主人に銭を渡すと、りんが髪飾りを受け取った。
「はい、紗夜ちゃん!」
「ありがとう……!」
喜びと共に心から礼を言うと、紗夜はりんから髪飾りを受け取り、じっくりそれを眺め大切に懐に入れた。
気が付けば、もう大通りは夕焼けで赤く染まっている。
「もう日暮れだから帰りましょうか」
「うん! 今日は楽しかったねぇ」
りんの手を引きながら、紗夜は今日の出来事を振り返る。
質屋の主人と出逢い、りんと過ごした今日は、大切な思い出になった。りんと一緒にいると、自然と口数が増える気がする。もちろん、それを不快に思うことなどあるはずなかった。
そうして、殺生丸の言いつけ通り、日暮れまでに戻った紗夜とりんは、邪見と共に夕食をとった。
りんは嬉しそうにお菓子を頬張り、邪見は菓子など食べん! としばらく言い張っていたが、結局は美味しそうに食べたのだった。
◇
空がすっかり暗くなり、夜の静寂が訪れた頃――。
りんと邪見は、焚火の側で丸くなって眠っていた。紗夜はそんな彼らの様子を見てから、焚火を見つめる。
今日は何だか、眠気がしない。町に行って疲れているはずなのに、どうしても眠れなかった。
少し風に当たろう。そう思って身体を起こし、紗夜は焚火から離れた。
サクサクと草を踏む自らの足音を聞きながら、次第に暗くなっていく景色を見つめる。
暗いと言っても、空高く輝く月が辺りを青白く照らしているので、辺りが見えなくなることはない。
月を見上げると、もうじき朔の日を迎えるようで、細く、でも美しく空に浮かんでいる。
ふと、りんに貰った髪飾りのことを思い出し、懐から丁寧に取り出した。月光を受けて真珠が銀色にキラキラ光る。それはまるで、殺生丸の髪色のようだった。
――きれい。
心の中で思って、ふと、彼の言葉を思い出す。
『心のままに物を言うのは、悪いことではない』
紗夜は彼の言うとおり、心の声を言葉にした。
「きれい」
最近何度もこの言葉を言っている、とぼんやり考える。それは、それだけ美しいと感じるものがあるということだ。
そうして佇んでいると、不意に後ろから声がした。
「……眠れぬのか?」
ゆるりと後ろを振り返ると、特に何の表情も浮かべていない殺生丸の姿があった。
「はい……」
小さく答えると、殺生丸の視線が自分の手の平へと注がれていることに気が付いた。
殺生丸は髪飾りを見ると、
「それのことを言っていたのか」
と言った。
どうやら、紗夜の些細な独り言は聞かれていたらしい。
「これ……殺生丸様の髪と同じ色だと思って……」
紗夜は真珠のついた飾りを彼に見せた。殺生丸は不思議そうにそれを見る。
「きれいだと思いました」
そう言いつつ彼の瞳を見ると、初めて出会ったときのことを思い出した。
初めて殺生丸を見たあのときも、今と同じ。きれいだと思った。
「……きれい?」
間があって、殺生丸は呟いた。
間接的に自分にそんな形容をつける紗夜に、心底疑問を持っているようである。
紗夜がただ頷きを返すと、殺生丸の手が紗夜の手の平に伸びた。
そして、しなやかな動きで髪飾りを取ると、紗夜の左耳の上あたりの髪を一束取って、留める。
「!」
紗夜は驚いて目を見開いた。
唖然とする紗夜を余所に、殺生丸はさらに困惑するようなことを言う。
「……その言葉は、お前の方が似合っている」
「っ……!」
殺生丸の瞳が優しく細められて、紗夜は思わず息を呑んだ。
彼のそんな瞳は初めて見た。
心中穏やかそうな瞳は見たことがある。だが、優しげな瞳は、たった今初めて向けられたのだ。
戸惑う紗夜を少し見つめて、
「もう寝ておけ」
それだけ言うと、殺生丸は踵を返して去って行った。
紗夜は髪を風に梳かれながら、髪飾りにそっと触れる。
殺生丸はいつも無口で無表情だが、何かと気遣いや助言のようなものを紗夜にくれた。
そしてここ最近では、彼に安心感すら覚えるようになったのだ。
そして今日。
紗夜は、殺生丸は優しい人なのかもしれない、と思うようになった。まだ確信を持つことは出来ないけれど、あの優しい瞳は確かに紗夜の目に焼きついた。
◇
――丁度その頃。
殺生丸一行のいる草原から、町を挟んでずっと遠くにある森で、何やら怪しい影が蠢いていた。
「臭う……臭うぞ……」
獣の呻き声よりもおぞましい声で呟きながら、怪しい影はその眼を光らせる。
しかし、そんなことを知る者はまだ誰一人としていなかった。