君らしい君でいて
雲雀(+10)/中学時代回想あり/春のお話
『今終わった。もうすぐ帰る』
雲雀は昇降口を出て、報告だけの短いメッセージを恋人に送った。
今日は買い物に出掛けると言っていたので、彼女からの返信はすぐには来ないだろう。スマホをスーツのポケットに仕舞う。
数歩歩いて振り返り、雲雀は視線を上に向けた。並中はかつてと変わらない姿で、悠々とそこに聳え立っている。
四月上旬ということもあり、まだ春休みの只中にある中学校はしんとしていた。
雲雀が久しぶりに母校を訪れたのは、風紀財団として並中の校長に用があったからだ。未だに雲雀と並中、そして風紀委員会のつながりは深い。
それゆえ今日は、こちらで用意した書類を渡すついでに、久々に校舎を見ておこうと思い雲雀の方から出向いたのだ。
用事は終わったし、今日はもう帰宅するだけ。だが、その前に少し見ておきたいものがある。
ちょうど、あれが咲く季節だ。穏やかな風を浴びながら、雲雀は迷わず中庭を目指した。
中庭には、午後の明るい日差しが降っていた。木々には若菜色の葉が芽吹き、新しい季節の瑞々しさに溢れている。手入れされた花壇には、よく見かけるビオラか何かの花が等間隔に植えられ、鮮やかに揺れていた。
けれど雲雀の目を引いたのは、そんな華やかな色たちではない。
校舎の側にすっと立った桜の樹。
淡く、景色に融けそうなその花びらが、雲雀の目には何よりくっきりと映って見えた。
静かに歩いて行って、満開に咲き誇っているそれを真下から眺めてみる。
――この花が嫌いだった。
ずっと昔は一人で花見をする程度には好きだったが、ある出来事を境に嫌悪の対象でしかなくなり、視界に入るのさえ鬱陶しく思うようになったのだ。
見れば忌まわしい記憶が蘇り、どんなに気分のいいときであっても、たちまち抑えがたい怒りが込み上げてくる。
随分時間の流れた、今でも。
ただ、並中に咲くこの桜だけは例外だった。
幻のように揺れる花を見ても、雪のように落ちてくる花弁を見ても、それがこの桜であるならば雲雀の心はとても静かだ。
それは、この桜の樹が雲雀にとって特別なものであるからに他ならない。
――音羽にとっても、そうであるように。
緩く懐かしい風が頬を撫で、雲雀はそっと目を細めた。
◇
それは、雲雀がまだ並中に在籍していて、何度目かの春休みを目前に控えた頃だった。寒さがやわらぎ年度が終わるこの時期は、校舎も生徒たちも霞がかったような安穏さに包まれる。
心地よい春陽に眠気を誘われ、雲雀もつい屋上で昼寝する機会が増えていた。
だが、ある平日、校舎を歩いていて中庭を訪れたときに、気が付いたのだ。存在を忘れていた樹に淡い桃色の蕾が生まれ、その花が開き始めていることに。
必然的に思い出したのは、昨年の夏の出来事だ。
六道骸との戦いで、雲雀は当時罹患していたサクラクラ病とかいうふざけた名前の病気を利用され、生まれて初めて敗北を喫した。それがどれほど屈辱的だったか。
季節の運んできた穏やかな気分は途端に失せて、雲雀は昼休みに入る前にすぐ、副委員長を応接室に呼びつけた。
『中庭の桜の樹を、ですか?』
驚いた表情で繰り返す草壁に、雲雀は椅子に座ったまま頷いた。
『そう。この気温だと来週には満開になるだろうからね。その前に
『ですが……あの桜の樹はたしか、開校二十周年記念で植えられたものでは……』
草壁は顔を強張らせ、珍しく苦言を呈してくる。
恐らく、雲雀が失念しているのではないかという危惧からだろうが、草壁に言われる間でもない。並中のことなら自分が一番よく知っているのだから。
雲雀は小さく息を付いて目を伏せた。
『もちろん分かってるさ。だけど周年記念だろ。開校記念樹って訳でもないし、何より僕は構わない。とにかく、来週末までに伐採するよう手配しといて』
『……分かりました』
強く言って睨み付けると、草壁は気圧されたように口籠りようやく首を縦に降る。
たしかに並中周年記念も簡単に蔑ろに出来るものではないが、それ以上にあの花を見るのが不快なのだ。致し方ない。
『では、今週の日曜日に作業するよう、業者に依頼して――』
『あ、あの……!』
『!』
草壁が制服の内ポケットから手帳を取り出したとき、不意に彼女の声が扉の向こうから響いてきた。話に集中していたせいか足音が聞こえなかった、そう思っている内に扉が開いて、雲雀の大切な恋人が姿を現す。
『あっ……お話し中ノックもせずに、すみません……! でも、あの……』
授業が早めに終わったらしい音羽は、いつもの弁当袋を提げて何やら言いづらそうに俯いた。律儀な彼女がノックを忘れることなど滅多にないので、彼女にとっては異常事態、もしくは急を要する事態が起きているのだろう。
雲雀はそう判断しながら、静かに彼女を見つめた。
『どうしたの? いいから言ってみなよ』
『えっと、その……伐っちゃうんですか……? 中庭の桜の樹……』
おずおずと顔を上げて言う音羽に、雲雀は一瞬目を瞠る。
さっきの会話は、彼女にも聞こえていたようだ。だが、なぜ音羽がそんなことを気にしているのか。
雲雀の思い当たる限りでは、音羽が思い入れを持っている並中のスポットは図書室、応接室、屋上の三か所しかない。強いて追加するならば、彼女が普段過ごしている2-Aの教室くらいだろう。
音羽と中庭の桜の樹は、どれだけ記憶を辿っても全く結びつかない。
雲雀は訝しんで彼女を見た。
『……そうだけど、なんで?』
『! いえ……えっと……』
『…………何? あの樹に何か特別な思い入れでもあるの?』
自分の知らないところでやはり何かあったらしい。視線を彷徨わせる彼女への独占欲が騒ぎ出し、自然と眼差しが鋭くなる。
音羽は小動物的勘でそれに気が付いたのか、びくっと肩を震わせて雲雀を見たあと、口をあわあわ開けたり閉じたりして勢いよく両手を振った。
『や、違うんです……! あ、いえ……特別な思い入れがあるのはそうなんですけど、他の何かとかじゃなくて!』
『…………』
『っ……、……並中に転校してきた日、二年の廊下の窓からあの桜の下に立っている雲雀さんを見かけて……。初めて雲雀さんを見たのが、そのときだったんです……』
音羽は雲雀の視線に降参し、小さな声でそう言った。
彼女のあの樹への思い入れは、自分に起因するものだったのか。答えを得た雲雀の心が、元の落ち着きを取り戻していく。
その一方で音羽はもじもじと落ち着きなく、身を縮こまらせていた。
雲雀のみならず草壁も立ち会っている空間で、彼女はなけなしの勇気を振り絞ったのだろう。いつも以上に真っ赤になって、発熱したような顔を俯けている。
それを見た草壁は、こちらに一礼して静かに応接室を出て行った。扉が閉まり、気まずそうに一歩室内に踏み入った音羽に、雲雀の悪戯ごころが芽生えてしまう。
『……そんなことがあったなんて、初耳だな。なんで今まで言わなかったの』
雲雀はゆっくりと席を立ち、音羽の側まで歩いて行った。
『だ、だって……、そんなの言えないです……』
『言えない? なんで?』
釣られるようにあとずさる音羽は、すぐに扉に背をぶつける。磨りガラスの揺れる音。はっと後ろを振り返ったあと、逃げ場を失くした彼女は諦めたように目を伏せた。
『ひ……、一目惚れ、だったんです……。恥ずかしいし、わざわざ言える訳ないじゃないですかっ』
羞恥心に襲われたらしい音羽はやぶれかぶれだ。いつもより声調が荒くなっているのを面白く思いつつ、雲雀は追い打ちをかけるように彼女の顔を覗き込む。
『へぇ……。君のきっかけが何なのか、いつか聞こうとは思ってたけど。……君って意外と一目惚れとかするタイプなんだ?』
『ち、違います! 私も自分のこと、全然そんなふうに思ってなくて……! 誰かを好きになったのも初めてだし、……!』
顔を上げた音羽と、正面から目が合った。
息を呑む音羽の瞳は潤みきり、雲雀の姿だけがそこに映り込んでいる。
『っ……雲雀さん、だから……。あの日見た雲雀さんがすごく綺麗で、気になるようになって……それで気付いたら、好きになってて……』
音羽は長い睫毛を伏せて言葉を重ねた。
どんな言葉を選べば、自分の気持ちが正確に雲雀に伝わるか。葛藤しながら思考を巡らせている彼女の姿に、愛おしさが募っていく。
雲雀はふ、と微笑んで、音羽の頭を撫でてやった。
『そんなに必死にならなくても分かってるよ。少し揶揄っただけ』
『……っ』
『ありがとう、音羽』
小さな赤い耳に顔を寄せて囁くと、音羽はふにゃふにゃと力なくしゃがみ込んでしまった。
それから雲雀は、当然中庭の桜の伐採を取りやめた。音羽があの桜に雲雀との思い出を持っているのなら、雲雀に伐れるはずもない。それを聞いた音羽は喜んで、とても嬉しそうに笑っていた。
◇
今でも鮮明に思い出せる記憶をなぞり、雲雀は口元を緩めた。
昔も今も、音羽が一目惚れしやすい人間だなんて、露ほども思っていない。寧ろ、どちらかというと彼女はその対極の人間だと思っている。
だからこそ、そんな彼女が桜を見ているだけの自分に一目惚れしたと聞いたときは、正直悪い気がしなかった。物好きな女だとは思ったが。
「―――」
そのときふと、風に紛れて背後から足音が聞こえてきた。ある予感がしながら、雲雀は後ろを振り返る。
「――あ、恭弥さん。やっぱりここに居たんですね」
思った通り、手に買い物袋を持ってにっこりと微笑んだ音羽が、こちらに歩いて来た所だった。
「音羽……。どうしてここに?」
「ふふっ、返信したけど、恭弥さんから返事がないから……。ちょうどこの季節だし、もしかしたら学校に行ったついでに、ここでのんびり桜でも見てるのかなあって、何となく思い付いて」
「そう。君にしては珍しい勘が働いたね」
「はい! 大正解でした」
音羽は満足そうに言うと、雲雀の側までやって来る。手に持っている荷物を持ってやると、彼女は「ありがとうございます」と微笑んだ。
「わあ……、綺麗に咲いてますね。もう満開……」
音羽は透けた薄紅色の桜を見上げ、感嘆の声を漏らしている。
「……ここに来ると学生の頃のこと、思い出しますね」
「そうだね」
「また恭弥さんと一緒に見られて良かったなあ……」
小さな呟きと同時に、風に乗った花びらがはらはらと舞い落ちた。
音羽の横顔は、雲雀が時折感じる特有の透明感に包まれている。
思い出よりも早く、現実よりも長い時間の流れるこの一つひとつの景色を、音羽は縫いとめようとしていた。そんな彼女の肩を、雲雀はそっと抱き寄せる。
「恭弥さん? あ……」
不思議そうにこちらを振り返った音羽は、何かに気が付いたように目を留めた。雲雀の頭上にゆっくりと白い手を伸ばし、それを摘まんで手のひらに載せる。
音羽が雲雀に見せたのは、一片の桜の花びらだった。
「今度は、恭弥さんでしたね」
雲雀と同じ“思い出”を手繰り寄せたらしい音羽は、そう言って、あの日と変わらない表情で嬉しそうにはにかんだ。
また一つ刻まれた穏やかな春の記憶に、雲雀もつい微笑んでいた。
→おまけ(主人公視点)
2023/4/22
postilla
title: 炭酸水様