或る朝の境界線
音羽がパジャマを着直して、シャワーを浴びた雲雀が部屋に戻ってきた頃には、既に夜明けが始まっていた。
室内の明かりは全て消しているものの、障子の向こうは薄っすらと白んできていて、周囲を仄明るく染めている。
音羽は、雲雀と向かい合う形で一つの布団に横たわっていた。普段なら一瞬で意識を手放して眠るところだが、今日だけは目が冴えている。
だって、彼にあんな姿を見られてしまうなんてあまりに恥ずかしすぎて、頭から離れないし顔さえも上げられない。お願いだから、どうか、どうか忘れてほしい……。
「恭弥さん、さっきのこと……あの……」
「嫌だ」
「……まだ何も言ってません……」
目の前にある雲雀の着流しをぎゅっと掴んで言うと、彼は食い気味に答えて遮った。いつものように、音羽が言いたいことなんて何もかにも分かっている、とでも言うように。彼は、そのまま深い溜息を一つつく。
「どうせ、忘れて欲しいって言うんだろ?」
「っだ、だって! 恥ずかしいです……。あ、あの……ほんとに毎回あんなことしてるわけじゃないですから……!」
「はいはい、分かったよ」
「っ……」
雲雀は本当に分かってるんだか疑いたくなるような返事をして、音羽の後頭部をぽんぽんと撫でてくれる。適当にはぐらかされているような、宥められているような、その優しい手つきがなんだか悔しい。
でも、雲雀の温かくて大きな手のひらはとても気持ちが良くて安心して、音羽は次第に肩の力を抜いていた。雲雀は頭上で小さく笑い、音羽の頭を抱き寄せる。
「可愛かったよ。偶には早く帰るものだね」
甘く囁いてくれる雲雀の低い声に、ぽっと頬が熱を持った。――そういえば、彼はどうして早く帰って来てくれたんだろう? さっき何か言っていた気もするけど、恥ずかしさと焦りのせいであまり覚えていない。
「……そういえば恭弥さん。今回はお仕事、早く終わったん、ですよね?」
「ん?」
「いつもスケジュール通りに帰って来るから、珍しいなと思って」
「まあそんなところさ」
曖昧な記憶を辿りながら尋ねると、雲雀はどこか歯切れ悪く答え、けれど手は相変わらず穏やかに音羽の髪を梳かしていた。
毎回こんな風に早く帰って来てくれたら嬉しいけど、一番良いのは彼と一緒にいることだ。たぶん無理だろうなあと思いながらも、音羽はほんの少しの望みを持って雲雀を見上げる。
「次は、私も一緒に行けますか……?」
「君は次も留守番だよ」
「絶対……? 付いて行っちゃダメですか?」
「駄目」
雲雀は音羽の目をまっすぐ見つめ、予想していた通りの言葉を返した。やっぱり……と分かっていながらも少し落胆してしまい、音羽は小さく息を付く。
雲雀は何も言わないけれど、彼が音羽を置いていくのは音羽を想ってくれているからだ。彼の瞳を見ればそれは一目瞭然で、これ以上は何も言えない。
これが彼の愛情表現の一つだというのなら、音羽はそれも受け止めたかった。
――仕方ないか……。残念だけど。
音羽はいつも通り心の中で呟いて、それからゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、光の滲む障子を背にした、雲雀の肩の輪郭が綺麗に見える。
布団の中も彼の温度も、高まって温かい。頭を撫でてくれる雲雀の手に微睡みを誘われて、音羽はゆっくりと眠りに落ちた。
次に彼が出掛けてしまうときまで、こうして彼の温度に触れていたいと、淡く願いを込めながら。
◇
「…………」
先に寝付いてしまった音羽の顔を、雲雀は少し上から見つめていた。程なくしてすやすや寝息を立て始めた音羽は、安心しきった穏やかな顔で眠っている。
彼女を欲しいがために、会いたいがために仕事を早く切り上げてくるなんて、我ながら少し呆れてしまう。
だが、もう音羽が自分の側にいることが当たり前になっているのだ。向こうで一人過ごしていても、どこか落ち着かない。
早く声が聴きたくなり、頬に触れて、口付けて。音羽の全部が欲しくなる。彼女がいる日常を、側に置きたくなるのだ。こんな想いは間違いなく彼女にしか抱き得ない。
そう思っていることを、音羽に伝えるつもりはなかった。伝えれば間違いなく――いや、伝えなくても、音羽は「連れて行ってほしい」と言ってきた。そうすれば、音羽は雲雀の危険と隣合わせだ。
昔から雲雀のためなら多少の無茶をしがちな音羽が傷付くことが、雲雀の何よりの懸念である。だからこそ、音羽をいつでも一緒に連れて行くことは出来ない。
その代わりとしても、こうして早く帰って来たのだが、彼女を抱きしめて横になっているとこれで良かったとよく思う。
気丈に振舞っているように見えて、音羽が寂しそうな顔をしていることは雲雀が一番よく分かっていた。
雲雀は音羽の額に軽く唇を押し当てて、自分も瞼を下ろした。徐々に明るさを増していく朝日から彼女を守るように、その華奢な身体を自分の方に引き寄せる。心地よい温度の音羽は、静かに眠ったままだ。
少しの距離で足りなくなる彼女を、自分の中に満たしていくこの時間が雲雀は好きだ。