花の都の熱い一日
雲雀(+10)/夏のイタリアデート
眩しい太陽が照り付ける、夏のある日。
ボンゴレ本部での用事を午前中に済ませた音羽と雲雀は、予定のない午後、イタリアの古都――フィレンツェに観光に来ていた。
あの赤レンガで出来た丸い屋根を持つ教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂があることで有名な、とても美しい街である。
「はぁ〜……クーポラの天井画、すっごく素敵でしたね……!」
「まあ、一応有名な観光地だからね。それなりに見応えはあったかな」
大聖堂、通称ドゥオーモ――イタリアでは街を代表する教会のことを、総じてドゥオーモという――の出口に向かって歩きながら音羽が言うと、隣にいた雲雀は淡々とそう答えた。
音羽は「そうですね」と微笑んで、最後にもう一度、聖堂の中を見回しておく。
華やかな外装に比べると、シンプルな作りになっている聖堂内。天井は見上げると首が痛くなるほど高く、左右の壁には光を取り入れて鮮やかに輝くステンドグラスの窓がある。
神聖な場所ということもあり、観光客も比較的静かに見学しているので、大理石の床を歩く自分たちの靴音もはっきりと聞こえる気がした。
精巧に作られた床の模様に目を向けていた音羽は、やがて、彼の顔を窺うようにそっと見上げる。
『せっかくイタリアに来たのだから観光したい』と音羽が言ったとき、元来人混みが嫌いな雲雀は、余り気乗りしていないようだったが……。
今の雲雀の表情は、別段不機嫌そうでもない。
教会の内部――半球型に作られた天井である“クーポラ”に描かれたフレスコ画を間近で見るために、463段もある階段を上り下りもしたけれど、雲雀にとって、それはさほど苦でもなかったのだろう(彼は流石と言うべきか、息が少し上がっている程度だった)。
一方の音羽と言えば、上り下りの直後足はガクガク、息も乱れて大変に疲労してしまったので、ついさっきまで、聖堂の中に留まって内装をじっくり見ながら息を整えていたくらいだ。
だが、階段を上った先に見えたものを思い出せば――その苦労をしてでも、クーポラに上る価値はあると思う。
それくらい、ドームの内側に描かれたフレスコ画は荘厳で、そしてとても綺麗だった。今でも、見た瞬間の感動や柔らかなあの色合いを思い出せる。そして、見晴台から見た華麗なフィレンツェの街並みも。
いつもと変わらず飄々として見える雲雀の心に、あの美しいクーポラの天井画や、赤レンガの街並みが響いたかどうかは分からないけれど……。
音羽は、彼が気を損ねていないらしいことにほっとした。
同時に、了承して音羽に付き合ってくれている彼に、もう一度心の中で感謝する。
秘かに、そんなことを思っていると。
「――音羽。足、大丈夫かい?」
「!」
出口を出てすぐの所で雲雀に声を掛けられ、音羽はハッと我に返った。
彼の視線の先――前方を見てみれば、数歩先に四、五段くらいの石段がある。入るときにも上った、何てことない石段だ。けれど、帰りは463段を往復した足である。
雲雀の言わんとしていることがすぐに分かって、音羽は大きく頷いた。
「はい、大丈夫です。まだ少し疲れてますけど、これくらいなら全然――」
「……やっぱり、まだ少しフラついてる。君、転びやすいんだからもっと気を付けなよ」
「!」
雲雀は音羽の言葉を遮ると、自分の左手で音羽の右手を握ってくれた。
夏でも少しひんやりした雲雀の手が、指が。音羽のそれに、しっかりと絡められる。
まるで、絶対に転ばせない、とでも言ってくれているみたいに。
「……あ、ありがとうございます、恭弥さん……」
少しだけ、子供扱いされているみたいで恥ずかしかった。でも……、やっぱり雲雀が大切に扱ってくれるのは嬉しくて。
音羽は雲雀にお礼を言って、暑さで既にほんのり熱を持っていた顔を俯けた。
雲雀に言われた通り注意深く階段を下り切ると、夏の強い日差しが肌を射した。日陰を一歩でも出ると、熱気が凄い。
「……暑い」
手を繋いだまま、ドゥオーモの目の前にあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂を横切っていたとき、雲雀が不満げに呟いたので音羽は頷いた。
「ほんとですね……日本みたいにジメジメした暑さじゃないけど、気温は日本よりちょっと高いくらいですし……」
取り分けフィレンツェは盆地地形でもあるため、イタリアの中でも暑い方だと言われている。
通気性の良い半袖ワンピースを着ている音羽でさえ、既にじわりと背中に汗が滲んでいるのだ。仕事終わりでジャケットを脱いでいるとは言え、スーツの黒いズボンに深紫の長袖ワイシャツを着ている彼は、きっともっと暑いと思う。
申し訳ないような、少し心配なような気持ちになって雲雀を見上げれば、彼は容赦なく降ってくる太陽光を浴びて、色素の淡い瞳を眩しそうに細めていた。
ネクタイと、ボタンを二つ目まで外して首元は見えている。袖を捲っているので前腕も出ているけれど、逆に言うと雲雀の装いで涼しげに見える箇所はそこだけだ。
ただ、雲雀は元々汗を余りかかないし、この通り涼しい顔が崩れない人でもあるので、ぱっと見ただけではそこまで暑そうに見えない。
でも、その雲雀が「暑い」と零して目を細めるくらいなのだから、きっととても暑いのだ。
「……」
自然と、建物の陰になっている場所を目指して歩きながら、音羽はつい考える。
手を繋いだままなのは嬉しいけれど……。放してしまえば、少しは涼しくなるんじゃないだろうか……と。
だが、音羽から彼に、その提案は出来なかった。
学生の頃、夏に同じようなことがあって彼にそう言ったら、「君はそれでいいの?」ときつく睨まれてしまったことがあるからだ。
当然、手を放すタイミングだってあるけれど、雲雀にとって“暑さ”はその理由にならないらしい。そのことは、彼と一緒に年月を重ねていって、充分過ぎるほど理解していた。
――…ペットボトルの水も持ってるし……恭弥さんなら熱中症になるようなこともないと思うけど……。でも、適度な休憩は必要だよね。どこか、少し涼めるような場所で――。
「……音羽、他に行きたい所はないの?」
考えていたら雲雀に尋ねられて、音羽は慌てて顔を上げた。
「!はいっ!……あっ、行きたい所ですか?えっと……」
行きたい所……行きたい所……。
正直たくさんありすぎて、すぐにここと選べない。
それこそ体力さえあれば目の前にあるジョットの鐘楼(こちらもとても高い塔で、上から景色を見るために414段の階段を上らなければならない)にだって上ってみたいし、ヴェッキオ橋やウフィツィ美術館、ミケランジェロ広場にも行ってみたい。
でも流石に今日一日で全て回るのは難しいし、第一、少し休憩した方がいいのでは、と思っていた所だ。
音羽は雲雀と日陰で佇んで、どうしようかと辺りを見回した。
冷房が効いているバールに入るのもいいけれど、この暑さでコーヒーを飲むというのも何となく違う気がする。どちらかというとさっぱりしていて、もっと涼しくなるような……。
「――!ジェラテリア……!恭弥さん、ジェラート食べに行きませんか?」
「ジェラート?」
思いついた案をそのまま口に出せば、雲雀は表情を変えずに繰り返した。音羽は大きく頷く。
「はい!暑いですし、冷たいものでも食べてちょっと休憩するのはどうかなって思ったんですけど……どうでしょう?」
雲雀の反応を窺って見上げれば、彼は何か考えるように沈黙し、少ししてから承諾するように伏せていた瞼を持ち上げた。
「……いいよ。丁度、あっちの小道の奥にそれらしい店が見えた気がするしね」
「!よかった、ありがとうございます!」
無事案が採用されて、音羽の顔がついつい綻ぶ。
音羽は雲雀に手を引かれ、ドゥオーモ広場に面した小道を入って行った。
◇
雲雀が遠目から見つけた通り、小道の奥にはこじんまりしたジェラートのお店――ジェラテリアがあった。
人気のお店なのか暑いからか、お店の前には数組のお客さんが並んでいて、そこそこに賑わっている。音羽たちはその最後尾についた。
幸いなことにお店の周囲は日陰になっていて、そこまで暑くはない。待っている人の数も三組くらいなので、時間もそう掛からないだろう。
ただ……、音羽たちがそうであるように、待っている人たちにも連れ合いがいた。恋人同士だったり友達だったり。複数人で一組として並んでいる訳である。
「……、」
「…………」
思わず雲雀を窺うと、彼は少し目を細めただけで何も言わなかった。
きっと、せっかくの観光だから……多少のことには、目を瞑ろうとしてくれているのだ。音羽はいよいよ胸がぎゅっとして、繋いだ手を握りながら雲雀を見上げる。
「……恭弥さん、ありがとうございます」
「いいよ、今日だけはね。……あとでちゃんと、礼はしてもらうし」
「?恭弥さん、最後の方聞こえなか――」
「何でもないよ。それより、メニュー見ておけば?どうせ長らく迷うんだから」
「……。!ほんとだ、数多いですね……!二十種類もある!」
何だか、はぐらかされた気もするけれど。
雲雀に示された壁掛け看板を見てみれば、ヨーグルト、バニラ、ピスタチオ、レモン、ストラッチャテッラ、ココナッツ、ブルーベリー、本当に沢山フレーバーの種類が書かれていて。
音羽はさっきの小さな違和感もすっかり忘れて、つい興奮気味に声を上げた。
雲雀の言う通り、これだけ種類があったらいつも以上に迷ってしまう。塩キャラメルも美味しそうだし、たぶんチョコも間違いない。洋ナシも余り見かけないから、とても気になる……。
「……恭弥さんはどれにしますか?」
「僕は君のを一口貰うだけでいいよ」
「えっ!?それだけでいいんですか……?」
「甘いからね」
「……、」
予想だにしなかった雲雀の答えに、音羽はついぽかんと口を開けてしまった。
確かに、彼は普段から甘い物を余り食べない。
けれど、流石にこの暑さなら一人分は食べるだろうと思っていた。それに、フィレンツェはジェラートの発祥地で、一応本場でもあるのだし……。
――……恭弥さんも一緒に涼めたらって思ったんだけど……。私一人食べて涼しくなっても仕方ないよね……。どうしよう……。
「…………、!」
考えていて、音羽ははたと思い出した。そういえば以前、音羽が大きめのスイーツを注文して食べ切れなくなってしまったとき、雲雀が食べてくれたのだ。
雲雀は甘い物を特別嗜好していないだけで、食べられない訳ではない。量を沢山食べるのは余り好きではないかもしれないが……普通の量なら、きっと余裕で食べられるはず。
「……」
メニュー看板を見つめて、音羽は一つの作戦を立てた。
いつもなら小さいサイズのジェラートを頼む所を、敢えて一つ大きめのものにして頼むのだ。当然それくらいなら音羽一人でも食べ切れるが、残りが多かった方が雲雀も一口と言わず三口くらいは食べてくれるかもしれない。
――…それでもいらないって言われたら、それまでだけど……。
でも、少しでも雲雀に涼しくなってもらいたい。
今、日陰にいるだけで、顔に出ないだけで、彼の身体にはいつもより確かな負担が掛かっているはずなのだから。
音羽はよし!と、胸の内で気合いを入れ、極力それが表情に滲まないように気を付けながら雲雀を振り返った。
「恭弥さん。一口食べるなら、何がいいですか?」
「君の食べたいものがいい」
「……!で、でも……!せっかくですし、一つくらい恭弥さんが気になるフレーバーも食べてみたいです……」
さらっと優しい即答されてしまい、音羽は暑さとは違う頬の熱を感じつつ言い募る。
すると雲雀は、メニューに目を向けて少ししたあと、「じゃあレモン」と、この中で一番さっぱりしてそうなものをチョイスした。これでレモンは確定だ。実は音羽も食べたいなと思っていたので、彼と同じ気分であることがちょっと嬉しい。
――そうこうしていたら、音羽たちの二つ前に並んでいた人たちが、ジェラートを片手に店から出て来た。
前の人たちが注文を伝えている中、音羽たちも開けっ放しの扉から手狭な店内に入る。冷房が効いていて涼しい。
「それで、君は何が食べたいの?」
「あ、私は――洋ナシと塩キャラメルがいいなって……。あと、サイズはメーディオで……」
「そう。じゃあ頼むから、君はこっち側にいて」
「!」
雲雀はそう言うと音羽の腕を引き、自分の前、店の奥側に音羽を立たせた。
イタリアはスリが多く、日本人のように明らかに観光客に見える人間は特に狙われやすい。だから、そういう危険に対する彼の心遣いだ。
こういう狭くて人が密集するような場所に入ると、雲雀はいつも音羽のことを気にかけてくれる。
ありがとうございます、と言っているうちに前の組もいなくなり、雲雀が流暢なイタリア語でお店の人に注文を伝えてくれた。
「Volevo un cono media,pere caramello al sale e limone」
「Va bene」
お店の人は「いいよ」と言うと、雲雀が伝えたジェラートを手早くコーンに盛ってくれる。
会計に進む雲雀の代わりにジェラートを受け取り、音羽は彼を待って外に出た。
雲雀にお礼を言いながら小さなジェラテリアを出て、小道の端の日陰に寄る。
周りには同じようにジェラートを買った人たちがちらほらいて、皆それぞれ冷たいドルチェを楽しんでいた。
音羽は建物を背に立ち止まり、美味しそうなジェラートを見る。
レモンと洋ナシが同じような色をしているので、どっちがどっちなのか一見するだけでは分からない。が、それも食べたときの楽しみだ。
「わあ、美味しそう……!恭弥さん、最初の一口どうぞ!」
「ん、」
雲雀の方に三種類のジェラートが載ったコーンを差し出すと、雲雀は身を屈めて一口食べる。レモンか洋ナシか、どちらだろう?
「……どっちでした?」
「、洋ナシ」
「!美味しいですか?」
「うん、悪くないよ」
甘いけど、と雲雀が付け足し、音羽はもう一度ジェラートを見た。
ということは、雲雀がさっき食べなかった方がレモンだ。音羽は迷わず、雲雀にもう一度コーンを差し出す。
「恭弥さん、レモンもどうぞ!」
「……僕はいいから、君も食べなよ。いつも一番小さいのを頼むくせに、中サイズを頼むくらい食べたかったんでしょ」
「!!そ、それは……」
溜息交じりで呆れ気味に雲雀に言われ、音羽は口籠って俯いた。
その言い方だと、音羽の食い意地がとても張っているみたいだ……いや、間違ってはないかもしれないけど、少なくとも今は違う……。
でも、雲雀にそう言う訳にもいかないので、音羽は素直に頷いた。
「そうですね……――じゃあ、いただきます……!」
ぱくっ、とジェラートを口に含むと、洋ナシの爽やかな香りが口内に広がった。
雲雀は甘いと言っていたが、思っていたよりも爽やかな甘さで、音羽はどちらかというとさっぱりしているように感じる。
「ん〜っ、美味しい……!」
舌の上で溶けて、喉に落ちる冷たい甘さが堪らない。
やっぱり、夏と言えばこういう冷たいデザートだ。美味しさと冷たさが、熱と疲労に包まれた身体に染み渡る。
「はぁ、暑いから余計に美味しいですね……!恭弥さん、どうぞ」
差し出すと、彼は今度こそレモンを食べた。さっきと同じで表情は変わらないけれど、彼が「悪くない」と言うときは大抵美味しいときだから。
音羽は柔らかい幸せを感じて、ついにっこり微笑んだ。
――のだが。
それから、五分後。
事態は、音羽の思わぬ方向に進んでしまった――。
◇
雲雀はレモンを一口食べると、本当に「あとは君が食べなよ」と言って一口も食べなくなってしまった。
音羽がそれとなく勧めてみても、暖簾に腕押し。好きなだけ食べれば良い、とまで言われてしまっている。
どうやら、音羽の作戦は失敗してしまったようだ……。
いつもと違う中サイズを頼んでしまったことで、“音羽はそれほど食べたいのだ”と受け取られてしまったらしく、雲雀はいつも以上に「いい」と言う。
でも、……それは仕方ない。元々音羽の勝手なお節介であるし、雲雀が余り涼めないのでは、という懸念はあるものの、食べたい食べたくないの気分もある。ジェラートの量だって、音羽一人で食べ切れる程度のものだ。
ただ――。
“雲雀が一口以上食べない”という思わぬ事態が招いた結果に、音羽は今とても焦っていた。
今に限って言えば、雲雀の身を心配している“余裕”もない。
「あ、わっ、!っ〜〜!」
「ほら、どんどん溶けてるよ、音羽。早く食べないと」
「っ、た、食べてますよ……!でも、!あ、またっ……!」
コーンを伝ってたらりと垂れたジェラートに、音羽はまた慌てて口を付ける。
この行為は数分前から、最早作業と化していた。
暑い屋外、雲雀にも「どうぞ!」とのんびり勧めながら食べていたら、あっという間にジェラートが溶け始めてしまったのだ。
そして一度溶けだすと、もう悠長にしてはいられない。
ジェラートは舐めてもすぐにまた別の方向から垂れてきて、元々食べる速度がそこまで速くない音羽は、順番に溶けていく三種類のジェラートを忙しなく食べる以外、選択肢がなくなってしまったのである。
――…恭弥さんにも涼んでもらいたくて、ジェラテリアを提案したり、一つ大きいサイズのジェラートを頼んでみたりしたけど……。
今日は何だか、良かれと思ってやったことが裏目に出てしまう日だ……。
音羽はほんのちょっとしょんぼりしながらコーンを齧り、唇でジェラートを追う。
すると眼前にいた雲雀が、いつもと変わらない調子でさらりと言った。
「僕を構う前に、さっさと食べておけば良かったのに」
「!だ、だって……!」
「こっち側、また溶けてるよ」
「えぇっ、もう……!?わ、っ!」
雲雀の言葉に、コーンをくるりと返してみれば、また。
音羽は慌てて、同じ作業を繰り返す。
「……」
黙々と口を動かしながら、音羽はちらと雲雀を見た。
……この状態になってから、いつもより頻繁に雲雀が話しかけてくる気がするのは――たぶん、気のせいではないと思う。さっきからやけに楽しそうな笑みを浮かべているし……、心なしか、それが意地の悪いものに見える。
きっと、慌てている音羽を見て楽しんでいるのだ。そして、すぐに口を動かせないように、わざといつも以上に話しかけている……。
ちょっとくらい手伝ってくれてもいいのに、と音羽はつい彼を恨めしく思った。
でも、音羽には拗ねる暇も、恨み言を言う時間もない。
とにかく今は食べ続けなければ、大変なことになってしまう。しかも、今日着ているワンピースはオフホワイトだ。出来れば、零して汚したくない。
そう思っていた矢先、半分溶けたジェラートを上から食べていたら。
「……!!」
指先に冷たい液体が触れて、音羽はぎょっとした。
ついに、コーンの向こう側でジェラートが滴れてしまったのだ。どろどろした液状のジェラートが、指の隙間を伝って手の平まで落ちてくる。音羽は思わず静止した。
「…………」
「いつかそうなると思ってたよ」
「分かってたなら、手伝ってください……」
静かに言った雲雀に音羽は怒る気にもならなくて、項垂れたまま溶けたジェラートを口に含んだ。
雲雀はふ、と音羽の頭上で小さく笑う。
「君を見てるのは楽しいからね。でも、服も汚れるし――」
「!」
雲雀は言葉を切ると、唐突に音羽の手からコーンを取った。不思議に思って顔を上げると、
「――!?えっ、きょ、恭弥さん!?」
そのまま、彼の空いた右手に手首を捕まれて、音羽は驚きの声を上げる。まさかと思う間に、雲雀は、甘い液体が付いた音羽の指に顔を寄せて――。
「っ……!!」
ぺろりと、指先に伝うジェラートを絡めとるように舐められた。音羽は驚きの余り言葉を失い、目を真ん丸に見開いて固まってしまう。
雲雀の赤く濡れた舌が、指の間を掠めていった。ジェラートとはかけ離れた熱が、ゆっくりと指を這う。
困惑して雲雀を見上げれば、恐ろしいほど妖艶な伏し目に見下ろされた。
「あ、あ、あのっ!恭弥さんっ……!!」
「……何、音羽。あれだけ勧めてくるくらい、僕にこれ、食べて欲しかったんでしょ?」
「っそ、それは……!そうですけど、でも、こんなつもりじゃなくて……!」
平然と答えられて、音羽は焦る。
公衆の面前で指を舐められるという恥ずかしさに腕を引こうとするが、雲雀にがっちり手首を掴まれていて叶わない。顔がかああっと赤くなるのが、自分でも分かった。
本当なら、音羽の指を介してではなく、雲雀にはちゃんと冷たいジェラートを食べて欲しかった。
けれど、今の音羽にそう訴えられるだけのゆとりはない。
“衆目のなかキスするのも普通”である周囲の欧州人たちが、然して自分たちのことを気にしていないようだ、と横目で確かめるだけで精一杯。
そのことに、胸を撫で下ろしたのも束の間。
「ふうん」
「――っ!」
まるでよそ見をするな、とでも言うように指先を舐められて、音羽は慌てて雲雀に視線を戻した。
彼は、緊張で強張った指の向こうで、にやりと不敵に笑んでいる。
「いつもより大きいサイズにしてまで、僕に食べさせようとしてるのかと思ったけど。思い過ごしだったかな」
「!!き、気付いてたんですか……?」
「当たり前だろ、何年君と一緒にいると思ってるの」
「、……」
愕然として、音羽は息を呑んだ。
だって雲雀は、いつもと違うサイズにしたことを“音羽が余計に食べたいから”だと思っていたはずで。彼自身も、そう言っていた、はず。
…………と、いうことは――。
考えていると、雲雀は音羽の指から顔を離した。
楽しそうに細めた淡い色の瞳と目が合うと、音羽もようやく理解する。
「……じゃあ、私が勧めてもジェラートを食べなかったのは……」
敢えて“食べなかった”、ということ…?
そんな疑問に、彼は見透かした微笑を浮かべる。
「君の慌てて困ってる顔が見たくてね。まあ、すごく食べたい気分でもなかった、っていうのも少しはあるよ」
「…………」
音羽は、声を出すのも忘れて雲雀を見上げた。
雲雀の言葉を呑み込むと、彼は音羽の困り顔を見るために、ジェラートを一口しか食べなかった……らしい。
雲雀に食べて貰おうとして音羽が勧め続ければ、ジェラートが溶けると分かっていたからだ。……音羽が雲雀にも食べて欲しくて、一つ大きいサイズにしたことにも、気付いていながら。
……音羽がジェラートを食べさせようとしていたことに、雲雀は一体いつから気が付いていたのだろう?
音羽がいつもと違うサイズを伝えたときから? ……いや、雲雀ならジェラテリアに行きたいと音羽が言ったあのときから、ひょっとしたら気が付いていたのかもしれない。
結局自分はまた、雲雀の手の平の上で転がされていた。……もう一体、何度目になるだろうか……。
雲雀に思考を読み取られてしまうことは、これまでに何度もあった。音羽の反応を見るためと言われ、彼に小さな意地悪をされた回数も最早数え切れない程である。
だが、雲雀のそんな意地悪はすぐには分からないのだ。
音羽に察知する能力が足りないというのもあるかもしれないが、彼は何かを仕掛けても表情に一切出ない。だから、把握するチャンス自体が皆無と言ってもいいと思う。
――とにもかくにも、音羽が雲雀にジェラートを食べさせようとしていたことに、彼は気が付いていた。そしてその理由も、彼なら既に――。
「音羽」
「!」
存外優しい声で名前を呼ばれ、音羽は我に返る。
顔を上げると、雲雀は掴んでいた音羽の手首を放し、いつの間に取り出したのか、音羽の鞄に入れていたウエットティッシュで音羽の右手を拭いてくれていた。
ジェラートでペタペタしていた手を、雲雀は片手で器用に、指の間まで丁寧に拭き取ってくれる。
「気遣ってくれるのは嬉しいけど、今日は君のしたい事をすればいい」
「!」
音羽は目を見開いた。
やっぱり、雲雀は気付いていたのだ。
音羽が、自分が食べたい以上に「暑い」と言った雲雀を気遣って、ジェラテリアに行きたい、と言い出したことを。
「僕は君みたいに柔じゃないからね。心配しなくても、すぐには疲れない。だから君の行きたい所、言ってみなよ」
「……恭弥さん……」
雲雀は僅かに口元を緩め、長い睫毛を伏せて音羽の手を見ていた。
眼差しも声音も、さっきまで意地悪だったのが嘘みたいに和らいでいる。
まるで壊れ物に触れてくれるような優しい手付きは、出会ったばかりの頃と何も変わらない。
すると、音羽の心音が簡単に速度を増した。
雲雀の視線一つに、声一つに。彼が与えてくれるもの一つ一つに、どうしようもない愛しさを感じて胸が締め付けられる。何年、経っても。
例え、全てを掌握しているのが雲雀でも。それでも、彼以外は考えられない。小さな悪戯のあとに彼の優しさを見ると、音羽はいつもそう思う。
そう思うこと自体、ひょっとしたら雲雀の思惑通りなのかもしれない。でも、それでもいい。
雲雀が向けてくれる感情は全部特別で、それを与えてもらえるのは自分だけなのだと、音羽はちゃんと知っている。雲雀自身が、それを伝えてくれるから。
「どうする、音羽?」
尋ねられて顔を上げると、優しい目で見つめられた。雲雀が持っているコーンの中では、溶けたジェラートが小さく躍っている。きっともう、随分温い。
音羽は目を伏せて少し考えたあと、そっと口を開いた。
「……じゃあ、ヴェッキオ橋の方、行ってみていいですか?……それから、夕方にはミケランジェロ広場に行ってみたくて……」
「いいよ」
「……恭弥さん……ありがとう。あと、手も、拭いてくれて……」
それから、ジェラートも溶けちゃってるのにごめんなさい、と音羽は小さな声で付け加えた。雲雀が、すっかり溶けたジェラートを飲むように食べてくれたからだ。
食べたい気分ではないといっていたし、温くなっておいしさも半減……くらいはしていると思うのに。
「気にしなくていいよ。僕は、今晩が楽しみだから」
「……今晩?」
コーンを食べながら呟く雲雀に、音羽は首を傾げた。雲雀がまた表情に出さず穏やかな顔をしていたので、気付くことが出来なかったのである。
音羽の頭に浮かんでいたのは、今しがた「夕方見たい」と言ったミケランジェロ広場だった。
「……!あ……もしかして、夜景ですか?ミケランジェロ広場からはフィレンツェが一望出来るそうなので、夜見ても綺麗かもしれませんね」
「ああ、そうだね」
雲雀は否定もせず目を細めると、コーンを最後まで食べ切って手を拭く。
二人はどちらともなくまた手を繋ぎ、街の中を歩き出した。
日陰を出ると、変わらず眩しすぎる日差しに照らされる。
でも、眩しいのも暑いのも、手の熱も。
今の音羽には、ただ煌めいた感触を与えてくれるだけだった。
夏の、暑いある日。初めて行ったフィレンツェで、雲雀と重ねた思い出のうちの一つ。
2022/7/17
postilla
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