もう温度を覚えたよ

N局/監督端末であったお話後


 執務室の机の前に座り、私は書類仕事を片付けていた。背後の窓を覆ったブラインドの向こうからは、正午近くの日差しが微かに入り、私の影を薄っぺらい紙の上に落としている。

 サインをして規定の判を押す単純作業。それを繰り返していると、暇を持て余した頭は大抵目の前にある物とは関係のないことを考え始めるものだ。
 例に漏れず私の脳内は、今日の午前中にあった出来事を再生していた。
 NOXの健康診断のことだ。

 彼女は深刻な感染症によって死瞳に近づきつつあるという特殊な事情を持っており、特別ケアを行っている今でも、その体内に生命活動の痕跡を見つけることは難しい――というか、不可能と言った方がいいだろう。

 彼女はここに来て以降何度か管理局の健康診断を受けているものの、身長体重ともに一切の変化がなく、心臓すら完全に停止している。

 今日も心拍数がゼロだと局員から伝えられたとき、NOXは普段の無表情で黙ったまま聞いていた。だが、私は何度かこの場面を見るうちに……いや、彼女との付き合いが長くなってきたというのもあるかもしれない。
 彼女が少しだけ肩を落としているようにも見えて、今朝は彼女に励ましの言葉をかけたのだ。それでも、NOXの表情は変わらなかったが。

「……」

 私はペンを握った手を止めて、ふぅ、と息を吐き出した。ケースに入れた書類の束が、空気の振動で小さく揺れる。

 彼女はあれから、気落ちしていないだろうか。枷から感じる彼女の気配は落ち着いているが、それでも妙に気になってしまう。

 NOXは感情の起伏がほとんどなく、人間的な一面を失っている。だから私のこんな、疑問とも心配とも言えない想いなど無意味なものかもしれない。何度もそう自分に言ってみた。

 けれど、気になるのだ。分かっていても、理解していても、今朝一瞬肩を落としたように見えた彼女の顔が何度も浮かぶ。

「……考えていても仕方ないな」

 溜息をつきながら時計を確認したあと、席を立った。
 そろそろ昼食の時間だ、食堂に行く前にNOXの独房に少し寄っても、咎められることはないだろう。

 私は椅子の背凭れに掛けていたコートを肩に掛け、執務室をあとにした。





 

「――NOX、入るぞ。……」

 声を掛けても返事がないので、私は一呼吸置いてから室内に入った。

 扉を開けると、ベッドの上に腰かけていたNOXが顔を上げる。彼女の手には、以前私が買い与えたゲーム機がしっかりと握られていた。

「……ゲームをしていたのか?」

「うん」

「あなたはそれが好きだな」

 NOXは大人しく頷いた。外見こそ“死神”という呼び名に相応しい神秘的なものであるが、こうして部屋でゲームをしているとそれもいつもより幼く、親しみやすく見える。

 管理局にいる皆にも、それが伝わるといいのだが……。思いながらベッドの方に近寄ると、何やら黒くて筒状の物が床に転がっていることに気が付いた。

「これは……?」

 膝を屈めて拾い上げたそれは、同じく私が彼女のために持ち帰った懐中電灯だった。
 なぜこんな所に転がっているのだろう? 敢えてここに置いているのか?

 視線を投げて尋ねると、NOXは私の手の中のそれをじっと見て静かに答える。

「……夜、ゲームをするときに付けていた。何度も使っていたら付かなくなった」

「なるほど」

 消灯時間を過ぎると、コンビクトの独房の電気は付かなくなる。睡眠を必要としないNOXは、この懐中電灯を使って部屋を照らしながらゲームをしていたのだろう。
 スイッチを何度か押してみたが、彼女の言う通り懐中電灯はうんともすんとも言わなくなっていた。

「ん、電池が切れてるな……。あとで新しいのを持って来るから、交換するといい」

「…………」

「? どうかした?」

 NOXがぼうっと私を見ている。表情は変わらないけれど、どこか訝しげな様子だ。首を傾けると、彼女は透明な声で静かに尋ねた。

「貴方は、どうしてここに来たの?」

 白い瞳は靄のように虚ろで不安定なのに、私には彼女が、私の心を覗き込もうとしているのがはっきりと分かった。

 出会った頃には感じられなかった、彼女の視線。
 刈り取るべき魂でもない、葬るべき敵でもない。以前の彼女には見られなかった類の“興味”が、いま私に注がれている。それに一瞬だけドキッと、緊張のような胸の拍動を感じたが、私は彼女の目をまっすぐ受け止めてすぐに微笑んだ。

「別に……NOXと少し話したかっただけだよ」

「……」

 肩を竦めながら彼女の隣に腰を下ろす。嫌がる様子も、警戒する気配も感じられない。少しずつ慣れてきてくれたのだろうか。……だとしたら嬉しい。
 表情を見る限りでは、今朝のことを落ち込んでいる風でもないし、何より今までゲームも楽しんでいたくらいだ。私の考えすぎだったのだろう。

 ほっと息を付いて、私はNOXを振り返った。せっかくここまで来たのだ、何か少し話をして彼女と親睦を深めよう。そう思った私の目に真っ先に飛び込んできたのは、彼女が手に持つゲーム機だ。

 テレビよりも随分小さいディスプレイには「pause」の文字が浮かび、RPGの主人公の後ろ姿が静止して映っている。私が入室したと同時に、一時停止してくれたのだろう。
 そうだ、NOXの好きなゲームについて私も理解を深めれば、彼女と話すことも増え、更に仲良くなれるんじゃないか? 我ながら名案だ。

「NOX。あなたがプレイしているゲーム画面を、一緒に見ても構わないか?」

「……貴方も、これが好きなのか?」

 NOXがぼんやりと私を見る。宙空を見上げて正確に答えを捉えたあと、私は大きく頷いた。

「ああ……そうだな、これから好きになりたいと思っている」

「なぜ?」

「なぜ? うーん、そうだな……。NOXがそのゲームを好きだからかな」

「……。分かった」

「ありがとう、NOX」

 NOXが手に持った画面に目を向けたので、それを了承と受け取り、私は彼女の側に寄った。画面の中の主人公が対峙しているのは大きなゴブリンのような怪物で、ボスのようにも見えるがどこか間抜けな顔をしている。

「こいつがこのステージのボスなのか? ……!」

 ポーズ画面のうちに聞こうと思ってゴブリンを指したら、ゲーム機を握ったNOXの手に指先が触れてしまった。
 人肌よりも冷たい温度。19℃という彼女の体温に触れたのはこれで三度目だが、私にはまだ馴染みがない。だから、咄嗟に身を引いた。ともすれば、私の体温で彼女が融けてしまうような気がしたのだ。氷のように。

「っ……!」

 「すまない」そう言おうとした瞬間、あろうことかNOXがゲームを脇に置いて私の手を掴んだ。手のひらがひんやりと心地よい体温に包まれる。
 NOXの手は当然融けたりしなかったが、私には分からなかった。彼女がどうして私の手を握ったのか。何の目的でこうしているのか。

「NOX、どうし」
「温かい……」

 読めない状況に混乱していると、彼女はぽつりと呟いた。私は目を丸くする。

「貴方は、とても温かい」

「それは……」

 私の“体温”のことを言っているのか? “通常の”生命活動で生まれる温度のことを。
 けれど、一瞬浮かんだその疑問はすぐに霧散した。NOXの声が、私の思考のように卑屈なものではなかったからだ。

 彼女の声はいつもそうであるように透明で、そしていつもより何倍も柔らかく、温かかった。

「そ、そうか……? いや、そうかもしれないな……」

 何だか気恥ずかしくなり、でも彼女の手を振り払うことも出来ず俯いた。NOXの言葉通り、自分でも分かるくらい体温が上昇している。こんな何でもないときに他人に手を握られる経験が、私にはほとんどないのだ。

「……? NOX?」

 不意にきゅ、と熱を吸い取る手に力が籠り、反射的に顔を上げる。NOXは羽毛のような長い睫毛を伏せ、幻の中を揺蕩うような声で言った。

「貴方と居ると、いつも朝日を浴びた記憶を思い出す。とても、温かい」

 それは、彼女にとってとても特別な記憶のはずだ。
 彼女の主人格だった少女は、あの暗く寂しい療養所で日が昇るのを見るために、とても長い時間をたった一人で待っていた。

 彼女が消えた今でも、NOXが日の出を見るために時折早朝の屋外エリアに行っていることを、私は知っている。
 NOXがくれた今の言葉を、硝子細工のように丁寧に、大切に扱わなければならないことも。何より、私がそうしたいのだということも。

「……NOX、ありがとう」

 ゆっくりと言葉を紡ぎ、私は彼女に微笑みかけた。NOXの表情は変わらない。けれど、ほんの少しだけ薄い唇が緩んだように私には見えた。

「……この敵は、このステージの支配者。ここを連打すると倒せる。貴方にも見て欲しい」

「ああ、ぜひ見せてくれ」

 NOXが私の手を放し、再びゲーム機を取って敵に向かい合う。そんな彼女の横顔を、私はしばらく見つめていた。


 『貴方がいる限り、死は私にとって唯一の答えではなくなる』――。彼女は以前そう言ってくれたことがある。
 NOXの感じる“温度”がその答えの一つになるのなら、私は許される限り彼女の側にいよう。

AFTER WORDS

監督端末に出てくる、NOXの「健康診断」を見て思いついたお話でした。相変わらずいたって普通な内容ですが、管理人がちょっとした日常を書くのが好きな奴なのでお許しください…。
ゲームとか小型家電で毎日遊んでいるNOX、可愛すぎる…。


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