63話 道標

 一時間後――。
 ボンゴレアジトの大食堂で、京子は見慣れない機械が組み立てられていくのをハルとビアンキと一緒に見守っていた。
 
 大きなそのマシンを作っているのはジャンニーニで、彼はフゥ太が持ち帰ったらしいパーツを受け取り、マシンの一部分に嵌めこんでいる。

「――さあ、これで完成です。ペロペロキャンディーマシーンです!」

「「わああっ!!」」

 ジャンニーニがボタンを押すと、瞬く間にマシンが白とピンクのペロペロキャンディーを製造した。美味しそうな見た目とお砂糖の甘い香りをさせるそれに、ランボとイーピンが歓喜する。

「これでいつでも、ペロペロキャンディーが食べられますね!」

「よかったね、ランボ君」

 夢中でキャンディーに噛り付いているランボたちに声を掛け、京子とハルは互いに顔を見合わせ微笑んだ。

「……」

 ――本当に、みんな無事に帰って来てくれてよかった……。
 
 京子は心の中で思いながらそっと目を伏せる。

 アジトに帰って来たツナは特訓に戻る前、音羽たちも無事だったことを教えてくれた。それを聞いて胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
 躊躇いなくアジトを飛び出してしまった音羽を、京子はとても心配していたのだ。

 今の音羽は京子たちより年上ですっかり頼もしい“お姉さん”だけれど、それでも外の世界はとても危険だ。しかも音羽は控えめなようでいて、実は危険を顧みずに行動してしまう人でもある。
 同じ中学生だった彼女が、雲雀のために一人で黒曜ランドに乗り込んで行ってしまったことを、京子はよく覚えていた。

 たしかに、自分以上に大切な存在のために衝動的に動いてしまう気持ちはよく分かる。京子もつい先日、恐怖心より了平が気掛かりな気持ちが勝り、アジトを飛び出してしまったばかりだ。

 でも、あのときのことを思い出すと今もとても怖くなる。
 歩き慣れているはずの道が、いつもと全然違うものに見えたこと。すれ違う人皆が、自分の命を狙う怖い人たちのように感じたこと。

 そしてこっちに来たあの日、工場跡地で男に刃を向けられたとき、“死ぬかもしれない”と思ったこと。
 記憶が曖昧になって、思い出そうとするとすぐに頭の中が真っ白になる。それでも心のどこかに居座っているあの恐怖が少し過ると、それだけですっと背筋が寒くなった。

 ――音羽は、違うのだろうか?
 今も昔も、危険な場所に飛び込むことが怖くはないのだろうか? 同い年で同じクラスで、自分と同じ普通の女の子のはずなのに。

「! 音羽、おかえりなさい」

「!」

 不意に、隣にいたビアンキが食堂の出入り口を振り向いたので、京子ははっと顔を上げた。
 慌てて後ろを見れば、たった今考えていた音羽が無傷でそこに立っている。彼女はキャンディーに夢中になっているランボたちを、ほっとした眼差しで一度見たあと、晴れやかな表情で室内に入って来た。

「音羽ちゃん……! おかえりなさい」

「あぁ、よかった……!! 待ってました!」

「ふふっ、ただいま! 心配かけてごめんね、待っててくれてありがとう」

 京子とハルが駆け寄ると、音羽は明るい声で、けれど少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。その笑顔に、京子はふるふると首を横に振る。

「ううん、私たちの方こそ何も出来なくて……。音羽ちゃん、ツナ君や雲雀さんたちと一緒に、ランボ君を探してくれてありがとう」

「はいっ! 皆さんのお陰で、ランボちゃんも無事に帰って来られました! ……そうだ、音羽ちゃん。外で怪我とか怖い思いとかしませんでしたか……?」

 ハルが少しだけ声の調子を落として尋ね、京子も音羽の表情を見守った。
 
「うん、大丈夫だよ。恭弥さんも沢田君も強いから、私は全然……。ありがとう、ハルちゃん、京子ちゃん」

 音羽はそう言って、何の陰りもない、いつも通りの穏やかな表情でにっこり笑う。そんな彼女の顔を見ているうち、気が付けば京子は、自分の中に湧いていた疑問をそのまま彼女に投げかけていた。

「……音羽ちゃんは、怖くないの?」

 音羽が、きょとんとした顔でこちらを見る。その表情に京子も我に返った。

「あっ、ごめんね、変なこと聞いちゃって……!」

 同じ中学生の音羽にならともかく、大人の音羽に聞くべき質問ではなかったかもしれない。
 きっと音羽なら大丈夫と言うに決まっているし、それに彼女が恐怖に打ち勝つ方法が、どうやったって今の京子には埋められない大人の余裕というものならばどうしようもない。

 そんなことを考えて俯いていたら、音羽が少し屈んで京子と視線を合わせた。

「気にしないで、京子ちゃん。私に答えられることだったら何でも答えるし、私は京子ちゃんが話したいことなら何でも聞きたいの。だから、私に遠慮なんて何もしないで」

 音羽はそう言って優しい色の目を細め、心まで溶け出してしまいそうな温かい笑顔を浮かべてくれる。
 惜しみなく向けられる彼女の気持ちに、京子は「うん」と頷いた。音羽も微笑んで、それからゆっくりと身体を起こす。

「私、大切な人が大変なことになってると、いつもつい身体が動いちゃうんだけど……それでも、今の状況が怖くないわけじゃないの。私一人じゃ出来ることに限界があるし、私は恭弥さんたちみたいに強くないから……。……でもね」

 丁寧で静かな声を紡いだ音羽は、言葉を区切った。
 誠実な彼女の瞳が京子をまっすぐに見つめている。

「私には守りたい人たちが沢山いるから、一人じゃないから、大丈夫。……怖くなったら、いつもそう思うようにしてるんだ」

「!」

 音羽はそう言って、曇り空の隙間に見える一筋の光のように明るく笑った。
 それは、京子が今まで目にしたことがない彼女の表情、一面で。それなのに、どこか懐かしい気がしてしまう。

 きっと京子が考えもしなかっただけで、気が付かなかっただけで、音羽は昔からこうだったのだ。
 音羽の言う『守る』が何か物理的なものなのか、それとも心理的な支えを意味するものなのかは分からない。けれど、彼女は一人で黒曜ランドに行ったあのときから、『身近にいる大切な人を守りたい』というその強い想いを、ずっと原動力にしている。

 だから音羽は、十年経った今も纏う空気が変わらない。そして、温かくて柔らかい心の内側に、絶対に揺らがない芯を持っているから、恐怖に打ち勝つことが出来るのだ。

 そう思ったら、胸の奥がほんのりと温かくなった気がした。
 音羽の持つその強い想いは、きっとものすごく特別なものじゃない。京子が了平を想うように、ツナたちが皆のことを想うように、誰もが持ち得るはずの気持ちだ。

 だから、今すぐには難しくても、いつかは。
 いつかは、京子も自分の中にある“あの日”の恐怖を受け入れられる――彼女の言葉を聞いたら、自然とそう思えた。

「……京子ちゃん? あの……私、何か変なこと言っちゃったかな……?」
 
 さっきまでの笑顔から一転して、音羽は眉を下げて京子の顔を覗き込んできた。
 京子がしばらく黙り込んでしまったので、ちょっと不安になってしまったらしい。その落差が少し面白く、京子はつい笑ってしまう。

「うふふ、ううん! 音羽ちゃんに聞いてみてよかったなって、思ってたの! ……ありがとう、音羽ちゃん。私、もう大丈夫だよ」

「! ……うん、それならよかった」

 京子が満面に笑って見せると、音羽は少し目を瞠ってからやっぱり優しく微笑んでくれた。

 ぽかぽかとした穏やかな気持ちに満たされていると、

「――片桐」

 不意に食堂の入り口から女性の声がして、音羽を呼んだ。
 視線を横にずらして見てみれば、ラル・ミルチが立っている。背後を振り返った音羽は彼女の姿を見て、少し驚いたように声を上げた。

「ラルさん!」

「今終わった。早く沢田たちの所に行ってやれ」

「! 呼びに来てくださったんですか? ありがとうございます。すぐ行きますね!」

 音羽はラルと話したことがあるのか、初対面ではなさそうな雰囲気でそう答え、ぺこりと小さく頭を下げた。だが、それ以上のお喋りをすることもなかったので、たぶんとても仲がいいということでもないのだろう。

 音羽は去っていくラルの背中を見送って、それから再び京子たちの方を向き直った。

「それじゃあ私、沢田君たちの所に行ってくるね。……京子ちゃん、ハルちゃん、もし何かあったら……私や、ビアンキさんに何でも言ってね。絶対力になるって、約束するから」

「うん、ありがとう、音羽ちゃん」
「はいっ、ありがとうございます! 音羽ちゃん、また遊びに来てくださいね!」

「……うん! もちろん、またすぐ会いに来るね!」

 ほんの一瞬、音羽が目を見開いた気がしたけれど。彼女はすぐ笑顔で大きく頷き、それから軽く手を振って大食堂を出て行った。
 
「……ありがとう、音羽ちゃん」

 京子は温かい彼女の背中に、そっと感謝の言葉を贈ったのだった。







「――音羽!」

「? ビアンキさん」

 大食堂を出た所で、音羽はビアンキに呼び止められた。後ろを振り返れば、廊下まで出て来てくれたビアンキが眉尻を下げてこちらを見ている。

「どうかしましたか?」

「あ……いいえ、必要ないかとも思ったんだけど……。さっき食堂でしてた話、途中になっていたでしょう?」

「! そういえば……」

 ビアンキに答えようとしたとき、丁度京子たちが大食堂に入って来たのだ。
 中途半端になって、音羽が言いたいことを言えなくなってしまったのではないかと、ビアンキは気を遣ってくれたらしい。
 その気持ちを嬉しく思いながら、音羽は眉尻を下げて微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、大したことないから大丈夫です、って言いかけていただけなんです。わざわざ追いかけて来てくれたのに、ごめんなさい……」

「あら、いいのよ、そんなこと。……大したことないならよかったわ」

「はい、ありがとうございます……」

 穏やかに笑うビアンキに、音羽もほっとして頬を緩めた。

 ビアンキがいたら、本当に安心だ。
 京子もハルも、ランボもイーピンも、戦闘に関わらない皆のことをビアンキはいつも気に掛けてくれている。

 そして、きっと――。

「……あの、ビアンキさん、」

「ん? どうしたの?」

「……」

 柔らかい笑顔で首を傾げるビアンキに言いかけて――、音羽は言葉を呑み込んだ。

 『これからも、よろしくお願いします』。
 そんな何でもない些細な言葉が、“真実”に繋がることもあるかもしれない。雲雀の隠したい真実に。音羽が、そうであったように。

 思い直して音羽は一度口を結び、それからまたゆっくりと開き直した。

「……また、京子ちゃんやハルちゃんたちに会いに来ますね。二人のこと、よろしくお願いします」

「ええ、任せておいて。あの子たちといつでも待ってるわ」

「はい……! それじゃあ、そろそろ戻ります。今日はありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げてから、音羽は踵を返し歩き始めた。

 全部、自分の考えすぎだったら良いのにと、心から願いながら。







 その日の夜――。
 夕食と、食後にクッキーを食べて後片付けを済ませ、音羽は雲雀のいる縁側に歩いて行った。

 彼が夕食後に日本酒を用意するときは、いつも縁側で景色を見ながらお酒を嗜むと決まっている。それは地上にある並盛の屋敷にいたときからの不文律なので、この広いアジトの中でも、彼の居場所ははっきり分かった。
 
 今は色々考えてしまうし、それを彼に悟られてもいけない。
 だから、彼の側にいない方がいいのかもしれないと思ったけれど、雲雀が近くにいるのなら、どんな事情があってもその側にいたいと思ってしまう。

 抗いがたいその気持ちと音羽の抱える“不安”の声を聴けば、足は自然に動いていた。

 やがて、襖をいくつか開けていくと、客間も兼ねている大部屋に辿り着いた。室内は照明を落としていて、今は縁側から入り込む庭の明かりだけが周囲をぼんやりと照らしている。

「……」

 雲雀はやはり縁側で、胡坐をかいて座っていた。着流しを着た広い背中はすっと伸び、これまで音羽が見てきた姿と何も変わらない。その両肩にかかっているかもしれないものも、見ることは出来ない。

「……音羽、座れば?」

「! はい」

 後ろから見ていたら、不意に雲雀が振り返った。音羽は小さく頷いて、言われた通りその隣にゆっくりと腰を下ろす。

 美しくて少し寂しい、深海のような色をした夜の庭園が目の前に広がった。雲雀はその景色を肴に、日本酒の入ったお猪口を静かに傾けている。

 なんだか懐かしい光景だ。
 並盛にいた頃はこれが一つの日常で、忙しい雲雀とゆったり過ごせる貴重な時間――音羽の大好きな時間だった。

「……どうしたんだい? ニヤニヤして」

「ニ、ニヤニヤって……。せめて、にこにこって言ってください」

 雲雀が揶揄うように言ったので、音羽は少しむくれて彼を見た。けれどすぐ気を取り直し、瑠璃色に包まれた庭に目を向ける。

「……懐かしいなぁって思ってたんです。並盛に住んでいた頃は、よく恭弥さんとこうして夜の縁側に座って、お庭を眺めていたなぁって」

「あぁ……そうだね。確かに随分久しぶりだ」

「ふふっ。海外では、そんなにゆっくりする場所も時間もなかったですもんね……。……だから、嬉しいです」

 音羽は伝えて、雲雀に微笑みかけた。
 彼もお酒を呷る手を止めて、柔らかく目を細めてくれる。

 たったそれだけのことで、いつも以上に胸が苦しくなってしまった。
 込み上げてくる愛しさも、彼の側にいられることも、今この瞬間に深く胸に刻んで大切にしなければ――あっという間に指の隙間から零れて落ちてしまう気がする。

「……っ、」

 言葉は交わさなくていい。何も知らないままでいい。
 ただ、いま雲雀の存在を確かめたい。彼は自分の隣にいて、“自分”が彼の隣にいることを。
  
「―――」
「ねぇ、音羽」

 名前を呼びたくて口を開きかけたとき、同時に雲雀が声を発した。彼の視線は再び手に取った徳利に注がれている。音羽の唇の小さな動きには、さすがに気付かなかったようだ。

「はい……、何ですか?」

 音羽は自主的に雲雀から徳利を預かりながら、お猪口にそっと中身を注いだ。雲雀はそれを傾けて一口飲むと、緩慢な動きでこちらを振り返る。

「明日、並中に行くよ」

「え……並中、ですか……?」

 突然の雲雀の宣言に、音羽は目を丸くした。並中に何か用事でもあるのだろうか? 少し考えてみたが、この非常時に並中で済まさなければならない用事など、音羽には思い浮かばない。

 それに、少なくなったとはいえ、外には変わらずミルフィオーレの監視の目がある。彼等に見つかり厄介なことになるリスクを冒してまで、並中に向かう理由は何なのだろう?

「どうして……?」

 雲雀の目を見つめながら控えめに尋ねると、彼は視線を交わしたまま静かに答えた。

「……どうしても。君と二人で行きたいんだ」

「!」

 いつもと変わらない落ち着いた声、感情を露わにしない無表情。
 けれど、雲雀の目はとても真剣だった。瞳に宿った微かな光が、少しだけ揺れている。
 
 そこに、全ての“答え”がある気がした。

 彼が決して言葉にしない、これまで背負ってきたものが、その瞳を通してほんの少しだけ見えた気がした。
 胸がぎゅっと締めつけられた。音羽の答えなんて決まっている。
 彼が望むのなら、それはたった一つしかない。音羽は、微笑んで頷いた。

「……もちろんです。恭弥さんの行きたい所なら、どこだって一緒に行きます。……それに、私も久しぶりに並中に行ってみたいです」

「……ありがとう」

 雲雀は少しだけ目を細め、柔らかい声で答えてくれた。音羽はそんな彼を見つめてから視線を落とし、空に近い徳利を何の気なしに両手で回す。

「……そういえば、二人きりでお出かけするのも久しぶりですね。ちょっとデートみたい」

「別に、そう思ってもいいよ」

「えっ! ほんとですか!? 嬉しい……」

 少しだけ空気を緩めたくて、敢えて気の抜けるようなことを言ってみたのだが、雲雀からはまさかの肯定が返ってきた。音羽が思わず声を上げると、雲雀も小さく笑ってくれる。その微笑を見ると、愛おしさが増してしまった。

 けれど、音羽は彼が肯定してくれると、何となく分かっていた。危険を冒してまで音羽と並中に行くと言う雲雀の目的は、たぶん財団とかマフィアとかは関係なくて。
 
 音羽自身にあるのだ。

 時間はきっと、あまりない。

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