3話 変わった小動物

 雲雀は、日が暮れかけて橙色に染まった校舎の中を、一人歩いていた。
 部活動に励む生徒たちの声も段々と小さくなり、皆帰りの準備を始めている。


 ――昨日も、丁度このぐらいの時間だった。

 人けのない教室を見て回りながら、雲雀は昨日の出来事を思い出していた――……。





 ―――昨日―――……

 雲雀は同じく一人で、放課後の校内の見回りしていた。

 普段なら放課後の校内巡回は平の風紀委員に任せる仕事だが、昨日は自分で回ることにしたのだ。

 ただの、雲雀の気紛れで。
 もし草食動物が群れていたら、暇潰しに咬み殺して遊んでやろう――そう思っただけだった。

 しかし、時間も時間。下校時刻の迫った校舎は既にひっそりとしていて、雲雀の期待するような獲物はいない。

 今日は、流石にハズレか。

 そう思いながら各教室の施錠をきっちり確かめて、三階に上る。
 しんと静まり返った廊下を歩き、一つ一つ教室を見て回って――雲雀は、三階の奥にある部屋、図書室へと向かった。


 並中の図書室は、放課後、特に利用者が少ない。

 だから今日も、どうせ人などいないだろうと、半ば決め込んで図書室の扉を開けると――……そこには珍しく、女子生徒が一人いた。

『―――』

 窓際に立っていた女子生徒は風に煽られた濃茶色の髪を耳にかけると、ふわりと雲雀に目を向ける。

 丸い、黒目がちな瞳が雲雀を捉えた。
 彼女は見開いた目をぱちぱちさせて雲雀を凝視したまま、微動だにしない。

『……君、何してるの?もう下校の時間だよ』

 そう言ってみるが、女子生徒はぽかんと口を開けたまま。みるみるうちに頬を赤くするだけで、一向に返事をしない。

 ……聞こえていないのか、馬鹿なのか。

 反応がないことに苛ついた雲雀は、眉根を寄せた。

『……ちょっと、聞いてるの?』
『ッ、は、はいっ!!』

 機嫌の悪さをありありと滲ませた声で言うと、ようやく目の前の草食動物が反応を寄越した。

 女子生徒はびくっと身体を跳ねさせると慌てて開け放っていた窓を閉め、持っていた本を棚に戻し、鞄の元に小走りで向かって行く――と、思ったら。


 ……何をどうしたらそうなるのか。

 女子生徒は机の脚に躓いて椅子に倒れ込むように転び、ゴンッ!と盛大な音まで立てて、机の端にその額を打ち付けた。

『いっ……』

 呻き声を上げる程度には痛かったらしい。が、女子生徒は殊勝なことに、すぐに立ち上がろうとする。

 ――しかし――……

『…………』

 女子生徒は椅子を掴んで立ち上がろうとしては、へにゃりと腰を床に落とすことを繰り返した。

 力が入らないのか、ぶつけた額が余程痛むのか。それとも、突如現れた雲雀に怯えているのか。

 焦りの浮かんだ彼女の横顔を見れば、わざともたもたしているという訳ではないようだが、彼女を待っていたら本当に日が暮れるだろう。雲雀の見回りも一向に終わらない。

『全く……何してるの』

 雲雀は小さく溜息をつきながら女子生徒の側に行き、その腕を掴んだ。

『!!』

 雲雀が触れると、女子生徒の身体がまた大きく跳ね上がる。

 けれど特に気にすることもなく、雲雀は女子生徒を引き上げてその場に立たせた。すると、彼女はおずおずと顔を上げ、雲雀を見る。

 彼女の大きな焦げ茶色の瞳には、薄っすら涙が浮かんでいた。失態を人前に晒したのが恥ずかしかったのか、頬が赤く染まっている。


 まるで、肉食動物に狩られる前の小動物だ。

 
 今にも震え出しそうな女子生徒に雲雀は溜息をつき、彼女の腕を解放した。

『そんなに怯えなくても、何もしないよ』
『!ちがっ……!あの、ちがくて……っ』

 雲雀が言うと、女子生徒はなぜか否定を繰り出して、おろおろした表情で首を横に振る。

『じゃあなんで、こんな何もない所で転ぶのさ?』

 彼女を見据えながらそう問えば、女子生徒はしょんぼりしたように俯いて、

『そ、それはあの……私、どんくさくて……』

 と、小さな声で答えてから、増々顔を赤らめた。

 揺れる瞳に羞恥がある。が、そこに雲雀に対する恐怖心のようなものは見つけられない。


 どうやら、彼女の言っていることは本当らしかった。……だとしたら、珍しい生徒もいたものだ。

 ――変な子。

『……ふうん、まあいいけど。とにかく、早く帰ってよね』

 雲雀は言いながら踵を返し、入って来た扉に向かう。

 鈍臭いこの女子生徒が荷造りをして帰るまでに、まだ確認の済んでいない教室を見て回った方が恐らく効率的だ。

 ……でも、もう少しこの小動物で暇を潰すのも、ひょっとしたら面白いかもしれない。

 と、近付く出口を見据えながら雲雀が一瞬考えた、そのとき――。

『あ、あのっ……!』

 後ろから、女子生徒が雲雀を呼び止めた。

 どこか必死さを感じさせる声にちらと振り返ると、彼女は鞄を持ち、慌てた様子で雲雀の前までやってくる。

 そして、相変わらずまだ涙ぐんでいる瞳で、真っ直ぐに雲雀を見つめてきた。

『あの、さっきは起こしてくださって……ありがとうございました、雲雀さん』
『!』

 にっこりと顔を綻ばせて礼を言ってきた女子生徒に、雲雀は思わず目を瞠る。

 彼女はそのままぺこりと頭を下げると、パタパタと音を立てて足早に図書室を出て行った。

 雲雀の前を過ぎ去る間際。
 ちらと見えた彼女の横顔は、相変わらず柔らかく笑っていた。

『……変な子。でも――面白いね』

 久々に、自分の退屈を紛らわしそうなものが現れた。それも、これまでになかったタイプの暇潰し。

 雲雀は放課後の図書室で出会った女性生徒に、そんな予感を抱いたのだった。





 ――雲雀は昨日のことを思い出しながら二階の教室の点検を終え、三階へと続く階段を上って行った。

 すると、部活動を終えてこれから帰るらしい生徒が数人、賑やかに話をしながら上の階から降りて来る。
 しかし、雲雀がトンファーを出そうかと思う寸前、雲雀の存在に気付いた生徒たちは瞬時に互いに距離をとった。

 彼等は階段の端に寄って雲雀に道を開けると、「し、失礼します!!」と怯えた声を上げ、慌てふためいて階段を駆け下りる。

 せっかく見つけた群れだ。
 このまま後を追い、咬み殺してやってもいい。……けれど、今日は見逃してやろう。

 雲雀は心中で思いながら、生徒たちを振り返ることなく、上へと進んで行く。


 よく見慣れた光景だ。“普通”の並中生の態度に、雲雀が思うことなど何もない。


 ――三階に辿り着いた雲雀は、点検を進めながら図書室に向かった。

 昨日と同じく静かな廊下を歩き、また人けのない図書室の扉を開ける。
 すると雲雀の思った通り、あの女子生徒がいた。昨日荷物を置いていたのと同じ席に、今日は腰を掛けている。

「――……!!」

 机に視線を落としていた彼女はワンテンポ遅れて顔を上げると、これもまた昨日と同じようにぽかんとして、それからハッと目を見開いた。

「ひ、雲雀さん……」

 僅かに開けた口。そこから吐息のような声を発して雲雀の名を呼ぶ女子生徒は、見る間に頬を赤く染めていく。

「……君、またここにいるの。もう閉める時間だよ」
「は、はいっ!すぐ出ます……!!」

 雲雀が見据えて告げると、彼女は慌てて筆記用具を片付け始める。

 時間も、使っている席も、見せる反応も。
 彼女はほとんど昨日と同じだったが、一つだけ、明らかに違っていることがある。

「……」

 雲雀は机の上にあるものを見て、目を細めた。

 そこにあるのは、昨日彼女が持っていたような本ではなく、教科書とノート。その手に握られているペンまで見れば、彼女が何をしていたのかは一目瞭然だ。

「……ふうん、勉強してたんだ」
「!……はい、もうすぐテストなんですけど、数学苦手、で……」

 雲雀が彼女の側に歩んで行くと、その声が段々小さくなった。雲雀を見ていた視線も、どんどん下に落ちていく。

「…………」

 その眼前に立った雲雀は、座っている彼女を黙したまま見下ろした。

 頬のみならず、女子生徒は耳まで真っ赤にして俯いている。


 ……昨日といい今日といい、彼女は、雲雀が接近するとこういう反応を見せる。

 その理由に興味はないが、こういう反応をする草食動物は今まで見たことがないから面白い。


 もっと、遊んでみたくなる。


 雲雀は思わずふ、と口の端を持ち上げて、机の上に片手を乗せた。

「ねえ、僕が教えてあげようか」
「……え……?」

 気まぐれで思いついたことをそのまま言ってみれば、予想通りの反応が返ってくる。

 彼女は赤い頬のまま、信じられない、という瞳で雲雀を見上げてきた。

「どうするの?嫌なら今すぐ帰ってもらうよ」
「い、いえ……、教えてください……っ!」

 少し促すと、小動物は慌てて返事をする。

 そんな様子に雲雀はどこか満足感を得て、僅かに笑みを浮かべたのだった。







「で、どこが苦手なの?」

 雲雀は、女子生徒の目の前の席に座って尋ねた。
 彼女は呆気にとられた顔をしていたが、雲雀と目が合うとぱっと教科書に視線を落とす。

「え、えっと……特に分からないのは、ここです」

 絞り出すようにか細い声で言いながら、彼女は教科書をこちらに差し出し、指で示した。雲雀はその部分に目を通す。

「……なるほどね。一度しか説明しないよ」

 そう告げたあと、雲雀は一応一通りきちんと教えてやり――、女子生徒が問題を解き終わるのを待つことにした。

「――じゃあここ、解いてみなよ」
「は、はいっ!」

 雲雀が教科書を返すと、女子生徒は俯いて問題を解き始めた。

 彼女がノートに向き合う様子を、雲雀は頬杖をついてじっと見つめる。

「…………」
「…………」

 するとすぐに、彼女は手を止めておずおずとこちらを見てきた。

「……あ、あの……」
「何?」

 ぴくりとも動かず問えば、彼女は目を伏せながらまた頬を赤らめる。

「み、見られてると、その……気になって……」
「知らない。早くやらないと咬み殺すよ」
「う……、はい……」

 雲雀が睨みつけると、彼女は仕方ないか……とでも言うように肩を落とし、再びノートに視線を戻した。

 やはり、雲雀に対する恐怖心を、彼女からは少しも感じられない。

 雲雀がきつく睨んでみても、咬み殺すと脅してみても、変わらずこの調子だ。ただ、恥ずかしそうに頬の色を変えるだけ。

「……ねえ君、僕が怖くないの」

 何となく気になったので聞いてみれば、彼女は顔を上げ、丸い目で雲雀を見返した。
 そして、うーん……と小さく呻って悩んだ挙句、

「今は、怖くない……と思います」

 と、曖昧な返事を寄越す。

 どういう事?と目で続きを促せば、彼女は言葉を探すように視線を上げて、

「えっと……今まで雲雀さんのこと、噂には聞いていても、私は話した事なかったから……。正直、怖いかどうかとか、よく分からなかったんです。でも、昨日と今日お話し出来て、怖いとは思いませんでした。だから、多分怖くないと思います」

 ゆっくりそう答えると、なぜだか嬉しそうに微笑んだ。

「ふうん、そう……」
「はいっ」

 気のない返事をする雲雀の視線はもう気にならなくなったのか、彼女は笑顔で頷いて、また手元に目を落とす。


 やっぱり、この女子生徒は変わっている。

 予想通りの反応を寄越すのに、彼女の言葉も表情も、考えていることも、雲雀がこれまで出会ってきたものとは違う。

 だからだろうか。
 勉強を教えてみようか、などと、普段の雲雀なら到底あり得ない“遊び”を思い立ったのは。

 
 雲雀は、教科書に載っている問題と向き合っている女子生徒を見た。眉を寄せ、懸命に頭を使っているようだがその進みは遅い。

 普段なら、もう咬み殺しているだろう。……それも、いいかもしれない。
 
 何か、雲雀の調子を狂わせてくるこの女子生徒を咬み殺し、微塵も抱いていないらしい雲雀に対する恐怖心を一から植え付けるのも面白そうだ。


 だが―――……

 肝心の咬み殺したいという欲求やイラつき、嫌悪が、不思議とこの女子生徒に対して湧いてこない。

 ――それがどうしてなのか、雲雀は深く考えなかった。

 代わりに、何も知らないこの愚かな小動物をからかって遊ぶことを想像してみる。

 それは、なかなか悪くない。

 雲雀は女子生徒が問題を解き終わるのを待つ間、目を伏せた彼女の顔を眺めていた。





 本来の下校時刻から、一時間程経った頃――。
 空に残っていた夕陽はすっかり西に沈んで、外は暗くなっていた。

 女子生徒に解くよう指示した問題も区切りの良い所まで終わり、雲雀はす、と席を立つ。


 まさか、一時間もこの女子生徒に付き合ってやることになるとは。校内の施錠チェックもまだ済んでいないし、他の風紀委員が気を利かせて終わらせているとも思えない(副委員長が雲雀の不在に気付いていれば、済ませている可能性は僅かにあるが)。

 だが今日は、その諸々に雲雀が苛立ちを覚えることはやはりなかった。

「雲雀さん、今日は遅くまでありがとうございました……!雲雀さんのお陰で、勉強頑張れそうです」

 窓の向こうを見ながら雲雀が考えていると、帰り支度をしていた女子生徒が嬉しそうな声で言う。

 雲雀は室内を反射した窓ガラスから、女子生徒へと視線を移した。

 相変わらず自分に向けられている、見慣れない笑顔。

 雲雀は彼女に、自然と尋ねていた。

「……ねえ、君の名前なに?」
「えっ……、あ、片桐音羽です……!」

 雲雀の言葉に、女子生徒――片桐音羽は、ぱっと顔を輝かせる。

 雲雀はそんな彼女を見据え、それから静かに、思いつきを口にした。

「じゃあ、片桐音羽。今度の数学のテストは、80点以上を取ってもらおうか。もし取れなかったら……咬み殺すから」
「……え……80点……?」

 さっきまでの笑顔はどこへやら。
 音羽は目を見開いて、雲雀を唖然とした表情で見つめている。

 どうやら彼女の中で、数学の80点は高い点数として設定されているらしい。

 ……まあそれも、何となくこの時間に把握出来ていたことだ。彼女の問題の進み具合や正答率を見ていれば、普段どれくらいの点数を取っているのか、ある程度の予想はつく。

 だから雲雀は、敢えて彼女にとっては少々高いであろう点数を設定したわけだが――……彼女から返ってきた反応に気をよくした雲雀は、にやりと口元に笑みを浮かべ、音羽を見返した。

「そう、80点。僕が直々に教えてあげたんだから、それくらい取れるよね?」
「ど、どうしても……80点ですか?」
「もう決めたんだ。例外はないよ」
「う……」

有無を言わせぬ雲雀の態度に、音羽は絶望の色を隠せずにいる。

 ――どうなるか見物だね。

「まあ頑張りなよ。じゃあね」

 雲雀はそう告げて音羽を一瞥し、図書室を出た。

 もし取れなかったら、本当に咬み殺してみるのもいいかもしれない。

 あの変わった小動物をどうしてやろうか、と。

 雲雀は廊下を歩きながら考えるのだった。


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