61話 支え
午後――。
無事にクッキーも焼き上がり、音羽は雲雀に声を掛けてから、アジト同士を繋ぐ例の通路を通って早速ボンゴレアジトに向かった。
ここを通るのももう三度目だ。音羽はここに来てから毎日、大体夕方頃にあちらのアジトを訪れては、ツナたちが“特訓”で負った傷を癒している。
現在、ツナたちは炎の強化特訓を行っていた。
安定しないリングの炎を一定に灯せるように、炎自体の純度を高めるために、彼等はラル・ミルチ――あの日ツナと一緒にいた女性――から指導を受けながら、戦闘訓練のほか基礎的な体力トレーニングなどを実施しているのだ。
だが、指導者のラルはボンゴレ門外顧問の組織『
その訓練内容は、数々の死線を潜り抜けてきたであろう彼女らしく大変厳しいもので、所謂スパルタという類いのもの。休憩時間も必要最低限にしか与えられないので、ツナたちはいつも傷だらけのボロボロ、疲弊しきった顔をしている。
けれど、「甘ったれるな!!」と怒声を張り上げながらも、ラルはツナたちを鍛えるべく手を尽くしてくれているので、きっと根は熱くて面倒見のいい女性なのだろうと音羽は思っている。
「…………」
傷だらけになりながらも立ち上がる、ツナや獄寺や山本。その姿を思い出し、音羽は歩きながらそっと目を伏せた。
彼等は
しかし、雲雀に言ってみても「そのうちね」と返されるだけで、明確な答えは得られなかった。
――それが、“答え”ということなのかもしれない。
ついぼんやりと考えて込んでいるうちに、音羽はいつの間にかボンゴレアジトに入っていた。
そのまま迷いのない足取りでエレベーターに乗り込んで、今日はいつもと違う地下七階――食堂やキッチンがある階に降りていく。
――もうすぐ京子ちゃんやハルちゃんに会うんだから。気持ちを切り替えないと……。
どうしても雲雀のことは気に掛かるが、今考えたところで答えが出るわけでもない。
音羽は胸に手を当て、もやもやを体外へ追い出すように深呼吸を一つした。
これまでタイミングが合わなくて、京子とハルには会えていなかったけれど、彼女たちの様子はどうだろう。
彼女たちはこちらの世界に飛ばされた直後、ミルフィオーレとの戦闘に巻き込まれ、とても怖い思いをしたらしい。
そして、二人ともそれぞれアジトの外に出てしまい、現在の危険な並盛の空気を既に肌で感じてしまっている――ビアンキからはそう聞いていた。
それでも二人はアジトでの家事をこなし、“見る限りは”元気に過ごしているそうだが、まだ中学生の女の子たちだ。ビアンキの言う通り、不安なことの方が多いに違いない。
音羽に出来ることなんてほんの一握りだろうけど、それでも一緒にいるあいだの
ガタン――とエレベーターが停止して扉が開き、音羽は通路に出た。大食堂で待っている、とビアンキに言われていたので、まっすぐそこを目指して歩いて行く。
通路の角を曲がると、大食堂の扉は開いていた。中から電気の煌々とした明かりと、賑やかな女の子たちの話し声が聞こえてくる。
「――ハルちゃん。紅茶なんだけど、こっちとこっち、どっちがいいかな?」
「そうですねぇ……。……あ! たしか前にケーキ屋さんに行ったとき、音羽ちゃんアッサムを頼んでました! きっとお好きなんだと思います!」
「そういえばそうだったね! じゃあこっちにしよっか! ミルクの準備もしておくね!」
「はいっ、ありがとうございます! こっちのパウンドケーキも良い感じですよ〜!」
「わ、ほんとだ! 良かった〜!」
「……」
楽しそうな二人の声に、音羽はつい微笑んだ。想像していたよりずっと明るい声音でほっとしたのもあるけれど、昔から二人は変わらない。
彼女たちの優しさが、とても懐かしくて温かかった。
「……こんにちは!」
息を吸って、音羽は一歩踏み出した。食堂の中、焼き菓子の甘い香りの向こうに懐かしい二人がいる。こちらを振り返った京子とハルは、やっぱり幼い顔をしていた。
「「! 音羽ちゃん!」」
「いらっしゃい、音羽」
「こんにちは、ビアンキさん。京子ちゃんとハルちゃんも、!」
テーブルの前に座っていたビアンキにも挨拶し、もう一度二人の方を振り向くと、彼女たちはいつの間にかこちらに向けて駆けて来ていた。そのままハルが勢いよく胸の中に飛び込んできて、音羽は彼女を受け止めながら思わず目を丸くする。
「音羽ちゃん! 無事でよかったです……!!」
「ハルちゃん……」
身長差はほとんどないのに、自分にしがみついたハルの身体は華奢でとても小さく感じた。
音羽の無事はビアンキが伝えてくれたはずだけど、それでも外で経験した恐怖が彼女たちに染み付いているのだろう。音羽も同じような目に遭っているのでは、と心配してくれていたのが伝わってくる。
――二人とも、すごく怖かったんだ……。そうだよね、十年後の世界に来て戻れないだけでも不安なのに、周りがこんな状況になってたら……。……私だって、きっと怖くて眠れない。
「……ハルちゃん、心配してくれてありがとう。ハルちゃんも京子ちゃんも、無事で本当に良かった。二人とも、怪我とかしてない?」
ハルをぎゅっと抱きしめてから顔を上げ、音羽は京子を見た。京子も目を少し潤ませているけれど、にっこりと、見慣れた明るい笑顔を向けてくれる。
「うんっ、私たちは大丈夫! いつもツナ君たちが守ってくれたから……」
「はい、ハルたちはとっても元気です!」
ぐず、と鼻を啜って、ハルが音羽から身体を離した。ごしごしと制服の袖で涙を拭い、ハルは少し恥ずかしそうにはにかんで見せる。
「えへへ……、ごめんなさい。音羽ちゃんお姉さんになったけど、雰囲気がそのままだから、顔を見たらつい安心しちゃって。今日は来てくださって、ありがとうございます!」
「ううん、私もずっと二人に会いたかったから……。それにね、私もさっき、二人とも変わらないなぁって思ってたの」
「はひっ、そうなんですか! ……あっ、そういえば音羽ちゃんは、ハルたちの十年後を知ってるんですよね!?」
「わぁ〜! どうなってるか聞きたいねっ!」
「はいっ、すっごく聞きたいです〜!!」
京子の弾んだ声に、ハルが大きく頷いた。目をキラキラさせる二人はやっぱり一見元気そうに見えるけれど、何だかそれが少し無理をしているようにも思えてしまう。音羽はつい、眉尻を下げて苦笑した。
「さあさあ、話はお茶をしながらゆっくりしましょう。そろそろケーキも出来上がりよ」
「はひ、そうでした!」
立ち上がったビアンキに声を掛けられ、はしゃいでいたハルと京子がハッとする。
「じゃあ、さっそくお茶も淹れますね!」
「あっ、私も手伝うよ」
音羽は手土産に焼いてきたクッキーをテーブルに置いて、京子とハルとビアンキを手伝うべく、キッチンの方に歩いて行った。
◇
京子とハルが作ってくれたパウンドケーキと、音羽が持ってきたクッキーを囲んで、女子四人のお茶会が始まった。
紅茶の香りが漂う空間は始終なごやかで、時間はゆったりと流れている気がするのに、実際は早い。女の子の友達と過ごす特有の時間の流れ方を感じながら、音羽は彼女たちの話を聞いていた。
京子たちは、こっちに来てからの話や、十年前の世界ではこういう出来事があったとか(音羽は懐かしい気持ちで聞いていた)、今は毎日料理、洗濯、掃除などの家事をしてツナたちのサポートをしているのだと話してくれた。
――本当は、彼女たちが抱えている本音を聞きたくもあったけれど、思い出したくないことや、話すことで逆に不安を感じてしまうこともあるかもしれない。
何より、今の二人は明るい話題を求めているようなので、ひとまずは彼女たちが話したいことだけを聞くように努め、彼女たちのペースを守りながらタイミングを待つことにした。
そうしているうちに、話題は二人が興味津々だった未来の話へと移り変わり――やがて、女の子が数人集まると自然と出てくる「恋の話」に発展していく。食堂の中の空気はぽかぽかと温かく、今や淡いピンク色に染まっていた。
「音羽ちゃん、ビアンキさん! この時代のツナさんってどんな感じなんですか? やっぱり優しくて強くてかっこよくて、威厳のあるマフィアのボスになっているんでしょうか?」
昔からツナ一筋、恋する乙女のハルは目をキラキラさせて机に身を乗り出した。
そういえば昔のハルは、かなり積極的にツナにアピールしていたっけ。懐かしい思い出と目の前のハルの姿が重なって、音羽はつい可愛いなあと微笑んだ。ビアンキも、同じように微笑しながらゆったりとした口調で答える。
「そうね……この時代のツナはボスとして申し分のない強さと人格を兼ね備えているけれど……。威厳っていうのはどうかしら」
「ふふふっ、たしかに……沢田君は威厳があるっていうより、ずっと変わらず親しみやすい感じですよね。何だかんだ言って皆を引っ張ってくれるリーダーなのに、ずごく身近な感じがするっていうか」
「ええ、そうね。そこがツナの長所であり、魅力でもあるわ」
しかも外見も背が伸びて今より男らしくなったわよ、とビアンキが付け足すと、ハルはぽっと赤らんだ頬を押さえた。
「はひっーー!! 想像するだけでノックアウトです〜っ!! やっぱりツナさんは十年経っても素敵なんですね!!」
「うふふ、十年後のツナ君たちにも会ってみたいね!」
「はい!!」
無邪気に笑って彼に会いたいと言う二人を見て、隣り合って座った音羽とビアンキは思わず顔を見合わせた。
たぶん考えていることは二人とも同じで、ビアンキも少し寂しそうな、複雑そうな表情をしている。
音羽もじわりと浮かんだ悲しみが、うっかり表に出てしまっていたのかもしれない。ビアンキが気分を切り替えるように、さりげなく話題を変えてくれた。
「そういえば、雲雀恭弥も相変わらずだったわね。ほら、この前私たちが医療室に行ったとき」
「! あ、あぁ、そうですね」
この間――医療室での出来事を思い出して、音羽は苦笑した。
話をしたくてツナたちの所に行ったものの、ビアンキやフゥ太が加わって雲雀の「室内定員オーバー」を迎えてしまい、結局そのまま退室してしまったのだ。
「「? 医療室って?」」
「あぁ、二人はいなかったわね」
ビアンキはそう言うと、不思議そうな顔をしている京子とハルに簡単に事情を説明してくれた。去り際に雲雀がツナを咬み殺してしまったことを聞くと、ハルの顔が引きつって青くなる。
「はひ……、雲雀さんのデンジャラスさも相変わらずなんですね……」
「うん……あのときは沢田君に本当に申し訳なかったな……。でも恭弥さん、あれでも前よりは少し丸くなった方なんだよ」
たぶん……と語尾に小さく付け加え、音羽は大人になってからの雲雀を思い返した。
たしかに気に入らない人がいれば誰であろうと捻じ伏せようとするのが雲雀であり、それは今も基本的には変わらない。
だが、それでも前ほどすぐ暴力的に解決するようなことは少なくなった気がするし、現に最近もケーニッヒに苛立っていた様子だったけれど、最後まで彼を咬み殺すことはなかった。
――あれは、「匣を作ってもらう」っていう大事な目的があったのもある思うけど……。
それでも、昔の雲雀ならやっぱり自分の怒りや苛立ちを抑えたりせずに、一発くらいトンファーをお見舞いしていたかもしれない。傍目には少し分かりにくいかもしれないが、今の雲雀は少しだけ他人に対して寛容になった気がする。
と、あれこれ考えていると。
ふと、向かいに座っている京子とハルがにこにこ笑っていることに気が付いた。
「? どうしたの、二人とも?」
尋ねると、京子は緩く首を振ってキラキラした目で音羽を見る。
「ううん、何だか“恭弥さん”って呼ぶ音羽ちゃんが新鮮で。素敵だなあって思ってたの」
「えっ、そうかな……! そういえば昔は、“雲雀さん”って呼んでたもんね」
「はひ〜、長年連れ添ったお二人だからこその変化ですね!」
いいなあ〜とうっとりするハルに、音羽は少し照れくさくなりながら微笑む。すると、京子が小首を傾げてこちらを見た。
「音羽ちゃん、雲雀さんとはこれからどうするか決まってるの? 結婚とか!」
「!」
「もう十年も付き合っているものね。そういう話もしているんじゃない?」
「えっと……」
率直な京子の質問につい目を見開いていると、頬杖をついたビアンキに顔を覗き込まれる。音羽はつい、口籠った。
「結婚」――。
もちろん、それについて考えたことは何度もあった。
学生の頃は音羽も「いつか雲雀さんと結婚するのかなあ」とぼんやり思っていたし、学校を卒業して彼と一緒に住むようになってからは、もっとリアルに想像した。
――ただ、それはあくまで“音羽の想像”だ。それ以上でもそれ以下でもない。
雲雀と過ごす中でその話題が上ってきたことは、今まで一度もないのだから。
「実は……そういう話は一回もしたことないの」
肩を竦めて笑いながら正直に答えると、今度はハルと京子の目がみるみるうちに丸くなった。
「えっ、そうなんですか!? 意外です……お二人ともずっと相思相愛ですから、高校を卒業されたらすぐにでも結婚しちゃうのかと思ってました!」
「うん、私も! 雲雀さんと音羽ちゃんが仲良しなのは学校の皆知ってるくらいだったし、てっきりそうだとばかり……」
「あはは、全然そんなことないよ。お互いずっと“仕事”が忙しかったし……それに恭弥さんはなんていうか……“形”にとらわれないタイプだから……」
音羽はにっこりと笑い返した。
そう、雲雀とは「結婚」はおろか、「これから」の話をしたことも一度もない。
ただそれは、現状に甘んじて先の話をしないということではなく、「二人で一緒にいることが当たり前」だから、先の話をする必要がないということだ。
少なくとも音羽はそう解釈しているし、それでも――今のままでもよかった。
たしかに「結婚」という、名実共に雲雀と連れ添える関係になれることに対して憧れはある。あんなに素敵な雲雀がもし自分の旦那様になったら……なんて、少し考えるだけで頬が熱くなるくらいだ。
けれど、それはあくまで憧れだ。
彼と二人でいつまでも一緒に居られるのなら、音羽は本当にそれだけでいい。
絶対的な“形”なんてなくても、雲雀が自分のことを愛してくれているのは充分すぎるほど伝わってくるし、音羽も、彼に素直に自分の愛情を届けられる今の関係に満足している。
そして、たぶん雲雀も。
彼も音羽と同じように、“二人で一緒にいる”ことに何より重きを置いてくれている。そこに特別な名前や関係を、彼はきっと音羽以上に求めてはいないだろう。確信はないけれど、束縛の嫌いな雲雀にとっては、「結婚」という関係もある種の束縛になるのかもしれない。
「……なるほど、雲雀恭弥らしいわね」
ややあって、ビアンキが小さく頷いた。
「彼にとってはあなたと居られることが何より大切でしょうし、それが叶えられるなら敢えて“結婚”という形を取らなくてもいい、ってことね」
「はい、恭弥さんならそうかなあって」
「そうなんだ……。音羽ちゃんは、それでいいの?」
京子にそっと尋ねられて、音羽は微笑んだ。
もちろん、雲雀が望んでくれるなら音羽はいつでも、迷いなく彼の手を取る。
だが、彼の望んでいない関係を自分から求めることは――とても勇気がいることだ。雲雀の答えによっては、ふわふわした憧れも簡単に消えてなくなってしまうかもしれない。
それだけならまだいい方で、もし……もしそれをきっかけに二人の関係性まで変わってしまうことになったら。
そう考えると、とても自分の口からその話題を持ち出すことは出来そうになかった。
「……うん、私も恭弥さんと一緒に居られれば、それで充分だよ」
だから心からの気持ちをそう答えると、ハルが少し感心した風に頷いた。
「はひ〜……音羽ちゃんも相変わらずで慎ましいです。ハルだったら、もっともっと強引に迫っちゃいますよ!」
「ふふっ、ハルちゃんはいつもアタックあるのみ! だもんね!」
「はいっ!」
「ハルちゃんったら」
京子がいつものように笑って、皆にも笑顔が移っていく。
「……」
音羽も楽しく皆と笑って、それからそっと目を伏せた。
ミルフィオーレとの抗争が始まって、音羽たちを取り巻く環境はすっかり荒んでしまった。でも、そんなときも雲雀が側にいてくれるだけで、音羽は“幸せ”という感情を感じることが出来る。
いつでも雲雀の声が聞こえて、雲雀に自分の言葉を届けられて、そして手を伸ばせば彼に触れられる。そんな風に彼の近くに居られるのなら、それ以上に望むものなんて何もない。
――でも、もし……それが出来なくなったら……。
つい、あの不安が浮かびかけた。押し込めるように、音羽は膝に乗せた手をぎゅっと握りしめる。
そんな音羽の姿を、隣にいたビアンキは静かに見つめていたのだった。
◇
「――あら、もうこんな時間ね。そろそろ食事の用意をした方がいいかしら」
それから四十分ほど経った頃――、壁掛け時計を見たビアンキが言った。
時計の針は、午後四時を指している。ツナたちの修業が終わるのは大体五時半か六時くらいなので、いつもこれくらいの時間から夕食の支度をするのかもしれない。
「あっ、ほんとだ! そろそろご飯作った方がよさそうだね」
「はい、そうですね! じゃあハル、お野菜採ってきます!」
「ハルちゃん、私も行くよ。今日の献立、材料がちょっと多いから」
「京子ちゃん、ありがとうございます! それじゃあハルたち、ちょっと行ってきますね!」
「あ、私も手伝う! まだ時間あるから……」
立ち上がる京子とハルに合わせて音羽も腰を上げると、二人はにっこりして首を横に振った。
「音羽ちゃん、ありがとう! でも二人で持てるくらいの量だから、良かったらゆっくりしてて」
「はいっ! ビアンキさんも音羽ちゃんも、のんびりしててください!」
「ありがとう、二人とも。じゃあ、お言葉に甘えて待ってましょう、音羽」
「はい……。京子ちゃん、ハルちゃん、ありがとう。何か手伝えることがあったら、いつでも言ってね」
「はいっ、ありがとうございます! じゃあ行ってきますねっ!」
ビアンキに促されて頷くと、京子とハルはこちらに軽く手を振って食堂を出て行った。
人が少なくなって、室内は途端に静かになる。ビアンキと二人きりになって、音羽は何気なくテーブルを見回した。
「……あ、ビアンキさん、紅茶飲みますか? 新しいの淹れますね」
「ええ、お願い」
ビアンキの空のティーカップを預かって、音羽はコンロの側に向かいお湯を沸かした。ついでなので、茶葉も新しいものに換える。
「……音羽、ありがとう」
お茶のお礼にしては厚い、改まった声でビアンキが言った。
「? はい、どういたしまして……?」
「うふふ。紅茶もだけど、今言ったのは別のことよ」
不思議に思いながらも曖昧に頷いた音羽に、ビアンキは笑ってその瞳を優しく細める。
「今日、ここに来てくれてありがとう。あの子たち、あなたと話せてすごく嬉しかったみたい。心の底から、ずっと楽しそうに笑っていたわ」
「!」
ビアンキはほっとした様子で言ったが、その声音にはいつも以上の真剣さがあった。音羽は身体ごと、彼女の方を向き直る。
彼女は座ったまま、机の上に視線を落として言葉を続けた。
「あの二人がこの時代に来たとき、ミルフィオーレとの戦闘に巻き込まれたって、前に話したわよね」
「はい」
「実は、京子はそのときの記憶がないみたいなの。恐怖心による部分的な記憶障害が起きていて、本人も気にしているわ。それにハルも、ああ見えて毎日泣いているみたい。……でも、今日は朝からあなたが来るからって、二人ともずっと楽しみにしていたの。あの子たちの、本当の笑顔が見られたわ」
ありがとう、とビアンキは繰り返す。
京子の記憶のこと、ハルが秘かに泣いていること。どちらも初めて知って詳細を聞きたくなったけれど、ビアンキの口ぶりからすると、彼女も今は本人たちに深く干渉していないようだ。
なので、音羽もあれこれ聞かなかった。
彼女たちが心から笑っていたとビアンキが言うのなら、本当にそうなのかもしれない。京子やハルが少しでもこの息苦しさを忘れて楽しい時間を過ごせたならば、音羽も嬉しい。
でも、音羽では拭い切れない不安があるのも、また事実だろう。
「……だったら、いいんですけど……。京子ちゃんもハルちゃんも頑張り屋さんだから、無理してるんじゃないかって、ちょっと心配でもあるんです……」
「そうね……気持ちは分かるわ」
目を伏せて音羽が言うと、ビアンキも頷いた。
「……でも、あなたも知っている通り、あの二人はとても強い女性よ。ツナたちとは違う方法で、あの子たちはあの子たちなりに毎日戦っている。……私は、あの子たちなら必ずこの状況を乗り越えられると、信じてるわ」
「ビアンキさん……」
彼女の声は、これまでになく力強いものだった。その言葉にも確信にも、偽りや曇りのないことがすぐ分かる。
これまで京子たちを側で見守ってきたビアンキは、どんな時代の二人でも、隔たりなく信じているのだ。
それはビアンキや京子、ハルそれぞれが持つ強さに因るものでもあるけれど、固く結ばれた、彼女たちの絆の強さからくるものでもある。
そしてビアンキは同じように、音羽のことも深く信頼してくれている。この時、この空間で、彼女が本心を打ち明けてくれたこと。それが、何よりの証に思えた。
「もちろん、それには周りのサポートが欠かせないわ。……だから、音羽。いつでもいいから、またあの子たちに会いに来てあげて。私たちであの子たちを支え、守りましょう」
「……! はい、もちろんです」
微笑んだビアンキに音羽は一瞬目を見開いて――、けれどすぐに頷いた。
時に話を聞くことが、側にいるだけのことが、その人にとって大きな支えになることがある。音羽はこれまで、沢山の人たちからそれを教えてもらってきた。もちろん、あの二人からも。
だから、今度は音羽の番だ。ビアンキの言うように二人が無事過去に帰れるまで支えてあげたい。……そうしたい、と心から願っている。
「!」
そのとき、火にかけていたケトルの蓋が蒸気で浮いて、カタカタと音を立てた。音羽は慌てて火を消して、沸いたお湯をティーポットに注ぐ。淹れたての紅茶の香りが立ち込めて、少し蒸らすと柔らかい匂いがした。
「……はい、ビアンキさん。どうぞ」
「ええ、ありがとう」
音羽は紅茶を淹れたカップをビアンキに渡し、再び席につく。ビアンキがそうしているように自分も一口お茶を飲むと、温かい液体がじんわりと身体の深くまで染み込んだ。
「……やっぱり、ビアンキさんは私たちのお姉さんですね。優しくて、頼もしくて……」
ふわふわと昇る湯気を見ながら、音羽は何気なく呟いた。
ビアンキが側にいれば京子やハルたちはきっと大丈夫だと、ほぼ無条件に思えてしまう。ビアンキは母性と愛の塊だ。
「まあ、あなたたちの面倒は十年見てきてるから、もう慣れているのよ。でも、音羽も随分頼もしくなったわ。さっきも、敢えて京子たちには何も聞かなかったんでしょう?」
ビアンキが小首を傾げて、こちらを覗き込む。音羽の心を見通すことが出来るのは、雲雀だけではないのかもしれない。
微笑み返すと、ビアンキは苦笑した。
「相変わらず優しいのね。……だから私は、あなたのことも気になるのよ」
「私の?」
少しだけ声のトーンを落としたビアンキに、音羽は目を丸くする。
「そう。あなたは昔から、一人で抱え込みがちだから。……ねぇ、音羽。雲雀恭弥と、何かあったんじゃない?」
「!」
音羽は丸くしていた目を、更に見開いた。彼の話をしたあと、皆と笑い合っていたとき――胸が不安に覆われたあの瞬間を、見抜かれてしまったのだろうか。
「私の気のせいならいいのよ。ただ……彼の話をしたあと少し表情が曇っていたから……。何か、気になることでもあったの?」
「……」
問われて、真っ先に頭をもたげたのは“あの疑念”だ。
雲雀や――この時代の獄寺が、もしかしたらツナたちのタイムトラベルに関わっているかもしれないこと。そして……。
「詮索するつもりはないのよ。言いたくなかったら、言わなくてもいい。でも、もし誰かに話すことで気が楽になるのなら、私にいつでも言いなさい」
彼女が自分を心配してくれているのが、声から、空気から感じられる。
――でも、やっぱり確証がないこの状態で、適当なことは言えない。
迂闊なことを言えば、ただただビアンキやツナたちに混乱の種をまき散らすだけになるし、第一雲雀が胸に秘めていることなら音羽の口からそれを漏らすなんて、絶対にあってはならない。
音羽はもやもやと浮かんでいるそれを追い払うように首を振り、ビアンキに微笑みかけた。
「ビアンキさん、ありがとうございます。でも、大したことじゃないから――!」
そのとき、タイミングよく食堂の扉が開いた。
驚いて振り向けば、走って来たのか肩を上下させている京子とハル、それからイーピンが立っている。
さっきと様子の違う二人とイーピンに、何だか胸騒ぎがした。
「どうかしたの? そんなに慌てて……」
「ビアンキさん、音羽ちゃん! ここにランボ君来なかった?」
ビアンキも不思議そうに尋ねると、京子が焦ったように口を開く。音羽は十年前のランボの姿を思い出しながら、首を横に振った。
「ランボ君? 来てないよ」
「! どこ行っちゃったんだろう……! いつもご飯の用意を始めると、すぐ側に来るんだけど、今日はどこにも見当たらなくて……」
「イーピンちゃんも、見てないそうです……」
京子とハルの言葉に、イーピンも大きく頷いている。
「そういえばおかしいわね、ケーキを焼いていたのにランボが一度もキッチンに来ないなんて……。……もう一度、皆で手分けしてアジトを探してみましょう」
「「「はい!」」」
ビアンキのその掛け声で音羽も立ち上がり、急遽ランボの捜索が始まったのだった。
◇
それからしばらく音羽たちはアジトの中を駆け回り、ランボの姿を探していた。けれど、どこを探してもランボは見つからなくてお手上げ状態。
それでも念のため、音羽とビアンキがもう一度彼の行きそうな場所を探しているあいだ、京子、ハル、イーピンは、そろそろ特訓を切り上げるであろうツナとリボーンに、事態を報告しに行ってくれたのだった。
「――あ、ビアンキさん、音羽ちゃん!」
戻って来た京子たちが、廊下の向こうから走って来ながらこちらに手を振ってくれた。三人は急いでくれたのか、音羽たちの目の前で止まって息を切らしている。
「ツナへの報告ありがとう。どうだった?」
「はい、それが何だか大変なことになってて……」
「ランボ君、外に出かけるフゥ太君の後に続いて、アジトの外に出ちゃったみたいなの……。それで……敵に捕まったって、商店街にいたフゥ太くんから連絡が……」
「! ランボが捕まった……!?」
「!」
ビアンキも音羽も、驚きを隠せなかった。これは最悪の事態だ。幼いランボにはミルフィオーレの手から逃れる術もないだろうし、そんなランボは彼らにとってこれ以上ない人質だろう。
「マズいわね……。それで、ツナはどうするって?」
「これから、外にいるフゥ太さんと合流して、ランボちゃんを探しに行くそうです」
「私たちは、アジトで待ってて欲しいって……」
京子たちは胸元でぎゅっと両手を握り、不安そうに俯いた。京子もハルも、一度この時代の外の世界に出ているので、その恐怖は身に染みているのだろう。
不安そうな三人も心配だが、敵に捕まったランボも一刻も早く助けなければならない。
「そう……。……大丈夫よ、ツナが行ってくれるのなら心配いらないわ。私たちは、ここで帰りを待ってましょう」
「はい……」
「……」
ビアンキが安心させるように宥めて、三人とも小さく頷いた。
確かに、ツナが行ってくれているのなら……きっと大丈夫だと思う。でも、ランボを探す人手は多い方がいいはずだ。時間が経てば経つほど、ランボの身は危険になる。
ビアンキは、京子たちの側にいた方がいいだろう。それなら、今ここで動けるのは音羽しかいない。
「……私も……! 恭弥さんにも伝えて、ランボ君を探してくる……!」
「あっ、音羽ちゃん……!」
「大丈夫! きっとランボ君と一緒に帰ってくるから、心配しないで……!」
引き留めるように声を掛けてくれた京子に答え、音羽は急いで踵を返した。エレベーターに乗って向かうのは、地下五階。雲雀のアジトに繋がる通路を、音羽は全速力で駆けて行った。
→postilla