60話 夢の通い路

 ――目の前の景色は、ひどくぼんやりして霞がかっていた。辺りに立体的なものは何もなくて、ただ虚ろな白い世界が、どこまでもどこまでも続いている。
 空と地上の境界線すら曖昧になったその場所に、音羽はぽつんと立っていた。

 ――ここ、どこだろう? イタリア? ドイツ? 日本……?
 
 ……ああ、そうだ、並盛だ。久しぶりに帰って来た、雲雀の大好きな並盛町。

 そう気が付いた途端、真っ白だった周囲の景色が急速に色付いた。

 辺りには生き生きとした緑の草木が生い茂り、頭上にはからりと晴れた青空が広がっている。吹き付ける優しい風に導かれて振り返ると、すぐそこには並盛神社の境内があった。

 昔と変わらず静かに佇むその神社は、音羽の心を少しだけ落ち着かせてくれた。けれど胸の深い所では、風にそよぐ木の葉のように、まだ何かがザワザワとさざめいている。

 どこからともなく湧いてくるその不安を抑えようと、思わず両手の拳を握ったときだ。

 キィイン――! と金属を打ち付け合うようなけたたましい音が、空間を切り裂いて鳴り響いた。瞬間、音羽は思わず駆け出した。

 神社の脇の茂みに飛び入ると、あれだけ晴れていたはずなのに木々の間がまたぼんやりと霞がかる。
 霧が立ち込めたように白くなった視界。その中に目を凝らすと、やっぱり雲雀がいた。

 彼はトンファーを構え、振るい、何かと戦っている。相手の姿は白くぼやけて見えないけれど、きっと途方もなく大きなものだ。

『恭弥さん!』

 堪らず声を上げたが、雲雀がこちらを振り返ることはない。彼は目の前の獲物を狩ることに集中し、涼やかな鋭い眼差しを敵の方に向けている。

 そんな彼をハラハラしながら見守っているうちに、雲雀は敵を追って駆け出してしまった。音羽も慌ててその背中を追いかける。
 
 でも、雲雀との距離は縮まらない。必死に手足を動かしているのに身体は思うように前へ進まず、彼はどんどん先へ先へと行ってしまう。

『待って、恭弥さん……!』

 雲雀の姿が霞の中に消える直前、音羽は叫んだ。
 もう、彼の姿はどこにも見えない。切ない響きだけが林の中にこだまする。

 取り残された音羽は、その場に立ち尽くして動けなくなった。喪失感が、寂しさが、不安が、胸から静かに溶け出して両足に絡み付き、音羽をきつく地面に縛り付ける。
 
 彼に追いつくことはもう出来ない。雲雀は音羽を置いて、遠い所へ行ってしまった。
 突きつけられたその事実だけが胸に刺さって、目の奥がじんと痛んだ――。





 並盛に来て二度目に迎えた朝。
 音羽は朝食の後片付けをしたあと、雲雀のアジトにある台所でクッキーを焼いていた。今日はボンゴレアジトにいる京子たちに会いに行くので、その手土産を作っているのだ。

 ――京子ちゃんやハルちゃんに会うのも久しぶりだけど……。今日会うのは、十年前の二人なんだよね。

 音羽は型抜きした生地をクッキングシートに載せながら、昨日のことを思い出した。

 昨日――十年前のツナたちと合流した翌日、音羽は数年ぶりにビアンキとゆっくり話すことが出来た。
 というのも、その日の午後、十年前の世界から来たハルが、風邪を引いたイーピンを病院に連れて行くためアジトを抜け出し、それをビアンキが助けに行く……という出来事があって、音羽はそのとき怪我をしたビアンキの治療をするため、ボンゴレアジトに行ったのだ。

 するとビアンキは、『京子とハルの話し相手になってくれないかしら?』と、音羽に声を掛けてくれた。二人はまだこちらの世界に来て日が浅く、不安も沢山抱えている。だから、ずっと仲良くしていた音羽と話せば気分転換にもなるだろうから、と。

 それを聞いた音羽は二つ返事で了承し(もちろんあとで雲雀に許可を取って)、今に至るというわけだ。

 楽しみなような、緊張するような、不安なような……。一言では説明できない感情を覚えながら、音羽は作業を進めていく。
 クッキングシートを載せた天板を予熱したオーブンに入れて、時間をセットして。あとは、焼き上がるのを待つだけだ。

 その間に、後片付けをしよう。
 ――そう思ったけれど、音羽はオーブンの前から動けなかった。中に灯るオレンジ色の灯りをぼんやり見つめ、今朝見た夢のことを思い出す。

 それはとても変で、そして寂しい夢だった。雲雀が、どこか遠い所へ行ってしまう夢。
 ぼうっとして曖昧な部分もあるけれど、遠ざかっていく雲雀の背中を見て、とても悲しくなったことを覚えている。

 あんな夢を見てしまったのは――ここに来たあの日からずっと、同じことを考えているせいかもしれない。
 ……いや、きっとそうだ。自分でも本当は何となく分かっている。
 
 だってずっと、何度目を逸らそうとしても頭から締め出そうとしても、結局胸の底に引っかかっているのだから。

「……」

 音羽はようやく動く気になって、流し台の前に戻った。使った調理器具を水に浸け、スポンジで丁寧に洗っていく。ホテル生活が長かったから、まだ洗い物をするのは久々な感じがするけれど、それでも身体はきちんと工程を覚えていた。

 だから作業は感覚に任せてしまい、頭の中では別のことを考える。今朝見た夢の理由、音羽の気掛かり、そして、雲雀の抱えていることについて。


 ――並盛に来たあの日。

『彼等は過去から来たのさ。僕は愚かじゃないから、入れ替わったりはしないけどね』

 雲雀は対峙したγに向かって、確かにはっきりそう言った。

 あのときは雲雀と獄寺たちが心配で、その言葉の意味を深く考える余裕なんてなかったけれど。あの晩、一人になってよくよく思えば不思議だった。

 音羽も草壁も、近くに行くまでは獄寺と山本が十年前の姿になっていることに確信を持てなかったのだ。しかも、どうしてその姿になっているのか見当もつかなくて、ただただそのときは困惑していた。

 けれど、雲雀は――。
 獄寺たちが過去から来たと、どうしてか遠目ですぐ分かってしまったようだった。

 それに、ツナたちから話を聞く前に、彼は“入れ替わり”と言ったのだ。それはまるで、十年後の自分と五分間だけ“入れ替わる”ことが出来る十年バズーカの存在を、あらかじめ示唆していたようにも思えてしまって。

 その些細な口ぶりから、ある疑念が生まれてしまった。

 
 ツナたちが十年前の世界からタイムトラベルしてくることを、雲雀は最初から知っていたのでないだろうか――、と。


 もちろんそう思ってすぐ、そんなことあるわけないと思った。
 いくら雲雀でも、そんな未来を見通せる予言者のようなことが出来るはずないし、それに雲雀は元々頭が切れる。勘だって人並外れて良すぎるくらいで、彼は当然十年バズーカの存在も知っていた。
 だから、辺りの状況を一目見て判断した何気ない言葉だったのかもしれない。

 自分の思い違い、考えすぎた。音羽はそう結論付けた。

 ……でも……。
 そう思い切れない自分もいる。

 イタリアにいる頃、雲雀は音羽を連れずよくボンゴレの本部に行っていたし、そのたびに何か重要な案件を抱えているような、秘密にしていることがあるような、そんな雰囲気を漂わせていた。

 それが、今回のことと何か関係があるんじゃないか……。そんな不安が拭い切れない。そしてそんな音羽にさらに追い打ちをかけたのが、草壁からの報告だった。


『――それから、先ほどのボンゴレとの会議で聞いたことなのですが……沢田氏側は、どうやら過去に戻る方法の手掛かりを、もう見つけてあるそうです。この時代の獄寺氏が残した手紙に、その方法が書かれていたと』

『手紙には、“守護者は集合。ボンゴレリングにて白蘭を退け、写真の眼鏡の男を消すべし。全ては元に戻る”、と書かれていたそうです。ですがここには、本来この時代には存在しないもの……ボンゴレリングが出てきます』

『沢田氏らは、その手紙が過去からボンゴレリングと共に来た、彼等自身に向けて書かれたものだと思っています。つまり、その手紙の内容を信じるならば、この時代の白蘭を退け、眼鏡の男――入江正一を消せば、彼等は元の時代に帰れる、ということです』


 その話を、雲雀は我関せずといった様子で聞いていた。
 けれど、音羽は考えれば考えるほど、複雑に縺れ合った糸の中に取り込まれていくようだった。

 もし獄寺の書いたその手紙が、ツナたちの読み通りの意味で書かれたものだとしたら……。
 獄寺は、過去からボンゴレリングがくると知っていたことになる。

 そして、雲雀も。
 彼も音羽の疑念通り、十年前のツナたちが過去から来ると知っていたら……?

 ボンゴレの守護者二人が、揃ってそんな突拍子もないことを事前に知っていたかもしれないなんて……。どう考えてもおかしいし、そんな偶然が重なるとも思えない。
 
 ならば、このタイムトラベルは、雲雀と獄寺たちの間で密かに計画されていたこと……なのだろうか?
 他の可能性も考えられるが、そう考えるのが自然だと思う。

 それに、雲雀が音羽を本部に連れて行かなかったのも、他の守護者とその件について話すためだとしたら、説明がついてしまう。

 ――けれど、そこまでの仮定が全て真実だったとしても、分からないことだらけだった。

 誰が、どうやってツナたちを過去から呼び寄せたのか。そもそも、五分経ってもツナたちが戻らないようにするなんて、本当に可能なのか。なぜ雲雀たちは、こんなことを計画したのか。
 どれだけ考えても答えは出ない。

 ただこれが全て真実ならば、雲雀は音羽が思っていた以上に大きなものを抱えている。それだけは間違いないだろう。
 本部に音羽を連れて行かなかったのも、きっとそんな大きな事態に音羽を巻き込まないように、という彼の配慮だ。
 そして……。

「……守護者は集合……」

 音羽はぽつりと呟いた。
 獄寺、山本、ランボ、雲雀、音羽。たしかにツナの守護者は彼の周りに集まりつつある。けれど、それは本当に――。

「――何を作ってるんだい?」

「……ッ!! 恭弥さん!」

 背後から急に雲雀の声が聞こえて、音羽はビクッと飛び上がった。慌てて後ろを振り返れば、着流し姿の雲雀が怪訝に眉を寄せている。

「……どうしてそんなに驚いてるの」

「い、いえ、何でも……。ちょっと考え事してて……」

「考え事?」

 雲雀は間髪入れずに質問を重ねてきた。

 彼に、正直に疑問をぶつけられるはずもない。今までの思考は憶測の域を出ないし、万が一全て真実だったとしても、雲雀は敢えて自分を遠ざけてくれたのかもしれないのだ。

 彼のそんな思いやりを無下にして、簡単に踏み込んで行くことは出来ない。

「……京子ちゃんたちと何話そうかなぁって、考えてたんです。今は歳も離れてるし、何だかちょっと緊張しちゃって。話題を探しておこうかなぁと……」

 音羽はいつもより速く頭を回転させて、何とか無難な答えを見つけ出す。雲雀は訝しげにこちらを見たが、やがて納得してくれたのか鼻を鳴らした。

「……ふぅん。それでこれを?」

「はい、クッキーです。皆への手土産に」

 オーブンを見る彼に頷き、濡れた手をタオルで拭う。雲雀の側に行ってオーブンの中を覗き込むと、クッキーの表面には少しずつ焼き色が付き始めていた。

「……もしよかったら、恭弥さんもあとで食べてくださいね。いつもよりちょっと甘いかもしれませんけど、すごく甘いってわけじゃ、!」

 言いかけて、音羽はつい言葉を切った。

 ふわりと頭を撫でられる感覚。ゆっくり後ろを振り返ると、雲雀は音羽の頭に載せた手を滑らせて、髪を一束だけ指で掬う。そしてやわらかさを確かめるように、どこか愛おしげに触れたあと、それをそっと手放した。

「……恭弥さん?」

 雲雀は感情を読み取るのが難しい瞳で、こちらをじっと見つめていた。
 何も想ってないような、逆に一度に多くのことを想い過ぎているような――簡単には推し量れない感情が、そこに佇んでいる気がする。

 そしてなぜだか、彼のその青灰色の瞳の中に、今朝見たあの夢が一瞬だけ映ったような気がした。

 形のないあのときの不安が音羽の中に顔を出そうとして、けれどその前に、雲雀がやっと微かに笑ってくれる。

「……あとで君と食べるよ。だから、」

 早く帰っておいで。

「……っ!」

 雲雀に耳元で静かに囁かれ、そのまま頬に軽いキスをされた。
 反射的に心臓がドキッと跳ねて、音羽は思わず熱くなった頬を押さえる。その間に、雲雀は微笑して台所を出て行ってしまった。

 音羽はまだドキドキしている自分の心音を感じながら、側に置いてある大きな食器棚に背を凭せ掛けた。ほうっと息を吐き出して、一度気持ちも落ち着ける。

「……」

 ――恭弥さん……。表面上はずっといつもと変わらないけど、もし本当に沢田君たちのタイムトラベルに関わっているんだとしたら……どうしてあんなに冷静でいられるんだろう……。

 自分だったらそんな大きなこと、とても一人では抱えていられない。

 この時代の獄寺――タイムトラベルに関わっているかもしれない人たちが側にいたのなら、まだよかったかもしれないけれど……。

 その彼も十年前の獄寺と入れ替わっているということは、すべてを雲雀に任せた、と言っても過言ではない状況なのではないだろうか。少なくとも、連絡の取れない他の守護者の安否が分からない今は、そうだと思う。
 
 ――だとしたら、雲雀の抱える重圧はどれほどのものだろう。

 重要なことに関わりながら、それを誰にも話すことなく一人で抱え、音羽には見えない正体不明の大きな何かに、彼は今一人で立ち向かっている。

 そこに秘められた孤独と責任の重さを、音羽はとても想像できない。
 彼だからこそ耐えられるのだとしても……心配だった。

「……恭弥さん……」

 誰もいない空間で、音羽は小さく彼の名を呼んだ。当然、雲雀に聞こえるわけもない。

 けれど、せめて――。
 彼が望んだときに、この声が届くように。届けられるように。
 
 それだけの距離でいいから、ただ彼の近くにいたい。

 

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