55話 思い出
「――様!! 入江様、起きてください!!」
「わっ……!」
メローネ基地最深部の一室で、正一はドタン!! とひどい音を立ててベッドから滑り落ちた。
打ち付けた背中が痛い……。思わず顔を歪めてしまいながら、けれど一体何事かとも思って、正一はまだ重い瞼を持ち上げる。
見れば、いつも奇妙なアイマスクをしている部下の一人が、正一からはぎ取った布団を片手に佇んでいた。
「……嫌になっちゃうんだけど……。こういうの……」
何が起きたのかある程度理解して、彼女を恨めしく思いながら見上げる。平常時であれば「申し訳ありません」と答えが返ってくるのだが、彼女が続けた言葉は火急の用件を知らせるものだった。
「大変です、入江様。レーダーに新規の精製度A以上のリングが二つ。……ボンゴレリングかと」
「!! 何だって……? き、来たのか!!」
息を呑み、正一は慌てて身体を起こした。残っていた眠気は吹き飛び、すぐに頭が回転を始める。
正一は素早く制服の上着を羽織りながら、部下と共に自室を出て、コントロールルームへと急いだ。
「なんで今まで見つからなかったんだ? いきなり神社に出現なんて……」
と、真面目な顔で部下に尋ねるけれど、何となく視界がぼやけている。周りがよく見えない――と思っていたら、部下が正一の眼鏡を取って別の物をかけてくれた。途端、目の前がクリアになる。
「レーダーが故障していたそうです」
「故障……!? 自立した複数のレーダーが、同時にかい?」
視界を確かめていた正一は、大仰な仕草で彼女を振り返った。
「これが起る確率は、限りなくゼロに近いです。人為的な工作と考えるべきでしょうね」
「……! 内部の者の仕業だって言うのかい?」
「調査中です……。ただ、ブラックスペル第三部隊は、既に全員が並盛に展開しています」
「!」
ブラックスペル第三部隊――。正一の脳裏に、昨日話したγの顔が浮かぶ。
「くそっ!! あの男か!!」
声を荒げて、正一は通路の壁をドン! と叩いた。――嘘だ、本当は別に壁を叩くほど怒りが込み上げているわけではない。
寧ろ正一は、ここまで計画通りに事が運んでいることに安堵さえ覚えていた。……でも、だからこそこんな所でしくじる訳にはいかない。
「いかがなさいますか?」
「……」
幸いにも、直属の部下である彼女の目を欺くことは出来たようだ。普段通りの声音で尋ねながら、彼女はこちらの様子を窺うように覗き込んでくる。
けれど、そのことにほっとしたのも束の間。これは、ただの序章に過ぎないことを思い出した。正一が欺く人の数、成し遂げなければいけない計画は、これから増していくばかりだ。
そう思うと、繊細な腹部がシクシクと痛みを訴え始めた。立っていられず、今度は演技でも何でもなくズルズルと近くの壁伝いにしゃがみ込む。
「大丈夫ですか……?」少し気遣わしげに尋ねてくる部下を一瞥し、正一は言葉を絞り出した。
「っ……白蘭さんに連絡しなきゃ……、つぅ、お腹が……痛い……」
欺く最大の相手が“彼”でなければ、自分の心労も少しはマシだっただろうか? ……そんな不毛な考えで腹の痛みと憂鬱とを誤魔化しながら、正一は視線を床に落とす。
――ついに始まったんだ……7³ポリシーが……。
◇
「――着きましたね」
草壁の言葉に、音羽たち三人は立ち止まって眼前を見据えた。
ここは、並盛神社の丁度裏手。敵の様子を窺いつつ進んだので、ここに来るまでに戦闘はなかったものの、迂回しながら歪な道順を辿ったために神社の裏側に到着したのだ。
鳥居のある表方面には敵の反応があるので、音羽たちはここから境内の方まで行くことになるのだけれど……。
「…………」
音羽は前方をじっと見て、固まっていた。
並盛神社は少し小高い所に建っているので、音羽たちは目の前にあるこの小さな山のような傾斜を登らなければならない。
登ること自体は別に構わないのだ、少し高さのあるヒールを履いているけれど、小さな山くらいは登れるはずだし。
獣道さえ無さそうな、背の高い草が青々と生い茂った所を通ることになりそうなのも、きっと歩けないほどではないはずなので、大丈夫だと思う。
……問題なのは、その小さな山の斜面と音羽たちの立っている道の間には、とても高いフェンスがあるということ。
土砂が道まで落ちないよう、また神社の裏側からの侵入がないようにと設けられたそれは、音羽の身長の二倍以上ある。――ここを越すことだけは、音羽の努力ではどうにもならない。
フェンスに掻き付いて登ってみる? とも思ったが、音羽の身体能力では上まで辿り着けないような気がするし、何処かに抜け道はないかと辺りを見てみても、音羽が通れそうな場所はどこにもない。
……となると、雲雀かもしくは草壁、或いはその両者の力を借りて、音羽はここを越えなければならないのだが――生憎、今日はフレアスカートを履いている。
色々気にすると、雲雀に下で抱えてもらって、上から草壁に引き上げてもらうのがベストなのかもしれないけれど……そうすると雲雀に見えてしまうのは必然だ。その方が、彼等が逆になるよりは断然マシ……だと思う。雲雀もきっと怒らない……。
しかしそれはどうにも恥ずかしすぎるし、かといって雲雀か草壁に膝をつかせて、その背中に乗らせてもらい、上からどちらかに引き上げてもらう――というのも、申し訳なさすぎて気が引ける。
――ああ……こんなことなら、今日はスカートなんて履いて来るんじゃなかった……。
音羽は今朝、何も考えず服を選んだ自分に激しく後悔した。あちこち飛び回る生活をしていたから、もちろん手持ちの服は少ないけれど、それでもパンツだってちゃんと持っていたのに……。
唇を噛みしめて一人悶々としていると、隣にいた雲雀がこちらを覗き込んできた。……まるで、何か面白いものでも見るみたいに。
「随分楽しそうだね、音羽。一人で百面相かい?」
音羽の表情を見れば、楽しそうでないことは一目瞭然。きっと彼なら音羽の考えていることなんて、いつものように見通しているはずなのに。
わざとそう言って自分を揶揄ってくる雲雀に、音羽はムッとしながら唇を尖らせる。
「……全然楽しくないです。……というか寧ろ、恭弥さんの方が楽しそうですよね」
「まあね。君の困っている顔を見るのはすごく楽しいよ」
悪びれもせずに言う雲雀は、にやりと口の端を吊り上げた。音羽は小さく溜息をつく。
「……もう……楽しんでないで、助けてください……」
と言いつつも、きっと下から彼に持ち上げてもらうプランで、このフェンスを乗り越えることになるんだろうな……と、音羽は俯いて腹を括り始めた。――はぁ……出来ることなら、服を選んだあの瞬間に戻りたい……。
なんて、未練たっぷりに思っていたら。
「別に、そう悩む必要もないさ。――こうすればいい」
「? ――っ、えっ!? ちょ、っ……きょ、恭弥さん!!?」
事もなげに言う雲雀の声が聞こえた刹那、音羽の身体がふわりと浮いた。突然の浮遊感に悲鳴じみた声が出たときにはもう、音羽は雲雀に横抱きに抱えられてしまっていたのだ。
「このまま運べば気にならないだろ」
「えっ!? このま……っいや、あの……! それはそうですけど、でもっ……!」
まだ状況に心が追い付いていないのに、雲雀は涼しい顔でつかつか前に進んでいく。あたふたと言葉を返しても、彼の足は止まらない。
たしかに、雲雀に下着を見られるような恥ずかしさはないものの、これはこれで恥ずかしい。それに、この状態でこの高さのフェンスを飛び越えていくなんて……。
彼の身体能力なら余裕なのかもしれないが、凡人の音羽からしてみればちょっとした――いや、普通にアトラクションのようにも思えて恐怖心が湧いてくる。
恥ずかしいのと怖いのとで、音羽は反射的に雲雀の腕から逃れようと身を捩り、「あの」とか「でも」とか「待って」とか、意味のない言葉をぽろぽろと口から零した。
そんな混乱状態の音羽を見て、雲雀はそれまでより柔らかい笑みを、ふと。その薄い唇にそっと浮かべる。
「落とさないから、静かにしてなよ」
「っ……!」
雲雀の細められた切れ長の瞳と目が合った瞬間、音羽の胸がドキッと跳ねた。彼の自信に満ちた声と、自分を抱く腕の力強さに、心臓を鷲掴みにされてしまう。
そのまま引き寄せられるように、音羽は雲雀にぎゅっとしがみついていた。
上から、雲雀が微かに笑う声がする。ああ、今日もまた彼の思い通りになってしまったな、なんて思っているうちに、雲雀が駆け出した。
彼は助走をつけると、タン! と勢いよく地面を蹴る。
「――!!」
再び、さっきより強い浮遊感。音羽は恐怖から逃れるべく、雲雀にかきついてぎゅっと強く目を閉じた。
それから何度か身体が揺れて、でも雲雀の言った通り音羽が放り出されることはなかった。
やがてサク、と雲雀が草を踏む音がして身体が幾分か安定し、おずおずと目を開けてみる。
見れば、先程フェンス越しに見ていた景色の中に、二人とも無事な姿でいた。音羽は心からほっとして胸を撫で下ろし、程近い距離にある雲雀の顔に視線を移す。
「……っ恭弥さん、あの……ありがとうございました……」
お礼を言うと、いつもと変わらない余裕を湛えた雲雀にまた微笑を向けられる。何だか、さっきまで慌てふためいていた自分が、今更ながら恥ずかしい……。
頬に熱が集まるのを感じて、音羽は俯いた。……けれど。
「……?」
雲雀が、音羽を地面に下ろす気配がない。もうフェンスは超えたのに。音羽は首を傾げて、もう一度雲雀を見上げた。
「……あの、恭弥さん。もう大丈夫です、ここからは自分で歩けるので、下ろしてください……」
控えめにそうお願いしてみれば、雲雀は音羽から前方へと視線を移し、その言葉を無視してずんずんと小山を登り始める。
「きょ、恭弥さん……! あの、本当にもう大丈夫ですから……! それに、草壁さんがまだ来てません……!」
音羽は彼の挙動に困惑しながら、雲雀の背中越しに後方を覗き見た。まだフェンスの向こう側にいる草壁は、苦戦しながらもそこを登ろうとしている。
……あれではミルフィオーレに見つかる前に、近隣住民に通報されてしまうのでは……? と、思わなくもない。
やっぱり手伝った方が……と音羽が思っていると、雲雀は足を動かしながら淡々と。
「哲なら大丈夫さ、君より運動神経は良い。そのうち追いついて来るだろ」
「……。じゃあ――」
「下ろさないよ。ここは足場が悪いし、その靴だと君なら転び兼ねないからね」
「…………」
再度言いかけた言葉を遮られ、音羽は今度こそ口を噤んだ。
こうなった雲雀が何を言っても折れてくれないことを、音羽は充分過ぎるほど知っている。
それに――雲雀がこうして運んでくれる理由を聞いて、自分でも本当に単純過ぎると思うのだけれど、嬉しいなと、思ってしまって。
意地悪で、音羽を揶揄って遊ぶのが一つの趣味であるような雲雀だが、彼は同時に音羽のことを誰よりも大切にしてくれる。
音羽は気恥ずかしさと共に温かいものを感じ、目を伏せたまま、
「……ありがとうございます……」
と、小さな声で彼に伝えた。
◇
なだらかな斜面を登り切った雲雀は、上の平地まで来たところで音羽をそっと地面に下ろしてくれた。
斜面は緩やかな勾配ではあったものの、成人女性を抱えてここまで登るのは、男性でもかなりキツいはずだ。でもさすがと言うべきか、雲雀は息一つ乱さずに平然としていた。
音羽は雲雀にもう一度お礼を言って、それからゆっくりと辺りを見る。
「……」
――恭弥さんと初めて夏祭りの花火を見たのが、ここだったんだよね……。
境内の裏の少し開けたこの場所は、あの頃とまるで変わっていなかった。音羽は中学二年生のときに経験した夏祭りのことを思い出し、その懐かしさについ微笑む。
あのときはまだ、雲雀に片想いをしていた頃で、夏祭りのときはちょっと怖い思いもしたけれど、彼と一緒に花火を見られて物凄く嬉しかったことを覚えている。
そのあと色々あって雲雀と付き合うことになって、以降、毎年彼とここで花火を見るのが、音羽の夏の楽しみの一つになった。
でもやっぱり、初めて雲雀と見たあの花火の美しさは、あの花火大会の思い出は、音羽の中で特別だ。きっとこの先何十年経っても、忘れることはないと思う。
そんな風に、並盛にいた頃は毎年のようにここを訪れていたけれど、大人になって海外に行く機会が多くなってからは、並盛に帰ってくること自体滅多になくなってしまった。
だから、思い出深いこの場所にくるのは、本当に久しぶりのことだ。
どことなく感慨深く、少しだけ寂しいような……でも愛おしい過去の記憶をなぞっていると、不意に。ピピピ……、と聞きなれた可愛い声が頭上から降ってきて、音羽ははっと顔を上げた。
茂った木々の隙間、微かに見える青空の向こうから、いつもと何一つ変わりない姿のヒバードが、パタパタとこちらに向かって舞い降りてくる。
「! ヒバード……! 良かった……っ!」
「オトハ、オトハ!」
その無事な姿に心底ほっとして、音羽は上へと手を伸ばした。ヒバードは音羽の名前を呼びながら手の平にちょこんと乗ると、指先にすりすりと小さな身体を寄せてくれる。
「ふふっ、可愛い……。無事でいてくれてありがとう……」
音羽が頬を緩めていると、ヒバードはぴょんと向きを変え、今度は雲雀の方に飛んで行った。
「ヒバリ、ヒバリ!」
いつものように自分の肩に留まったヒバードを見て、雲雀も優しい微笑を浮かべている。彼はヒバードを一撫ですると、再び前方へと視線を向けた。
「……久しぶりだな……並盛」
ぽつりと呟いた雲雀の視線の先には、並盛町の一角が広がっている。懐かしそうな色を宿した彼の瞳は、音羽と同じように様々な記憶や想いを辿っているようだった。
昔から雲雀は並盛をこよなく愛しているので、久しぶりの帰郷はやっぱり嬉しいのだろう。いつも音羽に向けてくれるものとは少し違う、優しい横顔をしていた。
「……懐かしいですね」
音羽は雲雀の隣に立って微笑んだあと、そっと目を伏せる。
並盛は、音羽にとっても雲雀にとっても、たくさんの思い出があるとても大切な場所だ。でも、今の音羽たちは堂々と道を歩くことさえ憚られる状況に陥っている。
長年この町を守ってきた雲雀の気持ちを想うと、胸がちくりと痛んだ。
――早く、平和な並盛に戻るといいな……。
並盛を愛する彼のためにも、それから、ツナたちが大切にしてきた人々のためにも。
――バリバリバリバリバリッ!!!
「!?」
考えていたら、突如、電流――いや、雷の鳴るような轟音が辺りに響いた。音羽が弾かれたように顔を上げると、眉を顰めた雲雀と目が合う。
「どうやらもう来ていたようだね。……行くよ、音羽」
「はい……!」
音羽は大きく頷いて、表の方へ駆け出して行く雲雀の後を追った。
境内の端まで来ると、雲雀は一旦立ち止まり、様子を窺うように建物の陰から顔を覗かせる。音羽も同じように首を伸ばしてみると、境内を挟んだ丁度反対側の茂みに人の姿があった。
黒い制服に身を包んだ金髪の男――恐らく、ミルフィオーレファミリーの男が、銀髪の男性の首を片手で鷲掴んで宙にぶら下げている。
彼等の足元には、血だらけになった黒髪の男性がぴくりとも動かず倒れ伏していた。
「……!」
余りの惨状に、音羽は思わず口を押さえて息を呑む。
彼等の立っている草地は血の赤に塗れ、黒髪の男性のみならず銀髪の男性もかなりの深手を負っているようだ。周囲にある石で造られた玉垣も形を留めないほど壊されていて、戦闘の激しさを物語っている。
「! ……?」
そうして男たちの様子を見ていた音羽は、不意に、怪我をしている男性二人に妙な既視感を覚えた。服装や雰囲気が違っているので、遠目からだとイマイチ確信が持てない。……でも、あれは――。
「……獄寺君と、山本君……?」
倒れている黒髪の男性は山本、敵に首を締め上げられているのが獄寺……に見えたのだ。何かが違うような気もするけれど、そうかもしれないと思えば、段々彼等にしか見えなくなってきて。さあっと血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「っ、恭弥さん、あの人たち……もしかして……!」
小声で言いながら雲雀を見上げるが、彼はまだ黙して目の前の事態を見据えている。その瞳には何に対するものであろうか、じわりと怒りが滲んでいた。
「――!! あれは、電光のγ……! それにあれは……獄寺氏と山本氏、でしょうか……? ですが……、」
「! あの人が、電光のγ……? ――!」
後ろから聞こえた声は、何とかここまで来られたらしい草壁のものだった。怪訝そうな彼の顔を確かめたあと、音羽はその言葉にハッとして前方に視線を戻す。
目の前の敵が、本当に話に聞いていたγで、負傷している二人がもし獄寺と山本だったなら――。
――どうしよう!! 早く助けなきゃ、二人とも……!
死んでしまうかもしれない、そう思ったら身体がじり、と動いてしまった。けれどその瞬間に、がしっと雲雀に腕を掴まれる。
「!」
「僕が行く。君は様子を見て、あの二人を治療して。……哲」
「はい、音羽さんのことは任せてください。……音羽さん、我々はあちらに」
草壁に導かれ、音羽はぎゅっと手を握りしめた。
戦えない自分が、戦力になれない自分がもどかしい。雲雀の身だって心配だ。自分にもっと力があれば、彼を一人戦いに送り出すことなく、皆を守れたかもしれない。
けれど、今は自分に出来ることをしなければ……。並盛に来る前に、そう決めたんだ。
音羽は胸の中で繰り返し、雲雀を見上げてしっかりと彼に頷く。
「……はい。恭弥さん、気を付けて……」
音羽の眼差しを確かめるように見つめたあと、雲雀はこくりと頷いて踵を返した。
◇
「――吐け。なぜ十代目が生きている? それからお前らの付けているそのリング……どういう冗談だ? そろそろ吐かねーと、取り返しがつかねーぞ」
電光のγは、十年前の獄寺隼人の首を絞めながら詰問していた。余程酷く傷め付けられたのか、獄寺隼人の腕から指先にかけて、絶え間なく血が滴り落ちている。血の濃い臭いがここまで届いてくるようで、とても不快だ。
雲雀は静かに歩みを進めた。敵はまだこちらの気配に気付いていない。獄寺隼人は“屈しない”という意思表示のために、血の混じった唾をγの顔に吐きかけている。
「……なるほど、そうかい」
γは苛立たしげに言うと獄寺隼人の身体を宙に放り出し、ビリヤードに使うキュースティックで、間髪入れずに彼を殴り飛ばした。バキッ!! と骨の折れる音が響き、獄寺隼人が血を吐きながら地面に倒れる。
「…………」
いよいよ苛立ちが増してきて、雲雀はきつく眉を寄せた。
神社の土も石畳も鈍く赤黒い血で汚れ、玉垣は壊れて四方に飛び散っている。鼻に纏わりつく鉄くさい臭いも、ガチャガチャと喧しい騒音も気に入らない。
γとの戦闘場所として、並盛神社を選んだのは雲雀だ。並盛への被害を最小限にできること、戦闘できるほどの広さがある点。そして、雲雀のアジトへの入り口があることからここを選んだ。
だが、ここは雲雀にとって思い出深い場所でもある。さっき音羽が温かく微笑んでいたように、雲雀もあの夜のことを思い出していた。だから、あまりにも無遠慮にここを汚されるのは腹が立つのだ。
それに、仕方がないとはいえ彼らに手を貸す結果になってしまうことも、それを選ぶしかない自分にも――。沸々と、静かな怒りが沸いてくる。
「――あばよ」
「……」
γが呟きながら、二匹の狐型匣兵器を操る。その電流で、彼が獄寺隼人と山本武にトドメを刺そうとした瞬間――。
雲雀は素早くリングを嵌めて、匣を開匣した。
飛び出した雲ハリネズミが、勢いよくγ目掛けて襲いかかる。が、向こうも流石に雲雀の殺気に気が付いた。
「!!」
γは既の所で雷狐にガードさせ、雷と雲、二つの炎をそれぞれ纏った匣兵器が正面から衝突する。
ドゴオォォ!! と大きな爆発音と共に土煙が舞い上がり、その中からゆらりと一つの影が出てきた。さあ、どうやって咬み殺そうか――、雲雀は一歩前に踏み出した。
「君の知りたいことのヒントをあげよう。彼等は、過去から来たのさ」
「!」
「僕は愚かじゃないから――入れ替わったりはしないけどね」
雲雀の声に、γがこちらを振り返る。雲雀は持っていた空の匣を少し傾け、雲ハリネズミを匣に戻した。
「……何やらあんた、詳しそうだな……。だが、ドンパチに混ぜて欲しけりゃ名乗るのがスジってもんだぜ」
γは警戒心を露わにして言いながら、訝しげな瞳でこちらを見ている。雲雀はゆっくりと顔を上げ、匣からγへと視線を移した。
「その必要はないよ。僕は今、機嫌が悪いんだ……」
雲雀は低い声で、確かな殺意を抱いた瞳で、男を鋭く射抜く。
「君はここで……咬み殺す」