53話 願い

「…………」

 研究所を出たあと、雲雀は音羽の手を引きながら、停めていた車の方に向かって黙々と歩いていた。

 最後まで、あの男を咬み殺せなかったことだけが悔やまれる。

 音羽への馴れ馴れしさ、こちらの神経を逆撫でするような軽薄な態度。どれを取っても、彼を咬み殺す理由には充分過ぎる。

 だが、それでも実行に移さなかったのは、やはり彼しか音羽の匣を作ることは出来ないだろうと思ったからだ。……認めたくはないが。

 雲雀は小さく溜息をついて、前を見据えた。


 雲雀が感情のままケーニッヒに暴力的制裁を下さなかったのには、もう一つ理由があった。それは、彼の“契約違反”を未然に防ぐためだ。

 ケーニッヒは、研究課程で収集した音羽のデータを大量かつ詳細に持っている。
 もし、“全てが済む前”に雲雀から手を出して敵意を持たれ、ケーニッヒが報復として音羽の情報をミルフィオーレにでも売ったとしたら――今後のスケジュールに支障が出るのは必須だ。

 もちろん契約時にはその点も踏まえて金を積んでいる訳だが、あの男も裏社会に生きる人間。数日関わっただけの、しかも金で繋がる人間を容易く信じられるほど、雲雀はお人好しではない。

 だから、既に万が一の場合の対策をしているとは言え、今は余計な面倒を作っておくべきではなかった。


 ……けれどそんな警戒をしていても、彼が音羽の情報を売る可能性はほぼないだろうと雲雀は見ている。あの男は生粋の研究者で、研究に飢えている節があるからだ。

 あの男にとって音羽は、所謂“好奇心を満たしてくれる宝箱”のようなものだろう。せっかく見つけた、未知の詰まった新しい研究対象を、欲深いあの男がこんなに早く他人に譲り渡せるはずがない。

 だから恐らく、雲雀の小さな懸念はただの杞憂だ。それが証明できた頃――“全てが終わったあと”に、もしまたあの男に会う機会があったなら、そのときは今度こそ心置きなく彼を咬み殺せばいい。
 
 ――出来れば、もう二度と会いたくはないけどね。

 雲雀はそう思いながら不快な彼の顔を頭の中から追い払い、眉間に刻んでいた皺を緩めた。
 

 やがて前方に黒塗りの車が見えてきて、雲雀はポケットから鍵を取り出し、車のロックを解除した。

 音羽の手を放してやれば、彼女はこちらをちらと見上げてから助手席側に回り込む。
 二人はそれぞれドアを開けて車に乗り込み、シートベルトを締めた。


「……あの、恭弥さん。聞いてもいいですか……?」

 ふと、俯いていた音羽が顔を上げて尋ねるので、雲雀も彼女を振り返った。

 音羽は雲雀の機嫌があまり良くないことを感じ取っているのだろう、こちらの様子を窺うような目で見上げてくる。

「……何?」

 キーを回してエンジンを付け、雲雀は静かに問い返した。不機嫌さは消えていないものの、喉からは比較的柔らかい声が出たので、音羽は安堵したらしい。彼女はほんの少し表情を緩め、雲雀の顔を覗き込んでくる。

「えっと……どうしてリング、返さなかったのかなって……。恭弥さん、絶対に受け取りたくなさそうだったのに……」

「…………」

 音羽のその問いかけに、雲雀はすぐには答えなかった。代わりにアクセルを踏んで、車を出しながら思考する。





 ケーニッヒが勝手に作り、『プレゼント』と称して音羽に贈りつけようとしていたあのリング。
 まさかあの男がそんな物まで作っていたとは、さすがに想定外だった。


 音羽の言う通り、雲雀は絶対にそれを受け取りたくなかったのだ。当然、あの男がプレゼントと称するそれを音羽に与えたくなかった、というのもある。

 だが最も大きな理由は別だ。それは、雲雀がケーニッヒにリングの製作を“敢えて”依頼しなかったのと同じ。


 雲雀は、出来るだけ“音羽”に力を与えたくなかった。その一点に尽きる。


 音羽とはもう十年近く一緒にいて、雲雀は彼女の長所も短所も性格も考え方も、ほとんど全てを理解している。だからこそ、音羽に力を与えたくないのだ。


 音羽は時折、普段の従順さからは想像がつかないほど無鉄砲に動くことがある。

 大抵は彼女自身が大切に想っている人間――雲雀は勿論のこと、(気に入らないが)中学時代から付き合いのある人間のために、音羽は自分の身を顧みず動くきらいがある。黒曜町での事件のときや、ヴァリアーとのリング争奪戦があったとき、他にも挙げればキリがない。

 音羽は何の力も持たないただの少女だったときからずっと、そういう女なのだ。それは彼女の長所でもあり、短所でもある。

 雲雀はよく知っているからこそ、音羽に力を与えたくなかった。


 人間は、力を持てば使わずにはいられない生き物だ。雲雀も彼女も、等しくそれは変わらない。

 音羽が匣を使えるようになれば、彼女は仲間の窮地を救うために更なる危険を冒すようになるだろう。
 その力は確かに彼女や彼女の大切なものを守る力になるだろうが、同時に他人を痛めつける力にもなる。そこが、雲雀と音羽の決定的な違いだ。

 力への過信が、いつか巡り巡って音羽を傷つけてしまうのではないか――。
 雲雀は、何よりそれを危惧していた。ケーニッヒにリングを作らせなかったのは、そのためだ。


 匣自体も、言ってしまえば“音羽”が使うために作らせた物ではなく、今後、十年前の世界からやってくる“彼女”のために作らせた物。

 そして、十年前の“彼女”は匣を開けるための強力な“鍵”をすでにその手に持っている。だからリングは必要ない。

 
 “彼女”が戦わなければならない場面は――今でも考えると抵抗が生まれるが――、今後必ず来てしまう。

 けれど、“音羽”は違うのだ。

 “音羽”は彼女が“眠る”そのときまで、雲雀が側にいることができる。自分の手で守り抜くことができる。

 それならば、この時代の“音羽”に、敢えて危険を冒すような手段は持たせない方がいい。自分の危惧が現実にならないように、可能性は少しでも低くしておくべきだ。
 

 そう思うからこそ、あの男が寄越したリングを突っぱねた。だが……。

 ――あのとき音羽は逡巡の末、自分の気持ちより雲雀の考えを優先して、ケーニッヒにリングを返そうとした。
 何の追究も疑いもなく、彼女は雲雀を選んだのだ。

 それは、音羽が心から自分を信頼し続けている証に他ならない。

 
 雲雀は運転しながら、ちらと隣に目をやって音羽の顔を見た。

 彼女は、沈黙して思考する雲雀に答えを急かす訳でもなく、時折澄んだ瞳をこちらに向けて、雲雀の口から何らかの言葉が発されるのを大人しく待っている。

 こういう彼女の健気さと、そして彼女への愛情が、雲雀の拒絶を中和したのは事実だった。だが、雲雀は単に絆された訳ではなくて、あの一瞬間に考えてケーニッヒに確認したうえで決めたのだ。

 あり合わせで作ったリングが一度の開匣で砕けてしまう程度のものなら、音羽が自分の力を過信して無茶することもないだろう、と。


 スケジュールには組み込まれていないことだが、雲雀は、十年間共に歩き続けてきた彼女の望みを少しだけ叶えてやりたいと思った。
 目が覚めたときに“過去”の記憶として知るのではなく、“彼女”に一番に、匣の中身を見せてやりたくなったのだ。


 雲雀はそこまで考えて、つっと静かに目を細める。

 日本に行くまでに、音羽には言おうと思っていた。くれぐれも自分の側を離れず、無茶な行動はしないようにと。


 今は音羽に伝えられる言葉よりも、伝えられない言葉の方を多く持ち過ぎているので、雲雀の想いをそのまま全て明かすことは出来ない。

 だから音羽にはそれらしい理由を伝えるつもりだが、彼女も雲雀の最近の様子には多少戸惑いを抱いているはずなので、心から納得はしないかもしれない。

 だがそうだとしても、音羽はそれを自ら明らかにしようとはしないだろう。雲雀が彼女を理解しているように、音羽もまた雲雀のことを一番に理解している。

 だから、雲雀が隠さなければならない場所に、彼女が踏み込んでくることはない。それでも彼女はただずっと雲雀の隣にいるのだ。

 それが長い月日を共にしてきた彼女の答えなのだと思えば、雲雀の引き結んでいた唇が緩く弧を描く。

 雲雀はハンドル片手に、相変わらずじっと待っている音羽の頭をぽんと撫で、伝えられる言葉を紡ぐためにゆっくりと口を開いた。







 翌日、日本――。

 “こちら”の世界に来て二日目の夜、ツナはベッドに入って布団を被りゆっくりと深呼吸した。

 十年後のこの世界に来たのはほんの昨日だというのに、状況は常に流動的で少しも待ってはくれない。昨日も今日もついて行くだけで精一杯だ。
 それなのに、考えなければならないことも、しなければならないことも沢山ある。

「……」

 ツナは昨夜と同じように、京子がくれたお守りを握りしめた。

 
 ――十年前の世界で、行方不明になったリボーンを探していた昨日、ツナはランボの十年バズーカに当たりこちらの世界にやって来た。

 ここに来たときのツナは、なぜかボンゴレのエンブレムが彫られた棺桶の中に入っていて、五分経っても元の世界に戻ることは出来ず、初めて会った十年後の獄寺――そのとき唯一頼りになるはずだった人物――も数分の内に十年前の彼と入れ替わってしまったのだ。

 それからは、こちらの世界の山本やボンゴレ門外顧問のメンバーの一人であるラル・ミルチと出会い、やっとリボーンとも無事再会することが出来たのだが……。

 こちらの世界――十年後の世界には、ツナがぼんやりと思い描いていたような、当たり前の日常はどこにもなくて。

 ただただ、信じたくない現実だけを次から次へと突き付けられた。


 十年後の世界は、マフィア最強と謳われていたボンゴレが、ミルフィオーレファミリーというマフィア組織によって壊滅させられた世界だったのだ。
 
 たくさんの知り合いが殺されて、ツナの両親も、京子もハルも。ツナの大切な人たちはみんな、命を狙われ続けている。

 そしてツナ自身も、あのリボーンでさえも、死んでしまっていた――。

 そんな荒んだ現実を一晩のうちに眼前に転がされて、すぐに受け入れられる訳がなかった。本当は今もまだ信じられないし、……信じたくない。

 
 ――でも、前に進むしかないのだと。
 今出来ることをするのが最善の方法なのだと、どこかで分かってもいるのだ。

 
 この時代で頼みの綱だった山本も、何とか無事救出することが出来た京子やハル、ランボ、イーピンも十年前の少年少女に入れ替わってしまった。

 彼女たちを危険に晒さないために、一刻も早く皆を元の安全な時代に返さなければならない。

 だからこそツナは、今自分がすべきことをすると決めたのだ。


 十年後の獄寺が所持していた、G文字の手紙。その手紙には、この時代には本来存在しないはずの物、ボンゴレリングの名前が登場した。

 つまりあの手紙は十年後の獄寺に対する指令書ではなく、十年前の世界からボンゴレリングを持ってきたツナたちに宛てて書かれた手紙だったのだ。

 手紙の内容は、「守護者を集め、ミルフィオーレ側の男、入江正一を倒せば全て元に戻る」――つまり、過去に帰れるかもしれない――というもの。

 だからツナたちは圧倒的な敵との戦力差を少しでも埋めるため、この時代の戦い方について、コロネロの元教官であるラル・ミルチに指導を仰いだ。
 リングと匣を使ったこの時代の戦い方にはまだまだ到底慣れそうもないが、努力するしか他にない。

 今日はリングに炎を灯して、ラルに言われた匣を開ける作業までは出来たけれど……明日以降、もっと厳しい修行が待っていることは想像に難くなかった。

「……」

 ツナはぎゅっ、とお守りを握って瞼を下ろした。

 どうか皆が無事、元の平和な世界に一刻も早く戻れますように、と。そう、強く祈った。







 日本の夜が更けていく、その最中。

 ケーニッヒから匣を受け取った翌日の朝に音羽と雲雀、草壁は、風紀財団の所有するジェット機に乗ってドイツから日本に向けて旅立った。既に旅程は半分以上過ぎたものの、到着までにはまだまだ時間が掛かる。

 何度かうたた寝しては起きることを繰り返し、今やすっかり目が冴えてしまった音羽は、自然と窓の外へと目を向けていた。

 少しずつ、目的の場所が近付いている。

 つい最近までは『早く日本に帰れたらいいなぁ』なんて思っていたのに、今は少しだけ緊張していた。懐かしい故郷はきっと今、音羽が知っている場所ではなくなってしまっているだろうから――。
 その現実を目の当たりにしてしまうのが、少し怖い。

 
 ミルフィオーレは、ボンゴレに関わった人間ならばマフィアだろうが一般人だろうが、無差別に命を奪う。

 現に音羽の両親もミルフィオーレにマークされていたそうだが、雲雀がこんな非常事態に備えてくれていたお陰で難を逃れた。彼はボンゴレが壊滅した時点で、風紀財団の部下を音羽の両親の警護に付けてくれていたのだ。

 だから、音羽の両親は危険な目に遭うこともなく、今は財団の安全な場所で匿ってもらっている。当面の間は、彼等に関して心配することはないだろう。

 音羽が不安がるだろうから、という配慮で、音羽は全て事後報告で草壁からその話を聞いたのだが……どれほど安心したかは言う間でもない。

 本当に、雲雀には感謝してもしきれなかった。


「…………」

 音羽はやや硬くなっていた表情を和らげて、膝の上に乗せていた手にそっと力を込める。
 手の中にある匣と指輪。雲雀が音羽にくれたものを、音羽は柔らかく、けれどしっかりと包み込んだ。

 
 『――彼のリングを受け取ったのは、こっちでリングを用意するまでの間、保険として使ってやってもいいかと思ったからさ』

 昨日、どうしてケーニッヒからリングを受け取ったのかと雲雀に尋ねたら、彼は長い沈黙の末にそう言った。


 雲雀曰く、音羽は時に危なっかしい行動に出ることがあるため、出来るだけ戦闘には関わらせたくないそうだ。

 だからリングを用意するのは、本当に必要に迫られてからを予定していたらしい。でも、たった一度の開匣で壊れてしまうリングなら、音羽も無茶のしようがないだろうし、万が一の場合はそれを使って身を守れることもあるだろう、と。

 
 ……確かに雲雀の言う通り、音羽は時々無鉄砲な行動を取ってしまうことがある。自分でも自覚はあるのだ。
 でも、大切な人――取り分け雲雀に何かあれば、どんな状況でも勝手に体が動いてしまう。昔からのどうしようもない癖だった。

 けれど、雲雀は音羽が思っている以上に、音羽のことを心配してくれている。

 彼は、この先絶対に自分の側を離れないこと。雲雀が良いと言うまでは、匣を開匣しないこと。そして、自分の身を守ることを第一に優先して行動することを、昨日音羽に約束させた。

 彼の中では、きっと音羽が匣を使うような“万が一”は、存在していないのだ。だからこそ、そんな約束をさせたのだと思う。
 それでもリングを音羽に与えてくれたのは、やはり念のための保険のようなもの……、ということだろうか?

 彼はまだ何かを自分に内緒にしていることがあるような気がしてならないけれど、彼は音羽がそれを知ることを望んでいない。それだけは明白に伝わったので、音羽も何も聞くことはなかった。


 ただ雲雀が、音羽のことを一番に考えて、守ろうとしてくれている。
 彼のその優しさが、音羽の心の中にあるほんの少しの寂しさを温かく溶かしてくれた。

 音羽は指先でそれらをなぞりながら、昨日彼と交わしたもう一つの約束を思い返す。

 雲雀は、もし新しいリングを調達するまでに匣を使う機会もなく、このリングが余ってしまったら。
 そのときは一緒に匣を開けて、“中”を見せてくれる――そう言ってくれたのだ。

 雲雀はやっぱり匣の中身を知っているらしいけれど、そのときが来るまで音羽に教えるつもりはないみたいだ。気になって焦れてしまいそうだが、そんな意地悪な約束にも従ってしまうのは相手が雲雀だから。仕方がない。

 何年経っても、きっと彼へのこの想いが変わることはないだろう。この先も、ずっと。


「……」

 音羽は唇に少しだけ笑みを載せ、それからゆっくりと顔を上げた。窓の外に視線を向ければ、自然と色んなことが浮かんできゅっと口を引き結ぶ。

 日本に戻ったら、きっとこれまで音羽が大事に想っていた人や、そこにあった大切な思い出、それから、失くしてしまったものを確かめることにもなるだろう。

 ――でも、きっとそれだけではないはずだ。

 草壁曰く、ツナが射殺されたあと、彼と一緒にいた獄寺と山本は何とか日本のアジトに逃げ延びられたそうだから……。希望がなくなったわけじゃない。

 携帯は二日前から使えなくなってしまったので、向こうに着くまで彼等の安否を確かめることは出来ないけれど、もし、本当に獄寺たちが日本にいるのなら、きっとこの状況に屈してなんてないはずだ。

 だから、出来ることは少ないかもしれないけど、今度こそ自分も皆の役に立ちたい。皆と一緒に戦いたい。

 残された希望を確かめるために、日本に帰ろう。そう強く思いながら、音羽は匣とリングを今度はぎゅっと握りしめた。すると――。

「!」

 視界の端から入り込んだ大きな手が、音羽の拳を柔らかく包み込む。はっと息をのんで振り返ると、隣の座席に座っている雲雀と目が合って、その瞳が微かに細められた。

 切れ長の青灰色に、いつもの優しい色がある。音羽の気持ちを落ち着かせるように触れてくれる温かい手に、思わず笑みを零してしまった。


 ――この先にこれまでにないほど大きなものが待ち構えていたとしても。
 きっと、彼と一緒なら超えていける。

 音羽は確信にも似た想いを抱きながら、雲雀の温かい手の上に自分の片手をそっと重ねた。


prevlistnext
clap
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -