41話 白い炎
崩壊する体育館を飛び出したあと。
音羽はベルに手首を掴まれ引っ張られながら、グラウンドに続く道を歩いていた。背後にはマーモンが浮いていて、音羽が逃げ出さないように油断なく見張っている。
ただ、今の音羽にはそんなことが出来るだけの体力など残ってはいなかった。
身体に力はほとんど入らず、ベルの腕を振りほどくことも出来ないうえに足取りさえ覚束ない。でも、だからと言って、大人しく彼等について行くのも嫌だ。
「……ベル、放して……」
掠れた声でベルに訴えると、彼は顔だけをこちらに向けてにんまり笑う。
「やーだね。放したらお前、あいつの所に行くんだろ? それにもうフラフラじゃん。自分で歩けるわけ?」
「…………」
返す言葉もない。音羽は押し黙って俯いた。
もちろん自由になったら雲雀の所に戻りたいし、本当はもう、今は少しも歩きたくない。喋るのさえ億劫で、ベルに手を引っ張られていなかったら間違いなくこの場に蹲っているだろう。
それくらい、疲労が身体全体に圧し掛かっていた。毒にうなされた直後、まだ体調も万全に整っていない状態であの力を使ったのだから、当然かもしれない。
これ以上抵抗するのも疲れてしまって、音羽は変わらずふらふらと歩きながら静かに目を伏せた。
……あのとき――。
雲雀が、本当に殺されてしまうと思ったあのとき、自然と身体の底から力が溢れてきた。
黒曜ランドや屋上で力を使ったときと同じ感覚だったけれど、それよりももっと大きくて強い力だったように思う。
音羽が咄嗟に放った光は、雲雀に憑依した骸を引き剥がしたあのときのように、マーモンの幻術の触手を解いた。それが意味するところは、音羽にもよく分からない。
ただ、それをきっかけに身体を動かせるようになって、雲雀を守りたい一心で手を伸ばしたらあの光の壁が現れたのだ。それは雲雀の命を狙っていたベルのナイフを、一本残らず弾いてくれた。
そして、その力の源は、間違いなく音羽の持つ治癒の力だ。いつもの光の温かさを、さっきも確かに感じることが出来た。
だから、確かめてみないと分からないけれど、ひょっとしたら雲雀たちの怪我も少しくらいは治っているかもしれない。
――少なくとも音羽はあのとき、ちゃんと彼を守ることが出来た。
「…………」
そう思ったら場違いな感情が胸に溢れて、つい口元が緩んでしまう。
守護者のリングは全て、ベルとマーモンにとられてしまった。これでザンザスがツナに勝って大空のリングを手に入れてしまったら、音羽は本当にヴァリアーの一員として、ボンゴレファミリーに迎え入れられることになるだろう。危惧していた事態は、目前に迫っている。
でも、音羽はあのときのことを。
雲雀があのとき言ってくれた言葉を、決して忘れていない。
『君が僕の側以外にいることはあり得ない。もし仮にそんなことがあったとしても、必ず取り戻すよ。……どんな手を使ってもね』。
抱えていた不安を初めて打ち明けたあのとき、雲雀は音羽にはっきりそう言ってくれた。ルールなんて関係ない、何があっても必ず取り戻す、と。
音羽はそう言ってくれた雲雀のことを、この手で守ることが出来たのだ。だから――。
――信じてます、雲雀さん……。
心の中で呼んだ彼の名前は、祈りのように余韻を残した。それは音羽の世界では何より強い力を持っていて、揺らぎそうになる心をそのたびに支えてくれる。
だから、音羽も諦めない。きっと雲雀がそうであるように。
◇
「――到着、……って、あり?」
「!」
ベルが不意に声を出して、音羽は我に返った。
考え事をしている間に、いつの間にかグラウンドのすぐ近くまで来ていたらしい。ベルは広々とした校庭を眺め――どこか怪訝そうな気配をその背中に漂わせている。
何かあったのだろうか? 音羽が首を傾けると、後ろにいたマーモンもベルの側にふわりと移動した。
「どうしたんだい、ベル。……!」
「? ……、」
マーモンまでもが驚いたように息を呑んだので、音羽もベルの背中から顔を覗かせる。二人の視線を辿って前方を見ると――。
「……!」
グラウンドの中央には、表面が棘のように鋭く尖った大きな氷の塊が、重々しく立っていた。その内側には驚くことに人影があって、どうやらその氷の中に誰かが囚われているようだ。
まさか、ツナが……!? 慌ててよくよく目を凝らすと――中にいたのは、なんとザンザスだった。
彼は目を剥いて、今にも辺りの全てを破壊し尽くしてしまいそうな……そんな、恐ろしい形相をしたまま動きを止めている。
一体どういうことなのか……。どうしてザンザスが氷漬けに?
思考を巡らせるけれど、こうなっている理由はまるで見当もつかない。ただ、ザンザスが戦闘不能に陥っているこの状況は、つまり。
音羽はまだ土煙の舞うグラウンドに、急いで目を走らせた。夜風が吹くと広がっていた砂塵が散って、煙の向こうに立つ“彼”の姿が露わになる。
死ぬ気の炎を額に灯した凛々しいその姿に、音羽は息を呑んで思わず声を発そうとした。が――。
「! 沢田く――んむッ!?」
ツナを呼ぼうとした刹那、突然口の中に布のようなものが入ってきて声を消された。続いて細長い布切れで口を覆われ、きゅっ、と頭の後ろで結ぶ音。――猿轡だ。音羽が、声を出せないようにするために。
布の乾いた食感が気持ち悪くて、音羽は
「んんっん!! っ――!?」
放して! 彼等に向けてそう言ったとき、ベルが掴んでいた音羽の手首を放す。と、代わりにすぐ、縄のようなバサバサした粗い感触がそこに纏わりついて、音羽の両手を後ろで縛った。
混乱しながらも、逃れようと腕を動かす。でも、マーモンのフードから伸びた縄が解けるはずもなく、逃げることは出来なかった。
「もうさっきみたいに解ける力は残ってないだろう? 君にはしばらく大人しくしてもらうよ。まだ、あいつらに姿を見せる訳にはいかないからね」
「ししし。マーモン、あんま乱暴にすんなよ」
「…………」
淡々と言ったマーモンにベルが笑って、音羽は二人を睨み付ける。特にベルなんて、どの口で言ってるんだろう。自分から音羽の手を放して、マーモンに縛らせたくせに。
……けれど、どれだけ抵抗したって、今の音羽にはどうしようもない。暴れれば暴れるほど、きっとマーモンの拘束は強くなるはずだ。これ以上身体の自由を奪われたくない。
音羽は大きく息を付いて気を落ち着けた。今は自分のことより――ツナだ。『まだ姿を見せる訳にはいかない』と言った、マーモンの言葉も気になる。
だが、マーモンが言った割に、音羽たちは今とても開けた場所にいた。距離が遠いからツナはこちらに気付いていないけれど、ずっと隠れていられるような場所は何処にもない。
何をするつもりなのか……。考えていると、周囲がぼんやりと霞んできた。
……霧だ。どうやらマーモンの幻術を使って、ここから堂々と見物するつもりらしい。
音羽は霧の向こうに見えるツナの姿に、目を凝らした。
彼は身体中傷だらけで、最初に見つけたときからずっと荒い呼吸を繰り返している。もう体力の限界なんじゃないだろうか……。人のことを言えた状況ではないけれど、心配になってしまう。
「――もう、これが溶けることはない」
「!」
ツナは言うと、自身の首に掛けていたリングの鎖を引き千切り、手に持っていたもの――恐らくザンザスの持っていたリングと合わせた。ツナの手の中には、完成した形の大空のリングがキラリと小さく輝いている。
音羽の胸に、希望が湧いた。
大空戦の勝敗条件は、全てのボンゴレリングを手に入れること。守護者のリングをベルたちにとられていても、ツナが大空のリングを持っている限り、勝敗はまだ分からない。
ツナから目を離せずいたら、後ろにいたベルが溜息をつく。
「あーあ、ボスは凍っちまうし、大空のリングはあのガキにとられてんじゃん。どうすんだよ、マーモン」
「……問題ないよ。ほとんどのリングはこっちにあるんだ、ボンゴレ十代目になるのはボスしかいないよ」
「ししっ、同感。……それにその口振りじゃ、何かあるんだ?」
「まあね。このリングの力が、ボスを助ける鍵になるのさ。……そろそろいいかもね」
「……?」
リングの力? “そろそろ”、とはどういうことだろう?
尋ねることも出来ずに考えていると、目の前にいたツナの身体がふらりと揺れた。
「ザンザス……、うぐっ……!」
「んんんっ……!!」
ツナは肩を大きく上下させて、地面に片膝をついている。声は変わらず出せなくて、音羽は身を乗り出しただけだった。
――そのとき、視界の端でマーモンが動いた気がした。
「――オーホッホッホッ!!」
「!!」
突然辺りに響いた声に、音羽は目を見開く。
この声と独特な口調はたしか……ヴァリアーの晴れの守護者、ルッスーリアのものだ。でも彼は超重傷でベッドに固定されたまま、この大空戦に参加していたはず。
不審に思いながらも声の聞こえた方を見ると、ツナの側に二つの黒い人影が迫っていた。薄っすらと広がった霧の中にいたのは――レヴィと、やはりルッスーリアだ。
「今のお前を倒すことなど、造作もない」
「今がチャンスね!!」
彼等は明らかにツナを狙って、距離を詰めている。
――どうしよう、沢田君が……!
未だ動く気配のないツナに焦る。
敵の声は聞こえているはずだけど、もう動く気力もないのかもしれない。音羽が駆け出そうとしても、手首を縛った縄に阻まれ数歩前に進むだけで終わってしまう。
「レヴィ・ボルタ! 黒焦げにしてやる!!」
「まどろっこしいわね! 死になさーい!!」
レヴィは雷戦で使っていたあの電気傘を投げて、ツナの頭上でそれを広げた。ルッスーリアは地を蹴って高く飛び上がる。帯電した傘と、鈍色に光る鋼鉄の膝がツナを襲おうとしていた。でも、ツナはまだその場を動かない。
「んん!!」
「――僕はボスの所へ行くよ。ベル、その女と大空のリングは任せたよ」
「オッケー。言われなくても、オレの姫だし」
マーモンとベルの声が後ろから聞こえたけれど、気にする余裕はなかった。身を乗り出してツナを見つめる――と、唐突に。
ツナに迫っていた二人の影が、ふっと、どこかに消えてしまった。まるで煙のように。
「幻覚……」
「!」
ツナの小さな声が聞こえて、音羽は安堵すると同時にハッとして横を見た。
マーモンの姿は既になかった。ただ、音羽の腕を縛った縄の先だけが、ベルの手にしっかりと握られている。
「よく見破ったな。でももう、這う力すら残ってないようだね」
「!」
聞こえたのはマーモンの冷ややかな声だ。慌てて前を向き直ると、いつの間に移動したのかマーモンは氷漬けにされたザンザスの前に浮いていた。マーモンは、地面に手をついたツナを見下ろしている。
「無駄だ……、ザンザスは眠りについた……。奴が目覚めることはない。もう、戦いは……終わった……」
「それはどうかな?」
「!?」
辛そうに眉間に皺を刻んだツナは、訝しげに顔を顰めた。マーモンはなおも、吐き捨てるように言葉を続ける。
「これで終わり? 冗談じゃない。寧ろこれで、ボスが次期ボンゴレの後継者になるための、儀式の準備が整ったのさ」
「……?」
「ボスは再び復活する。――この、ボンゴレリングでね」
「「!!」」
マーモンが開いた両手の中には、七つのボンゴレリングが輝いていた。
「なぜリングを半分ずつ保管するのか……。そしてなぜ、ボンゴレの正統後継者にしか授与されないのか分かるかい? それは、リング自身にも秘められた力があるからさ。ボスにかけられた九代目の零地点突破――九代目のこの氷が溶かされた床には、七つの小さな焦げ跡が残されていたという」
「!」
音羽は、マーモンの言葉に目を見開いた。
八年前、ザンザスがボンゴレ史上最大のクーデターを起こした、と九代目は言っていた。ザンザスはそのあと、永い眠りについていたのだと。
――話を聞いたあのときは分からなかったけれど、今、マーモンの言葉を聞いて合点がいった。
ツナが今ザンザスを凍らせているように、九代目もまた、同じ方法でザンザスを眠りにつかせていたのだ。『零地点突破』というのは、恐らくザンザスを氷漬けにしているあの技のことなのだろう。
ただ、そうなるとザンザスは実の父親に時を止められ、眠らされていたことになる。八年間もの眠りの中で増幅させたというザンザスの怒りと執念は、ひょっとしたらそこにも由来するものなのかもしれない。
けれど、九代目が封じたザンザスを誰が目覚めさせたのか。そして、“七つの焦げ跡”が何なのか、音羽には分からない。
「誰がやったかは定かではないが……。この形跡は、一つの仮説を立てるのに十分だ」
マーモンがそう言った瞬間。
「!」
「……!」
ボウッ、とツナの手の中にあった大空のリングが、澄んだオレンジ色の炎を発した。それと同時に、マーモンの持っていたリングにも色とりどりの炎が灯る。黄色に緑、赤に青、藍に紫――まるで、七色の虹のように。
けれど一つだけ、炎の灯らないリングがあった。あの白い石の嵌め込まれた指輪は――天のリングだ。マーモンだけが、納得したように頷いている。
「思った通りだ。天のリングは初代天の守護者以外に適合する人間がおらず、ボンゴレ本部の最深部で厳重に管理されていた。恐らくこのリングに炎を灯すことができるのは、真の適合者だけ……」
「! 適合者……」
「そうさ。君も察している通り、今このリングに炎を灯すことが出来るのは片桐音羽しかいない。だが、残っていた焦げ跡は七つだけ。――見るがいいさ」
マーモンは言うと、六色の炎を纏ったリングを氷漬けにされているザンザスの元へ運んだ。ゆらゆら揺れるその炎たちが近付くと、氷はジュウゥッと音を立てながら凄い勢いで溶けていく。
つまり七つの焦げ跡は、天のリング以外のボンゴレリング……? 誰かがリングに炎を灯して、今のようにザンザスの氷を溶かし、彼を目覚めさせたということだろうか……?
「――ししっ、油断してやんの。そろそろ行くぜ、音羽」
「!?」
呆然と目の前の光景を見ていたら、不意にベルが立ち上がった。彼に腕を掴まれて、音羽もその場に立たされる。何をするつもりなの、とベルに視線を向けたけれど、彼は何も言わないままツナのいる方へ歩いて行った。
縄で繋がっている音羽も、彼の後をついて行くしかない。幻覚で音羽たちの姿を隠しているのか、かなり距離が縮まってもツナがこちらに気付く気配はなかった。ツナの注意は、目の前のマーモンに向けられている。
「これだけではないよ。完全なるボンゴレリングが継承されしとき、リングは大いなる力を新たなるブラッド・オブ・ボンゴレに授けると言われている」
「ブラッド、オブ……ボンゴレ、に……?」
「――!!」
ツナが繰り返したそのときだ。
音羽とベルを取り巻いていた霧が突如跡形もなくサアッと晴れて、ベルがナイフを構える。あっ、と音羽が思った頃には、ナイフはツナに向かって投げられていた。
「――返してもらうぜ」
「!」
ベルのナイフの先端は、ツナが持っていた大空のリングを的確に捉え、彼の手からそれを弾いた。恐らくそのままワイヤーで手繰り寄せたのだろう、ベルは手に戻ったそのナイフの先に、炎の灯った大空のリングをくるくると躍らせて笑っている。
「ししし、これは正統後継者のリングだし」
「!! 片桐……!!」
顔を上げたツナが、ベルと、そしてその後ろで捕まっている音羽を見つけて目を見開いた。ツナはよろよろと立ち上がろうとしたけれど、やはり気力も体力も底を突いているのかドサッと地面に膝をついてしまう。
「んーー!」
音羽は抵抗して身を捻ったが、マーモンの縄は解けない。それどころか、やはり縛る力を強めてきて音羽は痛みに眉を寄せた。
「暴れんなって、姫。これが終わってイタリアに帰ったら、すぐ外してやるからさ」
「……!」
――そうだ。ベルが大空のリングを手に入れた今、全てのリングはヴァリアーの手の中にあるのだ。
そしてこれをザンザスが手にすれば、この勝負はヴァリアーの勝利となって――音羽は。
「……っ……」
身体中から血の気が引くのを感じながら、音羽は口の中の湿った布切れを噛みしめた。心の中で何度も彼の名前を呼んで、でも聞こえるはずもなくて。
ベルが縄を引っ張ると、音羽は簡単にマーモンの側まで歩かされる。
「ボンゴレリング、全部コンプ♪」
「こっちも準備出来たよ」
マーモンは合流したベルに言うと、自身の後ろを振り返った。
その視線を追ったら、氷を溶かされたザンザスの身体が崩れ落ちるように地面に落ちる所だった。顔から突っ伏したザンザスの側に、ベルとマーモンは屈み込む。音羽も必然的に同じように屈むことになった。
まじまじと近くでザンザスを見ると、彼の身体はボロボロだった。ツナも酷い怪我だけれど、ザンザスはあちこち血だらけで傷が深そうだ。肌には、古傷のような痣が広範囲に浮かんでいる。
「おかえり、ボス」
「いよいよだね」
二人がそう声を掛けると、ザンザスは非常にゆっくりとした動作でこちらに顔を向けた。ベルとマーモンを見て――それから、音羽の方に目を向ける。視線が合うと、彼は痣の浮かんだ指をぴくりと動かした。
「……」
「!」
燃えるような紅い瞳が、音羽を真っ直ぐ睨み付けている。
炎よりももっと激しい、怒りだ。地獄の業火というものが本当にあるのなら、それはきっとこんな色をしているのかもしれない――音羽は頭の隅で考える。
彼の瞳は、ぐったりとしたその身体には不釣り合いなほど、生きた暗い輝きを煌々と宿していた。
恐ろしさに、音羽は縮み上がる。背筋が凍るような錯覚さえ覚えているのに……なぜだか、目を逸らすことは出来ない。
「……来い……片桐、音羽……」
「――は、ぁ……!」
ザンザスが息を吐くような声で言った刹那、音羽の口を塞いでいた布と、両手を縛っていた縄が消えた。解放された口で思わず大きく呼吸をすると、後ろからマーモンが促してくる。
「さあ、ボスに癒しの力を使うんだ。全てのリングはボスのものになった。君はもう、ボスの命令には逆らえない」
「っ?!」
その言葉を聞いた途端、音羽の右手が勝手に動いた。これもマーモンの幻術なのか、手は前に――ザンザスの方に伸びていく。
「手が……! いや、っ……!」
引っ込めようとしているのに、音羽の右手はぶるぶると痙攣して震えるだけだった。
ヴァリアーなんて行きたくない、ザンザスの傷を癒すなんて――。そんなことをしたら、彼はきっとツナに止めを刺してしまう。
――そう頭では強く、必死に思っているのに。
音羽の右手は止まってくれない。思う通りに動いてくれない。ザンザスの手を目指して、少しずつ伸びていく。
「……ベル、リングを……よこせ……」
「しししっ、もっちろん。これはあんな亜流のニセモノじゃなくて、九代目直系のボスにこそ相応しいからね」
ザンザスに催促されたベルはナイフの先端に載った大空のリングを回し、そこに灯る炎を消した。続いてザンザスの身体を起こして仰向けに寝かせる。
マーモンは音羽に幻術をかけたまま、ザンザスのズボンに着いていたチェーンを取り出し、等間隔に付いたキューブに守護者のリングを一つずつ嵌め込んだ。一瞬、ポウッとキューブが光を帯びる。
「さあ、これは君が嵌めるんだ」
「!!」
どこか厳かにも聞こえる声でマーモンが差し出したのは、白い石の輝く天のリングだった。――これで、音羽自身の手で、終止符を打てと言っているのだ。
「っいや……!!」
言葉と意志とは裏腹に、音羽の左手はリングを受け取り、残るキューブに伸びていく。
もしこれをここに嵌めてしまったら……もう、後には戻れない。右手も、もうザンザスに触れてしまう。
――嫌だ……!! こんなこと、したくない!! 私はただ、雲雀さんの側にいたいだけ……、雲雀さんの力に、なりたいだけ……!!!
強く思いながら、思わず目を瞑った瞬間。
「――音羽!!」
「!!」
背後――随分と遠くの方から、大好きなその声が聞こえた。音羽は勢いよく後方を振り返る。
「雲雀さん……!!」
そこには、こちらに走って来る雲雀の姿があった。息を切らしているけれど、顔色はさっきより随分いい。きっと音羽の思った通り、治癒の力が効いたのだ。
「十代目!」
「片桐!」
雲雀よりもずっと向こうから声を上げて駆けて来たのは、獄寺や山本たち。雲雀や皆の無事な姿に、胸に安堵が広がって。思わず目頭が熱くなる。
でも、音羽の意識はすぐ、ベルの声に引き戻された。
ベルは大空のリングを手に取りながら彼等を見て、口の端を吊り上げる。
「しししっ。どいつもこいつも、新ボス誕生のために立会いごくろーさん」
「よそ見をしている暇はないよ。さあ、守護者としての務めを果たすんだ」
「――あっ……!!」
マーモンの声と同時に、後方に気を取られていた音羽の両手は、ぐんと勢いよく動いてしまった。
◇
しまった、と思ったときにはもう遅く、抵抗する暇もなかった。
「受け継がれしボンゴレの至宝よ。若きブラッド・オブ・ボンゴレに、大いなる力を!」
マーモンが声高に叫ぶと、音羽の右手はザンザスの手に触れて、左手は天のリングをキューブに嵌め込んでいた。
直後、キューブに白い光がポウッと灯る。それを見たベルが、ザンザスの右手の中指に大空のリングを滑らせた。
「!」
その途端、キューブに嵌め込まれていたリングたちが、まるで呼応するように色とりどりに輝き出した。晴れのリングは黄色に、雷のリングは緑色に。嵐は赤、雨は青、霧は藍、雲は紫。
そして、ザンザスの指に収まった大空のリングが、オレンジ色の光を放ったとき。
「っ……!?」
キューブに嵌め込んだ天のリングが、ボウッと真っ白な炎を灯した。
炎は白い光を放ち、やがて大空のリングから溢れ出るオレンジ色の光と混ざって、ザンザスの身体を包んでいく。
「――っ、何、これ……っ!!」
音羽ははっきりとしたその違和感に眉を顰めた。
――力が……奪われてる……!?
治癒の力を使おうとはしていないのに、音羽の身体からはどんどん力が抜けていった。感じる、確かな喪失感。
ザンザスに触れた右手と、指輪に触れている左手、その両方から普段の倍以上の力が流れ出ている。天のリングから溢れる白い炎は、音羽の力を食らって更に純度を増し、より強く眩しい光を溢れさせてオレンジの光に溶けていく。
「――これは……!」
己の指で燦然と輝くボンゴレリングを見つめ、ザンザスが俄かに驚きの声を上げた。瞬間――。
――キュオオオオオ!!!
二色の光が一本の光の柱になって、甲高い音を響かせながら空高くに伸びた。するとザンザスの身体から凄まじい暴風が巻き起こり――、彼の一番近くにいた音羽の身体が、重力に逆らって宙に浮く。
「?! っきゃああ!!」
風の勢いに乗って、音羽は後方に投げ飛ばされた。悲鳴を上げて、音羽は襲ってくる痛みを覚悟しながら、ぎゅっと両目をきつく閉じる。
段々と、身体が落下していく感覚。このまま地面に強かに身体を打ち付けて、きっと全身に衝撃が走る――はず。
「――きゃっ!! ……、っ……?」
ドン!! と何かにぶつかって、音羽の身体は停止した。
その感触は音羽が想像していた冷たい土の地面ではなく、ほんの少し柔らかい。しかも、温かかった。丁度、人肌ぐらいの温度で――音羽は、誰かに受け止めてもらったのだと理解する。
ぺたんと地面に座り込んだ状態で、音羽は恐る恐る目を開けた。
まず視界に飛び込んできたのは、黒い制服のズボン。それから、見覚えのある革靴だ。思わず、音羽は息を呑む。
「何やってるの、君」
「……!」
上から降ってきた声には、ほんの少し呆れたような色があった。聞き馴染んだその声に、音羽はおずおずと顔を上げる。
「……雲雀、さん……」
彼は、片膝をついて音羽を抱きとめてくれていた。いつもの無表情で、でも目が合うとゆっくりとそれを優しく細めてくれる。雲雀は、暴風で投げ出された音羽を助けてくれたのだ。
「っ……」
彼の顔を見た途端、目に涙が溢れてしまった。
やはりあの光が彼の傷を癒してくれたのか雲雀の顔色は元通りで、腕に巻いていた止血の布も取り払われている。
肩を抱き寄せてくれる雲雀の腕がとても温かくて、音羽は深い安心感に包まれた。涙を堪えながら俯いて、ぎゅっと彼の制服の袖を握ると、まるで「もう離さない」とでも言うように雲雀が抱きしめてくれる。
やっと、大好きな彼の元へ帰って来られた。
――でも――。
まだ、終わってはいない。
音羽は雲雀に身を寄せたまま、自分が投げ飛ばされてきた方を見た。ザンザスはリングを空に掲げ、立ち上がっている。
「力だ!!! とめどなく力が溢れてきやがる!!!」
彼は叫んで、煌々とした瞳でリングを見ていた。ザンザスが負っていた傷は天のリングが発した白い光で塞がって、未だ溢れ続けているオレンジの光が、彼に活力を与えているようだ。
光に覆われ力に溺れているザンザスの姿を、音羽は素直に怖いと思った。
あれを手にするためにここまで怒りを糧に進んで来た彼は、その力を手にした今、どこへ向かうつもりなのだろう。その先には、何かあるのだろうか。
「これがボンゴレ後継者の証!! ついに……ついに叶ったぞ!!! これでオレは、ボンゴレの十代目に――」
ザンザスが、そう声を上げた刹那――。
「!!」
彼の身体が、ここからでも分かるほどに大きくドクン! と脈打った。そして。
「があっ!!!!」
「っ!」
ザンザスは突然口や鼻から血を吐き出し、そのままバタン!! と勢いよく地面に倒れてしまったのだ。
「ボス!」
「どうしたんだ!? ボス!」
マーモンとベルが、慌ててその側に駆け寄っている。
「……どういうこと……?」
訳の分からない状況に音羽が思わず呟くと、少し離れた所で手と膝をついていたツナが愕然とした表情で言った。
「リングが……ザンザスの血を、拒んだんだ……」