33話 信頼
霧戦が終わった翌朝。昨日より少し早く起きられた音羽は、通りにいる他の並中生に混ざって学校へと向かっていた。
「ふわぁ……」
相変わらずの睡眠不足で、とうとう我慢しきれず欠伸が出てしまう。手で口を押さえた。もう四日も寝不足続きでしんどいけれど、でもそれも今日までだ。
――何て言ったって今日は雲雀さんの戦いだし……。ぼんやりしてる訳にはいかないよね。
しょぼつく目を擦り、音羽は気合いを入れ直す。……でも、学校が終わって家に帰ったら少しだけ寝ておこう……。
そんなことをぼんやり考えているうちに、並中の校門が見えてきた。生徒は次々とその中に入って行って――なぜか、ざわついている。
かと思ったら次の瞬間にはしーん……と静かになってしまって、皆心なしか早足で昇降口に向かっているようだった。
……一体どうしたんだろう?
遠巻きに見て分かるほどのその様子に、音羽は首を傾げた。風紀委員の監視の列はあるけれど、それはいつものことだし……。
不思議に思いながら音羽も校門に近付くと、何だかいつもより表情の険しい風紀委員たちが見えた。どこか顔を引き攣らせているような、緊張感がある。
「……?」
――何かあったのかな……?
考えつつ、校門を潜ったときだ。
「!!」
音羽は目を丸くした。
左右に分かれて立つ風紀委員たちの最奥、昇降口の手前に、黒い影がドンと佇んでいる。――学ランを羽織った雲雀だ。彼は両腕を組んで仁王立ちしている。
その姿に、音羽は全てを理解した。
生徒たちは皆、いつもはいないはずの雲雀の存在に気付いて怯えていたのだ。風紀委員たちは、彼の目に緊張して。
……でも、どうして雲雀がこんな所に? 朝の荷物点検、という訳でもなさそうだ。
疑問は募ったけれど、何にせよ朝から雲雀に会えたのは久しぶりのことだった。彼の姿を見ると自然と嬉しくなってしまって、音羽はほとんど反射的に駆け出してしまう。
「――雲雀さん!」
「……音羽」
「……?」
彼の前で足を止めたら、雲雀はどこか機嫌の悪そうな、ムスッとした顔でこちらを見下ろしてきた。
――あれ……? 私、何かしたっけ?
記憶を辿ってみるものの……、思い当たることは特にない。さらに首を傾けたい気になりながらも、音羽はひとまず彼がここにいる理由を聞いてみることにした。
「雲雀さん、こんな時間に、こんな所でどうしたんですか?」
「……君を待ってたに決まってるでしょ。他に何があるのさ」
「! 私を、ですか……? どうして……?」
尋ねながら、頭をフル回転させて考える。
雲雀が朝、わざわざこんな場所で自分を待つような用事……。確かに最近朝に応接室は行けていないけれど、昼休みになれば会えるはずだ。……ということは、余程緊急で大事な用事に違いない。
「……!」
――まさか……今日の勝負のこと……!? 体調が悪いとか、何かの事情で戦えなくなったとか……!?
眠気など最早吹っ飛び、音羽は慌てて雲雀を見上げた。
「っ雲雀さん! もしかして、今日のことで何かあったんですか……!?」
「……今日のこと? 僕が聞きたいのは昨日のことだよ」
「……昨日……?」
“何を言ってるんだ”とばかりに雲雀に返され、音羽は眉を寄せて俯いた。昨日、昨日……。一つずつ思い出してみる。
――いつも通り学校に行って、夜には霧戦があって。クロームちゃんが登場して……、それから……。
「あ……」
思い当たることが一つだけあった。
つい声を漏らして顔を上げれば、やっぱり機嫌の悪い雲雀の顔。――全部が繋がる。
音羽が答えに行き着いたことを察したのか、雲雀もふんと鼻を鳴らした。
「昨日、六道骸が来たって本当?」
「……!」
核心を突く雲雀に、音羽は目を丸くする。
いずれは分かることだし、骸が霧の守護者になったのは事実なのだから、雲雀に隠す必要なんてない。
……ただ、彼の話題は雲雀の機嫌がさらに悪くなってしまいそうなのだ。それだけが音羽の口を重くする。
――でも、特別な理由も、どうしてもというほどの不都合もないのに答えないなんて、出来なかった。彼に聞かれたのなら、特に。
音羽はこれ以上その話題は遠慮したい気持ちで一杯になりながらも、口を開く。
「……えっと……来ました、けど……」
「……ふうん、そう……。本当に来てたんだ」
雲雀は表情一つ変えず、瞳だけをギラリと光らせた。殺気が籠っている……。
「あの……雲雀さんは、知ってたんですか? 骸さんが来ること……」
「昨日の夜、跳ね馬に呼び出されてね。何かおかしいと思って問い詰めたのさ」
「そのときにはもう全部終わってたけどね」と、彼は気に入らなさそうに眉を顰めて言い足した。
ひょっとしたら、ディーノは骸が霧の守護者であることを事前に聞かされていたのかもしれない。骸と雲雀が鉢合わせたら本当に守護者戦どころではなくなってしまうので、雲雀を呼び出したのだろう。
……ということは、雲雀が確認したかったのは、そのこと? 骸が本当に来ていたのかどうかを確かめたかった、ということだろうか。
だとしたら、少し身構え過ぎていたかもしれない。ついほっ、と胸を撫で下ろす、と。
「――で、何されたのさ?」
「! な、何って……?」
さっきよりも強い口調で雲雀に問い詰められて、音羽は無意識で後退った。雲雀は眼差し鋭く開いた距離を詰めてくる。
「とぼけても無駄だよ、音羽。あの男が君に会って、何のちょっかいも出さない訳がない。さあ、何をされたのか言ってみなよ」
「っ……」
雲雀の目は本気だ、どうしてさっき一瞬でも安心してしまったんだろう。今にもトンファーを取り出してしまいそうな彼に、音羽は息を呑んだ。
昨日――“骸に何をされたのか”と言われると、やっぱり髪に口付けられたこと、だと思う。でも例えそれが髪であっても、雲雀が怒り狂うであろうことは目に見えていた。
雲戦だろうが何だろうが、雲雀なら黒曜ランドに骸を咬み殺しに行きかねない。
……けど! 今日だけは絶対に、そんなことはあってはならない……!
音羽は意を決して顔を上げた。
こういうのに自信は全くないが、今はそんなことを言っている場合ではない。いかに雲雀が鋭くても、悟られてはいけないのだ。音羽は精一杯平静を装ってにっこり微笑む。
「な、何もされませんでしたよ? 昨日はクロームちゃんっていう女の子が来て、勝負の途中で、よく分からないけど骸さんになったんですけど……。骸さんが勝ったらすぐクロームちゃんに戻ったので、何の接触もありませんでした」
音羽は平然とそう言い切った。
雲雀に嘘を吐くのは忍びないけれど、これは止むを得ない嘘に入ると思う。今日だけは絶対に、雲雀の心を乱すようなことがあってはいけない。――それが全てだ。
どうかこれ以上追及しないで……と願いながら、音羽は雲雀を真っ直ぐ見つめた。
彼の瞳が揺らいでいる。音羽の言っていることを信じるべきか否か、考えているのだ。音羽は一刻も早く雲雀の心を静めたくて、彼の両手を取って握った。
「雲雀さん、もう骸さんの話はやめませんか? せっかく久しぶりに、朝から雲雀さんに会えたのに……」
そう言った気持ちに嘘はなかった。音羽の素直な気持ちだ、だから後ろめたさは一つもない。
窺うように雲雀を見上げると、彼はこちらをしばし見つめて。
やがて、諦めたようにはあ……、と溜息をつく。
「分かったよ、今日はこれくらいで勘弁してあげる。でも、次はないよ」
「! 雲雀さん……!」
「まあ、こんな大勢の生徒が通る中でこんなことしてくる君、珍しいしね」
「っ!!?」
雲雀がにやりと笑って、音羽はハッと我に返った。
急いで周囲を見回せば、昇降口に向かう生徒たちが好奇の目でこちらを見ている――。
「……!」
そのうちのほとんど全員と視線が合って、音羽は慌てて雲雀の手を放した。顔が、急激に熱くなる。
いくら学校にほぼ公認されている仲とはいえ、こんな人目につく場所、時間帯で雲雀の手を握ってしまっていたなんて……恥ずかしい……! 彼を説得するのに夢中で、すっかり周りが見えなくなっていた。本当に何をしているんだろう……。
「っ〜……」
激しい羞恥心と後悔に襲われて、音羽は唇を噛みしめて俯いた。雲雀はすっかり機嫌良さそうに頭上で小さく笑う。
「君は本当に面白いね、音羽。いつも僕を楽しませてくれる」
「……楽しませてるつもりはないですけどねっ……」
揶揄う雲雀に音羽は拗ねて、ぷいと横を向いた。
珍しく雲雀を説得できたつもりだったのに、結局は彼に良い様に遊ばれてしまう。
やっぱり彼には敵わない。そう悟った音羽だった。
◇
――その日の夜。
学校が終わって一旦家に帰り、夕食と仮眠をとった音羽は、深夜雲雀に迎えに来てもらって一緒に並中に向かっていた。
今日は雲雀の勝負なのにわざわざ家まで来させてしまって申し訳なかったけれど、雲雀にそう言ったら「一人で来られる方が迷惑だ」と返されたので、お言葉に甘えてしまっている。
二人で並んで住宅街を歩いて行く。並中が近付くにつれて、音羽の心臓は少しずつ速さを増していった。
自分が戦う訳ではないけれど、最後の試合。しかもそれが雲雀のものだと思うと、勝手に緊張してしまう。
思わず小さな息を付いて胸に溜まっていたものを吐き出すと、それに気付いた雲雀がこちらを見た。
「どうしたの、溜息なんかついて」
「どうしてって……これが最後の戦いですし、雲雀さんの勝負だから……。なんか、緊張しちゃって」
「……どうして君が緊張するの? 君が戦う訳じゃないだろ」
「それは……そうなんですけど……。雲雀さんは、緊張とかしないんですか?」
「しない。……でも、」
雲雀はきっぱりと言い切って、言葉を続けた。顔を上げて彼の横顔を見上げてみる。
「どんな獲物を咬み殺せるか、考えるとワクワクするよ」
「!」
雲雀は瞳を爛々と光らせて不敵に笑った。
いつもより生き生きと輝く横顔。まるで肉食獣のような獰猛さを宿した瞳。
最後のリング争奪戦、全てが自分に懸かっているこの状況で、相手はヴァリアーというかつてない強大な敵なのに。それを楽しむ余裕があるなんて、並みの精神ではないと思う。音羽は感服した。
――でも、雲雀がこういう人だからこそ。音羽は安心して、彼を信じていられるのだ。
思い出したら、自分が緊張していることが何だか可笑しくなってくる。
「ふふっ、雲雀さんらしいですね」
思わず笑ってしまうと、雲雀が少し不思議そうにこちらを見た。音羽は彼に微笑みかける。
「雲雀さんのこと、信じてます。だから気を付けて、頑張ってきてくださいね」
「うん」
雲雀はほんの少し目を瞠ったけれど、やがて口元を緩めて頷いてくれた。
今だけは、全てを食い破らんとする彼の獰猛さが鳴りを潜める。
雲雀の瞳は音羽にとっていつもそうであるように、柔らかな色で細まった。
胸に満ちる温かなものに押されて、音羽は雲雀の手を握る。握り返してくれる彼の手に胸を締めつけられて、前を向けば。
並中はもう、すぐそこだった。
◇
校門を潜った音羽たちは、真っ直ぐグラウンドの方を目指した。そちらの方から、聞き覚えのある賑やかな声が聞こえてきたからだ。
「――いいか、てめーら!! 何が何でも勝つぜ!!」
「おい、何言ってんだ? 戦うの雲雀だぜ」
「ぐっ……! んなこたわーってんだよ!! 十代目はオレらを信頼して留守にしてんだ! オレらの目の前で黒星を喫する訳にはいかねーだろうが!!」
「ハハハ! 変な理屈だな」
「てめーには一生分かんねーよ!! このバカッ!!」
「タコヘッド!! オレも分からんが、なぜか極限に燃えてきたぞ!!」
獄寺と山本、それから了平の姿が見えたとき、ちょうど山本がこちらを振り返った。
「お、今日の主役の登場だぜ」
「片桐も来たか!」
了平が軽く手を挙げて迎えてくれて、音羽も三人に手を振り返そうとする。が、その前に、隣にいた雲雀がずいと足を踏み出した。
「君達……何の群れ?」
「んだと、てめー!」
さっきとは打って変わって棘のある声で言う雲雀に、獄寺が食いかかる。音羽がハラハラしていると、山本が笑顔で二人を宥めた。
「まあまあ。えーと、オレたちは……」
「応援に来たぞ!」
「ふうん……。目障りだ、消えないと咬み殺すよ」
「! なんだその物言いは!! 極限にプンスカだぞ!!」
鬱陶しい、とでも言いたげな雲雀に、了平と獄寺が怒って威嚇している。音羽は慌てて雲雀の横に駆け寄った。
「ひ、雲雀さん……」
「まあまあ落ち着けって。オレたちは偶然通りかかっただけだから、気にすんな!」
音羽と山本が、それぞれ雲雀を取り鎮めようとしていると。
――ドシン!!!
音羽と雲雀の背後から、地面が揺れそうなほどの重くて物々しい音が響いた。
「!」
後ろを振り返れば――そこにはゴーラ・モスカ。相手側の巨大な雲の守護者がいる。彼は土煙を上げながら、どっしりとその場に立ち上がった。
「そうか……あれを――咬み殺せばいいんだ」
雲雀はゴーラ・モスカを横目で見ると、自身の牙であるトンファーを構え、ゆっくりと口の端を吊り上げた。