29話 雲は花に溺れ
応接室で、雲雀は音羽と並んでソファに座っていた。
本当なら彼女をすぐ家に送り届けるべき時間なのだが、音羽が放心状態になっていたので取り敢えずここに連れて来たのだ。
少しすれば音羽も我に返ったが――彼女は今、珍しく感情を昂ぶらせている。
「っ……あんまりです!! みんなの前で、あんなことするなんて!!」
もう合わせる顔がありません!! と、音羽は未だ赤面したままの顔をわっと手で覆い隠した。
彼女が言っているのは、さっきしたキスのことだ。人前でしたのが余程恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤になっている。
こんな風に音羽が声を荒げて怒るのは初めてで、気の毒に思う気持ちも少しはあるものの物珍しさの方が勝ってしまった。
雲雀はつい、俯いている彼女を観察する。
「別に、あれくらい誰も見てないよ」
と、自分でも少々無理があるだろうと思う慰めを口にすれば、やはり音羽は仄かに赤く染めた首筋を髪の間から覗かせて、ぶんぶんと頭を横に振った。
雲雀としては見せつけてやればいい程度のことだったし(実際そう思っていた)、気にする程のことでもないのだが。
どうやら音羽にとってはかなりの
だが、雲雀にとっても事件だった。
草壁から連絡を受けて彼女の安否が気に掛かり、すぐ学校に駆けつけてみれば音羽はあろうことか見知らぬ金髪男に抱きしめられていたのだ。
今思い出しても、本当に腸が煮えくり返る。あんな光景を見て頭に血が昇らない訳がない。そのうえ、いつも素直な音羽の反抗的とも取れる行為。
あの場にいた男たちへの牽制の意味も込めて音羽を少しいじめるつもりだったが……、どうやらいじめ過ぎたようだ。
雲雀は溜息をついて、音羽の肩を軽く揺する。
「ねぇ、音羽。こっち向いて」
「向きませんっ」
「音羽」
「……っ」
出来るだけ優しい声で宥めるように名前を呼べば、音羽は手で顔を押さえたまま堪えるように唇を噛んだ。
きっと、彼女も同じなのだ。久しぶりに会えて、触れ合いたいと思っているのは。
雲雀は音羽の手を引き剥がすように、そっと指を掛けた。小さな赤い耳に口を寄せる。
「せっかく会えたのに、君は顔も見せてくれないの?」
「!!」
囁けば、ぴくりと揺れる細い肩。
「何度も君に連絡しようとしたけど、ずっと圏外で出来なかった。ようやく電話が繋がったと思ったら草壁で、並中で君を見たって言うから心配で急いで来たんだけど」
「っ――」
「僕は君に会えて嬉しいよ。君は、違うの?」
「…………」
問いかけると、頑なに力を込めていた彼女の手が緩くなった。
隙間から指を入れて軽い力で引き剥がせば、ようやく見たかった音羽の顔が現れる。
「っ……ずるいです、雲雀さんは……。私だって、会えて嬉しいに決まってます……」
音羽は恨めしそうな目で、じっと雲雀を見上げてきた。
羞恥心のせいか目尻には涙が溜まり、彼女の長い睫毛を濡らしている。
睨み付けているつもりなのかもしれないが、潤んだ焦げ茶色の瞳はただただ可愛いだけだった。
「―――、」
眉尻を下げた表情に、高揚したその頬に、ゾクリとする。
煽るつもりなどないはずの彼女に煽られて誘われるまま、雲雀は音羽の両手を包み込むように押さえ付け、顔を寄せた。
彼女のたわやかな膝の上で、その手が緊張したように縮こまる。
「ん……っ」
ゆっくり唇を塞いだら、音羽はこの前と同じ、くぐもった声を出した。相変わらず感触が柔らかい、甘い香りに包まれる。
じわじわと、ここ数日で足りていなかったものが満たされていくようだった。まるで、喉の渇きを潤しているような。
だが、簡単にその渇きが癒えてくれることはない。
雲雀は衝動のまま、空いた片方の手を彼女の頭の後ろに回す。
「っ!? んんっ……!」
引き寄せて、唇を割って舌を中にねじ込んだら音羽の身体が大きく跳ねた。彼女の熱いそれが、驚いたように奥に引っ込んでしまう。
ぬるりとした感触を追いかけて捕まえて、雲雀は音羽を貪った。
苦しそうな甘い声、唇の間から漏れる吐息が愛おしい。音羽の目尻から流れた涙が、雲雀の頬を微かに濡らした。
「は……ぁ、雲雀さ……、んぅ」
「っ……」
唇を放して息をさせたら、やっぱり涙を零している音羽の顔。苦しいのか恥ずかしいのか、上気した相貌が扇情的でまたすぐ深くキスをする。
音羽は息が出来ないのを耐えるように、ぎゅっと、雲雀の指に自分の指を絡めて握ってきた。
従順に自分を受け入れようとする彼女に、雲雀も徐々に満たされていく。
けれど同時に、どうしても埋めがたい自身の欲を自覚せざるを得なかった。
飲んでも飲んでもきっと足りないこの渇きは、彼女にしか癒せない。
ただ――今はまだ、そのときではないはずだ。
雲雀は気が済むまで、音羽にキスをした。会えなかった時間と翻弄された心を、少しでも彼女で癒すために。
◇
――半時間ほど応接室で過ごして、音羽は雲雀と一緒に真夜中の並中を後にした。
雲雀が送って行くと言ってくれたので、音羽の自宅までの帰路を二人で並んで歩いて行く。深夜という時間帯もあって、町はひっそりと静かだった。
「…………」
音羽と雲雀の間にも、いつもより少し硬い沈黙が落ちている。……たぶん、そう思っているのは自分だけだろうけど……。
まだ何だか恥ずかしくて、音羽は唇を引き結んだ。
さっきの応接室でのことをつい思い出してしまったら、また顔が火照ってくる。感触、もまだはっきり残っていて、音羽は頬を押さえた。
街灯の仄明るさしかなくて、本当によかったと思う。雲雀に赤くなっているであろう顔を見られたら、もっと恥ずかしい。
「――ねぇ、」
「!」
あれこれと考えていたら雲雀が不意に口を開いて、音羽ははっとした。
隣を歩く雲雀を振り向けば、彼は前を見たまま、静かに。
「さっき言ってたこと話して。途中になってもいいから」
「! ……はい、」
真剣なその声に頷いた。
家に帰り着くまでには話そうと思っていたけれど、雲雀もやっぱり気にしてくれていたのだ。
音羽はここ数日で知らされたリング争奪戦の話を思い出しながら、雲雀に説明した。
ツナとザンザス、それぞれが率いる守護者同士が戦って、勝者がリングの保持者となること。そして勝者の多かった方が、次期ボンゴレ十代目とそのファミリーに選ばれること。
音羽だけは、他に適応者がいないという理由で守護者になるのが決まっていること。
だから今回、音羽は守護者戦を行わない代わりに、要請があればヴァリアー側の守護者の治癒も行って、その力を証明しなければならないこと。
もしそれが出来なければ、“特訓”のために日本を離れて、しばらくは帰って来られないと言われたこと。
そして――。
音羽はツナとザンザスどちらが勝とうと、必ず守護者としてボンゴレファミリーに加わらなければならないこと――。
音羽が、一番恐れていることだった。
「――だから、もし沢田君たちが負けるようなことがあれば……私はヴァリアー側の守護者になってイタリアに連れて行かれるって……。だから、雲雀さんとも……、」
言いかけて音羽は俯いた。
その先を、口にしたくない。
ヴァリアーの一員になっている自分も想像できないけれど、それと同じくらい、雲雀が隣にいない未来を描けない。――描きたくなかった。
雲雀ともう二度と、会うことも出来ないかもしれないなんて……。
最悪を考えて暗くなるのはやめようと思っていたのに、大好きな雲雀を前にすると怖くて不安で、悪い想像が止まらなかった。
唇を噛んで、音羽は涙腺が緩みそうになるのを必死で耐える。
泣いたってどうにもならないし、雲雀を余計困らせてしまうだけだ。
でも、分かっていても恐怖のせいか、それともようやく抱えていたことを雲雀に相談できたからか、視界がぼうっと滲んでしまう。
「……」
雲雀は何も言わないけれど……、何を思っているだろう。
やっぱり彼も、深刻な事態だと思っているのかもしれない……。言葉を失くしてしまうくらい。
不安に襲われ、音羽は指先でこっそり目尻を拭い、隣を見る。
すると――、黙って話を聞いてくれていた雲雀は、思案するような目で前を見たまま声を発した。
「君、本当にそんな事になると思ってるの?」
「……え?」
雲雀が本当にいつもと変わらない調子でそう言ったので、音羽はぽかんと口を開けてしまう。雲雀がその場で足を止め、音羽も立ち止まって彼を見上げた。
「僕にルールは通用しない。戦いには決まりがあるから面白いときもあるけど、君を失うような決まりを守る意味なんてないからね」
「……!」
はっきり言い切った彼に、音羽は目を見開いた。
――深刻、だと思っていたのも、どうやら音羽だけだったようだ。
音羽を励ますためではない、雲雀の本心から出た言葉。彼の瞳を見れば、声を聞けば、それが彼のなかに横たわる真実なのだと教えてくれる。
ずっとずっと苦しかった心が、ようやく息を吹き返した気がした。
「君が僕の側以外にいることはあり得ない。もし仮にそんなことがあったとしても、必ず取り戻すよ。……どんな手を使ってもね」
「! 雲雀さん……」
こちらを真っ直ぐ見てくれた雲雀には、微塵の迷いも恐怖もなかった。そこにはただ、彼の強い意思だけが宿っていて、立ち止まっていた音羽を導いてくれる。
闇の中で煌めいた青灰色は、たしかに光だった。
もし音羽が雲雀の側を離れるような事態になったとしても、彼は必ず、音羽を連れ戻してくれる。
彼を、ルールや決まりで縛ることはできない。
雲雀はそういう人だった、と思い出して、音羽はまた涙が浮かんでしまうのを感じながら微笑んだ。
雲雀なら嘘偽りなく、きっとそうしてくれる。そう心から信じられることが、音羽の胸に立ち籠めていた靄をすーっと消してくれた。
目が合えば、雲雀はふ、と穏やかに口元を緩める。
今度はほっとして泣きそうになっていたら、雲雀の手が伸びてきた。
「ほら、もう着いてるよ」
「んむ……!?」
まるで感情から気を逸らさせるように雲雀に鼻先を摘ままれて、驚いた。恐らく彼の狙い通りに涙が引っ込む。
目で「後ろ」と示す彼の視線を追い、音羽は解放されてじん……とする鼻を押さえながら背後を振り返った。
そこは、目的地だった音羽の家。
いつの間に着いていたんだろう、話に夢中で見慣れた景色になっていたことにも全然気が付かなかった。あるいは、辺りが暗いせいかもしれない。
「……、雲雀さん……」
とても離れ難かったけれど、今日はもう帰らなければ。
雲雀にお礼と、おやすみの挨拶をしようと思って音羽はもう一度彼を振り向く。
するとその瞬間、ガチャ、と家の玄関が開いた。
「――あっ、音羽! 遅いから心配してたのよ!」
「!」
暖かい灯りの中から顔を出したのは、音羽の母親だった。
一応、いつもより遅くなりそう、と連絡はしていたけれど。心配して、こうしていつ帰って来るか時々玄関を開けて見ていてくれたのかもしれない。少し、申し訳ない気持ちになる。
「お母さん……、ごめんなさい……」
「もう、本当よ! いくらお友達もいるからって中学生がこんな時間に……って、あら……?」
母は眉間に皺を寄せて言いかけたが、音羽の後ろを見て目を丸くした。ぱちぱちと、瞬くこと数回。
「まあ、雲雀君じゃない! もしかして、また音羽を送ってくれたの?」
「……!」
――お、お母さん、雲雀さんに話しかけた……!
ドキィッ! と心臓が跳ね上がり、音羽は母を見る。
母は雲雀と話したことがあるらしいけれど、音羽は二人が話す所なんて見たことがないし、やっぱり未だに想像できない……。
どんなことになるのか少し心配にもなりながら、ソロソロと雲雀を振り返ると。
ちょうど音羽の隣まで歩いて来た雲雀が、ごく自然な動きで軽く頭を下げた。
「――夜分遅くになってすみません」
「…………、」
――す……“すみません”?
音羽は呆然とした。
いつもより数百倍丁寧な口調と態度。
『すみません』なんて言葉があの雲雀の口から出てくるなんて、一体誰が想像できるだろう。――彼を知る人物ならきっと、誰一人そんなこと出来ないはずだ。
最早、隣にいるのは本当にいつもの雲雀だろうか……とまで思いながら、音羽は硬直した。
が、一方の母と言えばそんな違和感は一切感じていない様子で、どこか嬉しそうにニコニコしている。
「まぁまぁ、この前といい今日といい、いつも音羽のこと気に掛けてくれて本当にありがとう。雲雀君も、相撲大会の応援に行ってたの?」
「……はい、まあ」
「そうなの、雲雀君も一緒なら安心ね! 良かったわね、音羽!」
「う……うん……」
“母には、リング争奪戦のことを相撲大会と言っています”、と雲雀に伝えていなかったけれど、彼は咄嗟に理解してくれたのか話を合わせてくれた。
変な汗をかきそうだ……。雲雀を横目で見上げると、少し呆れたような目で見返される。
そんな目で見られる理由が、事前に雲雀に言っておかなかったからなのか、それとも相撲大会の応援なんて理由にしているからなのか、音羽には分からなかった。
「さあ、音羽、明日も学校でしょ? 早く寝る支度しなさい。あ……雲雀君は、こんな時間にお家まで一人で大丈夫……?」
「大丈夫です」
「そう? じゃあ、くれぐれも気を付けて帰ってね。音羽を送り届けてくれてありがとう」
「あ……ありがとうございます!」
「……明日の夜、また迎えに来るよ。じゃあね」
「は、はい」
雲雀は音羽にだけ聞こえるよう囁くと、もう一度母に軽く会釈をして踵を返した。彼の背が暗がりに消えるまで見送って、音羽は母と揃って家に入る。
……はぁ、何だか気疲れした……。
脱力感に襲われながら大きな溜息をつくと、母は上機嫌に鼻歌を歌いながら玄関の鍵を閉めた。
「やっぱり、雲雀君は礼儀正しくてしっかりした良い子よね〜。ちゃんと娘を家まで送ってくれるし、お母さん安心だわ」
良い人見つけたわね! と母は音羽を肘で小突いて、早々に家に上がっていく。
その後ろ姿を見ながらしばらく立ち尽くしていたけれど……、何だか気が抜けてしまって音羽はふふ、と笑みを零した。
――雲雀さんのあの変わり様には驚いたけど……私の親だから、あんな風にしてくれたのかな。だったら、何だか嬉しい……。でも――話してたの、ほとんどお母さんだったな……。
やっぱりと言うか、当然と言うべきか。
音羽は苦笑して、母に続いて温かいリビングに入って行った。
◇
――都内にある某高級ホテルの最上階は今、イタリアンマフィア暗殺部隊の巣窟となっていた。
ボルドーのたっぷりしたベルベッドカーテン。大理石で出来たグレーの床は汚れ一つなく磨かれ、繊細で美しいレリーフを施した家具が贅沢に配置されたスウィートルーム。
その最奥にある一室のドアが、突如けたたましく開けられた。
「――ゔおおぉい!!」
続いて響いたのは場違いな声量。
スクアーロは足早に室内に入り込み、入り口を背にして置かれているクラシカルな一人掛けソファの側に歩いて行く。
そこに座っている男――ザンザスは、左脚を組んで酒の入ったグラスを傾けていた。
「ベルは勝ったぜ、しかも明日の勝負はオレだ」
スクアーロは彼を向いて話す。聞いているのかいないのか、ザンザスの鋭い視線は窓の外の闇を見ていた。いつものことなので、スクアーロは気にせず続ける。
「これでイタリアに帰れるなぁ、ボスさんよぉ。やっとお前のくだらねぇお遊びから解放されるぜぇ」
連勝でリングを勝ち得たこと、そして自身の明日の勝負に対する昂りで、スクアーロは幾らか機嫌が良かった。別段いつも以上に饒舌になったつもりはなかったが、声の端に出ていたのだろう――それが癪に障ったらしい。
――ガッ!!
「ぐぁっ!!」
踵を返そうとしていたスクアーロの頭に、今しがたザンザスが呷っていた酒のグラスが飛んできた。
頭部を打つ重い痛み、氷の入っていた液体の冷たさ。割れた硝子の破片が足元にギラギラ散らばる。
何が起こったのかすぐに理解したスクアーロは、実行犯を振り返った。
「ゔおぉい!! 何だてめぇ……!!」
「――文句、あんのか?」
「! くっ……」
こちらを一瞥したザンザスの目は、余りに冷たい赤だった。
スクアーロは、思わず非難の言葉を呑み込む。ザンザスは再び視線を逸らすと、また窓の向こうを見た。
――こいつには敵わない。
この男に対して、スクアーロはもう何度そう思ったか分からない。
だが、ザンザスに睨まれた人間は皆等しくそう思うはずだ。この男には逆らえない、そんな“強さ”をこの男は持っている。
チッ、と舌打ちして、スクアーロは顎まで滴るアルコールを腕で拭った。そうしながら、今日彼に報告しておこうと思っていたことを独り言ちる。
「……あの女は使えたぞ。完全ではなかったが、ベルの怪我を癒した」
「……」
「あの女がいれば、お前はまた一歩“野望”に近付けるはずだ。まあ、向こうの雲の守護者の手つきみてぇだったが……お前にそんなことは関係ねぇだろう」
「……ふん」
ザンザスは眉間を寄せ、鼻を鳴らしただけだった。
だが、その瞳が一瞬猛獣のようにギラリと光るのをスクアーロは見逃さない。長らく側にいたからこそ分かる、些細な変化。
スクアーロの脳裏には、天の守護者である小娘の怯えた顔が浮かんでいた。黙っていれば、ただの一般人と相違ない非力な娘。
しかし、あの力はやはり本物だ。あの娘はその存在だけで、ザンザスの切り札になる――。
スクアーロは今度こそ踵を返して部屋を出た。夜の闇はしんしんと深さを増していく。