1話 放課後の図書室

 五月――春の暖かい日。

 放課後の学校にいると、吹奏楽部の楽器の音やグラウンドで部活動をしている運動部の声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
 その音は、静まり返った図書室にはちょうど良かった。“誰か”の音に、人の気配を感じて安堵する。

 音羽は誰もいない図書室の椅子に座り、机の上に置いた本を黙々と読んでいた。

 開け放った窓からは、春の夕暮れの少し肌寒い、けれど心地よい風が吹いてくる。
 風の微かな音。部活動をしている生徒たちの声。自分が本のページを捲る音。

 まだこの学校に来て一月(ひとつき)しか経っていないが、音羽はこの図書室での穏やかな時間が好きだった。


 ――音羽がこの並盛中学校に転校してきたのは、中学二年の春――つまり、先月のことである。

 音羽は、父の仕事の関係でこの並盛町に越して来た。

 普通なら前の学校の友達と別れることが悲しかったり、住み慣れた街を離れることに寂しさを感じるものだろうが、前の学校での生活が苦痛だった音羽にとって、今回の転校は丁度良い機会だった。


 ……とは言え。
 この転校をきっかけに音羽の学校生活が特別楽しいものになったのかと言うと、そうでもない。

 元々、少々人見知りで奥手な性格。
 加えて以前の学校であった出来事のために、自分から人と接することがますます苦手になってしまい、転校して一月経った今でも、友達と呼べるような人は一人もいない。

 本音を言えば、一人くらい話せる人がいればいいのに……とはもちろん思うが、それでも自分から話しかけていく勇気はなかった。


 けれど――……。

 音羽は、この並盛中学校での生活にもう充分満足している。

 以前に比べれば、随分平和な毎日を送れているからだ。今は誰も、音羽のことを気にしない。

 それに音羽は、幸いなことに一人の時間も好きだった。特に、今のように静かな場所で、一人本を読むのはとても落ち着く。


 学級会で誰も手を挙げることのなかったクラスの図書委員に、本が好きだから、という安直な理由で立候補してみて、本当に良かったと思う。

 図書委員にならなければ、この学校の図書室が放課後はほとんど利用されていないことも、図書委員さえ暇を持て余してしまい当番であっても来ないことも、転校生である音羽がすぐに知ることは出来なかっただろう。

 名目上は図書委員として放課後のがらんとした図書室にいる音羽だが、実際はただ貸し切り同然とも言えるこの空間で本を読むのが好きなだけだ。

 だから音羽は、いつも放課後になるとこの図書室に来る。ここで静かに本を読む時間が、音羽には愛しいものだった。 


 ぱらり、と、またページを繰る。

 音羽が今読んでいるのは昔の海外作家が書いた小説で、よくありそうな身分違いの恋を描いた話だ。
 恋に落ちた平民の男と、貴族の娘。当然周囲に認めてもらえることもなく、二人は葛藤を重ねていって――……そんな、よくあるお話が書かれた一冊。

 けれどそこに書かれた一文一文は、音羽の胸を熱くするのに充分だった。その理由だって、心当たりはある。

 脳裏を過るのは、彼だった――。







 ―――並盛中学校、転校初日―――


 四月四日、よく晴れた日。

 入学式が終わって一年生が全員教室に入ると、今度は全学年、それぞれのクラスでHRが始まる。


 音羽は転校生として、2-A組の教室に向かっていた。

 ――はあ……、緊張するなあ……。

 担任の先生の後について廊下を歩きながら、音羽は昨晩も考えていた自己紹介の場面を頭の中でもう一度シミュレーションして、小さく息を付いた。

 人前で話すのもそう得意な方ではないが、何よりクラスの皆は当然全員初対面の人たちだ。だから余計に、それなりの心の準備を要してしまう。

 既にHRが始まっている教室からは、新学年を迎えた生徒たちの賑やかな声がしていた。
 ドア越しに廊下まで響いてくるその声を聞きながら、音羽はそわそわした気持ちに釣られるように、見慣れない校舎を見回した。

 そうして、窓の外へと視線を向けると、校舎に囲まれた中庭が目に入る。

 小さいけれど花壇もあって――今、中庭は春の花に彩られていた。

 
 早咲きの、桜の樹。
 春風が吹くたびに、淡く儚い色をした花びらがひらひらと宙を舞う。

 思わずその光景を見つめながら歩いていると、ふと。

 桜の傍らに佇む影があることに気が付いて、音羽はぴたりと足を止めた。

 男子生徒だ。
 春の日差しを返す白いシャツに、なぜか並中指定のブレザーではなく、黒のズボンと学ランを身に纏っている。

 白い肌、漆黒の髪をした彼は、静かな瞳で咲き誇った早咲きの桜を見上げていた。
 細身で、遠目から見ても分かるほど整った顔立ちをしており、日に透けるような美しさがある。

 彼の横顔の側を、視線の先を、柔い花びらが風に乗って流れていった。

「―――」

 ――きれい……。

 音羽はつい、彼に魅入ってしまった。

 こんなに綺麗だと思う男の人を見るのは、生まれて初めてだったのだ。

 胸が、心臓が、ドキドキと脈を打つ。

 美しいから、だけではない。
 
 彼の纏う、何者も寄せ付けないような雰囲気が。
 桜を見る、静かで、けれど強い意志を持った瞳が、音羽の胸を高鳴らせた。

 こんな気持ちになるのも初めてで。
 音羽は担任の先生に声を掛けられるまで、その場に立ち尽くしていたのだった――。





 後になって分かった事だが、彼はこの並中――ないしは並盛町ではかなり有名な人だった。

 並中のみならず、並盛町全域を支配している最凶の風紀委員長――雲雀恭弥。

 “気に入らない人間は仕込みトンファーでめった打ちにする”、という彼の噂は四月の内に勝手に耳に入ってきたし、風紀委員会による持ち物検査を知らせる先生の顔はいつも例外なく引き攣っていた。

 つまりこの並中では生徒のみならず、先生までもが雲雀を恐れている、ということだ。それほど、彼がこの学校内――町内に及ぼしている影響力は大きいのだろう。


 しかしそんな噂を聞いても、音羽はなぜか雲雀が怖くなかった。――否、怖くないというのは、語弊があるかもしれない。

 正直に言うと、分からなかった。

 いかに噂で恐ろしい風紀委員長だと聞いていても、音羽は彼にめった打ちにされかけたこともなければ、話したことも、間近で見たことさえないのだ。

 だから、彼が本当に噂通り怖い人なのか、分からない。けれど、分からない、と思えば思うほど。

 ――もっと、知りたい……。

 そう、思ってしまう。

 こんな気持ちになるのは初めてだった。でもその気持ちに付けられている名前だけは、音羽もちゃんと知っている。


 “恋”だ。
 しかもたぶん、“一目惚れ”という類のもの。

「……雲雀さん……」

 無意識のうちに、口から彼の名が零れ出た。

 そうしてようやく音羽は、自分がもう本に綴られた文字を目で追っていないことに気が付く。
 ……最近いつもこの調子だ。

 彼の――雲雀のことを考えると、すぐ他のことがおざなりになってしまう。
 きっと、このまま本を読もうとしても同じだろう。恐らく一行も進みはしない。


 音羽は半ば自分に呆れながらしおり紐をページに挟んで本を閉じ、そっと席を立った。

 この本を取ってきた窓際の本棚に向かい、腰の高さの棚の上に本を置いて、開いた窓の向こうを何気なく眺める。

 読書に熱中しすぎたのか、それとも思いのほか、物思いに耽ってしまっていたのか。
 いつの間にか、部活動の音も声も止んでいた。校舎はしんとして、日も徐々に沈みかけている。
 
 空は夕陽の鮮烈なオレンジと、夜の闇の藍紫(らんし)色が綺麗に混ざり合っていた。夕陽が入り込んでいるお陰で、図書室はまだ仄明るい。

 ――でも、そろそろ帰らなきゃ。

 そう思って置いた本を本棚に戻そうと再び手に取ろうとしたとき、窓から風が吹き入ってきて、音羽の長い濃茶色の髪をふわりと弄んだ。

 視界で広がった自分の髪を慌てて手で押さえ、耳に掛けた丁度その瞬間。

 ガラ、と、何の物音も前触れもなく、図書室の扉が開けられた。
 音羽は反射的に、そちらへと目を向け――思わず、その目を大きく見開く。

 放課後の図書室で初めて遭遇した人物。

 扉の前に立っていた人は、なんと。

 先ほどまで音羽が焦がれて考えていた人物――雲雀恭弥、その人だったのだ。







「―――」

 音羽は目を丸くしたまま固まった。

 信じられない。
 転校初日のあの日から秘かに憧れていた雲雀が、今、自分の目の前にいる――。

 いや、彼も並中生である以上図書室に来たとしても全く不思議ではないのだが、これまで彼が図書室に姿を見せたことは音羽の知る中では一度もない。

 しかも、彼の姿をこんなに間近で見たのは初めてだ。

 だから一瞬、今見ている彼の姿は幻覚か何かなんじゃないか。そんな疑念さえ過ったが……。

 ぽかんとしているうちに、目の前の人物がどうやら本物の雲雀らしいと音羽が認識出来たのと、彼が不機嫌そうに口を開くのは、ほとんど同時だった。

「……君、何してるの?もう下校の時間だよ」
「……!」

 初めて聞く彼の声。低くて、滑らかで、とても耳障りが良い。

 静かに桜を見ていたあの青灰色の瞳が、今は真っ直ぐに音羽を見ている。

「……っ……」

 ――やっぱり、まだ信じられない。

 ドキドキと、煩い心臓。熱くなる頬を意識すると、増々熱っぽくなってしまうのが分かる。きっと今、顔が真っ赤になってしまっている。

「……ちょっと、聞いてるの?」
「ッ、は、はいっ!!」

 音羽の反応がないせいで苛ついたように眉根を寄せた雲雀に、固まっていた音羽はようやく返事を返すことが出来た。

 状況は全くと言っていいほど呑み込めていないが、彼から“早く帰れ”と言われているらしいことだけは分かって、慌てて開けていた窓を閉め、出していた本を本棚に押し戻す。
 
 そして急いで机に走って、鞄を持って、図書室をすぐさま出なければ―――いけないのに。

「――あっ……!」

 音羽は机に駆け寄った拍子にその脚につま先を引っ掛け、ゴンッと勢いよく椅子に倒れ込んだ。

「いっ……」

 膝は軽く打ち付けただけだったが、おでこを机の端に思いっきりぶつけてしまい、じんじんする痛みに眉を寄せて額を押さえる。

 ――うぅっ、かっこわる……。

 突然の雲雀との遭遇。そして、彼の視線。

 それだけでもういっぱいいっぱいで、元より少しどんくさい所のある音羽が何かヘマをしないはずがなかった。

 ――こんな所雲雀さんに見られるなんて、恥ずかしい……!

 羞恥と痛みで、じわりと涙が滲む。それを雲雀に見られないようぱっと俯き、何とか立ち上がろうとした。

 ……だが、突如雲雀が現れたことに対する驚きの余り、情けないことにほとんど腰が抜けてしまって、手足に上手く力が入らない。

 音羽が椅子を掴みながらもたついていると、

「全く……何してるの」

 呆れた雲雀の声がして、足音がこちらに近付いてくる。――と思ったら、ぐい、と腕を掴まれた。

「!!」

 雲雀に触れられた所が、瞬時に熱を持つ。それと同時に、音羽の身体は彼によって軽々と掴み起こされた。

 おずおずと涙目のまま彼を見上げてみると、端正な顔がすぐそこにある。

 さらりと揺れる黒髪の間から、青みがかった灰色の瞳が音羽を射抜いた。

 無表情の彼から感情は読み取れないが、どのみち今の音羽はそれどころではない。
 心臓がこれでもかというくらい高鳴って、今にも飛び出してしまいそうだった。

 雲雀はそんな音羽の腕を放すと、小さな溜息をつく。

「そんなに怯えなくても、何もしないよ」
「!ちがっ……!あの、ちがくて……っ」
「じゃあなんで、こんな何もない所で転ぶのさ?」
「そ、それはあの……私、どんくさくて……」

 ああ、何を言ってるんだろう……。
 
 自分でもそう思いながら、段々と尻すぼみになってしまう声とは反対に、頬は増々熱を持つ。

 そんな音羽を見下ろして、雲雀は口を開いた。

「……ふうん、まあいいけど。とにかく、早く帰ってよね」

 興味なさげにそう言うと、雲雀はくるりと踵を返してしまう。

 ――あ……行っちゃう!まだ、起こしてもらったお礼、言ってない……!

「あ、あのっ……!」

 気付けば音羽は、彼を呼び止めていた。

 足を止め、半身振り返ってくれた雲雀は、何?とでも言いたげな目を音羽に向ける。

 音羽は鞄を引っ掴み、急いで雲雀の前まで行くと、まだ赤い頬のまま、勇気を出して彼を真っ直ぐ見上げた。

「あの、さっきは起こしてくださって……ありがとうございました、雲雀さん」

 彼と話せたことが嬉しくて。

 音羽の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。

 先程よりどこか目を瞠っているようにも見える雲雀に、音羽はそのままぺこりと頭を下げ、緩む頬を抑え切れないまま足早に図書室を後にする。


「……」

 残った雲雀は、廊下を駆け出して行く名も知らぬ女子生徒の後ろ姿を見据えていた。彼女が走るたび、その背中の長い髪がふわふわと左右に揺れている。

 
 学校中で恐れられている雲雀に感謝を述べ、さらに笑顔を向けてくる生徒などこれまで一人としていなかった。

 しかも、あの女子生徒からは雲雀に対する恐怖心さえ、ほとんどと言っていいほど感じられない。彼女が、しどろもどろになりながらも否定した通りに。


 雲雀は窓の外、暮れなずむ空へと視線を移す。

「……変な子。でも――」

 面白いね。

 そう呟いた声は微かな笑みを含んで、放課後の図書室に静かに落ちた。


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