58話 欲しいのは君と、君との未来
「恭弥さん……!」
後ろを振り返った音羽は、びくりと肩を跳ねさせた。背後に立っている雲雀の顔はあからさまに不機嫌そうで途端に焦りが生まれるけれど、もう遅い。
彼がそんな顔をする理由が分からないほど、音羽は鈍くなかった。
自然に、衝動的に身体が動いてしまったとはいえ、音羽がツナの手を握ってしまったから……。嫉妬深い雲雀が、そんな事実を見逃してくれるはずもない。
ツナの姿を見た瞬間――彼が生きていると思ったら、それを確かめられずにはいられなかった。当然そこに何かの意図や意味がある訳もなく、音羽としては雲雀を守りたいと思って身体が動いてしまう時と同じような感覚だった。
でも、いくら音羽に他意が全くなかったとはいえ、雲雀を不快にさせてしまったことには変わりない。だから、音羽は未だ眉を顰めている雲雀をおずおず見上げ、慌てて彼に謝った。
「ご、ごめんなさい、恭弥さん……。私、さっき咄嗟に身体が動いてしまって……」
雲雀自身、音羽がとった行動に特別な理由があったとは微塵も思ってないだろう。ただ彼は、音羽が他の男性に触れてしまったという、その事実自体が気に入らないのだ。
彼の独占欲の強さを身を以って知っているからこそ、彼に対して申し訳ない気持ちが生まれてしまう。きっと、また叱られてしまうんだろうな……、と音羽は項垂れた。
しかし――。
音羽の頭上から降ってきたのは、いつものお説教でも文句でさえもなかったのだ。
「……はぁ……」
「……!」
雲雀が付いたのは、ただ一つの深い溜息。諦めとも呆れとも、許しとも取れるような彼のそれに、音羽は弾かれたようにパッと顔を上げる。
でも、雲雀と視線が絡むことはなかった。彼は音羽から丁度視線を逸らした所で、その目線は既にツナを捉えている。
「……何してたんだい、沢田綱吉。山本武と獄寺隼人は、その林の中だ」
「え……!? あっ……!! ご、獄寺君、山本!!!」
ツナの方も、雲雀が音羽に何か不満を漏らすと思っていたのかもしれない。あるいは彼の不満の矛先が、運悪く自分に向けられてしまうのでは、と危惧していたのか……。
いずれにせよ、ツナも一瞬意外そうな顔をして目を丸くしていたが、雲雀の言葉に友人二人の姿を思い出したようで、示された方に走り出す。
すると、マントを羽織った綺麗な女性が一人、ツナの後を追って行った。音羽は見たことのない女性だったけれど、どうやらツナとずっと一緒にいたようだ。
普段ならそれくらい気が付くはずなのに。どうやら周囲に目を向けられないほど、ツナの方に気を取られてしまっていたらしい。これでは、雲雀が怒るのも無理はないと思ってしまう。
「…………」
音羽は二人の背中をぼうっと見送り、それから恐る恐る窺うように雲雀の顔を見上げた。彼もツナたちの後ろ姿をじっと見据えているけれど、“気を損ねている”以外に他の感情が読み取れない。
――普段なら、絶対もっと何か言って怒るのに……。どうして……?
胸の中がもやもやして、音羽は握った拳を胸元に当て俯いた。
いつもの雲雀なら、それが許しのものでも呆れたものでも、溜息に追加して何か文句を言ってくる。……でも、今日の彼は何も言ってこなかった。
音羽だって、積極的に雲雀に怒られたい訳ではもちろんないけれど、でも、これまでに怒られていたことを急に看過されてしまうと……。自分でも不思議だが、何だか不安な気持ちになってしまう。
思い返してみれば、ドイツでケーニッヒに手を引っ張られたあのときも、雲雀は少し苛立っていたくらいで特に怒るでもなく何も言ってこなかった。
あのときは、たまたま彼の逆鱗に触れなかったのだろうと思って、あまり気にしていなかったけど――。
もしかしたら、とうとうこれまであった色々なことが積み重なって、本当に呆れられてしまったのかもしれない。そればかりでなく、もし、彼に愛想まで尽かされてしまったら……?
「―――」
そんな思考が頭を少し過った瞬間、心臓が嫌に速く打ち始めて胸がずんと重たくなった。
何の根拠もないし、雲雀の優しい眼差しを思い出せばそんなはずはないと思うのに。分かっていても、頭のどこかで違うと言っても、一度浮かんでしまった考えは簡単には消えてくれない。
だって、それは音羽にとって最も耐えがたいことなのだから。
雲雀に尋ねたいことや、ツナたちに伝えなければいけないことが、沢山あったはずなのに――。
音羽はどうしても耐え切れなくなって、側にあった雲雀の右腕を縋るように掴んでいた。
「っ……恭弥さん……」
頼りなく震えた声が喉から漏れ出て、雲雀がゆっくりとこちらを振り返ってくれる。
彼は、音羽を見下ろすとほんの少し目を瞠ったけれど、相変わらず何を思っているのかは分からなかった。でも、彼の瞳が自分を捉えてくれるだけで少しほっとしてしまう。
「あ、の……」
雲雀を呼んだものの、何と声を掛けたらいいか分からなくて考えていると、彼は観察するような目で音羽を見て、やがてさっきよりも小さな息を付いて呟いた。
「……来て」
「えっ……? あ、あの……!?」
雲雀は音羽の腕を掴むと、そのままつかつかと歩き出してしまった。強引に引っ張られて困惑しながらも大人しくついて行くと、彼は境内の手前で足を止めて霧のリングを素早く指に嵌める。
程なくして、ゴゴゴ……と扉の動く重い音がした。雲雀は躊躇いなく、境内の方に一歩踏み出す。音羽も続けて足を進めると、辺りの景色は一瞬で変わり――。
音羽と雲雀は、彼のアジトに続く階段を足早に降りて行った。
◇
「…………」
草壁は、アジトへと姿を消していく二人の後ろ姿を、遠くから見送っていた。あの感じだと、しばらく戻って来ないだろう。
やれやれと首を竦めていると、
「――あの、草壁さん。獄寺君と山本の怪我は……」
眼前にいた少年――恐らく中学時代の沢田綱吉に声を掛けられ、草壁の意識は引き戻された。
血相を変えて飛んで来た沢田綱吉だが、二人が存外穏やかな顔をしているので、きっと拍子抜けしたに違いない。
獄寺隼人と山本武の衣服は血で汚れているものの、破れた服の隙間から見える肌には傷一つないので、彼自身粗方の想像はついているようだ。
彼の頭に浮かんでいるであろう思考を肯定するように、草壁は頷いた。
「ええ。お二人とも、すでに音羽さんが治療しています。もう少しすれば目が覚めるはずです」
「! やっぱり片桐が……」
「……」
呟きながら、彼は心底安堵した表情で友人二人の顔をもう一度覗き込んでいる。
なぜ、少年の姿をした沢田綱吉らがここにいるのか……。草壁もイマイチ状況が理解出来ないが、それはきっと落ち着いたあとで聞いても遅くはないだろう。
「……そろそろ、アジトに戻った方が良い。γの連絡が途絶えれば、遅かれ早かれ敵の追撃部隊が来るでしょう」
草壁が言いながら立ち上がると、沢田綱吉の後ろに立っていた女が怪訝に眉を顰めた。
「待て。今こいつらを抱えあの距離を引き返し、ハッチに戻るのは危険だ」
「その心配はいりません。我々の出入り口を使えば」
草壁は答えながら、視線を雲雀たちの消えて行った境内の方に投げる。視線を辿った彼女は、先ほどの一部始終を見ていたのだろう、納得した様子で頷いた。
「……なるほど、雲雀たちの消えて行った所か」
「はい。ただ、このまま立ち去るには一つ問題が残っています。雨と嵐のボンゴレリングだ。敵のレーダーに映っているでしょう。ここで反応を消す訳にはいかない」
草壁は滔々と話し、獄寺と山本から取った二つのリングを女に見せる。彼女は草壁の手からリングを掴むと、顔を上げた。
「分かった、その仕事はオレが引き受けよう。……帰りに、笹川京子を連れて戻る」
「……助かります。では沢田さん、我々は先にアジトへ」
「……分かりました。あの……ありがとうございます、京子ちゃんを頼みます……!」
ぺこりと頭を下げる沢田綱吉を一瞥し、女はマントを翻して素早く向こうに走って行った。
唐突に出た笹川京子の名前に事態が読めなかったが、沢田綱吉の様子を見る限り問題はなさそうだ。
黒川花から彼女に対する捜索の要請があったはずだが、すでにボンゴレで保護していたのだろうか?
草壁はそんな推測をしながら倒れている二人の元に屈み、彼等を抱えるべく腕を回した。
◇
靴音を響かせながら、雲雀は音羽の腕を引き地下への階段を降りていた。
音羽はかなり戸惑っているようで、腕にまだ少し力を入れているものの大人しく雲雀の後をついて来る。
きっと今も、さっき見たときと同じような顔をして雲雀の背中を追って来ているのだろう。それを想像すると、ついニヤリと意地の悪い笑みが浮かんだ。
何を勘違いしたのかは知らないが、音羽はどうやら“雲雀に見放されるのではないか”というようなことを考えて、勝手に不安になっているらしい。雲雀の名前を呼んでこちらを見上げた彼女の目には、恐れの色が浮かんでいた。
恐らく――これは雲雀の推測だが――あの状況になったとき、普段ならまず間違いなく音羽に小言を言うか説教をするはずの雲雀が、今回に限って何も言わなかったからだろう。
こんなことを言えば彼女は怒るだろうが、そんな極些細なことでその極端な結論に至り、あんな顔までする音羽は見ていて本当に飽きない。
今すぐ彼女に触れて、自分のものにしてしまいたい衝動を抑えながら、雲雀は後ろを振り向くことなくただ足を動かす。
――雲雀が音羽に何も言わなかったのは、彼女を不安にさせようという意図からではない。
勿論、音羽が自分の元を離れて沢田綱吉に駆け寄ったときも、彼女が彼の手に触れたのを見たときも心底苛立ったし、気に喰わなかった。
だが音羽の性格と、彼女と沢田綱吉たちの関係を考えれば、彼女がああいう行動を取ってしまうのも仕方がない部分があるかもしれない、と僅かながら思ってしまったのだ。
音羽は良くも悪くも優しい気質の持ち主で、それは特に彼女自身の周りの人間に対して惜しみなく発揮される。しかも音羽は雲雀と違って昔から彼等に対して友好的な態度を取っているし、また、“友達”と称して慕っていた。
だから沢田綱吉の姿を見たとき、音羽は彼の安否を確かめずにはいられなかったのだろう。彼女にそれ以外の理由がないことくらい、雲雀も当然分かっている。
しかし雲雀も、ここ数日前から抱いていた嫉妬心を理性で押し留めていた所だった。無遠慮にベタベタと音羽に触っていた“あの男”とは違い、今回の相手は駆け引きの要らない人間だ。
だからすぐに沢田綱吉を咬み殺して、いつも通り音羽に灸を据えてやろうと思っていたのだが。
『ごめんなさい……』と謝ってきた音羽のしょぼくれた顔を見たとき、あの晩大泣きしていた彼女の顔が頭を掠めた。
音羽が雲雀以外の人間に一喜一憂させられるのは気に入らないし、彼女が誰かのために心を痛めるのも、その優しさを他の人間に向けるのも面白くない。
けれどそれでも、雲雀は音羽が愛おしいと思う。彼女だから、自分の側に置きたいと。
だから、十年前の姿とはいえ、再び沢田綱吉の姿を見ることが出来た音羽の想いを、今は少しだけ尊重してやろうと思った。
雲雀が数日のあいだ彼女に嫉妬心をぶつけなかったのも、そのとき彼女に受け止めるだけの余裕がなかったからだ。何も知らない音羽に対する、雲雀なりの気遣いだった。
それに、不可抗力ではなく、音羽自身が粗相をしてしまうのは割と珍しいので、たまにはそれをだしにして後で音羽を苛めるのも楽しいかもしれない。――そう、半ば強引に自分を納得させて出た溜息だった。
口を開けばきっと、音羽を責める言葉が出る。けれど雲雀は、自分の意に添わぬ言葉――例えば「別にいいよ」などと言う言葉は、嘘でも口にしたくはなかったのだ。
だから、何も言わなかったというのが雲雀の導き出した答えなのだが、どうやら音羽は別の答えに辿り着いてしまったらしい。
さっきまでは、音羽の想いを汲んでやろうと、確かに思っていたのに。
雲雀に見捨てられるのではないかと思って泣きそうになっている音羽の顔を見たあの瞬間、背筋がついぞくりとした。
沢田綱吉を見つけて嬉しそうにしていた音羽が、今は雲雀に見放されはしないかと不安になって、必死に自分の後について来ている。
彼女の感情を振り回すのも、彼女を支配しているのも自分なのだと思えば、雲雀の嗜虐心に火が付いてしまうのは仕方なかった。ここ数日我慢してやったのだ、少しくらい強く躾けても問題はないだろう、と悪い考えが頭を過る。
雲雀が内心そんなことを思っているなんて、音羽は露ほども知りはしない。だからこうして彼女は今、雲雀のことを呼び止めるのだ。
「――っ、恭弥さん……! 待ってください……っ!」
「…………」
踊り場まで来たところで、音羽がぐん、と腕に力を込めて立ち止まった。雲雀も必然的に立ち止まり――ゆるりと後ろを振り返る。
「……っ……」
音羽は雲雀と目が合うと、すぐに視線を逸らしてしまった。揺れる瞳は恐怖と罪悪感でいっぱいで、まだひどく潤んでいる。
音羽は今、自分がどんな顔をしているか、きっと分かっていないのだろう。普段は恥ずかしいとか何とか言って自分から求めてくることなど滅多にないくせに、今は自分から、必死になって雲雀に手を伸ばしている。
雲雀を失いたくないと、彼女の瞳が、声が、体温が、懸命に訴えかけていた。
「ああ」と、雲雀は目を細める。“それ”を押し留めていた理性が、少しずつ瓦解する。
もう、あと少しも待ってやりたくない。
「私――」
と、意を決した様子で顔を上げた音羽の濡れた瞳を見た刹那。雲雀は本能の赴くままに、彼女の身体を抱き寄せてその唇を奪った。
「?! ん、んっ……!」
困惑している音羽に口付けたまま、近くの壁に追い詰めてその腕を縫い止める。
息をする暇さえ与えず深いキスを繰り返せば、音羽はすぐ苦しそうに眉を寄せた。誰にも聞かせたくないその甘い声が、白くて細い喉から漏れる。
「んっ……は、ぁ……きょ、やさん……、なんで……っ……?」
「……何で? 今君が欲しくなった、それだけだよ」
「っ! だ、だめです、絶対……! こんな所で……!」
少し唇を放した隙に音羽は声を上げ、上気させていた頬を更に赤く染め上げる。
雲雀ならやりかねないとでも思っているのか、押さえ付けられた腕に力を入れ、抵抗の意志を示してきた。
だが、そんなものに意味など一つもありはしない。寧ろそういう反応を返されると、もっと追い詰めて苛めてやりたくなるのが雲雀という男である。彼女もそろそろ、そのことを覚えた方がいいだろう。
「どうして? 僕は構わないよ、君の“友達”の沢田綱吉に見せてやればいい」
「っ……!! だ、ダメです、そんな……っ」
音羽を見下ろし不敵に笑ってそう言えば、彼女はぶんぶん首を横に振って雲雀から視線を逸らした。
音羽も理解したのだろう、これがさっき自分が取った行動への“罰”なのだと。
だが口ではそう言っていても、雲雀にそんな気は毛頭ない。
確かに、音羽は自分のものだと周りに知らしめるのは悪くないが、音羽の蕩けた顔を他人に見られてしまうことを許容できるはずがない。
一緒にいて十年経つが、音羽はきっと、雲雀がどれだけ彼女のことを想っているかまだまだ分かり切っていないのだろう。
もし分かっていたのなら、雲雀が音羽から離れる、なんて馬鹿げた考えは、浮かぶはずがないのだから。
「音羽、顔を上げなよ」
「……! ……」
命じるように告げれば音羽は僅かに目を瞠り、おずおずと、けれど従順に顔を上げてこちらを見る。
まるで、今から捕食される小動物のようだ。あながち間違っていない、と思いながら、雲雀は屈んでまたその唇を塞いでやった。
「んんっ、ふ……」
音羽の好む通りに口内を蹂躙してやると、すぐにずる、と壁に付けていた彼女の身体が沈んだ。掴んでいた腕を自分の首に回させて、雲雀はその腰を支えてやる。
「……腰、抜けたね」
「っ……! きょ、やさん……、もう、これ以上は……だめ……」
荒い息をしながら訴える音羽の目には、これまでと少し違う色が浮かんでいた。雲雀とよく似た熱がもうそこに移っていて、口角が上がりそうになるのを抑える。まだ、もっと、苛め足りない。
「駄目? 僕の目の前であんな事しておいて、君はまだ僕に指図するつもり? 随分余裕があるようだね、音羽」
「! そ、それは……本当にごめんなさい……。で、でも……」
「でも?」
雲雀に責められた音羽は、言葉を切って俯いてしまった。真っ赤になっている耳に追い打ちを掛けるように口を寄せて囁けば、音羽は蚊の鳴くような声で答える。
「っ……ここは、いや……」
その言葉に、今度こそ唇に笑みが浮かんだ。
「そう……それなら、ここじゃなければいいんだ?」
「っ……」
何も言い返せない音羽は恥ずかしそうに俯いて、雲雀の首に回した腕にぎゅっと力を込めた。
「ああ……いいね、その顔。ゾクゾクする」
諦めと少しの欲に浮かされた音羽の顔に、足りなかった支配欲と独占欲が満たされていく。
ふわりと漂う音羽の柔らかい香りに誘われるまま、雲雀は彼女の首筋に顔を寄せた。
「……!? きょ、恭弥さん、何――っ……!」
ちゅ、と唇を肌に押し当て、きつく吸う。音羽は痛かったのか身体をひくりと跳ねさせたが、すでに雲雀は目的を果たしていた。
「は……、いいね」
音羽から離れて、そこにくっきりついた赤い痕を眺めて微笑む。何をされたか察した音羽はそっとそこに触れて、複雑そうに目を伏せた。
「……わざわざ見える位置にしなくても……」
「見える所にしないと意味がない。これくらい我慢しなよ。それとも、ここでもっと酷くされた方が良いわけ?」
「い、嫌です……!」
「そう。じゃあ、大人しくしてなよ」
「きゃっ……!?」
雲雀は音羽を言いくるめると、少し屈んで彼女の膝をさっと掬い上げた。突然身体が浮いて横抱き状態にされた音羽は、雲雀の腕の中で小さく悲鳴を上げる。
「っ恭弥さん、自分で歩けます……!」
「ふぅん、自分で立ってられない癖によく言うね」
「そ、それは……。……もう……」
何を言っても仕方がないと悟ったのか、音羽は悔しそうに唇を尖らせた。赤みの差した頬も、言葉に反して自分の首に腕を回してくる素直さも、何もかもが愛おしい。
「……まあ、あとでボンゴレと話せるくらいには加減してあげるよ」
時間も余りないことだしね、と雲雀は心の中で呟いた。
雲雀のその言葉で音羽がまた真っ赤になってしまったのは、言うまでもない。
◇
一方その頃メローネ基地では、並盛神社に突如現れたリング反応を追うべく、全員が慌ただしく作業していた。
「精製度Aのリング一つが、神社から三キロの地点で消滅しました! 二つ目のリングは、赤河町に移動しています! ――あっ! ……こちらも消滅!!」
「なんだって!? まだうちの部隊は到着しないのか!」
モニターを見ていた部下からの報告に、正一は声を上げた。
「やはり第三部隊の凍結をといて、協力させた方が……」
「ダメだ!! 彼等は上司の命令に背いたんだぞ! 早く撤退させろ、これは命令だ! ――……!!」
部下からの提案をすぐさま却下すると、まるで見計らったようなタイミングで正一の近くにあったモニターにプツッと電源が入る。
『――不機嫌そうだね』
スピーカーから響いてきた聞き馴染みのあるその声に、正一の身体に微かな緊張が走った。
『久しぶり、正チャン』
「……とうとう……始まりました」
正一の本音が零れる。
ついに、始まってしまったのだ。これまでの準備期間にも神経をすり減らしてきたが、本番はここから。全く本当に胃が痛い。
眩暈がしそうな程のプレッシャーを感じるけれど、それはあくまで“ボンゴレリングを手に入れるため”のもの。少なくとも、そう見えるようでなければならないのだ。
いい加減考えることが多すぎるというのに、正一の目の前に映っているこの男は大抵、正一にとって“良くない”言葉を与えてくる。
以前、白いアネモネを山のように送ってきた、あのときのように。
『うん。でも、あんまり幸先よくないみたいだね』
画面に映ったボス――白蘭は、いつもの真意の掴めない微笑を浮かべた。正一は彼を見据えて眉を寄せる。
「……ブラックスペルが彼等と交戦したらしいです。彼等に協力者のいる可能性も……」
『それって計画と違うじゃん。言ったはずだよ、彼等がやってきたら迅速に――』
「――やってますよ!! 僕はやってるんだ!!」
『ははっ、出たよ。正チャンの逆ギレ』
「…………」
思わず声を荒げた正一を、白蘭は楽しそうに笑ってモニター越しに見てくる。
『揉めるだろうけど、バレたんならブラックスペル側にも話す用意しとかなきゃね』
「!! どう説明するんですか?」
目を見開いて尋ねると、彼は事もなげに少し首を傾けた。
『どうって? 簡単だよ、正直に話せばいい。予定通りに、過去からの贈り物が届いたってね』
「……だけど……」
『時計はもう止まらないよ。君は君の仕事を急ぎなよ、正チャン。――僕は、次の7³ポリシーを紡ぎ出すまでさ』
「…………」
すっと細められた白蘭の、野望に満ちたその瞳に、正一はヒヤリと冷たいものを感じる。
自分の仕事をする――。まさにその通りだ。自分に出来るのは、計画を出来る限り予定通り進めていくこと。そして彼等を信じ、彼等と――そして、彼女の無事を祈ることだ。
正一は拳をそっと握り締め、静かにその場に視線を落とした。