52話 想いを詰めた箱
「―――」
サアッと穏やかに吹いた風に頬を撫でられ、獄寺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
風に乗ってきたのか、辺りには芳しい花の香りが満ちている。
視界に映ったのは深緑の木々と澄み切った青空、そして、真上まで昇ったらしい太陽の光。それから――何度願っても消えはしない、無慈悲な現実、だった。それを確かめると、獄寺の意識はようやくはっきりと覚醒する。
「……」
日が昇ってしばらくの間は起きていたのだが、周りに敵の気配もなく疲労も溜まっていたので、いつの間にか少し眠ってしまっていたらしい。木の幹に凭れて座ったまま寝たせいか、身体を動かすと節々がじわりと痛んだ。
思わず眉を寄せ、静かに息を吐き出す。腕時計を確認すると、針は四時前――これは、イタリアの現在時刻だ、飛行機で針を合わせるのを忘れていた――恐らく日本なら、大体午前十一時頃だろう。
――山本の奴、遅ぇな……。
獄寺は顔を上げて周囲を見た。
森の中は昨夜と変わらずとても静かで、時折鳥の鳴き声や羽ばたきが聞こえる他に、何の音もしない。
夜が明ければ来るだろうと思っていた山本の姿はおろか、幸か不幸か人の気配も依然なかった。
山本に限って、敵に見つかり始末された……ということはないはずだが……。道中、もしくはアジトで、何かトラブルでもあったのかもしれない。
気にはなるが、“彼”をここに置いて行く選択肢は獄寺になかった。山本が戻るまで待つしかない。
――もう一度辺りの様子を見ておくか……。ひょっとしたら、山本もその辺まで来てるかもしれねーしな。
獄寺は思いながら、側に置いてあったアタッシュケースを手に取ってゆらりと立ち上がる。
木々の中へと足を踏み入れる直前、ちらと地に視線を投げた。そこに置かれた黒塗りの棺桶を見つめ、目を細める。
「…………」
――もしあのとき、あいつがいたら……。
獄寺の脳裏に現れたのは、彼女の姿だ。最後に彼女に会ったのは、ツナが殺される数日前。
もしあのとき彼女が側にいたら――彼が死ぬことはなかっただろうか。目を背けたい現実を前にして、獄寺はつい夢想する。
だとしたら、あのとき。
あのときこそ、彼女を引き留めておけばよかった。
でも、もう全てが遅い。都合のいい夢を追い払って、獄寺は緩く首を振る。
踵を返して一歩進み、木漏れ日の落ちた草を踏みしめた。辺りにはまだずっと、彼を包んでいる白百合の香りが漂っている。
――獄寺の澱んだ心が流れ出すのは、これから数十分後のことだった。だが、今の彼はそんなことなど知るはずもない。
◇
「――……、」
目が覚めると、見慣れない白い天井が目に入った。電球は白々と明るく、温かみがない。いつもの、生活感のあるツナの部屋ではなかった。だとすれば、ここは一体……?
「……!」
不信感が生まれると、途端虚ろだった意識が覚醒し、リボーンは上体を起こした。まだ怠さが抜けず身体が重いが、負傷したような痛みはない。
リボーンは何とか枕に凭れ掛かって、周囲をゆっくりと見回した。
横たわった覚えのない白いパイプベッド、清潔感のある真っ白な壁、開きっ放しの無防備なドア。部屋の隅に置かれている医療装置や器具を見るに、ここはどうやら病室のようだ。
誰かが自分を助け、ここまで連れて来たのだろうか? 拘束具のような物はつけられていないし、閉じ込められてもいないので、恐らくこの場の危険性は低いだろう。……少し、気持ちを落ち着ける。
「……、レオン。無事だったんだな」
何気なく向けた視線の先、ベッドのサイドテーブルにはよく見慣れた彼の姿が。
思わず呟いたリボーンを、小さな相棒は些か心配そうな様子で見つめている。
レオンの側には他にもリボーンの愛銃と黒いスーツ、そしてハットがきちんと揃えて置かれていた。ふと、自分の身体を見下ろしてみれば、薄青色の病衣を着せられている。
自分が、誰かに衣服を替えられていることにさえ気が付かなかったとは――普段なら絶対にあり得ない。
十年バズーカを避けられなかったことといい、あろうことか気を失ってしまったことといい……、“何か”が起こっているのは明白だった。
――コツ、コツ……。
「!」
そんなことを考えていると、不意に開け放ったドアの向こうから足音が聞こえてきた。歩幅、音の重み。恐らく、成人男性が一人だ。
リボーンは反射的に銃を取り、殺気を消して廊下を睨み付けた。数秒後、何の警戒心もなく現れた人影、扉から覗いた男の顔。
それは、どこか見覚えのあるものだった。既視感に少し拍子抜けしていると、同じく聞き馴染みのある声音がこちらに降ってくる。
「――おっ、小僧! 目が覚めたのか!」
「……! お前、山本か?」
瞳を輝かせる長身のその男と、よく知っている一人の少年の姿が重なり、リボーンは問いかけた。相手の表情の変化を注視していると、男は二カッと屈託のない笑顔を浮かべる。
「ああ、よく分かったな! オレは、小僧のよく知ってる山本武だ!」
「……」
彼の言葉は嘘ではないと、リボーンは直感で確信した。
かなり背も伸びているし、声も幾分低くなっている。が、彼の表情や話し方、雰囲気には少年時代の“山本武”の名残があって、間違いなく彼だと思えたのだ。
ただあの時と違うのは、マフィアらしく纏ったスーツと顎の傷。そして、彼の身に着けている空気。
山本がどんな風にこれまでの歳月を過ごしてきたのか、それらが流水のように澱みなく伝えてくる。
相手が気の置けない人間であることを認めたリボーンは、握っていた銃をベッドに置いた。すると山本は笑顔のまま室内に入ってきて、ベッド脇に置いてあったパイプ椅子にどかりと座る。
「ここは、ボンゴレの地下アジトだ。オレが小僧をここまで連れて来た。……でも、驚いたぜ、小僧が森の中で倒れてるなんてよ……」
そう苦笑する山本の顔が、僅かに翳った。
……だが、その理由を問う前に、自分自身の状況を整理しておきたい。リボーンは少しだけ目を伏せて、意識を失う前のことを思い出しながら考えた。
――恐らく、リボーンがいる“ここ”は、十年後の世界で間違いない。ランボの十年バズーカにあたり、見知らぬ場所に飛ばされたこと。
そして、リボーンの知る山本よりデカい山本が、目の前にいる――それが、何よりの証拠だろう。
なぜ、五分を過ぎても元の時代に戻れないのか。
なぜ、十年バズーカに撃たれる直前から、こちらに来た直後まで身体が動かなかったのか。その理由は分からないが……。
リボーンが苦痛で意識を失った所に、運よく山本が通りかかりリボーンを助け、ボンゴレの地下アジトだというこの場所まで連れて来た。……そういうことなのだろう。
そこまで整理すると、山本が見計らったように口を開いた。
「小僧は十年前の世界から来た……ってことで、合ってるか?」
「ああ、その通りだ。なぜかランボの十年バズーカを避けられなかった。しかも、五分経っても元の世界に戻らねぇ」
「そうだな、十年バズーカの故障ってことも考えられるが……。実は、今は正直その原因を突き止められるだけの時間と余裕がねーんだ……」
「なるほど……。やはりいい状況じゃねーみてーだな」
曇った顔をさらに険しくした山本に、リボーンはどこか納得して頷く。先ほど感じた翳りの正体は、恐らくここにあるのだろう。
山本はリボーンを見て苦笑すると、静かに視線を横に逸らした。
「……小僧に話したいことがある。目が覚めたばかりで悪いが、“連絡”がくるまでオレの話を聞いて欲しい」
構わない、と答えるかわりに山本を見据えれば、彼はこの世界で起きている出来事と状況、そして。
ツナと、リボーン自身のことについて、重く切り出したのだった。
◇
「…………」
山本から話を聞き終えて、リボーンは唇を引き結んだ。
二日前、白蘭という名の男が率いる“ミルフィオーレファミリー”によって、イタリアにあるボンゴレ本部が壊滅状態に陥ったこと。
生存者はおらず、九代目の消息も不明。現在も全世界のボンゴレファミリー各拠点が、攻撃を受け続けていること。
そして、この時代のボンゴレボス――ボンゴレ十代目であるツナは敵に射殺され、リボーンを含むアルコバレーノらも全員、地上に溢れる
全てを聞いても、動揺はそこまでしなかった。
確かに驚いてはいるのだが、それよりも今は状況を把握し、早急に対応策を考えて実行に移さなければならない。その思考の方が強かった。
何より、こちらの受けた被害は甚大で深刻だ。
ボスであるツナのみならず、アルコバレーノが全滅しているとは。俄かには信じがたいが、実際に肌で感じたあの苦痛を思い出せば、あり得ない話ではないかもしれない。
しかもミルフィオーレの目的は、ボンゴレと関わった“全て”の人間を抹殺することで、既に山本の父親もその犠牲の一人となっている。
そのうえ、ファミリー……つまり、ツナの守護者たちも、獄寺、山本、ランボ以外は行方が分かっておらず、連絡も取れないらしい。現状では、他拠点との連絡も然りだ。
それでもたった一つ、リボーンにとって幸運だったと言えるのは、早い段階で山本に発見されたこと。そして、ここが見ず知らずの土地ではなく、日本の、しかもよく知る並盛町だったということだろうか。
リボーンは思考をまとめながら、息を吐き出した。
「……まずは、この時代の守護者を集めることからだな」
行方が分からないとはいえ、守護者の死亡は確認されていない。
今は、少しでも戦力が欲しい所だ。一縷の望みも切り捨てることは出来ない。
だが、この時代の守護者たちがボンゴレリングを所持していないというのは、ミルフィオーレとの戦力差を考えるとかなりの痛手だろう。
この時代の戦闘について話を聞いている限り、優れたリングと匣の所持は、戦闘の結果を左右すると言っても過言ではない。
だから長い歴史と力を秘めているボンゴレリングがあれば、それなりに敵に対抗出来るのではないかと思ったが……。争いの火種となることを懸念してそれを壊してしまった、というのも、実にツナらしい。
リボーンはつい小さく笑い、それからゆっくりと顔を上げた。
「――山本、この病衣は、
「ん? ああ……ここのメカニック、ジャンニーニが、昨日の晩急いで作ったらしいぜ。まあ元々、非7³線の研究自体はしてたらしいから、そう時間は掛からなかったみてーだけどさ」
「ジャンニーニか……、少しは成長したらしいな。――おい山本、ジャンニーニに伝えといてくれねーか? アジトの入り口に、この物質を遮るバリアが欲しい。それからスーツもだ。いつまでもマフィアがこんな格好してるのはみっともねーからな」
「ははっ、それもそうだな! 分かった、伝えておくぜ」
「ああ、頼む」
そう言って、リボーンが口の端を持ち上げたときだ。天井に設置されていたスピーカーからブザー音がして、続いて聞き覚えのある声がそこから響く。
『――山本様、至急コントロールルームまでお願いします! お二人が無事に戻られ、門外顧問の使者からも連絡がありました!』
「「!」」
慌てた放送の声は、たった今話題に上っていたジャンニーニのものだ。リボーンと山本は顔を見合わせ、頷き合う。
「今の件、ジャンニーニに伝えておくぜ。きっと、すぐに取り掛かってくれるはずだ。オレは使者を迎えに行ってくる」
「ああ。気をつけろよ」
山本は目で応えると椅子から立ち上がり、足早に医務室を後にした。
残ったリボーンはベッドの上に座り直し、今しがた聞こえたジャンニーニの言葉を反芻する。
十年前は、まだほんの小さな子供だった二人。
この騒動で行方不明になったランボをイーピンが探しに行っていたらしいが、どうやら二人とも無事に戻ってきたようだ。
山本曰く、これから二人には、同じく行方知れずとなっている京子とハルの捜索に向かってもらうらしい。
それから、山本が迎えに行った門外顧問の使者――。
それがもしリボーンのよく知る“彼女”だったなら、非7³線の対策はこのアジトにより必要なものになるだろう。
「…………」
リボーンは俯いて沈黙し、長い付き合いのあった彼等の姿を思い出す。そして、ふと視線を上げて。
山本が、人手が足りず後回しにしてしまっている獄寺と、そして、まだ棺に入ったままであろうこの時代の教え子、ツナのことを想った。
けれど同時にリボーンは、“自分”がここに来た意味についても考え始めていた。
アルコバレーノが滅びたこの時代に、十年前の世界からやって来た、元の時代には戻れない自分。
ボンゴレ十代目と、ボンゴレリングを失ったこの世界。
自分は、“何か”を変えるためにここに来たのではないか?
不意に芽吹いたその思考は、なぜかすんなりと腹の底に落ちてしまい、リボーンは白で埋まった天井を見上げた。
◇
リボーンが目を覚まし、十年前のツナがやってきた日本から、しばし時を進めたドイツの夜――。
音羽と雲雀は、再びケーニッヒの研究所へと足を運んだ。依頼していた音羽の匣兵器が、ついに完成したと彼から連絡が入ったからだ。明日の朝には丁度ドイツを発つことになっていたので、当初約束していた期日ぴったりの完成だった。
草壁は出立前の準備が色々とあるそうなので、音羽は雲雀の運転する車に乗り込みホテルを出る。それから、数十分――。
研究所に到着すると、喜々とした表情を浮かべたケーニッヒが二人を出迎えてくれた。
「やあ、音羽ちゃん! 待ってたよ!」
「こんばんは、ケーニッヒさん。あの、匣が完成したって……」
音羽がケーニッヒに釣られて微笑みながらそう切り出せば、彼は瞳を輝かせてぱっと音羽の手を取った。
「そう、やっと完成したんだ! さあ、こっちに来て、早く見てみて!」
「あ、は、はい……!」
音羽はケーニッヒに手を引かれ、そのままやや強引に部屋の奥へと連れられる。
「…………」
雲雀は当然忌々しそうに眉を寄せ、けれど大人しくその後に続いた。
研究室に向かう僅かな間も、ケーニッヒは完成した匣の構成についてとても熱く語ってくれた。
素材は××××で、使った工具は△△(これは最新の発明品らしい)、作業工程で発生した○○○の値が思いのほか上昇して苦労したことなど、彼の熱意と一緒に出てきたのは難しい専門用語の嵐だ。
音羽はそんな彼に圧倒されながら、また、彼の言葉をほとんど理解出来ないままに相槌だけを返していたが、ケーニッヒはそれを然して気にした風でもなく、やがて研究室の作業台の前で足を止めると音羽の手を放した。
難しい説明を切り上げた彼は、作業台の上に置いていた物を手に取り、こちらを振り返る。
「――はい、音羽ちゃん。これが、君だけの匣兵器。正直、俺じゃなきゃこんな短期間で、これだけ完成度の高いものは作れなかったと思うよ?」
ケーニッヒはどこか誇らしげにそう言って、窺うように小首を傾けた。音羽は差し出された彼の手に視線を落とす。
「……!」
彼の手のひらに載っていたのは、四角くて小さな白い匣。縁はすべて銀色の金属で補強され、見た目も少し綺麗な感じがする。
でも、匣の一面にリングを差し込むための穴が開いているだけで、他の側面は平らなままだ。美しい、というよりは、とてもシンプルなデザインだと思う。
けれど、音羽が瞠った目をつい奪われてしまったのは、匣のデザインに関する所ではない。
どれだけ探しても手掛かりさえ見つからなかった、自分に適合した匣兵器。音羽自身の力を引き出してくれる匣兵器が、今、目の前にあるからだ。
「……これが、私の匣……」
音羽は匣を大切に両手のひらで受け取って、じっと見つめた。小さくて軽いのに、手の上にあるそれには特別な重みがある。
それは、今までこの匣に出会うために巡った世界と、費やした時間。そして、雲雀が音羽にくれた想いや、音羽自身の覚悟が詰まっているからだろう。
身体の内側深くから、喜びと感動が湧き上がる。じん、と胸が震えるのを感じていると、眼前のケーニッヒが満足そうに微笑した。
「炎の色に合わせて、外は白を基調に作ってみたんだ。側面は好きにカスタマイズ出来るよう特にいじらなかったから、後で色々変えてみるといいよ。……本当は今すぐ“中身”も見てもらいたかったんだけどね……。リングもないから、見てもらえないのが残念だよ」
「……、」
眉尻を下げながらも、どこかお道化たように言うケーニッヒの言葉に、音羽は弾かれたようにパッと顔を上げた。彼の悪戯めいた顔を見つめ、思わずその言葉を反芻する。
「リング……? ……! そうだ、リング……!!」
言葉にして初めて、音羽は重大な事実にようやく気が付いた。
匣のことばかり考えていてすっかり忘れてしまっていたけれど――というより、当然リングの制作も一緒に依頼しているものだと思っていた節もあるかもしれない――リングがなければ匣は開匣できない。
ということは、天のボンゴレリングが存在しない今、せっかく作ってもらったというのにこの匣を開匣することはできないのだ。……ああ、そんな大事なことを忘れていたなんて……。
でも、音羽はともかく、雲雀がそんな単純かつ大切なことを忘れるはずがない。
音羽は焦りながら、けれど期待を込めて雲雀を振り返った。
「あの、恭弥さん……。リングは……、」
声を掛けると、雲雀は匣から音羽へと視線を向ける。
「リングは彼に頼んでいない。こっちで用意する予定だからね。それが手に入るまで、君に匣を使わせるつもりはないから問題ないよ」
「…………」
しれっと答える雲雀に、音羽は唖然として言葉を失った。
一体何から確認していけばいいのか分からないけれど、ひとまず雲雀の中で全ての予定が順調に進んでいることだけは、彼の落ち着き払った態度から分かる。
でも、音羽としては疑問ばかりだ。
こっちでリングを用意すると言っても、どうやって用意するのか分からないし、いつ用意できるのか、そもそも用意できる物なのかも分からない。
しかも、せっかく作ってもらった匣を当面使う機会はないらしいのだ。
立ち尽くしたまま雲雀に問う言葉を探して狼狽えていると、ケーニッヒが悪びれもせずに吹き出した。
「ぷっ……音羽ちゃん、困って固まっちゃったよ? 可哀想に。雲雀は人が悪いなあ」
「へえ……君の方こそ、“可哀想”って顔してないけど?」
言葉とは裏腹に楽しそうなケーニッヒを睨みながら、雲雀が目を細める。すると、ケーニッヒは笑って肩を竦めた。
「そんなことないよ。俺は、雲雀と違って優しいからね。気の毒な音羽ちゃんを励ますために、特別にプレゼントを用意したよ」
「プレゼント……?」
「……?」
ケーニッヒの軽口に、雲雀が明らかに不快そうに眉を寄せる。音羽も彼の言う“プレゼント”が思い当たらず、首を傾けた。
ケーニッヒはこちらを見て面白そうに笑うと、白衣のポケットから、まるでキャンディを取り出すような軽さでそれを摘まみ出す。
「はい、どうぞ音羽ちゃん。これは、俺の研究の幅を広げてくれたお礼。音羽ちゃんの余った炎で作れちゃったから、あげるよ」
「……! これ……!」
手の平にころん、と落とされたそれに、音羽はまた目を見開いた。
それは、雲雀が所持しているようなDランクリングと同じようなデザインで、けれどこれまで見たことがない、白い石を嵌めたリングだった。
それが何なのか理解して顔を上げると、ケーニッヒは楽しげに目を細める。
「そ。それも音羽ちゃん専用の、天のリング。……まあ有り合わせで作ったし、ボンゴレリングよりはだいぶ格下の物だけどね」
「……! ケーニッヒさん……!」
音羽が二度目の感動に打ち震えていると、雲雀が隣で深い溜息をついた。
「……どういうつもりだい? リングの制作は依頼していない。勝手に押し付けられても困るんだけど」
「……困る? ほんとに? ……彼女は、相当喜んでるみたいだけど?」
雲雀が遠慮なく殺気を漏らし、ケーニッヒは微かに表情を硬くした。が、すぐに元のへらりとした笑みを浮かべ、ちらりと音羽を見る。
「…………」
「あ……、えっと……」
視線を感じて雲雀の方を見てみれば、呆れたような、怒ったような、けれど諦めたような――複雑な瞳で見返された。
……これは、返した方がいいのかな……。頭の中で選択肢が過るけれど――音羽の心ははっきりと、そうしたくないと言っている。
「……」
手の平にあるリングと雲雀の顔を、音羽は交互に見つめた。
できれば、いつでも匣を使える状態でいたい。それはもちろん好奇心もあるけれど、今はかつてない危険な状況だ。少しでも戦力になりたい。
でも、音羽のためにこの匣を作ってくれたのは、他ならぬ雲雀だ。
彼がケーニッヒに依頼してくれなければ、音羽はリングどころか匣さえも手にすることは出来なかっただろう。
――すごく、勿体ないけど……。
逡巡の末、音羽は心の中で呟きながらもう一度リングを見やる。せっかく作ってもらった匣だから、リングがなくて使えないのは悲しいけど……。
雲雀にはきっと、何か考えがあるのだ。
それだけは音羽にもはっきり分かる。
その彼が望んでいないなら、やっぱりこれは音羽が持っているべきではないのかもしれない。
そう思い至り、音羽は名残惜しくもありながら、ケーニッヒの方にリングを握った手を差し出した。ケーニッヒは、目を丸くしている。
音羽が彼に、リングを返そうとしたそのとき。
――雲雀が、音羽の手首を掴んだ。
「! 恭弥さん……?」
驚いておずおずと雲雀を見上げると、彼はこちらには目もくれず真っ直ぐにケーニッヒを見据えていた。
「……これの耐久性は?」
唐突に雲雀が問いかけると、ケーニッヒも予想外だったのか少し困惑した様子で答える。
「え……、あ、そうだな……。恐らく、この匣一回の開匣で壊れると思うよ。一応使えることは確認したけど、ほとんど試作品みたいなものだし……。……どうしたの、雲雀。やっぱり欲しくなった?」
元の調子を取り戻したケーニッヒが茶化すように言うが、雲雀は彼の言葉を気にも留めず、何かを考えるように視線を逸らす。
「……そう……一回きり、ね。……いいよ、それなら。貰ってやっても良い」
「!」
何か考えでもあるのだろうか?
弧を描く唇から紡がれた雲雀の言葉に、音羽はついぽかんと口を開けてしまう。ケーニッヒは呆れたように肩を竦めて、苦笑した。
「はは……本当に、雲雀って感じ悪いよね……」
「別に、君に感じ良く振舞う必要なんてないからね」
あくまでも不遜な雲雀の態度に、ケーニッヒから笑みが消える。
しかし、彼はすぐに一つ溜息を付くと、どこか憐れんだような目で音羽を見下ろし、耳元に口を寄せてきた。
「……ねえ音羽ちゃん、よくこんなのとずっと一緒にいられるね? 嫌になったら、いつでも俺の所においで」
「あ、あはは……」
内緒話をするようにそう耳打ちされ、反対側には雲雀の殺気を帯びた視線を感じ、音羽は乾いた苦笑いを漏らすしかないのだった。
◇
それから二人は、メールで送ったデータがどうのこうのと、いくつか必要事項らしきことを確認していたけれど、詳細を知らない音羽にはよく分からない話だった。
でも二人の会話から察するに、雲雀はもうこの匣がどんな匣なのか知っているようだ。
雲雀は、“こちらで用意するリング”が手に入るまで、音羽に匣を使わせる気はない、と言ってけれど……。
何となく、彼は“その時”がくるまでは匣の中身すら教えてくれないような気がする。
匣を使うのは音羽なのだから、それくらいは事前に教えてくれてもいいと思うんだけど……。何せ彼が作ってくれたものなので、強く言い出すのは気が引ける。
でも、そのまま気にしないでいるというのも出来そうにないので、後でダメ元で彼に聞いてみよう、と音羽は胸の内で思うのだった。
◇
「それじゃあ音羽ちゃん、気を付けてね。俺の作った匣、気に入ってもらえると嬉しいな」
「はい……! きっと気に入ると思います! ケーニッヒさん、本当にありがとうございました!」
研究所の出口で振り返り、音羽は彼に深々と頭を下げた。ケーニッヒはにっこり笑って頷くと、そのまま雲雀の方を向く。
「そうそう、もし音羽ちゃんの件で追加の依頼が出来たら、いつでも引き受けるよ。彼女の特殊な炎は興味深いし、君は金払いが良いからね」
「……ふん。……行くよ、音羽」
雲雀は「出来ればもう関わりたくない」という顔をして不愉快そうに鼻を鳴らすと、音羽の手を掴んだ。
「! は、はい、! ケーニッヒさん、ありがとうございました……!」
ここに来たときと同じように――今度は雲雀に強く手を引かれて歩き出しながら、音羽は振り返ってお礼を言う。ケーニッヒは笑顔のまま、ひらひらとこちらに手を振ってくれていた。
「じゃあね、音羽ちゃん。また会おうね〜!」
明るい彼の声に思わず微笑みながら、音羽は彼に手を振り返す。そして雲雀の後に続いて重厚なドアを抜け、薄い自然光の差す外へと出たのだった。
◇
――ガチャン、と重々しく扉の閉まる音がして、ケーニッヒは「うーん……」と伸びを一つした。
ようやく、抱えていた大きな案件が終わった。連日徹夜で流石に睡眠不足だが、ここまで夢中になって作業したのは少し久しぶりかもしれない。
片桐音羽。彼女は、自分がこれまで考えもしなかった可能性を持っていて、今回ケーニッヒはそれを自分の手で新たに発見し形にした。研究者としては大いに満足、未だに達成感と不思議な高揚に包まれている。
ケーニッヒは研究室の奥へと足を進め、デスクに置いていたコーヒーカップを手に取って口をつけた。コーヒーはすっかり冷めてしまっていたが、悪くはない。
――にしても雲雀、怒ってたなあ。音羽ちゃんが来たとき俺が引っ張って行ったの、そんなに気に入らなかったのか。
思いながら、見せつけるように音羽の手を引いて去って行った、雲雀の不機嫌な横顔を思い出して苦笑する。
この数日、研究のために音羽と関わる機会はとても多かった。
そのたびに背中に彼の突き刺すような視線を感じていたのだが、それでも今こうして自分が五体満足でいられるのは、やはりケーニッヒが彼女の匣を作れるただ一人の人間だったからだろう。
そうでなければ、きっと何度か彼に殺されかけていたはずだ。
――はぁ〜あ、雲雀の威圧感と重圧からもやーっと解放されたし……。あの二人見てたら、俺も女の子と遊びたくなっちゃったなあ。
「……うん、そうしよ。今日は久々に遊びに行くかぁ」
ケーニッヒは気の抜けた声で独り言ち、バサリと白衣を脱ぎ捨てて椅子に放り出したのだった。